『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<5>
<4>よりつづく
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する <5>
亀山郁夫 2007/09 光文社 新書 277p
☆☆☆☆★
BIHL1を再読するにあたって、その二冊目に挙げられているドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は、ぜひここにおいても再読したいところである。ところが、昨年苦労して読み終わったところなので、今回また全部読みなおすという余裕は残っていない。
「クラウドソーシング」カテゴリの「再読したいこの3+1冊」では、村上春樹本をリストアップしておいた。この4冊を再読することがあったら、かならずテーマを決めて拾い読みしたい。まずは車、特にロードスターについてのところを一通り読んでみたい。そして、もう一つは、村上自身が目標としているドストエフスキーのこの小説「カラマーゾフの兄弟」に関するくだりだ。
あるいは、あの今東光も、「カラマーゾフの兄弟」のような小説を書きたい、と言っていた。なにをして、この小説は、このように多くの小説家をも魅了するのだろう。小説が苦手であり、ブログのテーマとしてもいまいちフィットしないのではないか、と思っている当ブログではあるが、次第に、小説の面白さに気付かされてきているところがある。
しかるにあの「1Q84」の、book1、2、はまだしも、そのbook3には納得いかない。自分の書き込みを見ていてもbook3にはかなり期待していたのは確かである。だが、現在は、裏切られたような気分でいる。「続編」book4は出るのか、出るとすればどういう内容になるのか。
まぁ、それはしかし、なにも一人村上春樹に期待する必要はない。その「続編」は自分が書けばいいのだ。期待が大きければ大きいほど、その存在価値を認めれば認めるほど、あとは自分が書けばいいのだ。自分でやれる範囲で続編を空想してみるのも悪くない。
それはなにもドストエフスキーに限らず、ニーチェであったり、ウスペンスキーであったり、ジブランや、トルストイや、クリシュナムルティや、村上春樹やらであっても同じこと。あれやこれやに期待し続ける、ということ自体、ちょっとおかしい。あとは自分が書けばいいのだ。
なにも何とか賞を取る必要もないし、世界的なポピュラリティを獲得する必要もない。自分が自分の小説、自分のアートを仕上げれば、それでいいのだ。それがエンターテイメントに徹していなくても、表現として、まったく未熟なものであっても、自らが自らに与える書としてなら、それは別に「イーシャ・ウパニシャッド」のように全体的でかつ完全というものではなくても、それはそれでいいのだ。Do It Yourself。自燈明。
まずは、そう言ってはおくが、ボールを蹴ることができるが、誰もがサッカーをゲームとしてやれる訳ではない。サッカーをやれるとしても試合にでれる選手になれるわけではない。ましてやワールドカップに出るようなプレイヤーになることなど、一般的には夢でしかない。そして、そのプレイヤーの華麗なるプレイに見とれる、ということも、私のようなごく一般人には残されている楽しみなのだ。
相撲でもボクシングでも、将棋でも、歌やアートでも、ずば抜けたセンス、ずば抜けた表現はある。それらを楽しむことは、大いにありうることである。誰もが世界に冠たる小説家になれるわけでもないし、何百万部の発行部数を誇るベストセラー作家になれるわけではない。優れた人々に、優れた仕事を期待するのは、ごく自然な現象だ。
なにはともあれ、当ブログは、いつのまにか、小説を「読まされて」いる。そして、それらはどうやら「面白い」。BIHLにおいて、Oshoはドストエフスキーの作品をもうひとつ「地下室の手記」を取り上げている。トルストイは3冊。その他、数十の小説群がそのリストにアップされている。初読時にはその本の存在を確認するだけにとどまったものがほとんどである。再読モードの今回は、出来得るかぎり、少し読むスピードをペースダウンしながら、味読する方向に持っていきたい。
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