« 新しい宇宙像<7> | トップページ | チャクラ リードビーター »

2010/06/22

ターシャム・オルガヌム<6>

<5>よりつづく

ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)―世界の謎への鍵
「ターシャム・オルガヌム」(第三の思考規範)―世界の謎への鍵 <6>
P.D. ウスペンスキー , 高橋 弘泰 , 小森 健太朗 2000/06 コスモスライブラリー 単行本

 中心点から円周に向けて放射線に線が伸びている円を想像してほしい(と7世紀のアヴァ・ドロテウスは述べる)。放射線が中心から離れれば離れるほど、お互いの距離は遠くなる。その反対に、中心に近づくほどお互いの距離は近くなる。この、この円周が世界であり、中心が神であり、放射線がそれぞれの人間の歩む道であるとしてみよう。すると、聖者たちが中心に向けて(内面に向かって)進んでいくほど、彼らは神に、そしてお互いに近づいていく。p353

 これは、ウスペンスキーがロジゼンスキー「超意識」及び「フィロカリア」から引用した部分の孫引きだが、この文章を読んでいて、ふと、前日読んだOshoの本を思い出した。

 今、円を作り、中心から円周へ何本もの線を引くとすると、その中からどんな2本の線をとっても円周上での距離が最大になることに気づくだろう。それでも、その線に沿って中心に進むにつれ、2本の線の距離は何の距離もない中心に至るまで減っていく。その点ですべての線が一つになる。Osho「奇跡の探求2」p40

 上の文章は、ほぼまったく同じことを言っている。上は、現代神智学以前の神秘家達の言説であり、それを引用したのはウスペンスキーだった。そして、Oshoもほぼ同じことを語っているが、それは「超意識」や「フィロカリア」からのダイレクトな引用ではなかっただろう。1970年前後のアチャリア時代のOshoはさかんに現代神智学的文献からエピソードを拾い続けていたことは間違いない。

 ここで問題とするのは、Oshoがどこから引用してきたか、ということではなくて、いわゆる7身体論におけるその概念は、ほとんどがいわゆるブラヴァッキーをはじめとする現代神智学的文献から拾い集められてきているのではないか、ということだ。

 だから、Oshoが現代神智学的知識に依っているというより、これらの概念を使うことによって、当時の現代神智学的知識に寄りかかっていた人々を集めていた可能性がある。ここでOshoがやっていたことは、ダイナミック瞑想の指導だ。現代神智学にはどのような「瞑想法」があるか知らないが、少なくとも、Oshoはここで、人々に知識を与えようとしていたのではなく、それぞれの瞑想へと招待していたのである。

 1970年前後のいわゆるアチャリア時代のOshoの講話には、1990年に至る直前のZenシリーズなどでは決して見られない言葉使いが多い。上のようないわゆる幾何学的な表現はごく初期的なものであり、しかも、そこには神智学的風土が存在したがゆえに成り立った言葉つかいなのではないか、と思う。

 はてさて、いずれにせよ、円周上では最大の距離を持つ二本の線が、中心にいくに従って、その距離はゼロになる、という例え話は、当ブログにおける現在進行形の「No Earth No Humanity」というカテゴリ名の説明にぴったりである。全てが「一点」に集まるのではなく、「無」になるのである。それを神と呼ぶのは当ブログのセンスではないが、すべてが「無」に集まったとき、神々しさが立ち上がってくることは容易に想像できる。

<7>につづく

|

« 新しい宇宙像<7> | トップページ | チャクラ リードビーター »

41)No Earth No Humanity」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ターシャム・オルガヌム<6>:

« 新しい宇宙像<7> | トップページ | チャクラ リードビーター »