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2010/07/30

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章
「ダライ・ラマの『中論』講義」―第18・24・26章
ダライラマ14世テンジンギャツォ (著), His Holiness the Fourteenth Dalai Lama Tenzin Gyatso (原著), Maria Rinchen (原著), マリア リンチェン (翻訳) 2010/05 大蔵出版 単行本: 247p
Vol.3 No.0077☆☆☆☆★

 ナーガルジュナの「中論」BIHL4-9に登場する。「ツォンカパの中観思想」「ツォンカパ中観哲学の研究」など、チベット密教におけるツォンカパにも注目してきた。そもそも、中論と中観、と二つの表記がされているのは何故だろう。中観が実践で、中論がその理論的裏付け、というところか。中観思想と中観哲学、と表現されるところの違いにも気になる。

 黒崎宏「純粋仏教 セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」「ウィトゲンシュタインから龍樹へ」、定方晟「空と無我 仏教の言語観」 などとというあたりも気になるが、いままで一貫して追求したことはなかった。ナーガルジュナとウィトゲンシュタインが繋がる、なんてところは当然であったとしても、ますます興味深々というところだ。

 そう言えば、佐々井秀嶺が新仏教徒たちを鼓舞しながら発掘を続けているのは、ナーガルジュナにつながる遺跡ではなかっただろうか。今回、2006年にダライ・ラマが「中論」を講義したアンドラ・プラデーシュ州のアマラーヴァティーもまたナーガルジュナに縁の深い場所であるという。

 ダライ・ラマの本はたくさんでている。ほとんど勢いがとまらない、と言っていいほどだ。彼の講義はほとんど「ですます」調で翻訳されていて、あの気さくなお人柄のダライ・ラマにはぴったりのようにも感じる。だが、毎回読んでいると、こので「ですます」調がどうも面倒くさくて、回りくどい、と感じる時もある。時には、もっとズバリと、ZEN僧のような怖さも感じたい。

 ナーガルジュナに近づくとはどういう意味かと言うと、「中論」のような縁起の見解を説いたテキストを何度も読み、勉強し、その意味を心になじませていくことです。このテキストを頭上に掲げ、祈願をして、ナーガルジュナが意図された通りに理解することができますように、その修行を成就できますように、と常に祈りながら勉強を続けていけば、ナーガルジュナのお心により近づいていって、本当の意味におけるナーガルジュナの弟子となることができるでしょう。p56ダライ・ラマ「序章 仏教の教えを授かるための準備」

 チベット王国を全てにおいて統括する立場であるダライ・ラマではあるが、また、一人の仏弟子である、という姿勢を常に持ち続けている。その伝統は、数百年、あるいは千年以上の長きに渡って伝えられてきた軌上にありつつ、なお、新しい息吹を吹き込もうとしている。ヒマラヤの高地に秘されてきた地域から追われ、いままさにパンドラの箱が開いたように、全地球に向かって封印の解かれてしまったチベット「密教」であってみれば、変わらざるを得なかった、ということもできる。

 意識とは、独立して存在するものではなく、土台となるものに依存して存在しています。顕教の経典では、疎なレベルのからだ(物質的存在)が意識の土台であるとしています。

 しかし、密教の無上ヨガタントラでは、意識には、疎なレベル、微細なレベル、非常に微細なレベル、という三つのレベルの意識があるとしており、その土台となるからだにも、それに応じて疎なレベルのからだ、微細なレベルのからだ、非常に微細なレベルのからだ、という三つのレベルのからだが必要とされると述べられています。意識が依存するべきからだとしては、意識が疎なもの、微細なものなど、どのようなものであっても、それに適切な土台が必要となるのです。

 そのため、死を迎えて、意識が古い五蘊から抜け出した時、疎なレベルの意識と共に、疎なレベルのからだという土台はもうすて去って去っていますが、非常に微細なレベルのからだとそれを土台とする非常に微細なレベルの意識は、どんな時でも離れることなく共に移動していきます。

 そこで非常に微細なレベルのからだと意識に依存して名前をつけられた「私」もまた、なくなることなく共に移動して存在し続けていくのです。p116ダライ・ラマ「第二章 輪廻をもたらす十二支の考察--『中論』第26章」

 現代神智学なら、「エーテル体」「アストラル体」「メンタル体」「コーザル体」「太陽系」、などの言語体系を使うところだが、疎なレベルなからだ、とか、微細なレベルな意識、などの言葉使いになると、へんなトリップに巻き込まれずにすっきりと理解できるようにも思う。しかし、なんどもなどもこの「平易」な言葉が乱立すると、なんともフラットで奥行のない表現に堕してしまう、ということも感じる。

 Oshoのように第一身体とか、第七意識、など、数字を当てはめてしまうことも一考ではあるのだが、いずれ「名づけようもないもの」を名づけているわけだから、言葉に捉われてしまって、実態を知らないままになってはいけない。

 (訳者注:無我の見解には、人無我と法無我があり、そのそれぞれに疎なレベルと微細なレベルにおける定義がある。仏教の四つの哲学学派のうち、小乗の学派である説一切有部と経量部では人無我のみを主張し、法無我を受け入れていないが、大乗の学派である唯識派と中間派では、人無我のみでなく法無我も主張している。さらに中観派には、中観自立論証派と中観帰謬論証派があり、唯識と中観派の二派では、法無我の疎なレベルと微細なレベルにおける定義がそれぞれ異なる。この中で、中観帰謬論証派が主張する無我の見解が最も深遠で微細なレベルの見解であるため、中観帰謬論証派の無我の見解に比べると、人無我のみを主張する学派や、唯識派、中観自立論証派が主張する無我の見解は、「疎なレベルの無我」となる。)p162訳者「第三章 自我と現象の考察--「中論」第18章」

 せっかくダライ・ラマが「ですます調」でやさしく語りかけているのに、もともとが七面倒な哲学論であることが、この訳注でバレてしまう。法衣の下から鎧が見える、という奴である。訳者とされるマリア・リンチェンとは日本名で鴨居真理。高知県で生れて日本の大学を卒業している一級建築士ということだが、名前の感じからすると女性であるだろう。なんだか、なに派、かに派、という文字の列挙を見ていると、かつての70年安保の時代に時代を風靡した女性闘士の生き残りのようにさえ見えてくる。

 そもそも、このように枝葉に分かれてしまっている、ということは大木でもある、ということではあるが、かなりの老木である、ということになる。老木には老木の価値があるが、時には鎌倉・鶴岡八幡宮の銀杏のように、雷に打たれたり、積雪の重みに倒れてしまう、ということも自然の摂理である。その根元から成長する新しい「ひこばえ」に、新しい息吹を期待する必要もある。

 ナーガルジュナであれ、ツォンカパであれ、ウィットゲンシュタインであれ、当ブログのようなそそかしい読書ではその全貌を理解することはできない。しかし、一転、その言わんとするところの「空」を直感する、という意味でなら、速読につぐ速読でインスピレーション読みもまんざら捨てたものでもないが、本書は、いずれ機会をとらえて再読玩味されるべき一冊である。

 教えに対する理解をますます深めていくために、方便と智慧を結び合わせた修行の道を歩むことが必要です。
 私たちはいつも真言(マントラ)を唱えていて、チベット人をはじめ、多くの仏教徒の人たちが「オーム・マニ・ペーメ・フーム」という真言を唱えていると思います。
p85ダライ・ラマ「序章 仏教の教えを授かるための準備」

     オーム・ニ・ペーメ・フーム

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