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2010年7月の44件の記事

2010/07/31

ダダ漏れ民主主義 メディア強者になる!<1>

ダダ漏れ民主主義 メディア強者になる!
「ダダ漏れ民主主義」メディア強者になる! <1>
日垣 隆 (著) 2010/5 講談社 単行本(ソフトカバー): 256p
Vol.3 No.0079☆☆☆☆★

 なんか変だな、と思いつつ、この「ダダ漏れ」ってなんだろう、とあちこちひっくり返してみたが、結局はわからなかった。これはどうやらダラダラ漏らす、ということで、芸術活動としてのダダイズムのダダとは一切関係なさそうだ。当然だろう。

 この人の名前、一度は聞いたことがありそうだ、と思ったが奥付をみると、知った本のタイトルはない。そこで、こちら側を調べてみたら、一度、彼の本は読んだことがあった。「使えるレファ本150選」。けっこうベタなタイトルの本である。もう4年前だ。教科書体の真面目な本だったという記憶があるが、こちらは結構、草書体の一冊である。

 そもそも「週刊現代」に2009/07~2010/05に連載された「なんなんだこの空気は---メディア考現学」をもとに単行本にした、ということである。メディア論あり、IT論あり、ジャーナリズム論あり、で、ごちゃ混ぜだ。週刊誌的つかみだから、なんかやたらと忙しい。新鮮な話題も豊富なので、コンテナ論、コンテンツ論はまずまずだが、コンシャスネスには至らない。

 文学論、的な部分もあるので、いくかな?、と期待はするのだが、いかない。所詮はこの程度なのだろう。民主主義がタイトルになっているので、そのような方向にいくかな、と期待もしたが、必ずしもそうはならない。もっとも、いまや民主主義を語ったところで、とてもコンシャスネスにつながるとは言えない。

 ちなみに、こういう話を書いていると、まるでIT関係に強いかのように誤解される方がおられるかもしれないが、例えばITジャーナリストの佐々木俊尚氏という、IT事情を知るには便利な書き手なのに、一冊一冊の賞味期限が半年程度と短く、オリジナリティのなさが特長である人の講演を聞いていると(喋りが連打法級)、最前線のことはなんでも知っているかに見えるけれど何を言いたいのかさっぱりわからない、あるいは、なんだ彼はただのオタクか、と真実が見えてしまうほどチンプンカンプンなのである。私の、この程度の記述は我慢していただけると幸いである。
 佐々木氏が講演やシンポであまりに偉そうで、かつ、独りよがりな議論を一方的に展開するので、つい本当のことを言ってしまった。
 連打法は、キーボードだけでたくさんである。
p060「第1章 ダダ漏れ民主主義とは何モノか」

 佐々木俊尚については、同感。我が意を得たりであるが、それを打倒しているこの著者のこのあたりの「連打法」も、ぎりぎり限界ではある。だが、まだちゃめっけがあって、ゆるせるかな~。それにしても、やっぱり、コンテナ、コンテンツ論は、もう限界なんだな。好奇心を維持するにも限度はある。

 かつて、ネット上の仮想空間「セカンドライフ」が日本を、また世界を変えると断じていた方々、お元気ですか。p115「第2章 何事も体験しなければ始まらない」

 当ブログも、セカンドライフで踊ってみたほうだから、鼻白む。元気じゃないです。たしか40冊ほどセカンドライフ本を読んだから、そのうち、リバイバルの意味を込めて、リストを作っておこうかな。

 ツィッターには全然新鮮味を感じないし、SNSの密度にも耐えきれない当ブログとしては、せいぜい、旧メディアに属しつつあるブログでも書いていくしかない。しかも、電子ブックじゃなくて、公立図書館の読書、というメディアにこだわっているのだから、まぁ、メディア強者とは、とても言えない。マイペースでのんびりいこう。

<2>につづく

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2010/07/30

心理学対決!フロイトvsユング (史上最強カラー図解)

心理学対決!フロイトvsユング (史上最強カラー図解)
心理学対決! 「フロイトvsユング」 (史上最強カラー図解)
山中 康裕 (著, 編集) 2010/3 ナツメ社 単行本(ソフトカバー): 224p
Vol.3 No.0078☆☆☆☆★

 ふと気づいてみれば、BIHLの中に、いわゆる心理学の本は極めてすくない。 全168冊のうち、わずかに4冊。これではあまりにもすくなすぎるのではないかと思う。しかも登場するのは、いずっれも後半以降。申し訳程度に付記されている。

「心理学」編
BIHL12-04 「精神分析入門」ジークムント・フロイト
BIHL13-09 「精神分析と無意識」D・H・ロレンス
BIHL14-08 「サイコシンセシス」ロベルト・アサジョーリ
BIHL16-02 「きけ小人物よ!」W・ライヒ

 フロイトの「精神分析入門」は、とりあえず心理学も触っておいたよ、という程度で、まるでマルクスの「資本論」と双璧をなすような、継子あつかい(まずい、これは放送禁止言語かも)。D・H・ロレンスは、文学者側からの心理学へのアプローチであり、必ずしも心理「学」とは言えず、アサジョーリに至っては、フロイトの「分析(アナリシス)」と合わせ鏡にでもするかのように、その「統合(シンセシス)」という言葉がありがたがられているだけだ。

 ライヒは、当ブログ私家版「OSHOのお薦め本ベスト10」の、堂々のトップを飾る一冊ではあるが、オーソドックスな心理学の「学問領域」からは、大きくはずれたものとして無視されている。このことから考えても、Oshoがいわゆるフロイトに始まる心理学に極めて批判的であったことがわかる。ユングに至っては、一冊も取り上げられていない。

 ただ、一連のOshoの講話録を読む限り、心理学の話しが出てこない本はないほど、実によく心理学を研究していることは周知の事実だ。「Beyond Psychology」とか「秘教の心理学」など、ズバリその語を借りてはいるが、否定されるべきもの、乗り越えられるものとして取り上げられている。

 いわゆる論理として体系化されたものとしての「学問」への否定感覚もあるだろうが、また、作品や業績よりも、その人間そのものの在り方に関心を持ち続けたOshoであってみれば、フロイト自身、ユング自身の、「意識」そのものに、ほとんど興味を覚えなかったのではないだろうか。

 この本、なにやらタイトルが仰々しい。なんだか、往年の西部劇「OK牧場の決闘」でも見ているようでまるでアナクロだ。ましてや、21世紀の現代においては、決闘など、法的に禁じられているのではないか、とジョークを飛ばしたくはなるが、この本自体は、極めて便利であると言える。すくなくとも北山修のお勧めにしたがって、「フロイト著作集」全何十巻を読む、などという難行苦行するよりも、お手軽であると言える。カラー図解というのが実にいい。

 当ブログでは、108の記事をひとまとめにして、カテゴリ別に列挙しているのだが、そのなかに「ブッタ達の心理学」がある。なかななかまとまらずにVol.3まで行ってしまった。だが、それでもまとまらなかった。結局は諦めた、というのが本音のところ。「ブッタ達の心理学」はウスペンスキーの言うところの「人間に可能な進化の心理学」としてとらえなおされなければならないが、それであったとしても、日暮れて道遠し。

 玉川信明の「和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界」トランスパーソナル心理学との相対関係、などという仕事もあったが、玉川信明の取り組みも限界があったが、ウィルバーグロフ達が開こうとしたトランスパーソナル「心理学」の世界も、それは一体何であったのか、ということもそろそろキチンと問われなければならないだろう。

 さて、フロイトvsユングの「対決!」、一体どうなっているのだろう。晩年になって、洋の東西を問わず古代遺物を集め続けたフロイトの収集癖。晩年になってUFOや錬金術の心的過程を研究したユング。それぞれにユニークと言えばユニークだが、けっしてエンライトしたような存在ではなかったようである。どこまでも人間臭い存在だった。

 この本においても「対決!」とは名ばかりで、決してガチンコ勝負ではない。所詮は観客を喜ばすパフォーマンスが勝ち過ぎているのではないか。ここまでくれば、あとはショーとして楽しめばいいのかもしれない。往年のジャイアント馬場と、ラッシャー木村の名場面を楽しむようなものだ。出来レースは出来レースなりに、面白いことは面白い。 

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ダライ・ラマ関連本

 <1.0>に作っていたリストだが、楽天ブログの字数を超えてしまい、窮屈になったので、こちらに転記した。今後、追加がある場合は、こちらに追記していくことにする。

ダライ・ラマ関連本

「チベットわが祖国」 ダライ・ラマ自叙伝 木村肥佐生 1989/9 原著1962 中公文庫

「愛と非暴力 ダライ・ラマ仏教講演集」 ダライ・ラマ仏教講演集ダライ・ラマ(14世) /三浦順子 1990/04 春秋社

「雪の国からの亡命」 チベットとダライ・ラマ 半世紀の証言 ジョン・F・アドベン 三浦順子・他・訳 1991/1 原書 1984

「ダライ・ラマ自伝」 ダライ・ラマ /山際素男 1992/01 文藝春秋 単行本 336p  文庫本化 2001/06  文藝春秋 

「 ダライ・ラマ『死の謎』を説く」 輪廻転生-生命の不可思議 14世ダライ・ラマ 1994/07 クレスト社 単行本 235p

「ダライ・ラマの密教入門」 秘密の時輪タントラ潅頂を公開するダライ・ラマ(14世) /石浜裕美子 1995/12 光文社 原書 Kalachakra Tantra Rite of Initiation For the Stage of Generation 1985 1989

「宇宙のダルマ」 ダライ・ラマ十四世 永沢哲・訳 1996/11 原著 THE WORLD OF TIBET BUDDHISM 1995

「瞑想と悟り」 チベット仏教の教え ダライ・ラマ14世著 柴田裕之 1997/7 NHK出版  原著 THE WAY TO FREEDOM Core Teaching of Tibetan Buddism 1995

「チベットの七年」新装復刊 ダライ・ラマの宮廷に仕えて ハインリヒ・ハラー 福田宏年・訳 白水社 1997年 原著1966

「活仏たちのチベット」 ダライ・ラマとカルマパ 田中公明 2000/4 春秋社

「ダライ・ラマの仏教入門」 心は死を超えて存続する ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ 石濱裕美子・訳 2000/6 光文社知恵の森文庫 1995年光文社刊 原著 The Meaning of Life:Buddhist Perspecitive on cause and effect 1992

「バイオグラフィー 20世紀の指導者~ダライ・ラマ14世」 2000年7月  45分

「高僧の生まれ変わり『チベットの少年』」  イザベル・ヒルトン 三浦順子・訳 2001/9 世界文化社 原書1999

「ダライ・ラマ 怒りを癒す」 ダライ・ラマ十四世・著 三浦順子・訳 2003/3 講談社ペック 原書 1997 HEALING ANGER

「ダライ・ラマ、生命と経済を語る」 ダライ・ラマ(14世) /ファビアン・ウァキ 中沢新一/鷲尾翠・訳 2003/03 角川書店

「14人のダライ・ラマ」その生涯と思想 グレン・H.ムリン /田崎國彦 2006/10  春秋社

「ダライ・ラマ  ゾクチェン入門」 ダライ・ラマ /宮坂宥洪 2008/08 春秋社

「ダライ・ラマ その知られざる真実」  ジル・ヴァン・グラスドルフ /鈴木敏弘 2004/06 河出書房新社 原書 LE DALAI LAMA 2003

「思いやりのある生活」 ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ 沼尻由起子 2006/3 光文社 原書 The Compassionate Life 2003

「目覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話」 上田紀行2007/06 日本放送出版協会 全集・双書  

「ダライ・ラマ 実践の書」 ダライ・ラマ(14世) /ジェフリー・ホプキンス 宮坂宥洪・訳 2010/01 春秋社

「ダライ・ラマの『中論』講義---第18・24・26章」ダライラマ14世テンジンギャツォ (著),  マリア リンチェン (翻訳) 2010/05 大蔵出版

「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力 ダライ・ラマ14世/下村満子 2012/03 大和出版

「傷ついた日本人へ」ダライ・ラマ14世 2012/04 新潮社

 その他、 「チベット密教」関連一覧リストのなかにもダライ・ラマについての記述は多く見つけることができる。

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ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章
「ダライ・ラマの『中論』講義」―第18・24・26章
ダライラマ14世テンジンギャツォ (著), His Holiness the Fourteenth Dalai Lama Tenzin Gyatso (原著), Maria Rinchen (原著), マリア リンチェン (翻訳) 2010/05 大蔵出版 単行本: 247p
Vol.3 No.0077☆☆☆☆★

 ナーガルジュナの「中論」BIHL4-9に登場する。「ツォンカパの中観思想」「ツォンカパ中観哲学の研究」など、チベット密教におけるツォンカパにも注目してきた。そもそも、中論と中観、と二つの表記がされているのは何故だろう。中観が実践で、中論がその理論的裏付け、というところか。中観思想と中観哲学、と表現されるところの違いにも気になる。

 黒崎宏「純粋仏教 セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える」「ウィトゲンシュタインから龍樹へ」、定方晟「空と無我 仏教の言語観」 などとというあたりも気になるが、いままで一貫して追求したことはなかった。ナーガルジュナとウィトゲンシュタインが繋がる、なんてところは当然であったとしても、ますます興味深々というところだ。

 そう言えば、佐々井秀嶺が新仏教徒たちを鼓舞しながら発掘を続けているのは、ナーガルジュナにつながる遺跡ではなかっただろうか。今回、2006年にダライ・ラマが「中論」を講義したアンドラ・プラデーシュ州のアマラーヴァティーもまたナーガルジュナに縁の深い場所であるという。

 ダライ・ラマの本はたくさんでている。ほとんど勢いがとまらない、と言っていいほどだ。彼の講義はほとんど「ですます」調で翻訳されていて、あの気さくなお人柄のダライ・ラマにはぴったりのようにも感じる。だが、毎回読んでいると、こので「ですます」調がどうも面倒くさくて、回りくどい、と感じる時もある。時には、もっとズバリと、ZEN僧のような怖さも感じたい。

 ナーガルジュナに近づくとはどういう意味かと言うと、「中論」のような縁起の見解を説いたテキストを何度も読み、勉強し、その意味を心になじませていくことです。このテキストを頭上に掲げ、祈願をして、ナーガルジュナが意図された通りに理解することができますように、その修行を成就できますように、と常に祈りながら勉強を続けていけば、ナーガルジュナのお心により近づいていって、本当の意味におけるナーガルジュナの弟子となることができるでしょう。p56ダライ・ラマ「序章 仏教の教えを授かるための準備」

 チベット王国を全てにおいて統括する立場であるダライ・ラマではあるが、また、一人の仏弟子である、という姿勢を常に持ち続けている。その伝統は、数百年、あるいは千年以上の長きに渡って伝えられてきた軌上にありつつ、なお、新しい息吹を吹き込もうとしている。ヒマラヤの高地に秘されてきた地域から追われ、いままさにパンドラの箱が開いたように、全地球に向かって封印の解かれてしまったチベット「密教」であってみれば、変わらざるを得なかった、ということもできる。

 意識とは、独立して存在するものではなく、土台となるものに依存して存在しています。顕教の経典では、疎なレベルのからだ(物質的存在)が意識の土台であるとしています。

 しかし、密教の無上ヨガタントラでは、意識には、疎なレベル、微細なレベル、非常に微細なレベル、という三つのレベルの意識があるとしており、その土台となるからだにも、それに応じて疎なレベルのからだ、微細なレベルのからだ、非常に微細なレベルのからだ、という三つのレベルのからだが必要とされると述べられています。意識が依存するべきからだとしては、意識が疎なもの、微細なものなど、どのようなものであっても、それに適切な土台が必要となるのです。

 そのため、死を迎えて、意識が古い五蘊から抜け出した時、疎なレベルの意識と共に、疎なレベルのからだという土台はもうすて去って去っていますが、非常に微細なレベルのからだとそれを土台とする非常に微細なレベルの意識は、どんな時でも離れることなく共に移動していきます。

 そこで非常に微細なレベルのからだと意識に依存して名前をつけられた「私」もまた、なくなることなく共に移動して存在し続けていくのです。p116ダライ・ラマ「第二章 輪廻をもたらす十二支の考察--『中論』第26章」

 現代神智学なら、「エーテル体」「アストラル体」「メンタル体」「コーザル体」「太陽系」、などの言語体系を使うところだが、疎なレベルなからだ、とか、微細なレベルな意識、などの言葉使いになると、へんなトリップに巻き込まれずにすっきりと理解できるようにも思う。しかし、なんどもなどもこの「平易」な言葉が乱立すると、なんともフラットで奥行のない表現に堕してしまう、ということも感じる。

 Oshoのように第一身体とか、第七意識、など、数字を当てはめてしまうことも一考ではあるのだが、いずれ「名づけようもないもの」を名づけているわけだから、言葉に捉われてしまって、実態を知らないままになってはいけない。

 (訳者注:無我の見解には、人無我と法無我があり、そのそれぞれに疎なレベルと微細なレベルにおける定義がある。仏教の四つの哲学学派のうち、小乗の学派である説一切有部と経量部では人無我のみを主張し、法無我を受け入れていないが、大乗の学派である唯識派と中間派では、人無我のみでなく法無我も主張している。さらに中観派には、中観自立論証派と中観帰謬論証派があり、唯識と中観派の二派では、法無我の疎なレベルと微細なレベルにおける定義がそれぞれ異なる。この中で、中観帰謬論証派が主張する無我の見解が最も深遠で微細なレベルの見解であるため、中観帰謬論証派の無我の見解に比べると、人無我のみを主張する学派や、唯識派、中観自立論証派が主張する無我の見解は、「疎なレベルの無我」となる。)p162訳者「第三章 自我と現象の考察--「中論」第18章」

 せっかくダライ・ラマが「ですます調」でやさしく語りかけているのに、もともとが七面倒な哲学論であることが、この訳注でバレてしまう。法衣の下から鎧が見える、という奴である。訳者とされるマリア・リンチェンとは日本名で鴨居真理。高知県で生れて日本の大学を卒業している一級建築士ということだが、名前の感じからすると女性であるだろう。なんだか、なに派、かに派、という文字の列挙を見ていると、かつての70年安保の時代に時代を風靡した女性闘士の生き残りのようにさえ見えてくる。

 そもそも、このように枝葉に分かれてしまっている、ということは大木でもある、ということではあるが、かなりの老木である、ということになる。老木には老木の価値があるが、時には鎌倉・鶴岡八幡宮の銀杏のように、雷に打たれたり、積雪の重みに倒れてしまう、ということも自然の摂理である。その根元から成長する新しい「ひこばえ」に、新しい息吹を期待する必要もある。

 ナーガルジュナであれ、ツォンカパであれ、ウィットゲンシュタインであれ、当ブログのようなそそかしい読書ではその全貌を理解することはできない。しかし、一転、その言わんとするところの「空」を直感する、という意味でなら、速読につぐ速読でインスピレーション読みもまんざら捨てたものでもないが、本書は、いずれ機会をとらえて再読玩味されるべき一冊である。

 教えに対する理解をますます深めていくために、方便と智慧を結び合わせた修行の道を歩むことが必要です。
 私たちはいつも真言(マントラ)を唱えていて、チベット人をはじめ、多くの仏教徒の人たちが「オーム・マニ・ペーメ・フーム」という真言を唱えていると思います。
p85ダライ・ラマ「序章 仏教の教えを授かるための準備」

