ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか <2>
「ウェブ時代をゆく」 いかに働き、いかに学ぶか<2>
梅田 望夫 (著) 2007/11 筑摩書房 新書: 256p
☆☆☆☆★
なにかのバランスを取るかのように、現代神智学のエーテル体やらアストラル体、コーザル体などの言葉群にさらされていたら、急に、こちらの、一連の梅田望夫本が読みたくなった。一度整理しておかなくてはならないとは思っていた。
むろん自分にとっての重要な本を座右に置くことの意味は絶対になくならない。しかしネット上にアレキサンドリアの理想通りの万能図書館が誰にも無償で開かれる時代には、そのことの意味も相対化されていく。充実した知的生活を営むためには、そこに注ぎ込み得る時間こそが希少資源となっったのである。
間違いなく十年後には、知的生活を送りたい人にとって最高の環境がウェブ上にできあがっているはずだ。環境をもつための努力ではなく、誰にも与えられる最高の環境をどれだけ活かせるかに知的生活のポイントが移行する。知的生活に惜しみなく時間を使えることこそが最優先事項となるだろう。p159
当ブログは、現在、Vol.1~2を総合すると、日々数百のアクセスがある。いつ減り始めるか、と思ってはいたのだが、今のところ、急増とまではいかないが、依然として横ばい状態で、減ることはない。
アクセスログ解析を活用すれば、来訪者の傾向と素顔がまったく見えないわけでもなく、むしろ、当ブログは、現在見えているアクセス者たちとの「クラウドソーシング」を目論見始めている。
毎日来る人もあれば、忘れた頃にひょっこりやって来る旧友たちもいる。90%は一見さんだが、残り10%は、わざわざ当ブログを目ざしてやってきてくれる。その数は決して多くはないのだが、その数は確実に増えている。
現在、当ブログでは、おおよそ108人の来訪者を想定して、テーマを選び、書込みの進行を計画して行こうと思っている。当然、一人ひとりの個性には強弱がある。しかし、SNSのような「閉じられた空間」ではなくて、ブログのような「開かれた空間」において、これだけのアクセス者の顔が見えつつある、というのは驚異的なことだ、と個人的に強く思う。
さて、そんなことを考え始めたのは、「神智学大要」を読み始めたからだ。A・E・パウエルが、あのシリーズをまとめたのは1928年当時のこと。東西の文化の在り方も、交通も、情報も、2010年の現在とはまったく違っていた。
コリン・ウィルソンが、皿洗いなどの仕事をしながら、フリーターのごとくの風体で大英図書館に通った1950年代とか、通販ネットワークを駆使して、あらゆるスピリチュアルな本を買い集めて独学したケン・ウィルバーの1970年代と比較すれば、2010年のウェブ時代を生きている私たちは、大きく違った環境に生きている。
立花隆の蔵書を集めた仕事場「猫ビル」とか、松岡正剛の「千夜千冊」を生みだす個人図書館の存在は、たしかに迫力はあったにしても、限りなく魅力的に見える時代は終わっている。
ネットを使えば、2010年を生きている私たちは、少なくとも、図書を利用できる、という意味では、誰でもが、コリン・ウィルソンにも、ケン・ウィルバーにもなれるし、立花隆、松岡正剛と言った現代の知的コングロマリット達にさえ十分対抗できるはずなのである。
敢えて、当ブログが、無料ブログサービスと、公立図書館の開架棚にある図書にこだわってきたのは、そういうカウンター意識があった。一部の知的エリート達だけが享受できる知的環境というものはすでに崩壊しつつある。誰もが、望みさえすれば、この地球上に現れた最高の知的存在にアクセスすることのできる可能性はでてきているのだ。
マダム・ブラバッキー、P・D・ウスペンスキーやG・I・グルジェフ、あるいはニコライ・レーリヒのように、一部の人たちだけが、世界を旅行し、その秘教を体験できるという時代があった。その場に行き、その道を体験することの重要性は今でも変わらない。
だが、そのような「恵まれた」環境にある者だけが、それゆえに評価され愛される時代というものは、かぎりなく速やかに終わるつつあるのだ。だれもが、旅をし、体験することができる時代が来つつある。
しかし、ここまで語られたことは、コンテナの次元のことであり、せいぜい拡大してもコンテンツまでのお話のことだ。コンシャスネスにおいては、そう簡単に物事は進まない。いや、むしろコンシャスネスにおいては、昔も今も、なんにも変っていないのだ。
コンテナ、コンテンツは十分に提供されている。もうそれは検証済みのことだ。しかし、問題はこれからだ。コンシャスネスのステージにおいては、誰もがイージーに体験できる、味わえる、という時代にはなっていない。あるいは、それは、「時代」ではなく、ひとりひとりの「個」にまかされた次元の問題となる。
A・E・パウエルもまた、そういった意味においてコンテナ、コンテンツに恵まれた一人であったことは間違いない。その時代において、多くの情報に触れることができ、それを整理することのできる知性に恵まれていた。そしてシリーズ本をまとめることができた。
現代神智学とはまだ、キチンと正対峙できないでいる当ブログだが、いたずらに100年、200年の過去に戻るだけが得策ではない。20世紀、19世紀あるいは中世や古代の知識を学びつつ、私たちは、ITが跋扈するウェブ時代を生きているのだ、ということを忘れることはできない。
例えばパウエルの提示する用語ひとつひとつに対しても、2010年なら2010年なりの検証が必要なのではないか。そして、それはこの時代にこそ許された技術や環境というものがある。そしてオープンソースとしての、クラウドソーシングの思想がある。
そのような視点から、現代神智学の再検証が必要であろう。てらいのない徹底的な検証が必要だ。そして、もちろんそこには個々の「体験」、個々の「理解」に裏付けられた「知識」が必要だ。個々の体験はなかなか共有できないものだが、幸いウェブ時代には「匿名性」とか「同時性」という特性がある。そこからさらにその大きな特性のひとつである「双方向性」が活性化される時、21世紀的神智学が立ち現われてくるはずだ、という強い予感がある。
梅田望夫は、当ブログから見ると「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代」あたりで、足踏みしているように見える。そもそもITコンサルタントであってみれば、「いかに働き、いかに学ぶか」という枠組みから外れる書物を容易に出せないことはよくわかる。しかし、人生は、「いかに働き、いかに学ぶか」という結論に再到達する前に、コンシャスネスのステージが「個」的に熟成される必要がある。
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