頓悟要門<2>
「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A <2>
西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 : 筑摩書房 単行本 519p
「頓悟要門」<2>
頓悟要門は、六祖慧能にはじまる南宗禅の旗印である。そうした南宗における頓語思想を、根拠づけたのは本書である。
かつて、慧能の弟子神会(670~762)が北宗を漸修だときめつけてから、禅の大勢は南宗の独走となった。これを新しい角度から発展させるのが馬祖道一(709~88)で、「頓悟要門」の著者大珠慧海は、馬祖門下第一の学者であった。p181「頓悟要門」
ブッダ→マハカーシャッパ→・・・→ボーディダルマ→慧可→三祖僧璨→四祖道信→五祖弘忍→六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→大珠慧海とくる法統は、仏教、あるいは中国禅といわず、地球人スピリチュアリティの世界遺産とも言うべきお宝である。
大珠慧海の師・馬祖については、Oshoの最後のZENシリーズの中の「空っぽの鏡・馬祖」がある。Osho講話は「頓悟要門」から受けるモノトーンの清浄さとはうって違った、カラフルなにぎわいがある。いずれかの機会にこの二つのテキストの流れを並べて、読み進めたいと思っている。しかし、それって、ちょっと違うかも。
師は初め江西に行って馬祖に参じた。すると馬祖が問うた、「どこから来たのか。」
「越州の大雲寺から来ました。」
「ここへ来たのはいったい何を求めようとしてか。」
「仏法を求めに来ました。」
そこで馬祖はいった、「自分にある宝の蔵はほったらかし、家をほっておいて走りまわってどうしようというのか、私の所には何一つとしてない。どういう仏法を求めようというのか。」
そこで師は礼拝して問うた、「何がこの私の宝の蔵なのでしょうか。」
馬祖は答えた、「いま私に問うている人間、それがお前の宝の蔵だ。そこには一切のものが具わっており、欠けたものは何一つなく、思いのままに使える。外に向かって求める必要がどこにあろう。」
師はその一言で大悟し、自己の本心に目ざめたが、それは知的理解を通してではなかった。師はおどり上がるほど喜んで感謝し、六年のあいだ馬祖を師としてつかえた。p223「頓悟要門 巻下」
OshoのBIHLにおいて、大珠慧海の頓悟要門は「The Book of Hui Hi」と表記されている。
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