     オーム・ニ・ペーメ・フーム

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2010/07/29

禅と日本文化 柳田聖山

「禅と日本文化 」(講談社学術文庫 (707))
「禅と日本文化」 (講談社学術文庫 (707))
柳田 聖山 (著) 1985/10 講談社 新書: 285p
Vol.3 No.0076☆☆☆☆★

 世界の名著シリーズ18 「禅語録」柳田聖山・責任編集がなかなかの好著だったので、この方の名前で検索してみた。そしたら、なんと「禅と日本文化」があるではないか。鈴木大拙の同名の書BIHL4-5にリストアップされている。もともとは英文で書かれたものであり、この書の柳田訳があるのだとすれば、さぞや現代文として名著であろうと思った。

 しかし、実際には、当然のことながら大拙の著書を知りつつ、あえて同名のタイトルで出された一冊なのであった。このビッグタイトルの意味を著者が知らないわけがない。あえて同名にした理由があったのであった。

 もともとはNHKが1982年に企画した国際放送向けの日本文化の紹介の番組を、著者が担当したことによる。企画はNHKで、強く辞退したものの押し切られたという経緯があるものの、後半は、あえて著者は開き直って、このビッグタイトルに挑戦した、ということだろう。ガッツのある人でなければ、50年前の大拙の本と同名とすることはできなかった。

 馬祖につぐ百丈懐海という弟子が、そんな普請の生活規則を成文化する。清浄な、当たり前の共同生活の規則というので、清規(しんぎ)とよばれる。
 「一日作(な)さざれば、一日食らわず」。一日でも、働かねば食わんというのが、当時の禅の精神であった。
 これは、技術と道徳と、そして芸術の感覚が、渾然と一つにとけあった、当たり前の人間の言葉なのである。
p57「禅と日本文化」

 ここでも百丈懐海という名前がでてきた。おなじHui Haiとアルファベット表記される大珠慧海とは別人、とのことだが、この二人、並べて比較してみたら、面白いかもしれない。

 近代ヨーロッパで起こる無神論は、「神は死せり」という、有名なニイチェの言葉に要約されるが、それも、じつはキリスト経の伝統あってのことである。「神は死せり」というのは、われわれ人間のたよるべき神が、今はすでにいない、みずからが神となるほかはないという、悲歎もしくは居直りのことばであった。キリスト教は、そんな近代の無神論と対決しつつ、今も根強く西欧の文化の中に生きている。

 ところが、禅の無神論は、当初より神も仏も立てぬことより始まる。禅は仏教の一派だが、仏教の仏は自ら目覚めた人のことであるから、近代ヨーロッパの無神論のように、あらためて仏を否定する必要がなかったのである。p117

 禅は仏教の一派だ、という文脈は、Oshoなら真っ向から否定するだろう。禅は、仏教の一派どころか、仏教とは何の関係もない、と。柳田聖山は、後に勲章をもらうほどのオーソドックスな学者であっただけに、言っている知識に間違いはないし、冒険的でありつつも、決して常軌を逸しているわけではない。ある意味、sosoのところにいる。無難で、中庸ではあるが、禅の桁はずれな自由無碍な境地を表現しきれているとは言えない。

 本書には「禅と日本文化」の他、「純然の道を求めて---白隠・隠元・道元」、「無字のあとさき---そのテキストをさかのぼる」などが収容されているが、ちょっと知が勝ちすぎ、当ブログのようなそそかしい読み方では、その歴史や解釈がちょっとまどろっこしい。

 日本人の精神生活は、意識するとしないとにかかわらず、当初より無神論的な基盤の上に、さまざまの宗教や、思想や、技術を受け入れる仕事の、果てしない努力の持続であったといえる。この点を見落とすと、日本文化の現在を、正しく把(つか)むことは難しいのである。p122

 エスノセントリズムとして、日本、日本と、こだわる時代はもうとっくに終わっている。この本は、すでに30年近く前の本であってみれば、ここは、今日的21世紀風に書きなおされなければならないだろう。「そもそも、グローバルな地球人のスピリチュアリティは、もともと無神論的な基盤の上に、さまざまな無限な可能性を受け入れているのだ」と。この点を見落とすと、地球人スピリットの現在を、ただしく把かむことはできない。

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2010/07/28

空っぽの鏡・馬祖<2>

<1>よりつづく

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「空っぽの鏡・馬祖」 <2> 
OSHO
スワミ・アナンド・ソパン (翻訳), 1992/12 壮神社 単行本、 367p

 「頓悟要門」の大珠慧海の師匠は馬祖同一。BIHLから、するりと、最後のZENシリーズとリンクスする。このまま、あっちの流れに行ってしまおうか。そう言えば、どっかにこの大珠慧海と百丈(Hyakujo)が同一人物である、とかの表記があった。そうなのかな。もう、ここまでくると、どっからどこまでが誰、なんて区別はなくなってくる。

 ある日、百丈が師の馬祖のもとを訪ねているとき、頭上を野がもの群れが飛び去った。馬祖は尋ねた、「あれは何だ?」
 「野がもです」と百丈。
 「どこへ行ったのか?」と師は尋ねた。
 「どこかへ飛び去っていきました」と百丈は応えた。
馬祖は突然、百丈の鼻先をつかまえ、それをねじり上げた。そのあまりの痛さに百丈は叫び声を上げた。馬祖は言った、おまえは飛び去っていったと言うが、あれは時の始まりからここにいるぞ」 
 p107「見守る鏡」

 ウロウロしていると、するりと悟ってしまうのではないか、と勘繰ってしまうほど、この本は危険に富んでいる。危ない。どっからいきなり棒が飛んでくるかわからない。どこにビックリ箱が隠されているか、わかったものではない。要注意。

 ある時、友人カップルが遊びに来ていた。なかなかユニークな二人だったが、特に彼女のほうが、かなり危険な人物だった。とにかく意表を突かれる。危険な数日が過ぎ、ようやく帰ることになった。やれやれ、これで我家にも平安がやってくる。

 玄関まで送りながら、「じゃぁ、元気でね」と別れの挨拶をした。すると、彼女は、玄関で靴を履きながら、「私には、そういう約束はできないな」・・・・・・と来た。

 私は、モンドリかえってしまった。確かになぁ~、いつもいつも元気でなんていられない。そんなこと誰にも約束できない。大体において、他人に対して、「元気でいろ!」なんて失礼じゃないか。元気だったり、そうでなかったり、ひとりひとりの自由ではないか。いちいちそんなこと他人に触れられたくないなぁ。う~ん、なるほど、そういうこともありうる。

 こちらも、あまりにも紋切り型の別れの挨拶をしてしまった。無意識になりすぎている。ズバリ、アウエアネスが必要じゃった。われながら、パターン化してるなぁ。あの時、彼女にもっと悟りがあり、ずばりマスター稼業として、「私には、そういう約束はできないな!」と、ZENステッィクを振りおろしてきたら、私はあそこでエンライトメントしたのではなかっただろうか。惜しいことをしたものだ。

 この「空っぽの鏡・馬祖」、装丁がなにやら凄い。ちょっと他のOsho本にないユーモアがある。いつかどこかで、誰か有名な西洋人アーティストの絵である、というような紹介があったような記憶もあるが、定かではない。ただ、この黄色い丸い顔がすごく素敵だ。

 一転して、同時に読み進めている「イーシャ・ウパニシャッド」がどうも私にはちぐはぐに思える。最近、K氏が送ってくれた「Osho本の年代順リスト」によれば、日本語で「存在の鼓動」とされているのは、英語で「Heartbeat of the Absolute」。だが、実際は、1971年4月にヒンディ語で語られた「ISHAVASYOPANISHAD」がもとになっている。もちろん、もとはアルファベット表記ではないだろう。

 この本、もうひとつちぐはぐだと思うのは、表紙のOshoの扮装が、1987年当時のKH的スタイルであること。七福神に扮した王仁三郎と比較する必要もないが、まぁ、この手の扮装にOshoもなかなか協力的ではあった。それはそれでともかくとして、イーシャ・ウパニシャッドとKHは全然繋がってないじゃないか、と思う。どうもちぐはぐだ。

  私は経典のことなど気にしないが、まわりじゅういたるところにブッダがいるのが見える。それはどんな経典からの引用でもなく、私は自分自身の目で見ている。あなた方は気づいていないかもしれないが、それは問題ではない。 明晰さを備えた人は、あなたの真の姿(リアリティ)を見ることができる。

 

 そして師の働きとは、あなたの真の姿を何度も何度も指し示すことだ。それはある種のいやがらせであり、壁に釘を打ちつけるときのように、あなたの頭を叩きつづけるうちに、とうとうあなたは叫び声を上げて、こう言う、「わかりました、私はブッダです!」Osho p306

<3>につづく

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2010/07/27

頓悟要門<2>

<1>よりつづく

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「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A <2>
西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 : 筑摩書房 単行本 519p

「頓悟要門」<2>

 頓悟要門は、六祖慧能にはじまる南宗禅の旗印である。そうした南宗における頓語思想を、根拠づけたのは本書である。
 かつて、慧能の弟子神会(670~762)が北宗を漸修だときめつけてから、禅の大勢は南宗の独走となった。これを新しい角度から発展させるのが馬祖道一(709~88)で、「頓悟要門」の著者大珠慧海は、馬祖門下第一の学者であった。
p181「頓悟要門」

 ブッダ→マハカーシャッパ→・・・→ボーディダルマ→慧可→三祖僧璨→四祖道信→五祖弘忍→六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→大珠慧海とくる法統は、仏教、あるいは中国禅といわず、地球人スピリチュアリティの世界遺産とも言うべきお宝である。

 大珠慧海の師・馬祖については、Oshoの最後のZENシリーズの中の「空っぽの鏡・馬祖」がある。Osho講話は「頓悟要門」から受けるモノトーンの清浄さとはうって違った、カラフルなにぎわいがある。いずれかの機会にこの二つのテキストの流れを並べて、読み進めたいと思っている。しかし、それって、ちょっと違うかも。

 師は初め江西に行って馬祖に参じた。すると馬祖が問うた、「どこから来たのか。」
 「越州の大雲寺から来ました。」
 「ここへ来たのはいったい何を求めようとしてか。」
 「仏法を求めに来ました。」
 そこで馬祖はいった、「自分にある宝の蔵はほったらかし、家をほっておいて走りまわってどうしようというのか、私の所には何一つとしてない。どういう仏法を求めようというのか。」
 そこで師は礼拝して問うた、「何がこの私の宝の蔵なのでしょうか。」
 馬祖は答えた、「いま私に問うている人間、それがお前の宝の蔵だ。そこには一切のものが具わっており、欠けたものは何一つなく、思いのままに使える。外に向かって求める必要がどこにあろう。」
 師はその一言で大悟し、自己の本心に目ざめたが、それは知的理解を通してではなかった。師はおどり上がるほど喜んで感謝し、六年のあいだ馬祖を師としてつかえた。
p223「頓悟要門 巻下」

 OshoのBIHLにおいて、大珠慧海の頓悟要門は「The Book of Hui Hi」と表記されている。

 

  

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2010/07/26

黄檗伝心法要<2> 黄檗の書

<1>よりつづく 

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「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A <2>
西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 : 筑摩書房 単行本 519p

「黄檗伝心法要」<2>「黄檗の書」

 「私が愛した本」(BIHL)再読の旅はなかなか前に進まない。第一回目はそのテキストを確認することを大優先し、中味はまずまずの読み込み、しかも、とにかく手当たりしだい、めっけたものからリストにリンクさせていった。まだ4分の1ほどは、テキストとしても発見することができないでいる。しかしまぁ、テキスト探しもそこそこ終了して、次へのステップを踏むことにした。

 ところが、この再読モードがなかなか前に進まない。進まないだけでなく、進めようというエネルギーと、押し戻そうとするエネルギーが乱気流を起こし、うっかりすると、もんどり打って大けがするような結果にさえなってしまう。ここは、もうひたすらアウエアネスが必要だ。つまり瞑想だな。あとは、どんなことが起きようと、起きたことをひたすら受入れる体制を生きていることしかない。

 英語では「黄檗の書」は、英語ふうに「黄檗の教え」と訳されている。タイトルまで違っている。黄檗のような人間は教えたりしない。その中に教えなどない。人は瞑想し、沈黙し、それを理解しなければならない。Osho「私が愛した本」p36

 In English The Book of Huang Po is traslated in the English way as The Teaching of Huang Po. Even the title is wrog. People like Huang Po don't teach. There is  no teaching in it. You Have to meditate, to be silent, to understand it. Osho Books I Have Lovedp31

日本語で読む分にはブックだろうが、ティーチングだろうが、それほど違いはなさそうに思うし、それに、僧璨などの詩句に比べれば、黄檗はむしろ弟子の質問に対して積極的に教えを垂れているようにさえ思う。しかし、それは「無心」についてならば、何事かを教えるというより、弟子が無心になる状況を生みだしていると言える。確かに「教え」よりは「書」とされるべきなのだろう。

 人間の本性というものは、たとい人が迷っているときでも失われることなく、また悟ったときでも、新たに獲得されたというものでもない。もって生まれたこの自性には、もともと迷いも悟りもない。上下四方にあまねき虚空界も、本をただせばわが一心の本体の投影なのだ。たとい君がさまざまに働き営為してみても、この虚空の外に出るものではない。

 虚空は本来大もなく小もなく、有漏もなく有為もなく、迷いもなく悟りもない。<明らかに見て取った。そこには一物もなく、人もなく、仏もないことを。> 毛一筋ほども計算されるものはそこにない。それこそが、寄りかかることもなく、へばりつくこともない一筋の清流であり、自性そのものに具わる無生法忍である。なんの議論の余地があろう。真実の仏は口がないから、法をを説くことはできぬ。真実の聞き方は耳をもたないから、さて誰が聞こうものやら。さらばこれまで。p305「黄檗伝心法要 宛陵録」

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2010/07/25

信心銘 NEITHER THIS NOR THAT<3>

<2>からつづく

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「信心銘」 NEITHER THIS NOR THAT <3>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳) 禅文化研究所 1994/06 単行本: 470p
☆☆☆☆☆

 この本、「オショウの講話タイトル:年代順」(シーポヨのしわざ)でみるところの74/10/21から10日間に渡って語られた「Hsin Hsin Ming: The Book of Nothing 」であるはずなのだが、サブタイトルが違っている。いくつかのヴァージョンの違ったテキストがあるのかもしれない。

 三祖僧璨(そうさん)は、菩提達摩→慧可→僧璨というほとんど伝説や神話の部類に位置する存在だ。6世紀から~7世紀の中国禅伝統のほんの初期の人で、7世紀半ばに成立した『続高僧伝』には名前がみえるものの、その人物像も言行録も詳しくはわからなかった。20世紀になって敦煌で発見された写本の数々の中で、ふたたび僧璨の詩句が脚光を浴び、欧米でも人気を得るようになったという。

大いなる道は難しくない。
選り好みをしなければよいだけだ。
愛も憎しみもなければ、
すべては明瞭で、隠されたものとてない。
だが、ほんの僅かな区別でもすれば、
天と地は無限に離れる。
だから、真理を見たいと願うなら、
いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。
好きとか嫌いの葛藤、
これが心の病だ。
p3「第一章 大いなる道」

 まるで、カリール・ジブランの「預言者」の一節であるかのように、軽く、的確で、美しい。しかし「信心銘」には、詩文としての美しさに加えて、見者としての僧璨のリアリティをともなった真実がある。あくまでも静かに読み手の感受性に働きかけてくるので、それは確かに左手で持たねばならないような、あやうさも伴うが、そここそがこの本の持ち味である。

僧璨の「信心銘」はもともと禅の本質でありながら、禅ぽくないところが魅力である。かなり核心をずばりと射ぬいている。だから当然のごとく、Oshoの「信心銘」もいわゆる禅臭さがない。いやむしろ、禅の文化的香りは、ずっと後世になってから付加されたものであって、その源泉においては限りなく無色透明であったのだと思われる。

 Oshoはボンベイのアパートメントからプーナのアシュラムに引っ越した1974年の3月から、すこしづつその講話の局面を変え、話しをするべき聴衆の傾向を変えていった。この「信心銘」をテキストとして講話したのは1974年の秋のこと。実際、実に簡潔な僧璨の言葉になにを加えることも必要がないのであろうが、この言葉を借りながら、Oshoは新局面の波動を調整している。

 私はこの本について、話したことがある。そして、あれ以上に話すことを愛したことhない。私の講話の最高の瞬間は、僧璨について話しているときだった。話すことと、沈黙があった・・・・・。話していながら、しかも話していない。なぜなら、僧璨は話さないことでしか説明されえないからだ。彼は言葉の人ではなかった。沈黙の人だった。彼はまさに最小限を語った。許してくれ、僧璨。私はあなたを忘れた。あなたのおかげで、扉を叩いて私の午睡を妨げるような二、三の本を思い出した。だからそれについても触れたほうがいいだろう。
 一番目は僧璨の「信心銘」だ。
Osho「私が愛した本」p28

 こう話すのは、1981年のOshoだ。7年前の「信心銘」を語った時と、さらにここからさらに7年後に「最後のZENシリーズ」を語る時のOshoでは、かなりの局面の違いがある。話している内容が違っているということではなく、一つのことを話すにおいても、これだけ幅広く話すことができる、という意味合いにおいてだ。もっというなら、ひとつのことを話していたわけではなく、自由闊達に「ありのままに」Nothingnessを語っていただけ、ということになるのだろうが。

 このOsho「信心銘」を再読しながら、Oshoの講話年代がやたらと気になった。断章取義とやら、あちこちの文脈を抜き出して、読み手の好き勝手にくっつけてしまうことの功罪があるとするならば、当ブログの行いも、功少なくして罪はかりなし、とならないとは言えない。さまざまなテキストをまぜこぜに読み進めることも意図なき行為ではないのだが、反面、時代の中でキチンと整理しておくことも必要であろう。

 そんな思いから暫定的ではあるが「OSHO講話タイトル:年代順」をアップしておくことにした。これはシーポヨのしわざのリストを全面的に借用したものだが、これでOsho講話の全体像と、ひとつひとつのテキストの位置関係がわかるようになる。これまでも「Osho最後の講話録・ZENシリーズ(未確認版)」や、「玉川信明選『和尚著作参考文献』」などで、暫定的にOsho講話リストを暫定的に作成してきた。しかし、全体性や整合性という意味で難なしとしない。

 もちろんこの「シーポヨのしわざ」バージョンにも何点か手を加えなければならない点がある。
1)1972年以前の講話についての情報がない。
2)ヒンディー語で語られた講話が入っていない。
3)50冊ほどあるダルシャン日記が入っていない。
4)リーフレットシリーズや編集本が入っていない。
 その他、同じ本でも再編集されたり、再刊にあたって合本されたり別冊化されたりしているものもあるし、それぞれの翻訳で違ったニュアンスになっているものもある。

 このフォーマットを今後、どのように当ブログなりに活用していくのかはまだ未知数だが、すでに現在でもすでに大きなリストなので、ブログ機能の制限もあるだろうし、ゆっくり考えてみたいと思う。

 人間は、言葉の、言語の故に、迷っている。実在の中で迷っているのではない。人は言葉の夢の中で迷っている。なぜなら実在は常に人の目の前にあるが、人は常に実在の前にいないからだ。どこか他の所にいる。いつも別の所だ。なぜなら人は思考(マインド)であり、思考とは横道にそれることだからだ。Osho p420「第十章 昨日もなく、明日もなく、今日もない」

 相変わらずOshoの指摘も手厳しいが、その慈愛にも甘えつつ、当ブログなりの無明もまた続く。

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OSHO講話タイトル:年代順(工事中)

