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2010/07/11

シークレット・ドクトリン<4>

<3>よりつづく 

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「シークレット・ドクトリン」 宇宙発生論 上 神智学叢書<4>
H・P・ブラヴァツキー (著), 田中 恵美子 (翻訳), ジェフ・クラーク (翻訳) 1994/02 神智学協会ニッポン・ロッジ 761p
☆☆☆☆

 シークレット・ドクトリンとは、あらゆる宗教や古代思想の源である「秘められた叡智」(秘教)の体系を指す。
 それを表題にとったこの大作において、著者H・P・ブラヴァッキーは秘教の原典「ジャーンの書」に注釈をつけながら、古代からごく限られた者にのみ継承されてきた秘教科学の根本原理を現代の人類すべてに授けている。
裏表紙見返し

 当ブログの基本姿勢は、Top Secret is Open Secret である。どれほどの価値ある真理であろうと、一部の限られた者にしか開示されない、ということはない。いやむしろ究極の真理であればこそ、誰にでも触れることができ、誰にでも理解できる、ごくありふれたものである、と、まぁ、それが本当かどうかわからないが、そういうものだと決めつけている。

 「ごく限られた者にのみ継承されてきた」という言葉や、「秘教科学」なども、魅力的な言葉ではあるし、それの一部は事実として存在したとしても、当ブログは、字義通りには受け取らない。「古代から」という曖昧な表現も、文学的ではあったとしても、そこからイメージされる世界の作用には功罪がある。

 その「秘教科学」を、「現代の人類すべて」に捧げるという、白黒のはっきりした表現は、宣伝文句にはなったとしても、決して字義通りのものと受け取ることはできない。そもそも、1888年に発行されたこの本の効果は、ホントウにそういうものであったかどうか。「現代」と言われる19世紀と21世紀では、すでに「人類」の在り方も、かなり違ったものになってきているのではないか。

 著者は、秘教の原理を固定化されたドグマとして主張することなく、古今東西の思想家、各宗教の聖典、科学理論などの豊富な客観資料に論拠を得て、さまざまな視点から「宇宙および人類の進化」という巨大なテーマを展開していく。裏表紙見返し

 「秘教」と言われるものは、東西の交通・通信が未発達であった19世紀において、西洋から見た東洋、科学の立場から見た宗教、体系化されたドグマからみた、収容しきれない断片的真実、などがまぜこぜになっている。

 しかし、この点からだけ考えるなら、交通も、通信も、とてつもないほど発達したインターネットの21世紀において、さらに加速度を強めていて、1970年代の「タオ自然学」でさえ、すでに陳腐に思えるほど、人類社会は更に「進化」している。

 1888年と言えば、日本暦で明治21年。伊藤博文や黒田清隆などが総理大臣を務めていた時代であり、東京熱海間の電話が開通し、「君が代」が国歌として制定公布された、という時代である。ひとりブラバッキーばかりを、アナクロニズムと批判することはできない。むしろ、国家主義を強める国際的な時代性において、彼女が行動し組織したエネルギーは当時の活動としては、際立った存在であったことは、理解できる。

 ただ「宇宙および人類の進化」の「体系化」の試みは、21世紀の「科学」をもってすれば、滑稽きわまりないものに思えてしまう。このあたりを「人智学」として継承したシュタイナーの世界なども、ともすれば「迷信」とさえ思えるほど、おとぎ話の域をでない部分も多い。

 他の沢山な神秘と共に、こうした秘密はこの時代の唯物論者には存在しないままであろう。同じように中世の初期のヨーロッパ人にとっては、アメリカは存在しないおとぎ話的なものであったが、スカンジナビア人やノルウェー人は数世紀前にとても古い”新世界”に実際に到達し、定着していた。

 しかし、一人のコロンブスが西半球の国々を再発見し、旧世界にその存在を信じさせるために生まれたように、今オカルティスト達が主張しているような種々雑多な居住者や意識のある存在物がいるエーテル諸領域の中の驚くべきものを発見する科学者が生まれるだろう。

 するといや応なく、科学はその古い”迷信”を受け入れなければならなくなるだろう。これまでの”迷信”を受け入れるようになった時と同じように、過去の経験から判断すると、一たびそれを無理に受け入れると、おそらく科学の博学な教授達は、今は”催眠術”と名称をつけ直されたメスメリズムや磁力の場合のように、そのことのもとの名を捨て、自分はその創始者であると主張するであろう。p579「要約」 

 ここにおけるブラヴァッキーの「預言」は預言として受け取っておくしかない。地球上の地理的な「新世界」は、実証的に「再発見」されてきた。しかし、ここでいわれている地球人の「意識」については、「実証的」に「再発見」されるのは、簡単なことではなさそうだ。現代の発達した脳科学なども、かつての「神秘」領域に突入しはじめているのは事実であるが、ここではすでに「科学」そのものが問われ始めている。

 この本は、当ブログにとっては初読である。ましてや、その全容の一部をなぞっただけにすぎず、また斜に構えた読書態度にあらたまる傾向はなかった。どれほどの価値がこの本に隠れているか、今は分からないままであっても、それはそれとして、今後の吟味再読の機会を待つことにしよう。

 当ブログとしては、この1888年、という時代性をもう少し拡大しながら、例えば一方で1885年に「ツァラトウストラかく語りき」を発表したニーチェなどの存在のことなどにも思いをはせたいと思う。あるいは、現代神智学に先立つ中世神秘主義など、バラバラに目を通してきた本たちに、なにごとかの関連を見つけながら、再読することも必要だろうと思われてきた。そして、もちろん、「古代」とやらにも、突入していかなくてはならない。

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