« 英文学の地下水脈<2> | トップページ | スーフィーの<聖典>の物語 書物の王国(15)奇跡 <2> »

2010/06/25

Gの残影<2>

<1>からつづく

Photo_2
「Gの残影」 <2>(本格ミステリ・マスターズ)
小森 健太朗 (著) 単行本:2003/03 文藝春秋 単行本 407p
☆☆☆☆★

 ・・・・何かがうまくいかなかったようだ。しかし何だろう? ウスペンスキーがグルジェフから離れた理由は、概して隠されていて、明かされていない面の方が大きい。しかし私にはさっぱりわからなかった。じきに私は、両者の決裂の謎よりは、その教えの豊かさと独創性の方に心を奪われるようになった。その後間もなく私は(ワーク)に加わった。その疑問は再浮上することなく、何年もの月日が流れた。しかし、その疑問は今日まで私の中に留まった。時折私は、自分自身がこう問うているのを見いだした。”そう。でも、一体なぜウスペンスキーはグルジェフから去ったのか?” (パトリック・パターソン「魔術師たちの闘争」) p283

 なぜ去ったのか、という問いかけは、その場にいて、そのワークに同時に関わっていた人々にとっては、切実な問いかけとなるだろう。しかしながら、すでにそういうものとして後々にその話を伝え聞く、当ブログのような立場では、そうなっていたんでしょ、と、あっけらかんと、まるで運命論や当然の帰結のような完結した物語として聞いてしまうことになる。

 1929年に、クリシュナムルティは、なぜ「マイトレーヤ」宣言を拒否したのか、と、問いかけられても、そういう事実だったから、そうでしかないんじゃない、としか答えようがない。キリストはなぜ十字架の上で殺されたのか、とか、ソクラテスがもし毒殺されなかったら、どうなったのか、とか。

 問い返しても、もうどうにもならない問いかけとして、ウスペンスキーは何故にグルジェフのもとを去ったのか、という問いがある。クリシュナムルティがなぜマイトレーヤ宣言を拒否したのかは、「クリシュナムルティの世界」などを読めば、その数年前からそのような原因がいくつもあったことが分かるし、「人間に可能な進化の心理学」の巻末資料を読めば、ウスペンスキーがグルジェフのもとを去った理由がかいま見える。

 しかし、立場が違って、見解も違えば、この図式の見え方もかなり多様なものとなるだろう。Oshoは自分のことを、私はグルジェフ+ウスペンスキーだ、と発言している。その意味するところは、グルジェフはエンライトしておりマスターとして稀有な存在であったが、それを表現することにかけては、不足があった。

 かたやウスペンスキーには当時有数の表現力をもつ著作家であり、稀有な表現力を持ちながら、その表現されたものは、体験せずに語ることも多かった。この二人が合体してこその「ワーク」が存在したはずだ、という推測によるものと思われる。

 1、2、3の身体を残し、クリシュナムルティの第4身体に、7、6、5のマイトレーヤ存在が、合一しようとして、それは果たさなかった。事実はそうであり、そのこと自体はごくシンプルな出来事ではあるが、その裏では、例えば、デーヴァダッタのエネルギーが動いていただの、さまざまな憶測がある。とにかくクリシュナムルティは明け渡さなかった。

 それと同じようなことが、グルジェフとウスペンスキーにもあったに違いない。身体論でいえば、やはり、ポイントは第4身体であろう。エンライトしても、第7身体に留まることなく、第4身体に戻ること。いや、それは7つのうちの1つを選ぶということではなくて、下から4番目、上から4番目の位置にいることによって、全体的であること、ということがキーポイントになるはずだ。

 この小説は、サブ主人公であるオスロフを初めとする創作された登場人物が複数いるにせよ、グルジェフ+ウスペンスキーのワークにかかわった人々が残した文献を読みこんで書かれているだけに、史実にもとづいて再構成された部分も多くあり、あらためて再認識をせまられるところも多い。

 しかし、ミステリー小説として考えた見た場合、グルジェフやウスペンスキーのエネルギーが強すぎて、謎解きとしての面白さにやや欠けるということになるだろう。一方、彼らの「ワーク」を中心としてストーリーを追いかけようとする人々にとっては、その推理小説の解決を、いわゆるエニヤグラムの運びによって図っている、というところに、ちょっと無理があるのではないか、と感じるだろう。

 それと、今回読み返して感じたこと。ひとつはロシア革命などにおける社会主義体制についてのこと。私自身は1970年を高校2年生で過ごしたから、当時の新左翼的な活動が目の前に展開されており、その活動に主体的にかかわるにはすこし若すぎたが、それでも十分に、それらの動きにはシンパシーを感じることができた。

 だから、ソビエト・ロシアのような収容所列島になってしまってはまずいが、なにか保守的な動きを打破すれば、新しい何か、新しい未来が生まれる、という思いをずっと持ってきている。その思いが、新左翼やカウンターカルチャーの鎮静や、ソビエト体制の崩壊後のあとに、その「残影」として登場したかに見える一連のマルチチュード的な動きになにごとかの期待をしてしまう。

 しかるに、この小説などにおいては、ロシア革命の時代に生きたいわゆるウスペンスキーやグルジェフなどの立場から考えると、社会主義や革命政権に対する思いには、また違った視点があるのだ、ということをあらためて痛感する。このあたりについては、まだ読み込みが足らないというか、思いが至っていない。もうすこし明確にするチャンスが来ることを願う。

 それと、この小説のなかの視点的人物のオスロフは、ウスペンスキーの「イヴァン・オソーキンの奇妙な人生」の主人公のオソーキンがモデルであるp382ということを、今回の再読の機会に知った。

 もうひとつ。もう百年も近くの昔の人々の話なのでしかたないのだが、文献がいろいろ散逸していたり、あるいは改訂されていたりする。ウスペンスキーの著書も、あとから改訂されていたりすることが多いように思う。科学者や数学者としては、新しい理論や情勢に従って、より同時代性を図ろうとするのだろうが、そのこと自体が、何か、思い切りの悪さを感じさせる。ためらい傷のように思えてしまうのだ。

 20の時に書いたものを40の時に改訂したとしても、60になれば、また書きなおしたくなるだろう。でも80になれば、また違った心境になっているに違いない。20の時に書いたものは20の時のままでいいではないか。

 なにはともあれ、Gを見るひとつの「視点」としてのウスペンスキーを、21世紀を生きる私達でも、存在感溢れる隣人として感じられるところは、この小説の優れているところである。

|

« 英文学の地下水脈<2> | トップページ | スーフィーの<聖典>の物語 書物の王国(15)奇跡 <2> »

41)No Earth No Humanity」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: Gの残影<2>:

« 英文学の地下水脈<2> | トップページ | スーフィーの<聖典>の物語 書物の王国(15)奇跡 <2> »