OSHO講話タイトル:年代順 (工事中)

 以下は、シーポヨ・リストをベースにK’sリスト(私家版)を加え、当ブログの読書歴をリンクさせたものであり、個人的なメモである。修正すべき点も多いが、Osho講話全体を俯瞰する意味では益するところあると思われる。Hはヒンディー語によるもの、Dはダルシャン・ダイヤリーの略。

初期講話

64/06/03  64/06/08 The Perfect Way H

64/09/09  64/09/09 jeevan ki khoj H

66/01/01  64/01/01 Philosophy of Non-Violence

67/06/04  67/06/07 apane mahin tatoal H

67/06/28  67/06/30 antar ki khoj H

67/12/23  67/12/23 A Gathering of Friends

67/00/00  00/00/00 Revolution in Education

68/02/03  68/02/05 The Inner Journey H

68/08/01  68/10/30 From Sex to Superconciousness H 「セックスから超意識へ」 「タントラ セックス・愛、そして瞑想への道」

70/02/28 73/00/00 Dimensions Beyond The Known」 「神秘の次元」

70/04/13  72/04/17 Beware of Socialism

70/05/02  72/07/31 In Search of the Miraculous H 「奇跡の探求Ⅰ Ⅱ」 

70/07/24  72/03/12 The Psychology of the Esoteric  「秘教の心理学」              

71/04/01  71/06/30 I Am the Gate  「未知への扉」

71/04/04  71/04/10 Heartbeat of the Absolute H 「イーシャ・ウパニシャッド 存在の鼓動」

72/01/08 72/10/21 That Art Thou H              

72/02/15 72/06/06 The Ultimate Alchemy, Vol 1 「究極の錬金術」1 

72/07/01 72/08/09 The Ultimate Alchemy, Vol 2 「究極の錬金術」2

72/10/01 73/03/01 Vigyan Bhairav Tantra, Vol 1 「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」 「内なる宇宙の発見」 「源泉への道」 「第三の道」 「沈黙の音」 「愛の円環」 

73/02/09 73/04/14 The New Alchemy: To Turn You On 

73/03/25 73/11/08 Vigyan Bhairav Tantra, Vol 2「覚醒の深みへ」 「光と闇の瞑想」 「存在とひとつに」 「生の神秘」 「空の哲学」 

73/07/08 73/07/16 The Supreme Doctrine 

73/12/25 76/05/10 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 1  「魂の科学」

74/01/11 74/01/19 Vedanta: Seven Steps to Samadhi

 

Pune I

74/05/10 74/05/24 My Way: The Way of the White Clouds 「マイウェイ 流れ行く白雲の道」 

74/06/10 74/06/20 A Bird on the Wing 

74/07/10 74/07/20 The Empty Boat 「虚空の舟」 上 下

74/08/11 74/08/20 No Water, No Moon 「無水無月」

74/08/21 74/09/10 Seeds of Revolution: My Most Loved Gospel on Jesus 

74/10/11 74/10/20 When the Shoe Fits 

74/10/21 74/10/30 Hsin Hsin Ming: The Book of Nothing 「信心銘」 (Neither This Nor That ?)

74/10/31 74/11/10 And The Flowers Showered 

74/12/11 74/12/20 Returning to the Source 

74/12/21 74/12/31 The Hidden Harmony 

75/01/01 75/01/10 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 2 

75/02/11 75/02/20 Tantra: The Supreme Understanding 「存在の詩」

75/02/21 75/02/28 The Grass Grows By Itself 「草はひとりでに生える」 

75/03/01 75/03/10 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 3 

75/04/11 75/04/20 Until You Die 「あなたが死ぬまでは」 

75/04/21 75/04/30 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 4 

75/05/01 75/05/10 Just Like That 

75/06/11 75/06/20 Tao: The Three Treasures, Vol 1  「永遠の大河 Ⅰ」

75/06/21 75/06/30 Tao: The Three Treasures, Vol 2  「永遠の大河 Ⅱ」

75/07/01 75/07/10 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 5 

75/08/11 75/08/20 Tao: The Three Treasures, Vol 3 「TAO永遠の大河 Ⅲ」 

75/08/21 75/08/31 Tao: The Three Treasures, Vol 4 「TAO永遠の大河 Ⅳ」 

75/09/01 75/09/10 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 6 

75/10/11 75/10/20 The True Sage 

75/10/21 75/10/30 Come Follow Yourself, Vol 1 

75/10/31 75/11/10 Come Follow Yourself, Vol 2 

75/12/11 75/12/20 Come Follow Yourself, Vol 3 

75/12/21 75/12/31 Come Follow Yourself, Vol 4 

76/01/01 76/01/10 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 7 

76/02/11 76/02/20 Nirvana: The Last Nightmare 

76/02/21 76/02/29 Ancient Music in the Pines 

76/03/01 76/03/10 The Search  「究極の旅」禅の十牛図を語る

76/04/11 76/04/20 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 8 

76/04/21 76/04/30 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 9 

76/05/01 76/05/10 Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 

76/06/11 76/06/20 Dang Dang Doko Dang 

76/06/21 76/06/30 The Beloved, Vol 1 

76/07/01 76/07/10 The Beloved, Vol 2 

76/08/11 76/08/20 A Sudden Clash of Thunder 

76/08/21 76/08/30 The Discipline of Transcendence, Vol 1 

76/08/31 76/09/10 The Discipline of Transcendence, Vol 2 

76/10/11 76/10/20 The Art of Dying  「死のアート」

76/10/21 76/10/30 The Discipline of Transcendence, Vol 3 

76/10/31 76/11/10 The Discipline of Transcendence, Vol 4 

76/12/11 76/12/20 Ecstasy - The Forgotten Language 

76/12/21 76/12/31 The Path of Love 

77/01/01 77/01/10 The Divine Melody 

77/02/11 77/02/24 Tao: The Pathless Path, Vol 1 

77/02/25 77/03/10 Tao: The Pathless Path, Vol 2 

77/04/11 77/04/20 The First Principle 

77/04/21 77/04/30 The Tantra Vision, Vol 1 「タントラ・ヴィジョン」サラハの王の歌を語る    「サラハの歌 上」  

77/05/01 77/05/10 The Tantra Vision, Vol 2  「タントラの変容」サラハ王の歌

77/06/11 77/06/20 Zen: The Path of Paradox, Vol 1 

77/06/21 77/06/30 Zen: The Path of Paradox, Vol 2 

77/07/01 77/07/10 Zen: The Path of Paradox, Vol 3 

77/08/11 77/08/26 Sufis: The People of the Path, Vol 1 

77/08/27 77/09/10 Sufis: The People of the Path, Vol 2 

77/10/11 77/10/20 The Heart Sutra  「般若心経」

77/10/21 77/11/01 I Say Unto You, Vol 1 

77/11/02 77/11/10 I Say Unto You, Vol 2 

77/12/11 77/12/20 This Very Body the Buddha 「坐禅和賛」白隠禅師を語る

77/12/21 77/12/31 The Diamond Sutra 「ダイヤモンド・スートラ」 

78/01/01 78/01/10 Walk Without Feet, Fly Without Wings and Think Without Mind 

78/02/11 78/02/20 The Revolution 

78/02/21 78/03/01 The Wisdom of the Sands, Vol 1 

78/03/02 78/03/10 The Wisdom of the Sands, Vol 2 

78/04/11 78/04/24 Take It Easy, Vol 1 「一休道歌」

78/04/25 78/05/10 Take It Easy, Vol 2 「一休道歌」

78/06/11 78/06/20 The Sun Rises in the Evening 

78/06/21 78/06/30 The Perfect Master, Vol 1 

78/07/01 78/07/10 The Perfect Master, Vol 2 

78/08/11 78/08/26 The Secret of Secrets, Vol 1 

78/08/27 78/09/10 The Secret of Secrets, Vol 2 

78/10/11 78/10/31 The Secret 

78/11/01 78/11/10 Unio Mystica, Vol 1 「ユニオ・ミスティカ」

78/12/11 78/12/20 Unio Mystica, Vol 2 「ユニオ・ミスティカ」  

78/12/21 78/12/30 Philosophia Perennis, Vol 1 「永久の哲学Ⅰ」ピタゴラスの黄金詩

78/12/31 79/01/10 Philosophia Perennis, Vol 2 「永久の哲学Ⅱ」ピタゴラスの黄金詩

79/02/11 79/02/26 The Book of Wisdom, Vol 1 「アティーシャの知恵の書 上」

79/02/27 79/03/10 The Book of Wisdom, Vol 2 「アティーシャの知恵の書 下」

79/04/11 79/04/25 The Fish in the Sea is Not Thirsty 

79/04/26 79/05/10 The Guest 

79/06/21 80/04/30 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 1 「ダンマパダ 永遠の真理」

79/07/01 79/07/10 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 2「不滅の言葉 ダンマパダ2」 

79/08/11 79/08/21 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 3 

79/08/22 79/08/31 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 4 

79/09/01 79/09/10 Be Still and Know 

79/10/11 79/10/20 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 5 

79/10/21 79/10/30 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 6 

79/10/31 79/11/10 The White Lotus 

79/12/11 79/12/20 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 7 

79/12/21 80/01/02 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 8 

80/01/03 80/01/10 Ah, This! 

80/02/11 80/02/20 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 9 

80/02/21 80/03/04 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 10 

80/03/05 80/05/10 Walking in Zen, Sitting in Zen 

80/04/11 80/04/20 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 11 

80/04/21 80/04/30 The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol 12 

80/06/11 80/06/20 Tao: The Golden Gate, Vol 1 

80/06/21 80/06/30 Tao: The Golden Gate, Vol 2 

80/07/01 80/07/10 Zen: The Special Transmission 

80/08/11 80/08/25 Theologia Mystica 

80/08/26 80/09/10 Guida Spirituale 

80/10/11 80/10/26 I Am That 

80/10/27 80/11/10 Come, Come, Yet Again Come 

80/12/11 80/12/26 Philosophia Ultima 

80/12/27  81/01/10 Zen: Zest, Zip, Zap and Zing 

81/02/11 81/02/24 The Wild Geese and the Water 

81/03/01 81/03/10 The Goose is Out 
 

Rajneesh Puram

84/10/30 84/11/28 From Unconciousness to Consciousness 

84/11/29 84/12/29 From Ignorance to Innocence 

84/12/30 85/01/28 From Personality to Individuality 

85/01/29 85/02/27 From Misery to Enlightenment 

85/02/28 85/03/31 From Darkness to Light 

85/04/01 85/08/01 From the False to the Truth 

85/07/16 85/08/20 The Last Testament, Vol 1 

85/08/02 85/09/14 From Death to Deathlessness 

85/08/21 85/09/21 The Last Testament, Vol 2 

85/09/15 85/10/27 From Bondage to Freedom 

85/09/22 85/10/20 The Last Testament, Vol 3 

85/10/21  85/12/11 The Last Testament, Vol 4

World Tour

85/12/03 86/02/13 Light on the Path 

85/12/12 86/02/08 The Last Testament, Vol 5 

86/01/15 86/02/13 The Sword and the Lotus 

86/02/19 86/04/15 Socrates Poisoned Again After 25 Centuries 

86/04/12 86/05/04 Beyond Psychology 

86/05/04 86/05/26 The Path of the Mystic 「神秘家の道」 

86/05/26 86/06/18 The Transmission of the Lamp 

86/07/31 86/08/13 The Last Testament, Vol 6 

86/08/16 86/10/02 The Osho Upanishad 

86/10/03 86/11/04 Beyond Enlightenment 

86/11/05 86/12/29 Sermons in Stones 
 

Pune II

87/01/08 87/01/19 The Messiah, Vol 1 

87/01/20 87/02/10 The Messiah, Vol 2 

87/02/10 87/02/25 The Rebellious Spirit 

87/02/25 87/03/12 The Razor's Edge 

87/03/12 87/03/26 The Hidden Splendor 

87/03/26 87/04/07 Zarathustra: A God That Can Dance 

87/04/08 87/04/19 Zarathustra: The Laughing Prophet 

87/04/19 87/05/31 The Golden Future 

87/06/01 87/02/25 The Rebel 

87/06/18 87/07/04 The New Dawn 

87/07/05 87/07/14 Bodhidharma: The Greatest Zen Master 「ボーディダルマ」 

87/07/15 87/08/20 The Great Zen Master Ta Hui 

87/08/21 87/09/05 The Invitation 

87/09/06 87/10/03 The Great Pilgrimage: From Here to Here 

87/11/07 87/11/21 Satyam Shivam Sundram 

87/11/22 87/12/06 Sat Chit Anand 

87/12/07 88/01/17 Om Mani Padme Hum 

88/01/17 88/02/25 Hari Om Tat Sat 

88/02/26 88/03/18 Om Shantih Shantih Shantih 

88/03/19 88/04/21 YAA-HOO! The Mystic Rose 

88/04/22 88/05/26 Live Zen 

88/05/27 88/06/10 This, This, A Thousand Times This: The Very Essence of Zen 「これ これ 千回もこれ」

88/06/11 88/06/26 Zen: The Quantum Leap From Mind to No-Mind 

88/06/27 88/07/11 Zen: The Solitary Bird, Cuckoo of the Forest 

88/07/12 88/07/24 Zen: The Diamond Thunderbolt 

88/07/25 88/08/01 Dogen, the Zen Master: A Search and a Fulfillment 「道元」

88/08/02 88/08/11 The Miracle 

88/08/12 88/08/28 Turning In 

88/08/16 88/08/25 The Original Man 

88/08/29 88/09/07 The Language of Existence 

88/09/08 88/09/15 The Buddha: The Emptiness of the Heart 

88/09/16 88/09/25 Ma Tzu: The Empty Mirror 「空っぽの鏡 馬祖」 

88/09/26 88/10/04 Hyakujo: The Everest of Zen, with Basho's Haikus 

88/10/05 88/10/14 Nansen: The Point of Departure 

88/10/15 88/10/22 Joshu: The Lion's Roar 

88/10/23 88/10/31 Rinzai: Master of the Irrational 「臨済録」

88/11/01 88/12/02 Isan: No Footprints in the Blue Sky 

88/12/03 88/12/06 Kyozan: A True Man of Zen 

88/12/26 89/01/07 No Mind: The Flowers of Eternity 「ノーマインド永遠の花々」 

89/01/08 89/01/12 Zen: The Mystery and The Poetry of the Beyond 

89/01/13 89/01/16 One Seed Makes the Whole Earth Green 

89/01/17 89/01/21 Yakusan: Straight to the Point of Enlightenment 

89/01/22 89/01/29 Christianity: The Deadliest Poison and Zen: The Antidote... 

89/01/30 89/02/05 Communism and Zen Fire, Zen Wind 

89/02/06 89/02/12 God is Dead, Now Zen is the Only Living Truth 

89/02/13 89/02/19 I Celebrate Myself: God Is No Where, Life Is Now Here 

89/02/20 89/04/10 The Zen Manifesto: Freedom From Oneself 「禅宣言」

この当ブログの読み込みリストを作成するため、元のフォーマットはシーポヨのしわざのリストを借用しました。Thanks Setu! さらに補記する形でkomori氏より、とくに初期講話やダルシャンダイヤリーの含んだリストの提供を受けました。感謝。

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2010/07/24

三祖信心銘<2>

「三祖信心銘」<1>よりつづく 

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「禅家語録 2」
世界古典文学全集 36B 西谷 啓治 , 柳田 聖山 1984/01 筑摩書房単行本: 523p


「三祖信心銘」<2>

 BIHL3-1に登場する「信心銘」ではあるが、Oshoは、この本が最も初めに位置するべき本であると訂正する。Oshoには別途「信心銘」と銘打つ講話録一冊がある。

 一も成り立たないような、究まりつくした根源的な境地、いいかえれば至道には、ああしてはいけないよ、とかこうでなければならぬかという、窮屈な定則(きまり)はない。したがって、そこでは当然に心が平等の理に契(かな)う。つまり一切のものを平等一如として受けとることができる。だから作為的計らいなどはあろうはずもない。もちろん迷いや疑いもまったく解消してしまうから、われすなわち仏なりという正しい信念が確立する。

 事にふれ、物に対しても、不動の正信で対処することができる。そのような日常が正信三昧ならば、朝から晩まで存分に働きながら少しも停滞することもなく、妄想憶念に捉われることもなく、無為自然で過ごすことができる。心はいつも虚であり、虚であれば一点の曇りもなく明鏡のように対象を写すから、心を労するようなことは何もない。その虚明自然の世界は、とても識情や思量の及ぶところではない。p110「三祖信心銘」

 三祖僧璨の消息を伝えるこのテキストは、至って簡潔であり、まさに「一も成り立たないような、究まりつくした根源的な境地」を語っている。まさに当ブログの今後の「No Books No blog」への道筋を占うべき詩句である。まさに至道。しかし、言うは易く、行うは難し。そのような目標を立て、名コピーを打ち立ててキャンペーンを行ったからと言って、必ずしも実態がともなってくるとは限らない。

 この「禅家語録2」は、何度も借り出してきている本ではあるが、それこそつまみ食いしているだけで、一冊の本として読んだことがない。次回は、この本のどこ、ということではなく、この本一冊として読んでみようと思う。

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菩提達磨無心論<2>

<1>からつづく 

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「禅語録」 世界の名著 18
柳田聖山・責任編集 1978/08 中央公論新社 全集 588p


「菩提達磨無心論」無心に関する対話)<2>

 この本、柳田聖山という人が編集している。前回この本をめくったのは一年前のこと、BIHL2の中の「菩提達摩の弟子たちの記録」として、この「無心論」をテキストとして確認したにとどまった。今回あらためてこの本を手にとって、最初から読み始めてみると、この柳田という人の解説がなかなかに面白い。面白いはずだよね、この人、日本の中国禅宗史研究の第一人者と目される人物で、1991年には紫綬褒章、1996年には勲三等瑞宝章を受賞していると言う。

 禅は、ダイセツ・スズキ(1870~1966)によって、現代史にその市民権を獲た。p7柳田「禅の歴史と語録」

 この方の文章はいきなり、こう始まる。う~ん、やっぱりそうであったのか。BIHL4‐5に鈴木大拙の「禅と日本文化」(1938 )がある。この本、国内にいて、エスノセントリズムの偏狭な日本民族中心的な発想を展開した本ではない。外国にあって、英語で書かれ、しかもなお当時の最新の知識や思想、情報を駆使して編まれたグローバル戦略の一冊である。

 前回は久松真一訳で読んだが、実は柳田聖山訳の「禅と日本文化」という本もある。今回はこちらを読んでみようと思う。禅文化というもの、営々と繋がってきた伝統であろうという察しはついていたが、文献や経典でみた場合、必ずしも一気火勢につながってきたものではない。

 この「菩提達摩無神論」にしても、「達摩二入四行論」にしても、実は、割と最近「発見」されたものなのである。時代的には、マダム・ブラバッキーが「シークレット・ドクトリン」などでいわゆる現代神智学を養生し始める時代と重なりあっている。新しく「発見」された文献や経典に対して、大拙は、グッドタイミングで現代流の解説を加え、意味づけし、しかもそれを英文で発表し続けた。この仕事がなかったら、21世紀のZENはなかったと言える。

 敦煌に初期禅思想の文献が残されたのは、けっして偶然の結果ではなかった。敦煌の禅籍は、今やチベット仏教の形式を視野に入れての、新しい再検討を求めている。そのことは、やがて中国における禅の歴史の全領域におよぶ再検討を要求するはずである。p28 柳田

