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2010/07/24

菩提達磨無心論<2>

<1>からつづく 

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「禅語録」 世界の名著 18
柳田聖山・責任編集 1978/08 中央公論新社 全集 588p


「菩提達磨無心論」無心に関する対話)<2>

 この本、柳田聖山という人が編集している。前回この本をめくったのは一年前のこと、BIHL2の中の「菩提達摩の弟子たちの記録」として、この「無心論」をテキストとして確認したにとどまった。今回あらためてこの本を手にとって、最初から読み始めてみると、この柳田という人の解説がなかなかに面白い。面白いはずだよね、この人、日本の中国禅宗史研究の第一人者と目される人物で、1991年には紫綬褒章、1996年には勲三等瑞宝章を受賞していると言う。

 禅は、ダイセツ・スズキ(1870~1966)によって、現代史にその市民権を獲た。p7柳田「禅の歴史と語録」

 この方の文章はいきなり、こう始まる。う~ん、やっぱりそうであったのか。BIHL4‐5に鈴木大拙の「禅と日本文化」(1938 )がある。この本、国内にいて、エスノセントリズムの偏狭な日本民族中心的な発想を展開した本ではない。外国にあって、英語で書かれ、しかもなお当時の最新の知識や思想、情報を駆使して編まれたグローバル戦略の一冊である。

 前回は久松真一訳で読んだが、実は柳田聖山訳の「禅と日本文化」という本もある。今回はこちらを読んでみようと思う。禅文化というもの、営々と繋がってきた伝統であろうという察しはついていたが、文献や経典でみた場合、必ずしも一気火勢につながってきたものではない。

 この「菩提達摩無神論」にしても、「達摩二入四行論」にしても、実は、割と最近「発見」されたものなのである。時代的には、マダム・ブラバッキーが「シークレット・ドクトリン」などでいわゆる現代神智学を養生し始める時代と重なりあっている。新しく「発見」された文献や経典に対して、大拙は、グッドタイミングで現代流の解説を加え、意味づけし、しかもそれを英文で発表し続けた。この仕事がなかったら、21世紀のZENはなかったと言える。

 敦煌に初期禅思想の文献が残されたのは、けっして偶然の結果ではなかった。敦煌の禅籍は、今やチベット仏教の形式を視野に入れての、新しい再検討を求めている。そのことは、やがて中国における禅の歴史の全領域におよぶ再検討を要求するはずである。p28 柳田

 いままで、グルジェフとクリシュナムルティをまったく別個な流れとしてとらえていたが、この間にウースペンスキーを挟んでみると、実は大きな流れとしては、現代神智学という新興のうねりに含まれていたことに気づいた。一方、禅とチベット密教だが、もちろん同じ仏教なのだからつながりがないわけはないのだが、あまりに峻別して比較しすぎるのもよくないのではないか、と思うようになった。むしろ、ひと連なりの意識のながれとして見ることが必要なのではないか。

 もちろん「One Earth One Humanity」ならぬ、「No Earth No Humanity」的視点に立てば、時間や空間を越え、地形や国境を越えて、同じ「無心」に違いがあるわけはないのである。当ブログのようなおっとり刀の読書子においても、数を重ねていくと、巨視的かつインテグラル的、かつ、nothingness的境地が見えてくる。

 21世紀はインターネットありきの世界である。その中からブログというコンテナを拾って、そこに詰め始めたのは、書籍であり図書館機能であった。言葉や本は、人類のコンテンツとしてはもっとも広汎かつ日常的に活用されているものだ。伏流水や埋蔵経典のようにでてくる古文献が大きく幅を利かせた前世紀と打って違って、21世紀においては、インターネット機能が、人類のもっとも最高峰に属するであろうコンシャスネスを解き明かすのではないか。そのような期待が嫌が応にも高まる。

 まえがき 真理はものいわぬ。人の言葉に託して真理をあらわにせねばならぬ。大道は固有の形をもたない。俗を導くには人の身体があらわになる。今は二人に託して、互いに無心の道理を語らしめよう。p84「菩提達摩無心論」

 この「無神論」は至って小さな経典である。全部で10頁ほど、しかも本文の現代文にすると、その半分。

 無心の中で勝手に思いこんで、さまざまの業をこしらえて、六道を輪廻するばかりだ。そんな人々も、友人の指導を受けて坐禅し、無心にめざめることにと、どんな業も根こそぎ消え、生死も忽ち切れてしまう。p85「菩提達摩無心論」

 「BODHIDHARMA The Greatest Zen Master」の中のOshoなら、この短いセンテンスの中にでも、ZENステッィクを打ちおろすかもしれない。もちろん、打ち落とされる先には、この言葉群があるのではなく、その言葉そのものに呆けている私がいる。

 断章取義の功罪は大きい。もともと、ある全体のまとまりのなかでのみ意味を持っている言葉が、その部分だけ抽出されて、別の意味をあたえられるのである。とくに、材料は口語や俗語が多い。どうにでも解釈されることとなる。読みすぎや、読み込みに走りやすい。拡大解釈や事大主義、一日一善的名言の羅列になりやすい。

 単なる文字の遊戯や無意味な饒舌、没思想の美学に終るうちはまだしも、一つのイデオロギーや平板な抽象観念の当てはめに堕してしまう。今日、禅の毒素とされるもののほとんどすべてが、宋代の傾向にすでに胚胎している。柳田聖山p51「禅の歴史と語録」

 う~ん、くわばらくわばら。24時間、アウエアネスが必要じゃ。

 

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