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2010/06/28

新しい宇宙像<8>

<7>よりつづく

新しい宇宙像〈上〉 新しい宇宙像〈下〉
「新しい宇宙像」〈上〉 〈下〉 <8>
[P.D. ウスペンスキー (著), P.D. Ouspensky (原著), 高橋 弘泰 (翻訳) 2002/06~08 出版社: コスモスライブラリー 単行本: 406p、399p
☆☆☆☆

 当ブログで読んでいる本の90%は近くの公立図書館から借りてきて読んでいる。別にケチだけが理由でそうしているわけではなくて、自宅にあまり蔵書を増やしたくないということや、本当に近くに置きたい本はすでに購入しているので、積ん読本を先に処理しなくてはならない、ということもある。

 しかし、もともとは、世の中の人たちはどんな本を読んでいるんだろう、という野次馬根性もあった。自分が読みたい、と思うより、みんなが読んでいるなら、私も読んでみよう、という受け身の態度であった。

 だから、あまり予約が殺到して争ってまで読むような超新刊は読んでいないし、まったくレアな希少本も、だからと言って深追いはしないできた。まったりと、有体の読書ができればそれでいい。

 しかるに、どうしても読みたいとか、なんでこの本がこんな位置にあるのか、という本もある。そのような本として、このウスペンスキー「新しい宇宙像」がある。私の位置からすると、近くの図書館にないばかりか、地域の他の図書館ネットワークにも在庫もなく、2桁ある大学群の図書館にもない。

 Oshoは「私の愛した本」BIHL8-2でこの本を取り上げ、「詩的な本だが、私のヴィジョンにきわめて近い」p106とまで評価している。一般にもっと知られてしかるべき本であろう。邦訳出版も2002年と、この手の本にしては近刊の部類に属する。

 かつて、超古代の叡智がぎっしりと詰まったアレクサンドリア図書館が破壊され炎上してしまったために、多くの秘教に属する本が失われてしまった、という。どこまで史実であるか定かではないが、ただ、現代においては、そのアレクサンドリアの悲劇は起こり得ないだろう。

 もし本として残されたものであるならば、どこかの図書館に収まっているだろうし、ネットで発見され、いずれ読むことができるようになるだろう。本としてまとめられなくても、ネット上の情報として残すことができるなら、それはほとんど地球上の人類の共有財産として、誰にも破壊しえない形で保存されることになるに違いない。

 しかし、それにしても、まずは現存する本を多くの人々が目にし、多くの図書館が蔵書とする必要がある。そして、重要な本であると認識したら、近くの図書館にはたらきかけて蔵書するように依頼するべきだと思う。

 とか言っているうちに、この「新しい宇宙像」も私の手元を離れるタイミングとなった。今回もこの本は、海峡を越え、はるか1000キロに及ばんとする距離を越えて、やってきてくれた。いっぺんに読める本ではないが、簡単にメモしておく。

 上巻、第3章、「超人」は、当然のごとく、ニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」のウスペンスキー理解ということになる。時代を考え、この人の経緯を考えた時、これだけの評論を残し得たということも大事だが、対峙して読もうとするこちらに、決して隙を見せていないのも、すごいと思う。

 ただ、これはウスペンスキーに限ることではないのだが、「超人」という考え方そのものに、どこか破綻が潜んでいる。スーパーマンではなく、ニューマンだ、とOshoは言うわけだが、そこのところを、原寸大に、読み手として自分流に、もうすこし読みこなす必要がある。

 下巻、第9章、「奇蹟を求めて---小品集」も、なかなかとっつきやすい部分である。パリのノートルダム大聖堂、エジプトのピラミッド、スフィンクス、サファイアの眼の仏像、タージ・マハール、ダーヴィッシュの旋回舞踊、などなど、20世紀初頭にこれだけの距離をかけて旅をしながら実際に見聞を広げてレポートを書いたウスペンスキーの観察力にも眼を見張るものがある。

 ただ、これらから全体に直接的に繋がっていくラインがいまいち見えない。つまり、それらの広大な建築物の前で、私は誰か、という究極の問いかけにいまいち辿りつかない嫌いがある。

 Oshoが「私のヴィジョンにきわめて近い」という時、ウスペンスキーの記述を少し作り替えれば、Oshoのヴィジョンになる、というものではないだろう。このままでは、いくら作り替えても「きわめて近い」状態から一歩も動かないのではないだろうか。

 それは、ウスペンスキーの姿勢にある。「きわめて近い」状態に留まるところが、ウスペンスキーのスタイルなのである。持って生まれた宿命というべきか、長い修練の中で選び取ったスタイルというべきか。科学者やジャーナリスト的なスタイルを保ちつつ、最終的に神秘な領域に入ろうとしている。

 その姿勢に多くの共感を得ることもあり得るのであるが、ウスペンスキーは、このままでは永遠に、「きわめて近い」状態に留まってしまうことになる。そして、それは、ウスペンスキーひとりの問題ではなく、この本を読む私自身の問題ともなる。

 今回はこの本をBIHL2-10の「奇蹟を求めて」や、BIHL3-2「ターシャル・オルガヌム」、BIHL10-9の「人間に可能な進化の心理学」との、4部作の一つとして手に取ってみた。またの機会には、また別な流れの中でこの本を手にしてみよう。

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