 いままで、グルジェフとクリシュナムルティをまったく別個な流れとしてとらえていたが、この間にウースペンスキーを挟んでみると、実は大きな流れとしては、現代神智学という新興のうねりに含まれていたことに気づいた。一方、禅とチベット密教だが、もちろん同じ仏教なのだからつながりがないわけはないのだが、あまりに峻別して比較しすぎるのもよくないのではないか、と思うようになった。むしろ、ひと連なりの意識のながれとして見ることが必要なのではないか。

 もちろん「One Earth One Humanity」ならぬ、「No Earth No Humanity」的視点に立てば、時間や空間を越え、地形や国境を越えて、同じ「無心」に違いがあるわけはないのである。当ブログのようなおっとり刀の読書子においても、数を重ねていくと、巨視的かつインテグラル的、かつ、nothingness的境地が見えてくる。

 21世紀はインターネットありきの世界である。その中からブログというコンテナを拾って、そこに詰め始めたのは、書籍であり図書館機能であった。言葉や本は、人類のコンテンツとしてはもっとも広汎かつ日常的に活用されているものだ。伏流水や埋蔵経典のようにでてくる古文献が大きく幅を利かせた前世紀と打って違って、21世紀においては、インターネット機能が、人類のもっとも最高峰に属するであろうコンシャスネスを解き明かすのではないか。そのような期待が嫌が応にも高まる。

 まえがき 真理はものいわぬ。人の言葉に託して真理をあらわにせねばならぬ。大道は固有の形をもたない。俗を導くには人の身体があらわになる。今は二人に託して、互いに無心の道理を語らしめよう。p84「菩提達摩無心論」

 この「無神論」は至って小さな経典である。全部で10頁ほど、しかも本文の現代文にすると、その半分。

 無心の中で勝手に思いこんで、さまざまの業をこしらえて、六道を輪廻するばかりだ。そんな人々も、友人の指導を受けて坐禅し、無心にめざめることにと、どんな業も根こそぎ消え、生死も忽ち切れてしまう。p85「菩提達摩無心論」

 「BODHIDHARMA The Greatest Zen Master」の中のOshoなら、この短いセンテンスの中にでも、ZENステッィクを打ちおろすかもしれない。もちろん、打ち落とされる先には、この言葉群があるのではなく、その言葉そのものに呆けている私がいる。

 断章取義の功罪は大きい。もともと、ある全体のまとまりのなかでのみ意味を持っている言葉が、その部分だけ抽出されて、別の意味をあたえられるのである。とくに、材料は口語や俗語が多い。どうにでも解釈されることとなる。読みすぎや、読み込みに走りやすい。拡大解釈や事大主義、一日一善的名言の羅列になりやすい。

 単なる文字の遊戯や無意味な饒舌、没思想の美学に終るうちはまだしも、一つのイデオロギーや平板な抽象観念の当てはめに堕してしまう。今日、禅の毒素とされるもののほとんどすべてが、宋代の傾向にすでに胚胎している。柳田聖山p51「禅の歴史と語録」

 う~ん、くわばらくわばら。24時間、アウエアネスが必要じゃ。

 

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2010/07/23

達磨二入四行論<2>

<1>からつづく 

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「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A
西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 : 筑摩書房 単行本 519p

「達磨二入四行論」
<2>

 前回この本をメモしてからすでに一年以上の時間が経過しているのか。あっと言う間に月日は過ぎ去る。グルっと回ってくるだけも、それなりの直径があるようだ。しかし、Oshoの「BODHIDHARMA The Greatest Zen Master」を再読したあととなってみれば、最初は菩提達磨のビックネームに圧倒されながら文字を追った段階とは打って違って、「達磨二入四行論」も、ぐっと身近なものになる。

 しかし、あまりに身近に感じすぎるというのも良くない。仏教、大乗、菩薩、頓悟、という流れは、ある意味、今回、日本人として生を受けた身となれば、あまりに近すぎて、ごくごく当たり前のものとして受け取り、深く思索しないまま、神棚(この場合は仏壇か)にあげて、拝むばっかりになってしまう可能性がある。

 まるで「お経 禅宗」みたいなもので、あまりにありふれた「お題目」になってしまうので、こういうものだ、もともとこうなんだ、と思ってしまうと、トンデモない勘違いになってしまうことがある。特に、これだけグローバル・スピリチュアリチュアリティが隣接している時代には、一つの「立場」はともすれば、偏狭なセクト主義に陥ってしまうことすらありうる。

 賢禅師が言う、「眼が見ているものこそ、究極の場所だ。一切の存在は、すべてみな究極の場所だ。いったい、なにを探そうとするのだ。」p64

 この「禅家語録」は、それぞれの経文が3つでできている。一つは漢文であり、二つ目は読み下し文であり、三つ目は意訳された現代文である。さらには各章ことごとく脚注がついているので、四つの階層でできている、と言ってもいいだろう。あるいはここから更に英文や他の言語に翻訳されてもいるのだろうし、また、この1000年間に幾度も写経されたことだろうから、そもそもテキスト自体がたくさん存在している。

 ケン・ウィルバーのように、精力的な読書家が、自分の気にいった部分をアフォリズムとして切り取り、あちこちの流れをパッチワークしたところで、本当にそれはスピリチュアリティをインテグラルしたことになるのか。それは単に、自らの好みをつまみ食いしてトッピングしただけの飾りに終わってしまうのではないか。

 当ブログへのアクセスワードの中に「二入四行論」がある。なにか大した意味がありそうでもあるし、ここにこそシークレット・ドクトリンが隠れていそうでもある。しかし、それはまやかしだ。言葉のマジックである。そもそも、この二入四行という言葉も暫定的なものに過ぎない。そしてそこで語られていることも、必ずしも確定的なものではないのだ。

 コンテナに対応するコンテンツとして、それらの詩文を楽しみ、テキストを集めて比較統合することは、ひとつの遊戯としては面白かろう。しかし、扱っているテーマやそのネーミングがいかにもスピリチュアリティを匂おわせていたとしても、そこからコンシャスネスへとジャンプすることはない。

 行間を読む、という言い方もあるが、まさに、テキストを見ながら、そこにコンテンツとしての面白さを感じるだけで終わるのか、それをジャンプ台としてコンシャスネスへと至るのかでは、大きな違いがある。

 瞑想において助けになるであろうものが正しい。無用な形而上学や哲学は、あなた方の瞑想にとってはなんの助けにもならないし、いかなる役にも立たない。OshoBODHIDHARMA The Greatest Zen Master」p693

 「二入四行論」をいかに読むのか。ひとつの文化として、身近なごく違和感のない伝統としてその詩文を楽しむだけなら、きっと「瞑想にとってはなんの助けにならない」だろう。もし、ここから「瞑想において助けになる」ようにこの「二入四行論」を読もうとするなら、ひと工夫、ふた工夫が必要だ。

 BIHL2における「菩提達摩の弟子たちの記録」において、1981年のOshoは概して寛容な態度で接している。しかし、それからアメリカへ渡り、世界ツアーからインドに戻った1987年のOshoは極めて徹底してこの「二入四行論」を叩く。その差は見事なほどだ。

 それはひとり菩提達摩に対してだけではあるまい。例えば、カリール・ジブランに対する1981年のOshoと、1987年のOshoでは、際立った対応の違いがあるはずだ。そういう視点から、すこしづつ英文ではあるが「Messiah」を読み始める必要があろうだろう。なかなかBIHLをめぐる読書の旅も一筋縄では行かない。

 

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BODHIDHARMA The Greatest Zen Master<6>

<5>よりつづく

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「ボーディダルマ」 <6>BODHIDHARMA The Greatest Zen Master
OSHO(著), スワミ・アナンド ソパン (翻訳) 1994/07 めるくまーる 単行本 700p

 菩提達磨とは言え、仏教、大乗、菩薩、頓悟、と言った縛りから自由にならない。本人がどうであったかはともかくとして、「弟子たちの記録」として残された菩提達磨の消息は、Oshoから見た場合、必ずしも完璧ではない。

 この講話録で語られているのは、「二入四行論」、「血脈論」、「悟性論」、「破相論」、あるいはブッダの「温室経(バスルーム・スートラ)」などである。菩提達磨というビッグネームの元で語られたなら、ふつつかな通りがかりの一読者でしかない当ブログなどは、ただひれ伏して拝むだけになってしまいそうだ。

 BIHL3へ進もうと思ったが、「信心銘」、「黄檗の書」、「慧海の書」へ移行するその肩を押しとどめ、後ろ髪を引く者がいる。誰かと思ったら、BIHL2の「ボーディダルマ」が憮然とした顔で立ちつくしている。「菩提達磨の弟子たちの記録」。「達磨二入四行論」や「達磨無心論」などをめくっても、まずはテキストありきで、ついついテキストそのものに振り回されそうだ。

 その時、1987年のOshoは菩提達磨を打つ。いや正確には「菩提達磨の弟子たち」を打っているのだろうが、もっと言うなら、それは、サニヤシン達を打っているのだ。もちろん、そのサニヤシン達、という概念に、私も含まれている。時間的にも、空間的にも、それはそうでしかない。

 つまり、つづめて言えば、私がこの「BODHIDHARMA The Greatest Zen Master」を読むといういうことは、Oshoの元に行って、頭を垂れて、打たれるのを待っている、ということになる。あの鋭い眼光でにらんでいるのはOshoであり、あらゆる愚かさを持ち込んでいるのは、この私だ。

 Oshoはまるで、あらたなるフォーマットで菩提達磨をとらえ直し、新たなるプラットフォームの上に据え直す。グローバル・スピリチュアリティの統一場理論を打ち立てるような勢いではあるが、それは「One Earth One Humanity」から、さらに一気に「No Earth No Humanity」へと突き進む。

 私はあなた方に、それが神秘にとどまること、これからもつねに神秘にとどまるであろうことを理解してほしい。まさにその本性からして、”始め”を知る方法はない。

 だが、別の文脈において、仏陀はそのきわめて近くに至る。彼は言う。「無明には始まりがないが、終わりがある。そして意識には始まりがあるが、終りがない」彼はそのような言い方でこの円環を完結させる。もっと深く感じ取れるよう、もう一度くり返そう---無明には始まりがないが、終わりがある。そして、無明に終わりがあるために<気づき>にはあるが、それには終わりがない。<気づき>はいつまでも永遠に続いてゆく。Osho P508「『知らない』と言う勇気」

 アル=ムスタファが12年間も待ち続けた彼の船がやってきた。その船に乗って彼が行ってしまえば、そこには何も残らないだろう。行く前に、彼は町の人々に応える。その答えが、美しければ美しいほど、その美しさにも限界があることに気づかざるを得ない。

 Oshoもまた、行ってしまう人であってみれば、そこに残された答えには、つまり言葉として残されたその消息には、いくつかのほころびがある。しかし、そこに残された真実の片鱗を手掛かりに、その答えを聴く者は、自らの中に、ひとつの円環の完結を試みる。

 瞑想において助けになるであろうものが正しい。無用な形而上学や哲学は、あなた方の瞑想にとってはなんの助けにもならないし、いかなる役にも立たない。

 ある意味で、私はこれで良かったのだと思う。というのも、偶然にもこれらの語録は議論されうことになったが、それによってあなた方は両面を見ることができたからだ。あなた方は<光明(エンライトメント)>の最高の頂においてすら、人は過ちを犯したり、邪道に陥ったり、愚かな発言をしたりすることがあるうるのだということを、覚えておくことができる。p693「瞬きの手間もかからない」

 当ブログは当ブログなりに、「No Earth No Humanity」から、さらに「No Books No Blog」へと牛歩の歩みを進める。

<7>につづく

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2010/07/22

菩提達磨の弟子たちの記録 <5>

<4>よりつづく

「菩提達磨の弟子たちの記録」

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「ボーディダルマ」 <5>
OSHO(著), スワミ・アナンド ソパン (翻訳) 1994/07 めるくまーる 単行本 700p

 当ブログへの検索ワードには当然のことながら、傾向性があり、また頻繁に登場するワードというものもある。その中に「二入四行論」と「達磨無神論」がある。行きがかり上、確かにこのキーワードをブログに書いてはあるが、当ブログとて、決してその真意を理解しているわけではない。

 さて今から始めるぞ、という程度のことなので、せっかく検索エンジンで当ブログにやってきてくれても、提供すべきものはなにもない。お恥ずかしい限りだ。これだけの重要ワードなのに、そこから当ブログへやってくるとは、検索エンジンのいたずらで、当ブログがリストの上位にランクされているからなのかもしれない。それだけ、他のページにおける展開も少ないということだろうか。今のところよくわからない。

 「菩提達磨の弟子たちの記録」は「BIHL2-5」であるから、当ブログとしては再読モードでも一度ならず通り過ぎてきた道筋なのではあるが、どうもいまいち納得感がない。それは、いずれ「BIHL」としてではなく、各論としての「ボーディダルマ」を読もうと思って後回しにしているからである。そして、これはこれで、始めてしまうと、なかなか重そうなテーマなのだ。

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 ということで、今日の真夏日、海にもいかず、庭に水撒きをしたり、スイカを食べたりしながら、「ボーディダルマ」を読んでいた。暇にまかせて、一気に読んでやるぞ、と意気込んだはいいけれど、やっぱり眠くなる。ウトウトしながら、それでも半分くらい読んだかな。

 「禅家語録1」にある「達磨二入四行論」もなかなか面白そうなのだが、Oshoにかかってはひとたまりもない。どの部分が達摩の直伝なのかも重要だが、達磨そのものも訂正される。マハヤーナという流派にいた達摩。Osho自身はボーディサットヴァでもアルハトでもないという。

 敦煌本「達摩二入四行論」は、達摩のことばを伝える最古の文献である。ここにには、達摩とその周辺に集まった初期禅宗の人々の、素朴で力強い肉声がこもっている。それらの理解は後世のように堅苦理論を前提する必要がない。しかも禅の歴史と思想のすべては、この本から出てくると言ってよい。「禅家語録1」p5

 当ブログではなんの躊躇もしないで書いてきたが、「達磨」と「達摩」、表記に違いがあるようだ。この本では後記を採用している。

 いったい、敦煌本「達摩二入四行論」に重要な資料価値を認めたのは、鈴木大拙の「小室逸書」(昭和10年)が最初である。「禅家語録1」p5

 この「二入四行論」という単語を知っているなら、かなり禅に鼻を突っ込んでいる方々であるだろうに、当ブログあたりにぶち当たっていたのでは、究極には辿りつかない。ましてや「二入四行論」そのものでも駄目だ。直接Oshoの「ボーディダルマ」を読み進めたほうが手っ取り早いのではないだろうか。

 いったいに、真理にいたる方法は多いが、つづめていえば、二つにつきる。第一は、原理的ないたり方であり、第二は実践的ないたりかたである。「禅家語録1」p6

 これがいわゆる「二入」だ。そして、実践的ないたりかたには4つの方法がある。

 まず、前世の恨みに報いる実践とは何かと言えば、修行者たちが、もし苦しみに出遭うとき、自分の心に次のように反省するのである。(中略)

 第二の因縁に任せる実践というのは、生きとし生けるものは自我がなく、すべて因縁の力に左右されていて、苦楽をひとしく感受するのも、いずれも縁によって起こったことだ考えるのである。(中略)

 第三にものを求めぬ実践というのは、世間の人々はつねに迷っていて、どんな場合にもものをむさぼるが、これはつまり希求である。(中略)

 第四に有るべきように生きる実践とは、万物が本質的に清浄であるという原理を、これをあるべき有り方(法)と名づけるのであり、この根本げんりからすると、あらゆる現象はすべて空しく、そこには汚れもなく執着もなく、此と彼の対立もない。(中略)「禅家語録1」p8~9

 これがいわゆる「四行」だ。これで「達摩」「二入」「四行」「論」だ。だが、はて、当ブログのような凡夫が、「菩提達摩」というビッグネームに恐れおののいて、ここに書かれている文言を有難く拝聴し、解釈しようとしても、とてもとても究極には辿りつかない。

 なぜか。だいたいにおいて、テキストが間違っているのだ。少なくとも、Oshoの「ボーディダルマ」を読む限り、通り一遍に「達摩」「二入」「四行」「論」に目を通しただけでは、絶対に開示されない境地というものがある。ここにこだわっていると、どんなことを書いても、むなしいブログになってしまう。

 いつかは当ブログも「No Books No blog」の境地に進まなくてはならない。テキストにこだわっていて、リアリティを見逃してしまう可能性もある。いや少なくとも、これらの禅にまつわる話は、ことごとくテキストから離れていく必要があるのだ。

 Osho「ボーディダルマ」1987年の7月に語られたものだ。Oshoがこれを語っていたあのプーナのエネルギーのるつぼの中に、私もまたいたのだった。最後のZenシリーズの前に語られたもので、ジョークもなければ、冗漫でもない。ただただ真摯に達摩と向き合う。

 この本、ソパンが翻訳し、モンジュがリバイスしている。信頼できるトランスレータ・チームが日本語にしていてくれるだけに、安心して読み進めることができる。この本がダイレクトにこちらのハートに飛び込んでくる大きな理由でもある。

 心頭滅却すれば火もまた涼し、とか。今日の猛暑日、エアコンをばっちり利かせた部屋に寝っ転がりながら、そしてまた居眠りなんかもたっぷりしながら、Zenステッィクならぬ、アイスステッィクをかじりつつ、「ボーディダルマ」を半分ほど読んだ。

<6>につづく

 

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2010/07/21

グーグルに異議あり!

