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2010/06/07

プロフェット(予言者)<2>

<1>よりつづく

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「プロフェット(予言者)」<2>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p
☆☆☆☆☆ 

 当ブログ<3.0>は、どうなるのであろう、と想いを巡らしていた。意図しない経過ではあったが、ブログを書きだすことになり、本を読むことになってしまった。図書館通いをし、ブログの機能も学んだ。それらについてはまだまだ十分ではないが、どの方向に力を入れればいいのか、少しはわかるようになった。

 しかし、その二つを重ねて「意識をめぐる読書ブログ」を意識し始めた<2.0>において、主なるテーマは「意識」であることが、いよいよ明確になってきた。意識についての本を探し出し、興味あるところを転記してみる。他の本とリンクを張ってみる。カテゴライズしてもみる。再読してみる。再々読してみる。いろいろやってみた。

 そしておぼろげながら<3.0>の必要性を感じる様になってきた。当ブログにおける「身体論」は主に<1.0>に集約され、同じく「表現論」は<2.0>に集約されていくだろう。しかし、やはり「意識論」が集約されるべき<3.0>も、あってしかるべきだろう。

 こうなるのは必然の結果だったとも言える。<1.0>において早々とそれは気付いていて、記事を書くのに、常時3つのカテゴリーを同時進行させていた。自分の関心は、ほぼつねに3つの方向性が働いているのだ。つまり、3つのポケットはどうしても必要だった。

 しかるに、<2.0>において、しかも今年の春の一カ月の<In Scilence>のあとは、カテゴリを<one earth on humanity>一本に絞ってきた。そうせざるを得ない衝動があった。インテグラル、シンセシス、統合、ひとつになろうとする力はそうとうに強いものがある。カテゴリを絞ったことに間違いはない。

 しかるに絞れば絞るほど、<one earth on humanity>というカテゴリ名でいいのか、という想いが逡巡するようになってきた。one earth on humanityでいいのか。ここになにかの限界はないのか。<2.0>におけるカテゴリ名としては、これはこれでいいだろう。しかし、<3.0>においてはどうなのか。

 Oshoの本のタイトルにNo Water No Moonがある。この前例に倣うとするならば、<2.0>においてはともかくも、<3.0>においては、「no earth no humanity」となるべきではないのか。ゲシュタルトを転換する必要がある。

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 思えば、当ブログ<1.0>は結果として「ウェブ 進化論」一冊に集約し象徴させることができる。そして、もし、当ブログ<2.0>を集約し、一冊に象徴させるとしたら、Osho「私が愛した本」になることに異論はない。そして、今、この文脈で考えるとするならば、<3.0>はどのようなものになるのだろうか。

 今、スタート準備段階において、あまり細かく決めすぎるのもいかがなものかとは思うが、イメージだけでもつかんでおきたい。そしてそれは「読書ブログ」となるのだろうか。一冊、一冊、コメントを加えるようなものになるのだろうか。それはちょっと違うようだ。

 まずはブログ機能ありきで「ウェブ進化論」に出会い、「ウェブ進化論」を読み進めるなかで図書館ネットワーク機能に出会い、「私が愛した本」に戻ってきた。<2.0>において、「私が愛した本」をナビゲーションとして、派生する書籍を追っかけながら、結局、最後のテーマは<意識>だろう、というところまできた。

 <意識>を<表現>し<身体>化する必要はあるのだろうか。<意識>は<意識>のままでいいではないか。それを<表現>する必要があるのか。そう問いかけてみる。結論は、ある、だ。<身体>を離れて<私>はなく、<表現>を離れて<魂>はない。<魂>を得ずして自らの<死>を体験することはない。

 「私が愛した本」の中の、さらに一冊を抜きだせ、となれば、現在のところ「預言者」しかない。ジブランは十分紹介され、理解されている、とは言えない。現在の自分の思いをこの一冊に託することに、大いなる不満はある。しかし、まだ見ぬ<3.0>に向けて、そのイメージを借りるとすれば、この本が最適だろう、と、思う。この本にでてくる24のテーマについて、まずは瞑想してみることが必要だろう、と思った。

「話すことについて」

つぎに、ひとりの学者が、話すことについてお話しくださいと言った。
アル=ムスタファーは、こう答えた。

あなたが話すのは、あなたが、あなたの考えと、和し安んじていられなくなったとき。
心の孤独の中に、もはや住みえないとき、あなたは唇の中に住み、その発する音で、気慰みや気晴らしをする。
そして、あなたが話すとき、ほとんどいつも思索は半ば殺される。
なぜなら、思考は空を飛ぶ鳥であり、言葉の檻の中では、その翼をひろげることはあっても、舞い立つことはできないのだから。
あなたがたの中には、孤りいることを怖れて、おしゃべりを求める人もいる。
孤りいる沈黙の中では、自分のありのままの姿が、自分の目に明らかになり、また裸の姿が捕えにくくなる。
また、話す者の中には、知識も深い慮んばかりがなくとも、自らは理解できない真理を、話の中で現す者もいる。
さらに、自らの中に真理を抱いていながら、それを言葉では語らない人もいる。
このような人の胸の底で、精神は、沈黙の中で律動しながら存在しているのである。
道や市場で友と会ったとき、あなたは内なる精神によって、あなたの唇を動かし、舌を動かすがよい。
声の中のまことの声によって、友の耳のまことの耳に語りかけるようにせよ。
なぜなら、葡萄酒の色は移り、樽はなくなっても、その味は忘れられないように、友の魂は、あなたの心情の真実を忘れないものなのだから。
p135 ---話すことについて---

<3>につづく

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42)One Earth One Humanity」カテゴリの記事

コメント

komoriさん
的確なアドバイスありがとうございます。そうなんですね。ウスペンスキーの存在が「不気味に」(笑)浮き上がってきます。
当ブログは、最初の速読から、再読、三読のサイクルに入ってきているので、最初ウスペンスキーは、その本の存在を確かめる程度でしかなかったのですが、すこしづつ「精読」への道筋をさぐり始めたいと思っています。
イーシャ、信心銘、サナイ、も、これから、ようやくスタートするのだろうか、という段階です。

投稿: Bhavesh | 2010/06/08 09:03

ジブランの「プロフェット」で代表させるのは賛成。ですが、詩情をジブランで代表させると、もうひとつ「ターシャム・オルガヌム」も中心的な一冊として、論理側の代表になると思います。ジブランの九冊に次いで、ウスペンスキーの四冊がもっとも多い著作家ですし。

まあもし地域で代表させるなら、インドが「イーシア・ウパニシャッド」、中国が「信心銘」、イスラムからサナイといったところが選ばれそうですが(どれも短い)。

投稿: komori | 2010/06/07 10:39

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