新しい宇宙像<7>
「新しい宇宙像」〈上〉 <7>
[P.D. ウスペンスキー (著), P.D. Ouspensky (原著), 高橋 弘泰 (翻訳) 2002/06~08 出版社: コスモスライブラリー 単行本: 406p、399p
☆☆☆☆★
ある民族は、内的なサークルという考えに基づいた非常に重要な伝統や伝説を持っている。例えば、チベットやモンゴルに伝わる、「世界の王」の「地下の王国」、神秘都市アガルティーに関する伝説のようなものである。それらの伝説が実際にモンゴルやチベットに存在するもので、ヨーロッパの旅行家や「オカルティスト」たちの発明でなければ、の話しであるが。
秘教の考え方によれば、人類の歴史において、自力で始まった文明というものはない。偶然に始まって機械的に進行する進化というものはない。機械的に進行するのは退化と堕落の過程だけである。文明は自然な成長によって始まるのではなく、人為的な養成によってのみ始まる。上巻45p
そういえば、当ブログにおいても、細々とながら「アガルタ探検隊」を派遣している。ここでウスペンスキーが断定するほど、進化の過程についての結論はだせないが、このあたりで、ウスペンスキーがアガルティーに触れていることはメモしておく必要がある。
さてこれからいわゆる神智学領域へと足を踏み入れていくわけだが、一連のウスペンスキー本の中の特に前半のものを読むと、きわめてウスペンスキーは神智学的用語を多様し、まるでその別働隊のように活動しているが、はてさて、彼はなぜにその流れの中にどっぷりと浸からなかったのか、と、ちょっと疑念を持つ。
シュタイナーの場合は、クリシュナムルティの擁立に対する反感のようなものがベースにあったとして、ウスペンスキーの場合は、そのような明確な離反理由というものがあったのだろうか。前半期の彼の著書を再読するにつけ、神智学そのものに触れているところが多くあり、なお、その思考方法を学びつつ、そこから離反していくプロセスは、のちにグルジェフのワークから離れていくことになる、ウスペンスキーがもともと持っていた、個人的な資質が関わっているのではないだろうか、と推測しはじめた。
もちろん、神智学の流れそのものも、雑多な寄せ集めの部分が多くあっただろうから、それらからひとつの「体系」を造り出そうとするかのような衝動がもしウスペンスキーの中にあったとするならば、たしかに彼の失望はわからないでもない。しかし、そもそも彼がいうような「秘教」の中に、ウスペンスキーのようなジャーナリスティックな感性を持ち、かつ、当時のモダニズムである相対性原理などを駆使しながら、クリアな理論的を求めていたとするならば、いずれ破たんすることは目に見えていた、と言える。
グルジェフを離れ、かつウスペンスキーの死後に出版された「人間に可能な進化の心理学」も、いまいちよくわからない。積み上げていって、最終的な解決のステージへと辿り着くようなイメージもあるのだが、どうも、どこかバベルの塔を思わせるような、足元から瓦解していくような、不安感がつきまとう。
つまり、ウスペンスキーにおける進化には、他力による「養成」が不可欠であり、それを「スクール」に求めたが、結局、そのスクールの最大限の力を、彼は得ることができなかったのだろう。このセンスで、言っておけば、2010年の現在、一人のOshoサニヤシンとして感じるところは、必ずしも外的な「スクール」は必須条件でもなければ、むしろそれを最初に求めるのはどこか歪んでいるのではないか、ということ。少なくとも、最初に求めるものは、内的なものであり、そこに限りなく下りていった時に、何かの神秘の扉が開かれる、ということだ。そこにこそいわゆるスクール的なエネルギーが存在する可能性はある。
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