グーグルに異議あり!
「グーグルに異議あり!」 
明石昇二郎 2010/04 集英社 新書 197p
Vol.3 No.0075☆☆☆☆★

 これまでもかなりの数のGoogle本に目を通してきた。礼賛本あり、ジャーナリステッィクなレポートあり、技術本あり、いずれにしても楽観論が大きなウェイトを占めているが、中には「Googleとの闘い」のような悲観論や、時には否定論もある。しかし、いずれにせよ、外部からのレポートとか一般論が多い。

 その中にあって、この本は、いわゆる「当事者」による一冊である。著者には10冊ほどの著書があり、それらがグーグルのブック検索の対象になっていることを知ってからの、グーグルとの「闘い」のレポートである。

 私は、短期大学で教鞭を執り、学生の研究レポートの指導もしている。その際、著作や論文の引用については、著作権の素材を学生に説明し、その引用にちては激しい基準(著者、タイトル、出版元、出版年は言うに及ばず、引用頁の明記まで)を設けている。学生には、その著作や論文の著者が執筆にあたってかける労苦を説き、それを引用するにあたっては、その行為に敬意を表すべきであろうことを繰り返し説いてきた。77p「刑事告訴」伊藤宏

 上記は練馬署に「告訴」するための協力者である伊藤宏の「陳述書」の中にある。当ブログとしてもなかなか耳が痛い。上記の項目の明記については、かろうじて当ブログはクリアしているとは思うが、なぜにこのような明記をするようになったかというと、それぞれの著者に敬意を示しているのは当然としても、もっと別な目的による。

1)公立図書館から本を借り出して、ランダムにメモしている以上、自分でどこに何を書いたか忘れてしまうことも多くなる。あとで読んでも、すぐに次の読書に継続できるように、頁を明記しておくのは必要である。

2)すでに当ブログは2100冊ほどの本を読んできた。最近は再読が多くなっているので、冊数はあまり増えないが、それでも、自分で自分がメモした記事がどこにあるのかわからなくなっている。最初は、自分なりの人名リスト署名リストを作ってみたが、機能したのは、最初の100冊程度。あとは、自分の記事を探すのにGoogleの検索を使っている始末である。

3)ブログ機能ありきの当ブログのスタート地点において、結局は「読書ブログ」になることが決定したあと、文字ばかりではブログの画面の見栄えがしなかった。なにか画像を借りてこようかとすると、ヤッパリ著作権が気になる。本の表紙なら、紹介にもなるし、アフェリエイトで共有化されてもいるので、多用することも無茶なことではなさそうだ、という結論に達した。

4)「計算困難問題に対するアルゴリズム理論」というタイトルの本は、当ブログとしてはとても手がでない本である。ところがブック検索をすると、この本の中にカリール・ジブランが引用されている、ということがわかる。

5)この新書本、テーマとしては大好きな分野なのだが、感想を書こうとすると、どうもうまくまとまらない。なぜだろう、と考えた。つまり、この本は当ブログなりの3C論でいえば、コンテンツとコンテナのせめぎあい、ということに終始しているので、コンシャスネスへの繋がりがないことが原因しているようだ。

6)そもそも社会派ライターの著者の「週刊プレイボーイ」のバックアップを受けたGoogleとの「闘い」のレポートであり、勝ったようでもあり、まだ勝ったとは確定していないようでもある。なかなか微妙な判定ではあるが、今後もまだこのドサクサは続く気配。ここから、どのようにコンシャスネスへとつないでいくのかどうか、が当ブログとしては本当に読みたいところである。

7)当ブログが読み込みつつある「BIHL」には、ジャイナ経典の「サマヤサーラ」がリストアップされている。インド語でも希少本であるだろうし、英語に翻訳もされていなさそうだ。日本人としてはギブアップか、と思いきや、実はネットに全文がアップされているという。

8)Googleがどうであろうと、ブック検索がどうであろうと、ネット社会が維持されるかぎり、表現物がグローバルに共有される流れを阻止することは困難だ。いずれはなんらかの形でインテグラルされていくことは当然の流れである。

9)であればこそ、著作権やら図書館の維持やらという問題も大きなテーマではあるが、当ブログでは、そこで最も重要な意味を持つ、コンシャスネスこそ、ターゲットとすべきものであると直感する。

 グーグルという具体的な企業そのものが危険な存在であると主張しているわけではない。ここで強調しておきたいのは、情報の寡占・独占と表裏一体であるデジタルアーカイブというシステム自体が、表現の自由、言論の自由の確保という問題と切り離されて構築されていくことへの危惧である。
 情報の独占や流通の寡占を防ぐためには、情報アクセスの多様性を確保することが最重要である。
p181植村八潮「解説」

 もっともなことだと思う。情報の独占や流通の寡占を防ぎ、表現の自由、言論の自由を確保しながら、そこで「意識の可能性」の追求が最大限に行われることを期待する。人間とは何か、意識とはなにか。人間の可能性を追求するとはどういうことであろうか。

 コンテナにけるマイクロソフト社、コンテンツにおけるGoogle社に次ぐ、コンシャスネス分野における未来の覇者は、今、どこにいるだろう。個人的には、リナックスやセカンドライフにその萌芽を期待してきたが、どうも、はっきりと見えているものはまだない。

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2010/07/20

ギータ・ゴーヴィンダ<3>

<2>よりつづく

ヒンドゥー教の聖典二篇
「ギータ・ゴーヴィンダ」 ヒンドゥー教の聖典二篇 <3>
ジャヤデーヴァ  小倉泰 /横地優子 2000/09 平凡社 文庫 280p
☆☆☆☆

 これだけインターネットが発達した時代である。ポルノグラフィーのネタには事欠かないどころか、ポルノグラフィーを避けて通ることなど容易にできることではない。少なくとも人類史において、これだけ性情報があふれている時代もないであろう。ありとあらゆる種類の情報が氾濫し、あらゆる種類の人々の嗜好を満たすべく、あらゆるジャンルの画像やら動画、サービススポットの情報が無尽蔵に提供されている。

 こんな時代にあって、12世紀のインドの詩人ジャヤデーヴァによるサンスクリット詩「ギータ・ゴーヴィンダ」のわいせつ性など何ほどのことでもない。むしろ、その素朴かつ純情な心理の吐露が歯がゆいくらいだ。

 「愛欲の恍惚の瞬間の味わいに、わたしはぐったりしていた。あのひとの蓮のようなまなざしは、いくらか閉じていた。力なく倒れた蔦のようなわたしのからだ。マドゥ・スーダナは、愛を語ってくれた。ああ、友よ。気高いケーシ・マタナの心を戻して、わたしとむつませておくれ。愛の欲望にとらわれたわたしよ」

愛人を待ち望む牛飼い女(ラーダー)の口を通して、シュリー・ジャヤデーヴぁに歌われるこの(歌)は、マドゥ・リブの目眩(めくるめ)く情事のありさま。この(歌)がいと易く喜びをひろめてくれますように。

「ああ、友よ。気高いケーシ・マタナの心を戻して、わたしをむつませておくれ。愛の欲望にとらわれたわたしと」p23

 この詩はヒンドゥー社会の聖典だ。古典でもある。それをどのように味わうかは、その場その場で大きく異なることだろう。ヒンドゥー社会の中にあってこそその神髄を味わうことができるだけでなく、言葉も文化もことなれば、外からその存在を知ることさえ容易なことではない。

 「翻訳は女性と同じ、美しくなければ忠実でなく、忠実ならば美しくない。」 この翻訳では忠実さを重視する方針をとった。そのため、日本語であまりに異常にならない限り、原文の語順や語の種類、格関係はそのまま保持しようと努めている。p121「解説」

 「美しくなければ忠実でなく、忠実ならば美しくない」というのが女性の本質を的確に定義し得ているかどうかはまだ検証していないが、情愛をテーマとする「ギータ・ゴーヴィンダ」の翻訳者の解説ならば、なるほど、と思わずにはいられない。

 この手の作品を学術的に「正しく」読むと、なかなか「恍惚」とまではいかないことが多い。またあまりに美しすぎると、たしかにもともとの意味を逸脱してしまうこともあるのだろう。この邦訳は学者らしく「忠実」の方に振られているので、本来バウルの歌として聞かれるべき情愛の部分は、たしかに官能性が薄まっているかもしれない。

 村上春樹や他の小説家などの作品を読んでみると、要所要所に挟まれる性描写など、特段に必要ではないのだが、なにかの全体性を維持するためには、ぜひとも欠かせない要素となっているのだろう。

 「ギータ・ゴーヴィンド」もまた、究極の意識のステージを表現しているとは言えないが、意識の全体像を表現するには欠かせない要素を代表している。とくにヒンドゥー文学においては、この歌、この詩文が負っているものは大きい。

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2010/07/19

預言者 佐久間彪・訳

Sakuma
「預言者」 大型特装版
[単行本] ジブラン カリール (著), 佐久間 彪 (翻訳) 1984/6 至光社 単行本: 96p
Vol.3 No.0074☆☆☆☆☆ 

 すでに何種類もこの本の邦訳には出会ってきたから、もうほとんど完読したと勘違いしていた。佐久間彪・訳の「預言者」ポケット版もだいぶ前に読んだし、佐久間訳は他にないと思っていた。ところがどっこい、こちらの大型特装版のほうが先にででており、版も大型だ。

 先日、船井幸雄監修版の中に、たくさんのカリール・ジブラン自筆の絵がたくさん挟まっていたので、大変感激したが、とんでもない、こちらのほうが本家本元で、版も大きいだけに挿画も見事である。この本、いつも行く図書館の書庫に眠っていた。

そこでひとりの男が言った。お話しください。「自らを知る」ことについて。
アルムスタファは答えて言った。
あなたの心はひそかに知っているのです。日々夜々の秘密を。
しかしあなたの耳は聞きたがっています。あなたの心の「知」の声を。
自分の魂がすでに知っているものを、あなたは言葉で知りたいと思う。
自分の夢の裸の体に、指で触れたいと思う。

それはそれでよいのです。
魂の隠れた泉は溢れ出るもの。そしてささやきながら海に流れ入るもの。
あなたの無限の深みにある宝は、あなたの眼に触れたがっているのです。
しかし、その知られざる宝を、秤で量ってはなりません。
そして、あなたの「知」の深みを、測り竿や測り綱で探ってはなりません。
なぜなら、「自ら」は極みなく果てしない海だからです。
言ってはなりません。「私は真理を見つけた」と。言うならば、「私は真理のひとつを見つけたと」。
言ってはなりません。「私は魂の道をみつけた」と。言うならば、「私の道を歩む魂に出遭った」と。
なぜなら魂は、およそ道という道を歩む。
魂は一本の線の上は歩まず、葦のように育つものでもない。、
魂は広がって行くのです。無数の花弁を持つ蓮の花のように。 
 p53「「自らを知ることについて。

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2010/07/18

コンドームの歴史<6>

<5>よりつづく 

コンドームの歴史
「コンドームの歴史」 <6> 
アーニェ・コリア (著), 藤田 真利子 (翻訳) 2010/2 河出書房新社 単行本: 453p

 「もしも・・・・・」
 歴史に「もし」があったとしたら、もし20世紀の人びとが何世紀も前から受入れられていた方法を受け入れて実践していたとしたら、21世紀の世界はどれほど違っていただろうと考えてみたくなる。もしもある時点で、コンドームがいつもいつも性意識の変動に振り回される存在ではなく、ようやく実際的で道徳的な道具として受け入れられていたとしたら、おそらく史上最悪の疫病の広がりは起きなかっただろう。しかし残念なことに、次なる最も恐ろしい感染症が世界を襲うとは、誰にも予測できなかったのである。
p168

 お言葉ですが、「誰にも予測できなかった」わけではない。予測はあった。少なくとも第一の報告があった直後に、その病気の本質について直ちに指摘した人たちはいた。すくなくとも、私の見るかぎりその中のひとりはOshoだ。詳しい時系列は後に回すとして、少なくとも1980年代の初めから、その危険性を強く指摘し、そのコミューンにおいては、常にHIVチェックが行われ、公衆においては使い捨て食器が奨励され、コンドームの使用も奨励された。

 一部でセックス・グルと揶揄されたOshoであってみれば、自らのコミューン内をフリー・セックスにしようとしている、という風な的外れな批判が横行したが、この本の著者などからしてみれば、あの時「もしも」は起きていたのである。しかし、その「もしも」は積極的に否定されていたのだ。

 エイズ活動家は、レーガンの指導力のなさが研究と教育の努力を大きく阻害し、この病気がアメリカに足がかりを築き、その後世界へと広がることを許したと主張してきた。実際、エイズに関する連邦政府による研究や全国的な教育への資金が「出たり引っこめられたり」したのは、レーガンの古臭い同性愛恐怖のせいだと考える人は多い。p377

 1987年に家族4人でプーナのOshoコミューンを訪ねたことがある。その時、来訪者に求められたのは、自国においてHIVネガティブの証明書を取得して持参することであった。自己経費もかかったし、2歳と4歳の子どもたちにもそのテストを受けさせるのは、どれほどの妥当性があるかは確かに未知数だった。

 実際、検査機関の医療従事者たちは、そのテストをすすんで受けるという行為自体、ファナテッィクなものであるかのように横目でにらみ、子どもたちのテストを痛々しそうな目つきで行った。1987年という時代性から考えれば、一般的にはそういう風潮でしかなかった。

 しかし、この日本においても、あの当時、「もしも」、もっとこの病気に対する認識が深まっていれば、これほどの惨禍が蔓延することに歯止めが効いたはずなのである。積極的に歯止めをかけようとしなかった不作為の当事者たちが無数にいた。

 AIDSフリーのOshoコミューンを、さもHIV感染者を差別しているかのように喧伝する向きもあったが(たぶん今もある)、むしろ実際的な見地に立てば、実に科学的で実利的なシステムであったと評価されるべきである。「もしも」はありえた。しかし、その「もしも」を積極的に葬り去ろうとする勢力も大きかった。

 噴霧
 ドイツのコンドーム・コンサルタント研究所(!)の科学者たちは、噴霧するタイプのコンドームを開発している。広報担当者によると、「わたしたちはあらゆるサイズのペニスにぴったり合う完璧なコンドームを開発しようとしています・・・・・わたしたちは非常に真剣です」。それを使う男性はペニスをスプレー缶に挿入し、ボタンを押す。すると塗りつけられたコンドームができあがる。これにはいろんな色が取り揃えられている。

 それに負けまいと、ドイツのレーベンスラスト(生の喜び)社はあるコンピュータプログラムを開発した。男性のペニスの3D映像をつくり、それにぴったりのコンドームを設計するプログラムである。費用は? 1200ドルで、映像、設計、好きなだけの数のコンドームを手に入れることができる。客は、コンドームに名前を入れることもできるのである。p435 

 そういえば、西洋人とつきあっているある女性は、彼は日本用の奴ではサイズが合わず、個人的に輸入しているとか言っていたな、だいぶ前の話だけど。

 この領域にコンピュータの話がでてくると、こちらも旧聞に属する話しだが「セカンドライフ」を思い出した。あの世界ではヴァーチャル・セックスが話題になっていた。衣装をつけるようにパーツとしてのペニスを装着し、相手を選んで云々と、話を聞いてみりゃアホらしい話なのだが、これが結構受けていた時期があった。セカンドライフ自体が、一時ほど話題にならなくなったので、あれは末期的な現象であったか。やっぱり、ヴァーチャルじゃぁ意味ないことがある。

 あんなちっぽけで、つくりも単純そうな物なんだから、歴史っていったって簡単に終わっちゃんじゃないの? とお考えのあなた、本書の厚さを見てすでにおわかりのこととは思うが、事はそれほど単純ではない。製造の歴史も確かに書かれていて、ラテックスが発明される前の涙ぐましい歴史の数々には脱帽するしかないわけだが、眼目はやはり、コンドームがどのように社会に受け入れられてきたか(どのように受け入れられずにきたか)にある。p451「訳者あとがき」

 たしかにその通りだ。「この面白おかしいコンドームの歴史を読んで、楽しむだけではなく、歴史から教訓をしっかり読み取って」p453(訳者)行きたいとは思うが、この本から「教訓」を読み取るのはなかなか難しい。だけどなんだか実利的でかつアカデミックな一冊ではある。今年度後半の当ブログ新刊ベスト10に入賞する勢いのある一冊だ。

Dance

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2010/07/17

プロフェット(預言者)<5>

<4>よりつづく

Photo
「プロフェット(予言者)」<5>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p
☆☆☆☆☆

 「コンドームの歴史」を読み進めるていると、とにかくどこかに出口か救いを求めたくなる。さしあたって、ジブランはなんと言っているだろうか。直接にこの話題に触れることがないのは当然だとしても、どこかにリンクしておきたい。さしあたっては、本能としての食欲や、罪悪、あるいは罪悪感あたりか。

人はみな、大地の芳香を吸って生き、草木のように光によって命を保つことが望ましい。
しかし、食べるためには、他の生命を奪い、渇きを癒すためには、生まれたばかりの仔から、その母の乳を盗りさらざるをえない。
だから、それを敬虔の念をもって行わなければならない。
そして、食卓を祭壇となし、森と野にある清らかなもの、無垢なるものにて飾り、人間の内なる、より清き、より汚れなきものの犠牲としなければならない。

野獣を殺すときは、心のなかでこう説えよ。
<おまえを殺めた同じ力によって、私もまた殺され、捧げられる。
おまえを私の手に渡した同じ法が、私をより力強きものの手に渡すだろう。
おまえの血も、天の木を養う樹液にほかならない。>と。
p56「飲み食いについて」

 あまりに悲惨な話が続くと、どうしてもバランスを取りたくなる。人間、暑さも、寒さも必要だ。ジブランが20世紀から21世紀にかけて、一貫して人々に支持されてきたのは、一方に、悲惨な事実が存在しているからなのだ、と言うこともできるだろう。

いま、私が語っているのは、あなたのなかの人間についてである。
なぜなら、罪と罰とを知っているのは、あなたの神なる身でも、霧のなかの小人でもなく、人間なのだから。
あなたがたが、悪行を犯した者について語るとき、あたかも彼があなたがたの一人ではなく、見知らぬ人として、あなたがたの世界への侵入者であるかのように語るのを、私はよく耳にしてきた。
しかし、聖なる者や正しき者でさえ、あなたがたひとりひとりのうちにあるもっとも高いところを超えることはできない。
また、邪悪な者や弱い者でさえ、あなたのうちにあるもっとも低いところより下へ落ち込むことはありえない。

木全体が黙ってはいるものの、その目をかすめて、ただ一枚の葉といえど黄ばむことはないように、悪行をする者は、あなたがた、すべての中に隠されている意思の働きがなくては、かかる行いをすることはできない。p96「罪と罰について」

 この項目についての記述は長い。的確にズバリと言うのは難しそうだ。ブログに貼りつけるために、抜き書きすべきなのは、この部分ではないかも知れない。しかし、罪と罰は、私たち、あるいは私から離れたところに存在している何かではない。

 続いて、「法」の項目もある。

あなたは、法律をつくることが大好きだが、
それ以上に、法律を破ることに喜びを感じる。
それはちょうど、海辺で遊ぶ子どもたちが、砂の塔を一心不乱に立てながら、笑ってそれを破壊するのに似ている。
しかし、砂の塔を建てるあいだに、海はさらに砂を運んでくる。
そして、塔をこわせば、海は、あなたといっしょに、声をたてて笑う。
ほんとうに、海はつねに、無邪気なものたちに唱和して笑うのだ。
p98「法(おきて)について」

<6>につづく

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2010/07/16

コンドームの歴史<5>

<4>よりつづく

コンドームの歴史
「コンドームの歴史」 <5> 
アーニェ・コリア (著), 藤田 真利子 (翻訳) 2010/2 河出書房新社 単行本: 453p

 面白うて、やがて哀しき、コンドーム。最初は防疫のため、次いではバースコントロールのために使われたこの小さな発明品は、最初、人間社会の自由の拡大に多いに益するように思えた。しかし、20世紀になると、台頭する国家主義、そしてその軍事国家を支える軍隊においての重要な「武器」となる。

 人によって推定に幅はあるが、ノルマンディー上陸後終戦までヨーロッパに駐留した米兵が、平均して約25人の女性とセックスしたという数字に軍事上の専門家はおおむね合意している。ドイツが降伏するころには、アメリカ占領軍は兵士につき一ヵ月に4個のコンドームを支給していたが、ある将校に言わせると、「まったく不適切」なことだった。1945年のアメリカ陸軍による調査では、「部隊内の相手を特定しない性行為のレベルは公式に認められているよりもはるかに高い。また、その率は海外駐在の機関が長くなるのに正比例して高くなっている」。p311

 権力に向かって突き進む道のりのかなり初期のころから、ナチ党は性と生殖と結婚はすべて関連していて、一時の肉よくを満たすために切り離されることがあってはならないと主張していた。そんなことになれば、一国全体の健康と福祉を害する。ナチ党1933年に政権をとったすぐあと、ドイツ人のバースコントロールを統制しようとする法律が次々と通った。(中略)

 若者の間で婚前交渉が多くなっているのは、ユダヤ人医師がコンドームやその他のバースコントロール手段を配ったり、性とその「快楽」について教えたりするせいだと非難し、嫌悪感もあらわに、若者たちが「森に車をとめ・・・・・そこで、セックスする」ことを記述した。そうなのだ、とホフマンは書いた、ドイツ人が開戦時に年に7200万個ものコンドームを使用しているのはユダヤ人医師のせいなのだ(ナチ党はまた、梅毒を「ユダヤ人の病気」と呼んでいた)。p318

