ギータ・ゴーヴィンダ<3>
「ギータ・ゴーヴィンダ」 ヒンドゥー教の聖典二篇 <3>
ジャヤデーヴァ 小倉泰 /横地優子 2000/09 平凡社 文庫 280p
☆☆☆☆★
これだけインターネットが発達した時代である。ポルノグラフィーのネタには事欠かないどころか、ポルノグラフィーを避けて通ることなど容易にできることではない。少なくとも人類史において、これだけ性情報があふれている時代もないであろう。ありとあらゆる種類の情報が氾濫し、あらゆる種類の人々の嗜好を満たすべく、あらゆるジャンルの画像やら動画、サービススポットの情報が無尽蔵に提供されている。
こんな時代にあって、12世紀のインドの詩人ジャヤデーヴァによるサンスクリット詩「ギータ・ゴーヴィンダ」のわいせつ性など何ほどのことでもない。むしろ、その素朴かつ純情な心理の吐露が歯がゆいくらいだ。
「愛欲の恍惚の瞬間の味わいに、わたしはぐったりしていた。あのひとの蓮のようなまなざしは、いくらか閉じていた。力なく倒れた蔦のようなわたしのからだ。マドゥ・スーダナは、愛を語ってくれた。ああ、友よ。気高いケーシ・マタナの心を戻して、わたしとむつませておくれ。愛の欲望にとらわれたわたしよ」
愛人を待ち望む牛飼い女(ラーダー)の口を通して、シュリー・ジャヤデーヴぁに歌われるこの(歌)は、マドゥ・リブの目眩(めくるめ)く情事のありさま。この(歌)がいと易く喜びをひろめてくれますように。
「ああ、友よ。気高いケーシ・マタナの心を戻して、わたしをむつませておくれ。愛の欲望にとらわれたわたしと」p23
この詩はヒンドゥー社会の聖典だ。古典でもある。それをどのように味わうかは、その場その場で大きく異なることだろう。ヒンドゥー社会の中にあってこそその神髄を味わうことができるだけでなく、言葉も文化もことなれば、外からその存在を知ることさえ容易なことではない。
「翻訳は女性と同じ、美しくなければ忠実でなく、忠実ならば美しくない。」 この翻訳では忠実さを重視する方針をとった。そのため、日本語であまりに異常にならない限り、原文の語順や語の種類、格関係はそのまま保持しようと努めている。p121「解説」
「美しくなければ忠実でなく、忠実ならば美しくない」というのが女性の本質を的確に定義し得ているかどうかはまだ検証していないが、情愛をテーマとする「ギータ・ゴーヴィンダ」の翻訳者の解説ならば、なるほど、と思わずにはいられない。
この手の作品を学術的に「正しく」読むと、なかなか「恍惚」とまではいかないことが多い。またあまりに美しすぎると、たしかにもともとの意味を逸脱してしまうこともあるのだろう。この邦訳は学者らしく「忠実」の方に振られているので、本来バウルの歌として聞かれるべき情愛の部分は、たしかに官能性が薄まっているかもしれない。
村上春樹や他の小説家などの作品を読んでみると、要所要所に挟まれる性描写など、特段に必要ではないのだが、なにかの全体性を維持するためには、ぜひとも欠かせない要素となっているのだろう。
「ギータ・ゴーヴィンド」もまた、究極の意識のステージを表現しているとは言えないが、意識の全体像を表現するには欠かせない要素を代表している。とくにヒンドゥー文学においては、この歌、この詩文が負っているものは大きい。
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