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2010/07/26

黄檗伝心法要<2> 黄檗の書

<1>よりつづく 

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「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A <2>
西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 : 筑摩書房 単行本 519p

「黄檗伝心法要」<2>「黄檗の書」

 「私が愛した本」(BIHL)再読の旅はなかなか前に進まない。第一回目はそのテキストを確認することを大優先し、中味はまずまずの読み込み、しかも、とにかく手当たりしだい、めっけたものからリストにリンクさせていった。まだ4分の1ほどは、テキストとしても発見することができないでいる。しかしまぁ、テキスト探しもそこそこ終了して、次へのステップを踏むことにした。

 ところが、この再読モードがなかなか前に進まない。進まないだけでなく、進めようというエネルギーと、押し戻そうとするエネルギーが乱気流を起こし、うっかりすると、もんどり打って大けがするような結果にさえなってしまう。ここは、もうひたすらアウエアネスが必要だ。つまり瞑想だな。あとは、どんなことが起きようと、起きたことをひたすら受入れる体制を生きていることしかない。

 英語では「黄檗の書」は、英語ふうに「黄檗の教え」と訳されている。タイトルまで違っている。黄檗のような人間は教えたりしない。その中に教えなどない。人は瞑想し、沈黙し、それを理解しなければならない。Osho「私が愛した本」p36

 In English The Book of Huang Po is traslated in the English way as The Teaching of Huang Po. Even the title is wrog. People like Huang Po don't teach. There is  no teaching in it. You Have to meditate, to be silent, to understand it. Osho Books I Have Lovedp31

日本語で読む分にはブックだろうが、ティーチングだろうが、それほど違いはなさそうに思うし、それに、僧璨などの詩句に比べれば、黄檗はむしろ弟子の質問に対して積極的に教えを垂れているようにさえ思う。しかし、それは「無心」についてならば、何事かを教えるというより、弟子が無心になる状況を生みだしていると言える。確かに「教え」よりは「書」とされるべきなのだろう。

 人間の本性というものは、たとい人が迷っているときでも失われることなく、また悟ったときでも、新たに獲得されたというものでもない。もって生まれたこの自性には、もともと迷いも悟りもない。上下四方にあまねき虚空界も、本をただせばわが一心の本体の投影なのだ。たとい君がさまざまに働き営為してみても、この虚空の外に出るものではない。

 虚空は本来大もなく小もなく、有漏もなく有為もなく、迷いもなく悟りもない。<明らかに見て取った。そこには一物もなく、人もなく、仏もないことを。> 毛一筋ほども計算されるものはそこにない。それこそが、寄りかかることもなく、へばりつくこともない一筋の清流であり、自性そのものに具わる無生法忍である。なんの議論の余地があろう。真実の仏は口がないから、法をを説くことはできぬ。真実の聞き方は耳をもたないから、さて誰が聞こうものやら。さらばこれまで。p305「黄檗伝心法要 宛陵録」

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