 日本軍の使うコンドームを最初につくったのは、1934年に設立された日本ゴム工業、現在オカモト株式会社となっている会社である。この会社は女性団体からの攻撃を受けた。アタック・チャンピオンという製品名称が、性奴隷とされた多数の女性のサービスに関わる醜い歴史の一こまを思い出させたからである。(当時のコンドームは突撃一番という名称だった)。p326

 恐ろしい経験から何年もの時がたったあとで、多くの女性たちは慰安所で最も傷ついた仕事は一日の終わりにコンドームを洗うことだったと語っている。「突撃一番」(軍隊が配るものなので、軍隊向けの名前がつけられていた)は豊富に供給されていたが、広範囲に広がった前線の中では不足する地域もあり、そうした場所ではコンドームが繰り返し使用されていた。p327

 この本、後半になると、目をおおいたくなるような悲惨な話題に突入する。「From Sex to Super Conciousness」どころの話ではない。これでは、人間存在の一番ベーシックな部分をグルグル回っているだけで、出口も救いもない状況となる。まるで泥沼だ。しかしながら、この泥沼に根を張り、そこから上へと伸び、水面に顔を出す蓮の華があることも事実なのである。ロータススートラなどでは、この泥沼があるからこそ蓮の華が咲く、泥沼はなくてはならないものだ、とさえ説く。

<6>につづく

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2010/07/15

プロフェット(預言者)<4>

<3>よりつづく

Photo
「プロフェット(予言者)」<4>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p
☆☆☆☆☆

 なにもここで、ファンタジックなジブランと、読みかけているとは言え「コンドームの歴史」をリンクさせて考えなくてもいいのだろうが、どうも単純に素直になれない当ブログは、その、ともすればとてもアンバランスな比較をやってみたくなってしまう。

 そもそも、このジブランの「プロフェット」の世界は、なぜにこれほど受けるのだろうか。邦訳だけでも10種類以上ある。そして、ジブランには、「プロフェット」以外にも作品があるのに、ほとんど唯一と言っていいほど、この作品だけが読まれている。

 気づいてみれば、アル=ムスタファが人々に語りかけるテーマは、問いかけに答える形であったとしても、「愛」から始まる、というのも特徴的だ。「愛」、「結婚」、「子ども」、この三つのテーマから、この物語は始まる。

愛があなたを招くときは、愛に従いなさい。たとえその道が、苦しく、険しくとも。
愛の翼があなたを包むときは、愛に身をまかせなさい。たとえ羽交いに隠された愛の剣が、あなたを傷つけるようになろうとも。
愛があなたに語りかけるときは、愛にを信じなさい。たとえ北風が花園を荒らすように、その声があなたの夢を砕くようになろうとも。
愛は、あなたに王冠をいただかせるとともに、あなたを十字に架りつけるもの。愛とは、あなたをは育むとともに、刈り込むもの。
p30「愛について」

お互いの心を与えあいなさい。しかし、お互いが心を抑えあってはいけない。
大いなる生命の手だけが、あなたがたの心をくるむことができるのだから。
いっしょに立っていよ。しかし、近よりすぎてはいけない。
寺の柱も離れて立ち、樫の木も、絲杉の木も、互いの陰の中では育たないのだから。
p40「結婚について」

あなたの愛を与えることはできても、あなたの考えを与えることはできない。
子どもは自らの考えを持つのだから。
その身体を住まわすことはあっても、その魂までも住まわすことはできない。
子どもの魂は、あなたが夢にも訪れることのできない、明日の館に住んでいるのだから。
p42「子について」

 いいなぁ、と思いながら、うーん、きれいごとだなぁ、とも思う。これをこのままファンタジックに読み進めることは、できないことではないが、それはそれで、絵に描いた餅になってしまうことになりかねないのではないか。とくに「コンドームの歴史」などとまぜこぜに読んでいると、どうも変だなぁ、と思う。

 そもそも、人間は性から逃れることができない存在であったとして、その性のまじわりは、愛があるからだ、とかいうことになっている。だが、愛の中に性があることに異論はないが、性の中に、かならずしも愛があるとは限らない。

 結婚という奴も、なかなか手ごわい。男と女の間に愛があれば、結婚に結びつく、と簡単に図式化することはできない。愛があってもニーチェのように結婚しなかった男たちもたくさんいるし、ウィットゲンシュタインのように、男なのに男に愛を感じるという現象もある。しかも、それは狂おしいほどであった、というから、人間というものを理解しようとすれば、とてもとても一筋縄ではいかない。

 そして子どもという奴。性衝動の結果として、愛があり、愛の結果、結婚という現象が起こる。そして、その結論として、子どもが生まれてくる。最近は、試験管から生まれてくる人間もいるらしいが、少なくとも99.999%の人間には、母親がおり、そのほとんどの子どもには、子として生をあたえた父親がいるはずである。

 ところが、考えていけばいくほど、そう思っていることの根拠が揺らいでいく。性=愛でもないし、愛→結婚、でもなければ、子ども⊂結婚でも、子ども⊆結婚でもない。漠然とパターン化した大数を追っかけていけばそういうことになるかもしれないが、人間個別に考え始まれば、ひとりひとりの人間にパターンなんてあるべきではないのだ。

 漠然と思っていることを、すこしづつ深く考えていくと、だんだんとものごとの輪郭がぼやけ始まる。そして、絶対的なことなんて、何もないのではないか、という結論に近づく。いや、もし絶対的なことがあるとすれば、「死」という奴だろう。すくなくとも、私はこの100年以内には死ぬだろう。いやいや、長く見て20年程度しか残っていない。いや、明日と言わず、なんらかの理由が整えば、この瞬間に死がやってくる可能性は十分ある。すくなくとも絶対といえるのは、いずれ私は死ぬ、ということだけだ。

あなたがたが、本当に死の精神を見ようとするなら、生の肉体にまで心を広げよ。
なぜなら、川と海が一つのように、生と死も一つなのだから。
あなたがたの希望と絶望の深奥には、彼岸について、黙せる知識が横たわっている。
雪の下で夢みる種子のように、あなたがたの胸は春を夢みている。
その夢を信じなさい。なぜなら、その夢の中にこそ、久遠への門が隠されているのだから。
p178「死について」

 ジブランが造り出す預言者アル=ムスタファの言葉は、短いアフォリズムのように、リズムがあって、美しい。言い切っているだけに、説得力がある。思考の中で、その輪郭がぼやけてしまった者には、自らの思考を再形成するには、ジブランは役立ってくれる可能性がある。だけど、本当だろうか。単純にジブランを崇拝することで、本当になにかが解決することになるのだろうか。

 コンドームという人類の発明した小さな道具には、愛、結婚、子ども、死、というものに容易にリンクしていく要素がある。そしてジブランのようにファンタジックな詩情でごまかすことではなく、実に実際的で具体的な事実と対峙している。

 当ブログのテーマは、どちらかと言えばジブランにある。当然のことだ。しかしながら、ジブランに「コンドームの歴史」という剣を突きつけると、漠然と、いいなぁ、と思っていた物語の全体がガタガタと崩れ始まる。アル=ムスタファもまた、十字架にかけられる必要があるようだ。そして、強靭な精神に鍛え直される必要がありそうだ。

<5>につづく

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2010/07/14

コンドームの歴史<4>

<3>よりつづく

コンドームの歴史
「コンドームの歴史」 <4> 
アーニェ・コリア (著), 藤田 真利子 (翻訳) 2010/2 河出書房新社 単行本: 453p

 早くも1895年にはコンドームへの嫌悪を文章にしていたフロイトだが、1920年のコメントはさらに激しいものになっていた。彼はコンドームが性的快感をそぎ、「パートナー双方の鋭敏な感覚を傷つける」と主張した。どの方法も失敗を防げないと言ってあらゆる種類のバースコントロールを批判したが、コンドームにはとりわけ大きな軽蔑を向けていた。

 フロイト派の学者たちは、フロイトの極端なコンドーム嫌悪は、コンドームの邪悪な性質もさることながら、フロイト自身がセックスに関するすべてのことに愛憎両面の気持ちを抱いていたからではないかと考えている。p268

 「シークレット・ドクトリン」をとりあえずめくった後に、この本がまだ残っていると、なんだか奇妙な存在感が拡大してくる。この人類の小さな、しかしかなり重要な発明品、毀誉褒貶の著しい小さな道具の視点から、19世紀や20世紀を見つめてみるのは、実に貴重な体験だ。

 免疫の面からコンドームを眺め、バースコントロールの側からコンドームを眺める。そして、今度は心理学の立場からコンドームを眺めてみるのも、なかなか壮観なものである。20世紀になれば、ピルが発明され、バースコントロールの面から女性解放に益したと評価される一面、免疫の面から、ふたたびコンドームはその存在価値を取り戻した。

 コンドームをバースコントロールの手段として広告するための法的障壁がなくなったことや、軍による使用の推進が続いたことも確かにコンドームの販売増加を助けたが、大恐慌時代に売上が驚くほど延びた本当の理由は、子どもをもつ余裕がないと考えたアメリカ人が増えたせいだった。どれほどお金がなくても、妊娠を防ぐための数セントを見つけることはできた。コンドームは子どもより安かったのである。p276「兄弟、十セントわけてくれないか・・・ゴムを買うんで」

 19世紀から20世紀になると、国家主義の台頭から軍部の勢力が増大し、兵隊さんたちによるコンドームの消費量が極端に増えたことも見逃せない。ひとり日本軍のみが慰安婦問題でその性処理の結末の決算を迫られているが、戦争という人類が抱える最大の愚かさとともに、戦う男たちの性処理、という人類の根源的問題が、このコンドームに象徴されていることに、あらためて人間というものの本質を考えさせる。

 さて、この辺で、当ブログの本来のテーマを思い出さなくてはならない。「One Earth One Humanity」というテーマがあったとするならば、そのOneの中には、やっぱり性処理の問題は隠さず含まれなくてはならないのだ。性処理という言葉が悪ければ、性エネルギーは人類の根源だ、と言い換えよう。

 そして次なる「No Earth No Humanity」に来れば、性処理問題、つまり性エネルギーは、どのように「無」化されるのか、という問題につきあたる。「無」化ではなくて、昇華だろう、ということになるが、とにかくまぁ、人間とはこういうものなんだなぁ。 みつお。  ・・・・、じゃなかった・・・。

<5>につづく

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2010/07/13

プロフェット(預言者)<3>

<2>よりつづく

Photo
「プロフェット(予言者)」<3>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p
☆☆☆☆☆

 カリール・ジブランとOshoを比較してみることは、どのような価値があるだろうか。Oshoが「プロフェット」について語った講話録The Messiahもあるけれど、ひとつひとつの項目と対応させる形で、「英知の事典」と読み比べてみることも価値あるかもしれない。うまく対応できない時は、もともとの英文「The Book」三冊シリーズの中にリンクしてみよう。

プロフェット」と「英知の事典」の比較 

1、愛について → 「愛」

2、結婚について → 「結婚」

3、子について → 「子ども」

4、与えることについて → 「与える」

5、飲み食いについて → 「食べる」

6、働くことについて → 「働く」

7、喜びと悲しみについて → 「   」&「悲しみ」

8、家について → 「家族」

9、衣服について → 「   」

10、売り買いについて → 「職業」

11、罪と罰について → 「    」

12、法(おきて)について → 「   」

13、自由について → 「自由」

14、理性と情熱について → 「論理」&「   」

15、苦しみについて → 「苦しみ」

16、自覚について → 「独りあること」

17、教えることについて → 「教育」

18、友情について → 「    」

19、話すことについて → 「おしゃべり」

20、時について → 「時間」

21、善と悪について → 「   」&「悪魔」

22、祈りについて → 「祈り」

23、快楽について → 「快楽」

24、美について → 「   」

25、信仰について → 「信仰」

<4>につづく

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2010/07/12

預言者のことば

<9>よりつづく

預言者のことば
「預言者のことば」
カリール・ジブラン (著), 有枝 春 (翻訳) 2008/2 サンマーク出版 ハードカバー: 192p
Vol.3 No.0073☆☆☆★★

 ジブランの「プロフェット」は何種類もの邦訳を読んできた。もう著作権の有効期限が切れているからだろうか、それとも、それだけこの本を愛している人が多いからだろうか、一つの小さな本にこれだけの邦訳本が存在する、というのも珍しいのではないだろうか。

 きっちりと、比較しながら読み進めてみれば、もっと一冊一冊の個性が引き出せるのであろうが、まだ、それはできていない。だが、それだけの邦訳が存在しているのだ、ということは確認済みだ。

 ざっくり言っておくなら、1)ですます調より、だある調のほうが私は読みやすい。2)女性の翻訳より、男性の訳のほうが好き。3)一部のキャラクターの濃い翻訳者は敬遠したい。となると、だいたい、私自身の好みの本は決まってくるのだが、その選択が必ずしも、一般的に妥当性があるとは、決して言い難い。

 毎回同じような内容の言葉を読んでいて、どこか端折って読み進めている自分に気がつく。ここには20数種の「~~について」のアムルムスタファの言葉がある。だが、一度はなるほどと感心したものの、何度も読んでいると、はて、本当にそうか、と疑問が湧いてこないわけではない。

 これらのテーマについて、一方的にジブランの「哲学」に酔うだけではなく、例えば、Oshoの「英知の事典」などの言葉と比較してみるのも面白いのではないだろうか、と思う。幸いに、邦訳「英知の事典」の中には、このジブランの書に対応している「項目」が意外と多い。もともとこの本たちは意識しあっていたのではないか、とさえ思うくらいだ。

 もっとも、「英知の事典」は英語版「The Book」三部作の要約版だから、もし対応する言葉がなければ、英語版に近似のテーマを探していくことも可能であろう。もっとも、そんなことを試みるなら、最初から、Oshoがジブランの「プロフェット」を語った「Messiah」を読めばいいじゃないか、ということになるが、まあ、そこはいろいろなお楽しみコースの選択肢があるのもいいだろう。

オルファリーズのみなさん、
人は太鼓を布で覆ったり、リラの竪琴の弦を緩めたりすることならできます。
しかし、ヒバリに歌うなと命じることは、できはしないのです。
有枝春・訳p89「法律について」

 もともと優しさに満ちたジブランのポエジーであるのだから、これはこれいいのだが、どうも、もともと大雑把な私には、優しすぎる。

オルファリースの人びとよ、太鼓を黙(もだ)させることも、竪琴の糸を緩めることもできるが、空を舞うひばりに、歌うのをやめろとは、だれも命じられないのだ。小林薫・訳p100「法(おきて)について」

 ひとつひとつの言葉についての邦訳の妥当性など論じることなど、当ブログに力量に余る。しかし、好みとしていうだけなら、長いこと手元にあるだけに、小林訳のほうが、私にはぴったりくる。ぶっきらぼうな言い方のなかに、ジンワリとアル=ムスタファの優しさが湧きあがってくる。

 もうこの段階で、テキストの妥当性などをどうのこうの言っている場合ではない。ジブランにについては、もうすこし歩を進めるべきだ。ニーチェの「ツァラトウストラ」に触発されて書かれた「プロフェット」であってみれば、優しいだけが注目点ではない。「人の子イエス」と同列に語られなくてはならない一冊であれば、ソフィストケートされ過ぎるのは、この書の本質を捻じ曲げてしまうのではないか、とさえ思う。 

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2010/07/11

シークレット・ドクトリン<4>

<3>よりつづく 

Photo
「シークレット・ドクトリン」 宇宙発生論 上 神智学叢書<4>
H・P・ブラヴァツキー (著), 田中 恵美子 (翻訳), ジェフ・クラーク (翻訳) 1994/02 神智学協会ニッポン・ロッジ 761p
☆☆☆☆

 シークレット・ドクトリンとは、あらゆる宗教や古代思想の源である「秘められた叡智」(秘教)の体系を指す。
 それを表題にとったこの大作において、著者H・P・ブラヴァッキーは秘教の原典「ジャーンの書」に注釈をつけながら、古代からごく限られた者にのみ継承されてきた秘教科学の根本原理を現代の人類すべてに授けている。
裏表紙見返し

 当ブログの基本姿勢は、Top Secret is Open Secret である。どれほどの価値ある真理であろうと、一部の限られた者にしか開示されない、ということはない。いやむしろ究極の真理であればこそ、誰にでも触れることができ、誰にでも理解できる、ごくありふれたものである、と、まぁ、それが本当かどうかわからないが、そういうものだと決めつけている。

 「ごく限られた者にのみ継承されてきた」という言葉や、「秘教科学」なども、魅力的な言葉ではあるし、それの一部は事実として存在したとしても、当ブログは、字義通りには受け取らない。「古代から」という曖昧な表現も、文学的ではあったとしても、そこからイメージされる世界の作用には功罪がある。

 その「秘教科学」を、「現代の人類すべて」に捧げるという、白黒のはっきりした表現は、宣伝文句にはなったとしても、決して字義通りのものと受け取ることはできない。そもそも、1888年に発行されたこの本の効果は、ホントウにそういうものであったかどうか。「現代」と言われる19世紀と21世紀では、すでに「人類」の在り方も、かなり違ったものになってきているのではないか。

 著者は、秘教の原理を固定化されたドグマとして主張することなく、古今東西の思想家、各宗教の聖典、科学理論などの豊富な客観資料に論拠を得て、さまざまな視点から「宇宙および人類の進化」という巨大なテーマを展開していく。裏表紙見返し

 「秘教」と言われるものは、東西の交通・通信が未発達であった19世紀において、西洋から見た東洋、科学の立場から見た宗教、体系化されたドグマからみた、収容しきれない断片的真実、などがまぜこぜになっている。

 しかし、この点からだけ考えるなら、交通も、通信も、とてつもないほど発達したインターネットの21世紀において、さらに加速度を強めていて、1970年代の「タオ自然学」でさえ、すでに陳腐に思えるほど、人類社会は更に「進化」している。

 1888年と言えば、日本暦で明治21年。伊藤博文や黒田清隆などが総理大臣を務めていた時代であり、東京熱海間の電話が開通し、「君が代」が国歌として制定公布された、という時代である。ひとりブラバッキーばかりを、アナクロニズムと批判することはできない。むしろ、国家主義を強める国際的な時代性において、彼女が行動し組織したエネルギーは当時の活動としては、際立った存在であったことは、理解できる。

 ただ「宇宙および人類の進化」の「体系化」の試みは、21世紀の「科学」をもってすれば、滑稽きわまりないものに思えてしまう。このあたりを「人智学」として継承したシュタイナーの世界なども、ともすれば「迷信」とさえ思えるほど、おとぎ話の域をでない部分も多い。

 他の沢山な神秘と共に、こうした秘密はこの時代の唯物論者には存在しないままであろう。同じように中世の初期のヨーロッパ人にとっては、アメリカは存在しないおとぎ話的なものであったが、スカンジナビア人やノルウェー人は数世紀前にとても古い”新世界”に実際に到達し、定着していた。

 しかし、一人のコロンブスが西半球の国々を再発見し、旧世界にその存在を信じさせるために生まれたように、今オカルティスト達が主張しているような種々雑多な居住者や意識のある存在物がいるエーテル諸領域の中の驚くべきものを発見する科学者が生まれるだろう。

