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2010/07/28

空っぽの鏡・馬祖<2>

<1>よりつづく

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「空っぽの鏡・馬祖」 <2> 
OSHO
スワミ・アナンド・ソパン (翻訳), 1992/12 壮神社 単行本、 367p

 「頓悟要門」の大珠慧海の師匠は馬祖同一。BIHLから、するりと、最後のZENシリーズとリンクスする。このまま、あっちの流れに行ってしまおうか。そう言えば、どっかにこの大珠慧海と百丈(Hyakujo)が同一人物である、とかの表記があった。そうなのかな。もう、ここまでくると、どっからどこまでが誰、なんて区別はなくなってくる。

 ある日、百丈が師の馬祖のもとを訪ねているとき、頭上を野がもの群れが飛び去った。馬祖は尋ねた、「あれは何だ?」
 「野がもです」と百丈。
 「どこへ行ったのか?」と師は尋ねた。
 「どこかへ飛び去っていきました」と百丈は応えた。
馬祖は突然、百丈の鼻先をつかまえ、それをねじり上げた。そのあまりの痛さに百丈は叫び声を上げた。馬祖は言った、おまえは飛び去っていったと言うが、あれは時の始まりからここにいるぞ」 
 p107「見守る鏡」

 ウロウロしていると、するりと悟ってしまうのではないか、と勘繰ってしまうほど、この本は危険に富んでいる。危ない。どっからいきなり棒が飛んでくるかわからない。どこにビックリ箱が隠されているか、わかったものではない。要注意。

 ある時、友人カップルが遊びに来ていた。なかなかユニークな二人だったが、特に彼女のほうが、かなり危険な人物だった。とにかく意表を突かれる。危険な数日が過ぎ、ようやく帰ることになった。やれやれ、これで我家にも平安がやってくる。

 玄関まで送りながら、「じゃぁ、元気でね」と別れの挨拶をした。すると、彼女は、玄関で靴を履きながら、「私には、そういう約束はできないな」・・・・・・と来た。

 私は、モンドリかえってしまった。確かになぁ~、いつもいつも元気でなんていられない。そんなこと誰にも約束できない。大体において、他人に対して、「元気でいろ!」なんて失礼じゃないか。元気だったり、そうでなかったり、ひとりひとりの自由ではないか。いちいちそんなこと他人に触れられたくないなぁ。う~ん、なるほど、そういうこともありうる。

 こちらも、あまりにも紋切り型の別れの挨拶をしてしまった。無意識になりすぎている。ズバリ、アウエアネスが必要じゃった。われながら、パターン化してるなぁ。あの時、彼女にもっと悟りがあり、ずばりマスター稼業として、「私には、そういう約束はできないな!」と、ZENステッィクを振りおろしてきたら、私はあそこでエンライトメントしたのではなかっただろうか。惜しいことをしたものだ。

 この「空っぽの鏡・馬祖」、装丁がなにやら凄い。ちょっと他のOsho本にないユーモアがある。いつかどこかで、誰か有名な西洋人アーティストの絵である、というような紹介があったような記憶もあるが、定かではない。ただ、この黄色い丸い顔がすごく素敵だ。

 一転して、同時に読み進めている「イーシャ・ウパニシャッド」がどうも私にはちぐはぐに思える。最近、K氏が送ってくれた「Osho本の年代順リスト」によれば、日本語で「存在の鼓動」とされているのは、英語で「Heartbeat of the Absolute」。だが、実際は、1971年4月にヒンディ語で語られた「ISHAVASYOPANISHAD」がもとになっている。もちろん、もとはアルファベット表記ではないだろう。

 この本、もうひとつちぐはぐだと思うのは、表紙のOshoの扮装が、1987年当時のKH的スタイルであること。七福神に扮した王仁三郎と比較する必要もないが、まぁ、この手の扮装にOshoもなかなか協力的ではあった。それはそれでともかくとして、イーシャ・ウパニシャッドとKHは全然繋がってないじゃないか、と思う。どうもちぐはぐだ。

  私は経典のことなど気にしないが、まわりじゅういたるところにブッダがいるのが見える。それはどんな経典からの引用でもなく、私は自分自身の目で見ている。あなた方は気づいていないかもしれないが、それは問題ではない。 明晰さを備えた人は、あなたの真の姿(リアリティ)を見ることができる。

 

 そして師の働きとは、あなたの真の姿を何度も何度も指し示すことだ。それはある種のいやがらせであり、壁に釘を打ちつけるときのように、あなたの頭を叩きつづけるうちに、とうとうあなたは叫び声を上げて、こう言う、「わかりました、私はブッダです!」Osho p306

<3>につづく

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コメント

なるほど、やっぱりそうでしたか。せっかくだから、この二人を比較して並べてみたら、その個性がはっきりして面白いかもしれないですね。

投稿: Bhavesh | 2010/07/29 19:17

百丈懐海と大珠慧海は、のあとの名前がアルファベット表記でともにHui Haiとなることで、同一人物だと誤認されているようです。ちなみに、ペーパーバック版BIHLでのHui Hi の表記はaが脱落して、ミススペルになってます。

投稿: komori | 2010/07/29 09:20

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