神智学大要<2> アストラル体
「神智学大要」 第2巻 アストラル体 <2>
A・E・パウエル (編集), 仲里 誠桔 (翻訳) たま出版 1981/01 313p
Vol.3 No.0065☆☆☆★★
個人的には不用意な評価をすべきではないと思っている。読まれるべきは読まれても、書かれざることを書いておくと、不用意な、うち続くなにごとかに左右される可能性がある。あえて 言うなら、いわゆる敬遠すべき書物たち、ということになる。
当ブログにおいては、図書館や書店に並ぶ書籍群を、漠然と、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、に分けてきた。「ウェブ進化論」などはコンテナに振り分け、「カラマーゾフの兄弟」のようなものはコンテンツに振り分けた。では、コンシャスネスの分野と言われると、現在のところ、これ、という一押しの決定打はないが、敢えてここは「禅宣言」あたりを出しておこう。
しかし、これら三つの分野においても、さらに三つに分けることが可能ではある。例えばコンテナ群においては、佐々木俊尚「2011年新聞・テレビ消滅」のように、コンテナの更にコンテナ化、つまりコンベアを想定して3C論などと、当ブログから見れば後退現象のような兆候もある。
あるいは、梅田望夫の「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代」などには、コンテナ群においては優れたコンシャスネス化が図られているかのようにも思うのだが、せいぜいコンテナ群に属しているという縛りは逃れようがない。ここで便宜上、コンテナ1、コンテナ2、コンテナ3のように、当ブログなりの表記をしておく。
ではコンテンツ群で考えれば、例えば「カラマーゾフの兄弟」をコンテンツ2とするなら、一連の立花隆の著作などはコンテンツ1に留まるだろうし、より透明度を高めたとしても、ミハイル・ナイーミや、カリール・ジブランは、コンテンツ3あたりに位置する、ということになるだろう。
ではコンシャスネスのステージでいえばどうなるか、と言えば、仮りに「禅宣言」をコンシャスネス2、とするなら、クリシュナムルティの「自我の終焉」などもやはりコンシャスネス2に分類するしかないだろう。
一連のウスペンスキーやグルジェフはどの辺に来るか、となると、これもなかなか難しいことになるが、敢えていうならコンテンツ3か、コンシャスネス1がふさわしい、と思わないわけでもない。では、コンシャスネス3とはなにか、と言えば、ここはかぎりなく透明化しているので、敢えて言えば「イーシャ・ウパニシャッド」のようなものが入ってくるかとも思われるが、本来は、コンシャスネス3には入るものは、本当はあり得ない。
コンシャスネスのコンシャスネス領域(つまりコンシャスネス3)においては、語られることもなく、聞かれることもない、という現象がおきる。当ブログでいえば、やがてやってくる「No Books No Blog」の領域だ。まぁ、しかし、この辺は、個人的なマトリックスの、個人的な恣意的な分類法によるものであり、個人的な好みに大きく左右される。
さて、このような分類で考えると、この「神智学大要」は、せいぜい、コンシャスネス1、という分類が正しいであろう。この本を支えるものとして、ブラヴァッキーや、アニー・ベサント、リードビーターなどがあり、その支柱群を経めぐってこないことには、正しい評価はできない。
あるいは場合によっては、このシリーズはコンテンツ2に成り下がることもできるし、コンテナ3に留まってしまう場合さえ想定できる。いや、実際には、現在の個人的な評価はコンテナ3でしかないのだ。この書を読み進めるのは相当に難しい。こちらのコンシャスネス力が問われる。
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