 するといや応なく、科学はその古い”迷信”を受け入れなければならなくなるだろう。これまでの”迷信”を受け入れるようになった時と同じように、過去の経験から判断すると、一たびそれを無理に受け入れると、おそらく科学の博学な教授達は、今は”催眠術”と名称をつけ直されたメスメリズムや磁力の場合のように、そのことのもとの名を捨て、自分はその創始者であると主張するであろう。p579「要約」 

 ここにおけるブラヴァッキーの「預言」は預言として受け取っておくしかない。地球上の地理的な「新世界」は、実証的に「再発見」されてきた。しかし、ここでいわれている地球人の「意識」については、「実証的」に「再発見」されるのは、簡単なことではなさそうだ。現代の発達した脳科学なども、かつての「神秘」領域に突入しはじめているのは事実であるが、ここではすでに「科学」そのものが問われ始めている。

 この本は、当ブログにとっては初読である。ましてや、その全容の一部をなぞっただけにすぎず、また斜に構えた読書態度にあらたまる傾向はなかった。どれほどの価値がこの本に隠れているか、今は分からないままであっても、それはそれとして、今後の吟味再読の機会を待つことにしよう。

 当ブログとしては、この1888年、という時代性をもう少し拡大しながら、例えば一方で1885年に「ツァラトウストラかく語りき」を発表したニーチェなどの存在のことなどにも思いをはせたいと思う。あるいは、現代神智学に先立つ中世神秘主義など、バラバラに目を通してきた本たちに、なにごとかの関連を見つけながら、再読することも必要だろうと思われてきた。そして、もちろん、「古代」とやらにも、突入していかなくてはならない。

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2010/07/10

From Sex to Super Consciousness <2>

<1>よりつづく

Superconsciousness
From Sex to Super Consciousness <2>
Osho (Author) March 1, 2003 Publisher: Full Circle Publishing Ltd  Paperback Language: English
Vol.3 No.0072☆☆☆☆★

 偶然の組み合わせとは言え、「コンドームの歴史」「シークレット・ドクトリン」をまぜこぜに読み進めながら、漠然とこちらのこの本を思い出していた。すでにいくつかの増版や改訂が行われているらしく、私の手元にあるのはかなり古めかしく思えてくる。1976年発行ということになっている。日本語訳も1982年にでているが、実際の講話は1968年の6月から10月に行われている。現在ではネット上で全文が読めるようだ。

 現代神智学でいうところの1から7までの階梯とは、まさにこの本のタイトルの意味するところではあるが、いささか誤解を生みそうなタイトルでもあり、1から7までのプロセスが一方向的にイメージされてしまそうなのがちょっと気にかかる。

 もっとも現代神智学では、1については、もろにこのように表現することはないだろうが、7についても、はて、この単語一つで表現することに不足はないだろうか、と、ちょっと疑問になる。このタイトルでは、むしろ2~6あたりを意味していて、根源の根源たる1と、究極の究極である7が、円環している、というイメージをうまく表現できているとは思えない。

 ただ、この講話が行われた1968年という時代性、そして講話者たるOshoがまだ36歳の少壮の一青年であったことを考えると、かなり思い切ったタイトルであったことに違いない。そして、しかもそれがあのインドの大地で行われていた、ということに素直に驚かざるを得ないのである。

 当ブログは、バックボーンにOshoの本を読み続けているわけだが、その著書を便宜上、1970年前後、1980年前後、1990年前後、という風に、前期、中期、後期として、三分類に区分けしている。中心は中期の「私が愛した本」であり、後期は「禅宣言」に代表させ、前期は「奇跡の探究」が適当であろう、と考えている。

 「奇跡の探究」は1970年の講話だが、この「From Sex to Super Consciousness」は、それに先立つこと1968年の講話だから、現在の私たちが読めるOsho講話の中でも、最も初期のものとなるだろう。混沌たるメソッドを多用したマスターであるがゆえに、その著書をかならずしも体系化せずに、混沌のまま読み続けていくことも、一方法ではあるのだが、しかし、一応、その書がどの位置にあるのかを把握しながら、読み進めれば、より全体として把握しやすくなるだろう。

 1990年にOshoが肉体を離れて以降、一出版社の意向もあったのだろうが、当ブログでいうところに前期の分類に属するOsho講話が多く邦訳された。中期にOshoを知り、後期までマスターとして仰ぎ見た一読者、一サニヤシンとしての私には、むしろ、後期で語られたものをもっともっと早く読み進めたいと思っていた。だから、執拗に前期の講話がリバイバルのように邦訳されることに、いささか戸惑いを感じていたのも事実である。

 もっとも、前期の一連の講話には、ヒンディー語で語られたものも多くあり、英語のニュアンスでは決して語り得ないニュアンスが、一連のヒンディー講話の中に隠されているので、その貴重さは、現在の段階になってようやく分かり始めている、ということもできる。

 まぁ、それはともかくとして、とにかく当ブログが現在、読み慣れない現代神智学の領域へと足を踏み入れんとしているのは、この前期のOshoに、どれほどの現代神智学的「影響」があっただろうか、ということを把握しておきたい、という関心が、その理由のひとつとなっている。

 かつてはセックス・グルとまで揶揄されたOshoのことである。この本に書かれた、その教説はなんども目を通しているので、敢えてここで再読しなくても、内容についてはあらかた記憶に残ってはいる。だが、ここでは「指を見ずに、月を見る」ことを心がけていかなくてはならない。

 人間という存在のなかに含まれる、この二つの大きなシンボル的な、ある意味、まったく相反するとさえ思われる概念。これらが一つになる、サークルになる、根源的なものに帰す、という「指」に、現代を生きる私たちは、みずからのなかに、どれほどの「月」を見ることができるのか。時間と空間を超えた旅はまだ続いている。

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2010/07/09

コンドームの歴史<3>

<2>よりつづく 

コンドームの歴史
「コンドームの歴史」 <3> 
アーニェ・コリア (著), 藤田 真利子 (翻訳) 2010/2 河出書房新社 単行本: 453p

 「あら、急にどうしたの?」と、奥さんが聞いてきた。まぁ、近々そう来ると睨んでいた。茶の間のソファーに寝っ転がって、家族にこんな本を読まれたら、他の家族は、何かひとこと言わなくては、むしろその場の雰囲気がおかしくなるだろう。

 ましてや、今回は、自分のカードがいっぱいなので、奥さんのカードでこの本を借りてきたから、パソコンからアクセスして図書館の本をリクエストしている彼女のページにもしっかり、彼女の読書記録としてこの本のタイトルがリストアップされている。

 うん、たしかに、急にどうしたのだろう。それは、私自身の問いでもある。いや、私自身の私自身に対する質問でもあるが、それは図書館の司書達の運営についての質問でもある。なにせ、ほんの1分ほどの休憩時間に飛び込んだ図書館の、新刊コーナーからさっと抜き取ってきたのがこの本である。あそこにこの本を置いたのは、まずは図書館の司書なのだ。

 と、そこまではそれほど深くない疑問として、あら、急にどうしたの?、と問うほど、この本は「急に」登場したのだろうか。どうも、違う。これは、ある意図で、深淵な計画のもとに出版された本なのではないか。翻訳者の他の訳本のタイトルからして、なにやら「シリーズ」化している。

 歴史的語彙
 歴史的に見ると、コンドームには数々の名前がつけられていた。例を挙げると、ボードリューシュ、コンダム、ウォンダム、コォンドン、イギリスのコート、ラバー、ナイトキャップ、鞘(シース)、鎧、コッドピース、小さな下着(プチ・ランジュ)、コントン、道具、正しい衣服、さえぎる盾、予防具、フレンチ・レター、レター、オーバー、コート、装置、汚れたスリッパ、仕掛け、カンダム、死んだ手紙、スキン、嚢、機械、予防袋、レインコート、帽子、キュテレイアの盾、女性の手袋、安全装置、神の皮膚、下着、安全帽、ペニスの皮膚の小さな袋。
p111「鎧に対する医学者からの主張と買い手危険負担」

 この道具、歴史的にはバースコントロールとして使われれるより先に、前回<2>で抜き書きした23種の名前を持つ業種に係わる女性たちとの交渉の中で、いわゆる自らの身を守るために工夫されて登場してきた、と言えそうだ。まず、この道具につけられた歴史的語彙を見れば、さらにその推測が間違っていないことがわかる。 

 世界最古のコンドーム
 現在まで残っているものとしてはおそらく最も古いコンドームは1640年にさかのぼり、再利用可能なものである。ブタの腸でできたこの道具はスウェーデン製で、ラテン語で書かれた使用説明書とともにみつかった。使用説明書に温めたミルクに浸せば病気を予防すると書かれている。
p84「鞘も袋も決して期待を裏切らないように・・・・」

 私自身はこの小さな道具に対する思い入れはそれほど大きくないので、歴史的最古の貴重な道具のその機能性を確かめる実験に参加したいとは思わないが、ミルクに浸せば云々という説明書にも、もちろん信頼感を持つこともはきない。

 中学校の思い出以来、この道具にまつわるエピソードとしては、1982年のオレゴン州で開催されたOshoコミューンのワールドセレブレーションでのことだろうか。世界から数万人集まってきた参加者たちに配られたのは、コミューン内だけで使えるキャッシュレス・カードや施設のマップなどとともに、ビニールでできた手袋と、ここで話題になっている道具のセットだった。

 当時、いわゆるAIDSが登場し、その危険性が大きく報道され始まっていた。Oshoはその事実を把握して、これからは恋人同士が接触する時でも、これらのAIDSフリー・キットを使用すべきであると忠告したのである。

 あのセットが、あのコミューンでどれほど活用されたのかは知らないが、少なくとも、もし、あの時、全世界がOshoの忠告に耳を傾けたら、現在3300万人いるといわれるHIV感染者の増加に歯止めがかかったかもしれない。この道具の存在自体、歴史的には、不道徳的であると宗教的倫理観から反対の意見もあるが、少なくとも、科学的に人間社会が存在していくには、今後も不可欠のものであるようである。

<4>につづく

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2010/07/08

シークレット・ドクトリン<3>

<2>よりつづく 

Photo
「シークレット・ドクトリン」 宇宙発生論 上 神智学叢書<3>
H・P・ブラヴァツキー (著), 田中 恵美子 (翻訳), ジェフ・クラーク (翻訳) 1994/02 神智学協会ニッポン・ロッジ 761p
☆☆☆☆

 3、七つの(元素の)中で第一が現れ、六つはかくされる。二つが現れ、五つはかくされる。三つが現れ、四つはかくされる。四つが生じ、三つは隠される。四つと一ツァン(小部分)が現れ、二つと二分の一がかくされた。現されるべきものは六つで、一つは別にされた。最後に七つの小さな車輪がまわり、一つは次のものを生む。p377

 なにやら怪しげな文言がならぶ。深い意味は分からないが、直感で、「これでいいんじゃないかな」と思う。当ブログは当ブログなりのモデルを使って理解を進めるしかない。

1)七つの(元素の)中で第一が現れ、六つはかくされる。
1

2)二つが現れ、五つはかくされる。
2_2 3)三つが現れ、四つはかくされる。
2_34)四つと一ツァン(小部分)が現れ、二つと二分の一がかくされた。
4)現されるべきものは六つで、一つは別にされた。
6
6)最後に七つの小さな車輪がまわり、
77)一つは次のものを生む。


Maru_2 

 われながら、なかなか上手いこと対応しているのではないか、と思う。4)あたりはちょっと無理な強引さが目立つが、こじつけできないことはない。

<4>につづく

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2010/07/07

コンドームの歴史<2>

<1>よりつづく 

コンドームの歴史
「コンドームの歴史」 <2> 
アーニェ・コリア (著), 藤田 真利子 (翻訳) 2010/2 河出書房新社 単行本: 453p

 「シークレット・ドクトリン」の緩衝材としてこの本が偶発的に登場したとはいうものの、この本もなかなか深いぞ。なんせ歴史は1万2千前のエジプトのファラオ以前から始まる。神智学に劣らず、人類の技術と心理と宗教の統合の一芸術品、とさえ思える。いわば、神智学ならぬ、チン痴学、ともいうべきか。

 いやいやそんなことはない。この本は至って真面目だ。もし、この本を完読し精読して、その知識を身につけたら、まさにパーティ・ジョークの王様になれるに違いない。いえいえ、ジョークどころか、これは立派な人類史を解析するインテリジェンスである。

 この本、原書は2007年にでている。割と新しい本だ。もしこの本がマダム・ブラバッキーのいた1888年当時に出たとするなら、これだけ洒脱に東西の文化を「統合」できただろうか。まぁ、すくなくとも、これだけの知識や情報を集めることはできなかったであろう。

 逆に、もしブラバッキーが2010年の今日、この地球上に生きて、あの世界の「統合」を図ろうとしたら、もっともっと「上手」に書けたであろう。すくなくとも、この本は、どんなことでも、ひとつ「書いてやろう」という意志さえあれば、面白おかしく、しかも意義深く書くことができる、という見本であろう。

 この本の翻訳者は1951年生れの藤田真利子。「ヴァギナ 女性器の文化史」、「強姦の歴史」、「ペニスの文化史」などのほかに、「体位の文化史」などもある。最後の一冊は当ブログでも3年前にいちど読んだ。こういう本でも図書館にあるんですなぁ。当ブログも初期的には、さまざまな試みを積極的に読みこんだから、このような本にもどんどん手が出た。最近は、テーマを区切ってしまっただけに、すこし自由を失い、萎縮してしまっているかもしれない。

 もっとも訳者には「壊れゆく地球」や、チョムスキーの「グローバリズムは世界を破壊する」などの「まじめ」な訳業も多い。

スプルカエ・ルパエ
メレトリクス
プロスチプラ
プロセダ
ノナリアエ
ミマエ
キムバリストリアエ
アンブリアエ
キタリストリアエ
スコルトゥム
スコルタ・エラチカ
ブストゥリアエ
カパエ
デイカタエ
ファモサエ
ドイス
ルパエ
アエリカリアエ
ノクチルアエ
ブリチダエ
フォラリアエ
ガリナエ
アマシアエ 
 p31

 ここに挙げた23種類の古代ラテン語は、すべて売春婦を意味しているという。ひとつひとつがそれぞれの業態を示しているらしいので、少なくとも当時は23人以上の人々がこの稼業に従事していたことになる。そのような人類の実態を考える時、表題のようなテーマを追求することも意味ある研究ということになるのだろう。

<3>につづく

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シークレット・ドクトリン<2>

<1>よりつづく

Photo
「シークレット・ドクトリン」 宇宙発生論 上 神智学叢書<2>
H・P・ブラヴァツキー (著), 田中 恵美子 (翻訳), ジェフ・クラーク (翻訳) 1994/02 神智学協会ニッポン・ロッジ 761p
☆☆☆★★

 前回この本に触れたのは2009年7月5日だったのだから、ちょうど一年が経過したことになる。この本をめくることにそれだけ時間がかかったということか、それとも、季節も夏真っ盛りになって、夏バテ気味の読書意欲に、刺激を与えるのは、この程度インパクトの強い本でないと効果がない、ということの証明か。

 すでにOshoの「私が愛した本」の中から抜粋を転記している。この本はBIHL5-5にリストアップされている限り、いずれその流れの中で再読することになるだろうが、ウスペンスキーやグルジェフ、クリシュナムルティを読む場合や、時にはOsho自身、あるいはニーチェやドストエフスキーなどの時代性を考える時、この本は一読しておく必要がある。

 しかし、おおよその内容が推測できるだけに、なかなか気が進まないのも事実である。いちど頁を開いてみれば、それなりにその世界に吸い込まれていくのだが、そこはそこ、優先順位を考えれば、ここで、これらの世界観にうつつを抜かしていていいのか、という、あせりはでてくる。

 この本のもともとの造りはどうかしらないが、この邦訳ではシークレット・ドクトリンが構成された「沿革」が延々と冒頭の百数十ページを使って語られる。まるで「ミルダッドの書」が延々とその前振りに時間をかけるように、あるいは、「スーフィーの本」が、その前振りだけで終わって本文は真っ白い頁に変わるように、この本に於いても、その前口上が、いやがおうでも、雰囲気を盛り上げる。

 「THE SECRET DOCTORINE : THE  SYNTHESIS OF SCIENCE,  RELIGION,  AND  PHILOSOPHY」p133

 科学、宗教、哲学の統合、という概念が、1888年の発行の段階において目新しかっただろうというのは理解できる。1888年とい言えば、日本の暦に置き換えれば、明治21年、ということになる。アレクサンダー・グラハム・ベルが電話機の特許出願をした1876年(明治9年)、ヘンリー・フォードがT型フォードを発表したのが1908年(明治41年)、アインシュタインが「一般相対性理論」を発表したのが1916年(大正5年)、などなどであったことを考えれば、当時の「科学」がいかようなものであったかは、21世紀に生きる現代人の「常識」で簡単に推測することはできない。

 「哲学」といえど、ニーチェの「ツラトゥストラかく語りき」が発表されたのが1883年(明治16年)であり、しかも一般的にはほとんど受け入れられなかったことを考えると、そこで語られた「哲学」とは一体いかなるものであったか、現代人の私達が、その解釈を急ぎ過ぎれば、拙速のそしりを免れないだろう。

 もちろん「宗教」においても、例えば、チベットの奥地ヒマラヤに住むとされるクートフミ(KH)大師やら、モリヤ大師やらの表記も、そのチベット密教が20世紀後半から21世紀にかけて、かなりの部分が公のもとに差し出された現代において、その幼児性を指摘することは、難しいことではない。

 しかし、その年代において「統合」を志した大きな船出は、交通、通信、文化の相互交流がようやく動き出した時代背景を背負いながら、「地球人スピリット」の模索に向けて大きく舵を切った、という歴史的事件ではあっただろう。でなければ、現代においてさえ、これだけ話題として残っている、ということを理解することは難しい。

<3>につづく

 

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2010/07/06

コンドームの歴史<1>

コンドームの歴史
「コンドームの歴史」 <1> 
アーニェ・コリア (著), 藤田 真利子 (翻訳) 2010/2 河出書房新社 単行本: 453p
Vol.3 No.0071

 さて「シークレット・ドクトリン」を読むぞ、と意気込んでみたものの、いまひとつ意気があがらない。苦手なものは苦手なのだから仕方がないが、ここはなんとか工夫して突破しなければならない。せめて、間に挟み込む緩衝材を工夫すれば、なんとかうまくいくのではないか。と思い立って、適当な本を探すのだが、なかなかない。

 時間がないまま、とにかく図書館に飛び込んだ。新刊本コーナーにあった本をざっと見たが、どれもこれもおんなじようなものだ。あのブラバッキーに対抗しようなんていう豪胆な御仁はそうそう多くない。

 えい、こうなりゃ、もう何でもいいや。と、手元にあった本を一冊だけ取って借り出してきた。なんだかなぁ、と思ったのだが、あれれれ、意外とこれって、適材適所だったかもしれないぞ。「現実」的なテーマであるし、「重要」な問題でもある。

 そういえば、中学校時代を思い出した。誰が言い出したか知らないが、Oさんと噂になったことがある。彼女の名前はO理研ゴムと同じ名前。悪友たちは、あの会社のコマーシャルソングを大声で歌ってはやしてくれた。うううんんんn。いたしかゆし。あれはトラウマになったな。もっとも、彼女と私の間には、あの会社の商品が介在したことがなかった。

 残念。(´・ω・`)ショボーン

<2>につづく

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神智学大要<5> 太陽系

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「神智学大要」 第5巻  太陽系 (単行本) <5>
A・E・パウエル (編集), 仲里 誠桔 (翻訳) 1983/01 たま出版単行本: 405p
Vol.3 No.0070☆☆☆☆★

