« 神智学大要<4> コーザル体 | トップページ | 神智学大要<5> 太陽系 »

2010/07/06

インテグラル・スピリチュアリティ<9>

<8>よりつづく  

インテグラル・スピリチュアリティ
「インテグラル・スピリチュアリティ」 <9>
ケン・ウィルバー /松永太郎 春秋社 2008/02 単行本 469p
☆☆☆★★

 A・E・パウエルの「神智学大要」全5巻をめくるにあたって、からなずしも「読書」が大好きでもなければ、「トンデモ世界」が大好きでもない当ブログとしては、いささか、その頁をめくるにあたっての工夫をしなければならなかった。

 ひとつには、部分に拘泥せず、どんどん頁をめくってしまうことであり、ひとつは、全5巻を一気に読んでしまわずに、一冊ごとに、なにか他の本を挟んでいくことによって、その「毒気」を「薄める」工夫であった。

 もともとが古い100年前の本であり、かつまた実証科学性に乏しい世界についての本であってみれば、それに対峙するところの「現代的」で「科学的」な本を挟んで読んでいくことに、いささか妥当性があるように思えた。

 さて、何冊かは成功したように思うが、「神智学大要4巻」を読んだところで、次なる「毒消し本」が不足する事態になった。最近はあまり新刊本を読んでいないばかりか、いわゆる「科学的」な本も、最近は敬遠ぎみである。あちこち手元の本を引っ張り出しては、あれでもない、これでもない、を繰り返した。

 結局、時間切れでもあったからだが、最終的には、このケン・ウィルバーに再登場を願うことなった。いざ、本棚からこの本を引っ張り出してみて、あらためて驚いたことは、その本に付けられた付箋の多さである。縦、横、ななめ、に、赤、青、黄、のさまざまな大小の付箋が、所せましと貼り付けてある。

 ああ、これじゃぁ、ほとんどの頁に付箋が貼ってあって、もともとの付箋の役割をしていないではないか。ここは、えいっ、とばかり、すべての付箋を外してしまった。最近はほとんどの本を図書館から借りているので、その本に傍線を引くなんてことはできない。よっぽど面白いところは、数頁ならコピーをとることもあるが、ほとんどは、付箋で注意喚起する程度で終わる。この習慣が自らの蔵書にも波及してきている。

 しかるに、この「インテグラル・スピリチュアリティ」、こまかく読んで行こうとすれば、突っ込みどころ満載どころか、高度に組み上げられたジグソー・パズルのようで、パーツパーツにひとつひとつの番号をつけておきたくなるほどである。おいおい、ウィルバーさん(ケン、と呼び捨てにするほど親しくはない)、いくら時間と蔵書が有り余っているからと言って、そこまで廃材の有効活用を考えなくてもいいのではないですか、と忠告したくなった。

 いざ付箋を全部はずして、虚心坦懐に、最初の頁から最後の頁まで、ざっと目を通してみると、これがなかなか面白い。巨視的に見た場合、全体像がシンプルに見えてくるのである。仔細な部分にこだわるより、この本はザックリと読むべき本である、と改めて悟った。

 Oshoは「禅宣言」において、ウィルバーに対するコメントの中で、次のように述べている。

 マインドが何世紀にも抱えてきたごみくずを相手にしても、しかたがない。それに巻き込まれてしまった、それをどこまでも掘り続けていっても、見つかるのはガラクタばかりだ。一思いにそこから飛び出したほうがいい---それはあなたではない。世代から世代に伝わる条件づけが、そっくりそこにある。様々な観念がみんなあなたのところまでやって来て、日毎に厚くなっていく。時間が経つにつれて、あなたのマインドは厚くなり、瞑想するのは難しくなる。Osho 「禅宣言」p469「不在になるほど存在する」

 ここでガラクタと邦訳されているのは、the rubbish という単語。たしかに、ごみ、屑、ガラクタ、でたらめ、チリ、などとしか翻訳できないようだ。見方によっては、パウエルの「神智学大要」全5巻だって、the rubbish と表現できないこともない。すくなくとも、一連の文字列のなかから、最終的に「私は誰か」が立ちあがってくるものでなければ、たしかに意味はない。

 さも、パウエルは骨董店で、ウィルバーはリサイクル店でもあるかのようだ。古色蒼然としていれば骨董価値がありそうに見えるし、サンドペーパーで磨いてビニールカバーをかけ直せば、新刊書に見えないこともない。要はそれを購入した側の問題ではあるが、日暮れて道遠し、という状況にだけは陥らないようにしなくてはならない。

 ここに来て思うこと。ケン・ウィルバーは「One Earth One Humanity」というカテゴリにおいては一目おいて注目しておくべき一冊であると思った。しかし、ここ「No Earth No Humanity」においては、いささか浮きあがってきてしまった。そして、いずれやってくる「No Books No Blog」のステージにおいては、胡散霧消してしまうのではないか、という危惧さえでてきた。

|

« 神智学大要<4> コーザル体 | トップページ | 神智学大要<5> 太陽系 »

41)No Earth No Humanity」カテゴリの記事

コメント

☆チダさん
いよいよ、面白いテーマに近づいてきましたね。だけど、これがなかなか難しい。
ざっくり話をすれば、人間には無限の可能性があって、意識には7つのステージがある。通常の人間は3か、せいぜい4程度なんだが、時には5とか6まで行ってしまう人がいる。
行きすぎちゃって、7から原点に戻ってくる人もいるわけで、それがブッダとかキリストとか言われている意識なのだ、と仮定する。
その人々の中にはマスター稼業に乗り出す人々もいて、それで、普通の人でも、つられて5だとか6だとか、あるは7まで行っっちゃってしまう、なんて現象が起きてくる。
この連鎖反応が起きれば、人類みんな7で消滅、ということになるのだけど、どうもそうはならない。
7までいっちゃった人が肉体を失うと、それから何百年かは効果が残っているのだけど、だんだん効き目がなくなって、教えとか組織だけが残ってしまう。
だから、何百年、何千年、何万年かのサイクルで、リセットして、あたらしい7の人が、他の人々を道連れにしようとする。
どうやらそういう仕組みが存在しているらしいのですが、本当はどうなんでしょうねぇ。

投稿: Bhavesh | 2010/07/06 11:57

ブッダの時代の瞑想者と近代の瞑想者に境地の違いはあるのだろうか? ブッダは静かに座り、静止した内面を観た。でも、その自分が地球のまわりを猛スピードで回転し、その地球が猛スピードで太陽のまわりを公転しているなんて、夢にも思わなかったでしょう。
近代の人々がそのような客観事実を知って瞑想したからと言って、その境地にちがいが生まれるとは考えにくい。
ブッダの時代から大勢の哲学者や思想家が生まれたけれど、その蓄積によって、人間意識の本質は進化(深化)したのだろうか。どうでしょうね。
たしかに、豊かにはなったよね♪

投稿: チダ | 2010/07/06 08:34

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: インテグラル・スピリチュアリティ<9>:

« 神智学大要<4> コーザル体 | トップページ | 神智学大要<5> 太陽系 »