 7つの身体論あたりまでならまだしも、こちらの宇宙観となると、はっきり言ってまともに「読める」人間はほとんどいないだろう。もう、the rubbish の世界に突入ということである。ここまでくると、ほとんど「秘経(シークレット・ドクトリン)からの引用が多くなり、あとは、読者ひとりひとりがここから何を得るのか、それぞれが、それをそれぞれに考えなくてはならない。

 「秘経(シークレット・ドクトリン)」が未完のままに分冊で発表されたのが1888年。後にアニーベサントが第三巻を出したという。この壮大なthe rubbish ぶりに、グルジェフの「ベルゼバブの孫への話」を連想する。あちらは1931年に完成、発行されたのは1950年代になってから、ということだったが、あちこちのメモをつないだだけだから、正確ではない。

 グルジェフの著書は、それなりに冷やかしやユーモアも感じられないわけでもなく、物語やSFとしてなら、それはそれなりに楽しむことができるのだが、一連の「神智学」のほうは、結構マジだから、ちょっと手に負えないところがある。

 浦島太郎が竜宮城にいったからと言って、それは嘘でしょう、という人はだれもいない。浦島太郎の話を楽しむ。かぐや姫が月に行ったからと言って、そんなthe rubbish な話、と避難する人はいない。熊と相撲して投げ飛ばした金太郎のことを「超人」と褒めたたえる人もいない。せいぜい「元気」な子供だなぁ、とみんなでそのお話を楽しむだけだ。桃太郎が行った鬼が島がどこに実在するか、などと「探検」にでるのは、それぞれのお好みだが、ほとんどの人は、桃太郎の活躍話を楽しむだけに留まるだろう。

 現代神智学の、とくにこの「太陽系」あたりまでなってくると、どこか「お話」で留めてくれればいいのだが、とかくマジだから、困っちゃう。何万年前にこういうことがあったとか、こういう惑星がどうしたとか、それは、そういうインスピレーションがあった、という「事実」はあるんだろうが、何万年前にこういうことがあったという「事実」は、それを言っている本人にも確証しようがない。ましてや、第三者や他人は、その「お話」を、「なるほど!」と、聞いてあげるにとどまるだろう。

 なんであれ、これで一応パウエルの「神智学大要」全5巻を手にしてみたことがある、という事実は残った。あとは、いやいやながらも「秘経」とやらの頁をめくり始める以外にないだろう。ふ~~~~~。

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インテグラル・スピリチュアリティ<9>

<8>よりつづく  

インテグラル・スピリチュアリティ
「インテグラル・スピリチュアリティ」 <9>
ケン・ウィルバー /松永太郎 春秋社 2008/02 単行本 469p
☆☆☆★★

 A・E・パウエルの「神智学大要」全5巻をめくるにあたって、からなずしも「読書」が大好きでもなければ、「トンデモ世界」が大好きでもない当ブログとしては、いささか、その頁をめくるにあたっての工夫をしなければならなかった。

 ひとつには、部分に拘泥せず、どんどん頁をめくってしまうことであり、ひとつは、全5巻を一気に読んでしまわずに、一冊ごとに、なにか他の本を挟んでいくことによって、その「毒気」を「薄める」工夫であった。

 もともとが古い100年前の本であり、かつまた実証科学性に乏しい世界についての本であってみれば、それに対峙するところの「現代的」で「科学的」な本を挟んで読んでいくことに、いささか妥当性があるように思えた。

 さて、何冊かは成功したように思うが、「神智学大要4巻」を読んだところで、次なる「毒消し本」が不足する事態になった。最近はあまり新刊本を読んでいないばかりか、いわゆる「科学的」な本も、最近は敬遠ぎみである。あちこち手元の本を引っ張り出しては、あれでもない、これでもない、を繰り返した。

 結局、時間切れでもあったからだが、最終的には、このケン・ウィルバーに再登場を願うことなった。いざ、本棚からこの本を引っ張り出してみて、あらためて驚いたことは、その本に付けられた付箋の多さである。縦、横、ななめ、に、赤、青、黄、のさまざまな大小の付箋が、所せましと貼り付けてある。

 ああ、これじゃぁ、ほとんどの頁に付箋が貼ってあって、もともとの付箋の役割をしていないではないか。ここは、えいっ、とばかり、すべての付箋を外してしまった。最近はほとんどの本を図書館から借りているので、その本に傍線を引くなんてことはできない。よっぽど面白いところは、数頁ならコピーをとることもあるが、ほとんどは、付箋で注意喚起する程度で終わる。この習慣が自らの蔵書にも波及してきている。

 しかるに、この「インテグラル・スピリチュアリティ」、こまかく読んで行こうとすれば、突っ込みどころ満載どころか、高度に組み上げられたジグソー・パズルのようで、パーツパーツにひとつひとつの番号をつけておきたくなるほどである。おいおい、ウィルバーさん(ケン、と呼び捨てにするほど親しくはない)、いくら時間と蔵書が有り余っているからと言って、そこまで廃材の有効活用を考えなくてもいいのではないですか、と忠告したくなった。

 いざ付箋を全部はずして、虚心坦懐に、最初の頁から最後の頁まで、ざっと目を通してみると、これがなかなか面白い。巨視的に見た場合、全体像がシンプルに見えてくるのである。仔細な部分にこだわるより、この本はザックリと読むべき本である、と改めて悟った。

 Oshoは「禅宣言」において、ウィルバーに対するコメントの中で、次のように述べている。

 マインドが何世紀にも抱えてきたごみくずを相手にしても、しかたがない。それに巻き込まれてしまった、それをどこまでも掘り続けていっても、見つかるのはガラクタばかりだ。一思いにそこから飛び出したほうがいい---それはあなたではない。世代から世代に伝わる条件づけが、そっくりそこにある。様々な観念がみんなあなたのところまでやって来て、日毎に厚くなっていく。時間が経つにつれて、あなたのマインドは厚くなり、瞑想するのは難しくなる。Osho 「禅宣言」p469「不在になるほど存在する」

 ここでガラクタと邦訳されているのは、the rubbish という単語。たしかに、ごみ、屑、ガラクタ、でたらめ、チリ、などとしか翻訳できないようだ。見方によっては、パウエルの「神智学大要」全5巻だって、the rubbish と表現できないこともない。すくなくとも、一連の文字列のなかから、最終的に「私は誰か」が立ちあがってくるものでなければ、たしかに意味はない。

 さも、パウエルは骨董店で、ウィルバーはリサイクル店でもあるかのようだ。古色蒼然としていれば骨董価値がありそうに見えるし、サンドペーパーで磨いてビニールカバーをかけ直せば、新刊書に見えないこともない。要はそれを購入した側の問題ではあるが、日暮れて道遠し、という状況にだけは陥らないようにしなくてはならない。

 ここに来て思うこと。ケン・ウィルバーは「One Earth One Humanity」というカテゴリにおいては一目おいて注目しておくべき一冊であると思った。しかし、ここ「No Earth No Humanity」においては、いささか浮きあがってきてしまった。そして、いずれやってくる「No Books No Blog」のステージにおいては、胡散霧消してしまうのではないか、という危惧さえでてきた。

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2010/07/05

神智学大要<4> コーザル体

<3>よりつづく 

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「神智学大要」 第4巻  コーザル体 <4>
A・E・パウエル (編集), 仲里 誠桔 (翻訳) 1983/01 たま出版 単行本 373p
Vol.3 No.0069☆☆☆☆★

 全5巻のうち第4巻までくると、だんだんと全体像が見えてくる。まるで精巧なプラモデルをつくっているようだ。精巧であればあるほど、初期的段階では、現在作っているパーツが、一体、完成した場合のどこの部分になるのか、と分からないこともある。完成してしまえば、隠れて見えないところでもある。

 しかし、パーツ、パーツが出来上がり、次第にシャーシーとエンジン部分、そして大まかなボディ全体が出来上がってくると、最終的な完成体がおのずと想像できるようになる。全5巻のうち、第4巻までくると、まさに、イメージとしてはそんな感じがする。

 以前はあまり登場しなかったブラバッキーからの引用も増え、大白色聖同胞団についての記述も多くなる。

 弟子の位になると大師との繋がりはさらに密接になって、弟子の低位心だけでなく、コーザル体の中の魂も大師の中に包まれてしまい、大師としてはもはや弟子を遮断するヴェールを引く必要はなくなる。

 このような段階は、候補者が偉大なる第一イニシエイションを備える上で当然非常に大きな助けになるが、実はイニシエイションとは何の関係もないのであって、イニシエイションは全く別の範疇に属するのである。試補受容、息子の資格は弟子とその大師との関係を示すものであり、イニシエイションはそれを受ける人の大白色聖同胞団とその首長とへの関係を表すものである。

 故に厳密にいえば、大白色聖同胞団は大師とその弟子との関係とは何の係わりもないのであって、後者は全く大師御自身の個人的な考慮の問題である。弟子が第一イニシエイションにふさわしいと大師がお考えになればその事を弟子に知らせて聖同胞団に彼を紹介する。すると同胞団は、その弟子がイニシエイションを受ける用意が出来ているかどうかを聞くだけで、弟子と大師との関係を聞くのではない。p300「得度(イニシエイション)」

 プラモデルはすこしづつ完成に近づく。実物により近い精巧なモデルであれば、もうそれだけで相当に魅力的ではあるが、やっぱり、それはプラモデルでしかないのだ。1/24であろうと、1/8スケールであろうと、あるいは1/1の実寸モデルであろうと、それはやっぱりプラモデルでしかない。

 全5巻を読み切って(頁をめくっているだけの段階だが)しまわないと分からないが、この本が出された1928年という年代が、クリシュナムルティの「星の教団」解散宣言のごくごく直前であったことを考えると、クリシュナムルティは、ここに完成しつつあるプラモデルに乗ることを拒否した。拒否するということが、必ずしも否定ということではなく、それを止揚するための否定であった可能性もある。

 1902年から1912年まで神智学協会ドイツ支部の指導者を務めたルドルフ・シュタイナーなども、ベースとしてはこの「神智学」の大要を学んでいることになる。のちに人智学として独自の道を歩んだとしても、これらの一連のあれやこれやを、どのように見ていたのか、ということも、この辺で当ブログなりに把握しておく必要があるだろう。

 もちろん、1915年にG・I・グルジェフと出会い、それからの8年間をそのワークの中で過ごしたP・D・ウスペンスキーもまた、このような背景の中で、その人生を生きていたのである。当ブログの、あまり精巧とはいえないプラモデル(ともいえない木工モデル程度のものか、あるいはそこにも及ばないポンコツだが)のパーツも、すこしづつ、全体像を想像させる瞬間が増えてきている。

<5>につづく

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2010/07/04

触発する図書館<1>空間が創造力を育てる

触発する図書館―空間が創造力を育てる
「触発する図書館」<1> 空間が創造力を育てる
大串 夏身 (著), 高野 洋平 (著), 高木 万貴子 (著), 鳴海 雅人 (著) 2010/04 青弓社 単行本: 141p
Vol.3 No.0068☆☆☆☆★

 それは人間の可能性を高めることにつながります。その意味で、図書館の可能性とは人間の可能性だといえます。
 図書館の空間とは、人間をより創造的なものへ成長させる空間です。人間の認識は、額主を通してあらかじめ定められた体系的なものへと整備されていくものではなく、科学や社会や文学など個別領域の認識が一人の人間のなかでそれぞれに影響し合いながら、経験や学習や人との交流を通して成長して融合したものです
p008大串「プロローグ」

 そうそう、「人間の可能性」が最近の当ブログを支えるテーマの一つに成長してきたのであった。

 アレクサンドリア図書館は、西ローマ帝国が崩壊したあと、急にその姿を消します。パピルスや羊皮紙に書かれた数十万の本も姿を消しました。それらの一部は東ローマ帝国に図書館に伝えられました。

 西ヨーロッパは羊皮紙の写本の時代に入ります。図書館の規模も多くて数百冊、1千冊以上の蔵書を持つ図書館はまれという図書館暗黒の時代に突入しました。

 東ビザンチン帝国に引きつがれたギリシャ・ローマ時代の書物は1453年、ビザンチン帝国がオスマントルコ帝国に滅ぼされることで消滅する運命にありました。このとき、脱出した知識人とともにギリシャ・ローマ時代の書物ももち出され、西ヨーロッパにもたらされたます。その時期がちょうど、ドイツで活版印刷が生み出されたのと重なるのです。歴史の偶然といえるでしょう。p132大串「図書館は時空を超えて増殖する」

 コンシャスネスに関する知識がオープンになりつつあるこの時代、まさにインターネットの爆発と重なることによって、地球レベルのスピリチュアリティが現出しつつある、と括ってみることもできる。

 図書館というコンテナ、本というコンテンツ、そして、それを読む人間のコンシャスネスが、どこまでリンクし、どこまで人間の可能性を広げてくれるだろうか。

<2>につづく

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神智学大要<3> メンタル体

<2>からつづく

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「神智学大要」 第3巻 メンタル体 <3>
A・E・パウエル (編集), 仲里 誠桔 (翻訳) 1982/09 たま出版 単行本: 362p
Vol.3 No.0067☆☆☆☆★

 エーテル体、アストラル体、メンタル体、あるいはコーザル体という言葉使いはあっても、必ずしも字義通りの区別があるわけではない。むしろ、これらの概念はもっと細かに説明されていて、まるで虹色は3色なのか7色なのか、9色なのか、といった具合に、極めて便宜的な説明と言わざるを得ない。

 それは、アニー・ベサントとリードビーターのあまたある著書を大まとめにまとめたものが本書であり、必ずしも整合性のとれるような理論家や体系化を目指したものでなかった、というところに原因がありそうだ。これにブラヴァッキーの著書を交えたら、トンデモないことになりそうだ、とパウエルは予感している。

 約100年前の欧米社会では心霊主義がいろいろとはびこっていただろうし、交霊会のようなセッションは数多く行われていただろうし、さまざまな現象や特異性格や変性意識の現場から寄り集められたデータは限りなくあったに違いない。

 ここに集められたるデータはそのまま今日の私たちが日常的に扱うことができるものばかりではないが、すくなくとも、こういう時代背景があったのだ、と理解することによって、ウスペンスキーやらクリシュナムルティの若い時代の精神的彷徨が垣間見えてくる部分もある。

 瞑想についても書いてあるが、興味深いのはほんの一部で、あまりにいろいろな、いわゆる当時の現代神智学的色づけで語られているので、こちらも、すんなりと私たちを瞑想へと導いてくれるものではない。

 アカーシャの記録などについても興味深い。しかし、仏典などでアラヤ識などと翻訳されているであろう事象と重なってくる部分ではあるが、これもまた現代神智学的解釈であり、これはこれとして、別途、他の流れの解釈と、比較検討してみる価値はありそうだ。

 この本で一番気になったところは、第33章「弟子の資格」あたりであろうか。

 大師の弟子(チベット語でいうチェラ)となり、やがては大白色聖同胞因の盟員となることを目ざす人にとって、アストラル体はもちろんだがメンタル体を制御し、鍛練し、発達させることがその任務のうちの重要な部分となる。p336「弟子の資格」

 ここでいうところの「大白色聖同胞因」(ママ)とは、以前は、トンデモ本でしか語られないものであると思っていた。しかし、しかし最近分かったことであるが、この言葉をトンデモ本でしか発見しなかったのは、私がトンデモ本しか読んでいなかったからであり(笑)、いわゆる現代神智学では、結構真面目に語られているということであった。

 当然1980年代の後半からOshoの近辺で起こったホワイトローブ・ブラザーフッドは、あきらかにここで言われているところの「大白色聖同胞因」とシノニムスがあるはずである。70年前後に見られる七つの身体論と共に、Oshoが、現代神智学の流れをなんとか受け止めようとする試みの一つとみることも可能だろう。あるいは、もっと別な解釈があるかもしれない。

 最後に、いわゆる秘密結社FMについて触れているところもあるが、そもそも当ブログはそれらのトンデモ本や陰謀論などは、その興味があるなしにかかわらず、距離をおいて接しているが、今後留意して読み進めていくべき点ではあろう。

<4>につづく

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GOOGLED:The End of The World as We Know It.

グーグル秘録
「グーグル秘録」 完全なる破壊
ケン・オーレッタ (著), 土方 奈美 (翻訳) 2010/5 文藝春秋 単行本 552p
Vol.3 No.0066☆☆☆☆★

 これまでもGoogl=グーグルについての本は結構な数を読んできた。ひとつひとつ面白いのだが、同じことを何回も読まされている気分も残る。これは、アメリカのハードカバー本の作り方によるところが大きいようだ。日本なら、分量もこの5分の1位の新書本で終わってしまうようなネタも、アメリカなら、超豪華版のハードカバーになってしまう。

 この本の邦訳は2010年の5月にでているが、原書も2009年。本来であれば、ごく最近の状況さえ読めればいいのだが、なぜか、グーグルの誕生秘話から書き起こされる。1999年当時のことなんか、もうどうでもいいではないか、とさえ思う。なぜなら、ドッグイアーならぬ、グーグルイアーでは、もう10年前のことなんか、雲泥の差でお話にならないことばかりなのだから。

 この本を手にしてドギッとするのは、このタイトルだろう。「GOOGLED」。過去形だ。世界がグーグル化されてしまった。完全完了だ。日本語タイトルの「グーグル秘録」では迫力がないが、サブタイトルの「完全なる破壊」とまで言いきってしまうところに、並みいるグーグル本の中でも、この本が際立っている特徴点である。

 当ブログは、ネット上のオープンな空間におかれているので、さまざまな来訪者がある。友人たちだけにオープンするというようなSNSではない。だから、どちら様も大歓迎(スパムは駄目!)ではあるが、事実だけ言えば、当ブログの最大のお客様はグーグルボッドだ。彼は毎日毎日当ブログを訪れては情報をスキャンしていく。その数も半端ではない。オーナーの私より、回数やページ数では上回るだろう。

 もっとも、個人的な業務上のネット空間は、かなりセキュリティが高く、部外者はほとんどその存在も知らず、入り込むことはほぼ不可能なので、逆に、へそ曲がりな私などは、窮屈でたまらないのだが、こちらのブログ環境などでは、どんどんオープンな繋がりを期待してしまうのである。もっとも、オープンであればあるほど、公開すべき個人情報は限定しなくてはならないので、ここは反比例の法則を働かせざるを得ない。

 民主的な精神や”群衆の叡智”への信念はそれとして、グーグルでは、エンジニアこそその群衆の上に立つキングだ。p302

 創立以来、驚異的なスピードで成長を遂げてきたグーグルは、まさにグーグル的、と表現する以外にできない現象をたくさん産んできたが、長い人類史の中ですべて証明されてきているように、すべては生者必衰の理りがある。いずれはグーグルも衰える。だから現在は猫だましのように目くらましをされているところがあるが、よくよくたまにはチェックしていかなくてはならない。

 上記の「民主的な精神」や「群衆の叡智」は、まさにマルチチュードなどとの整合性を高く歌われるところだが、その「群衆」の上にたつ、という表現はいただけない。本音であったとしたら、これはこれとして、早めにそのことに気づいておく必要がある。

 そして、グーグルにおけるキングがもし「エンジニア」だとするならば、それは当ブログでいうところの3C論の、まさに「コンテナ」の部分に位置するのだ、ということを強く確認しておかなくてはならない。

 この「GOOGLED」という本が、「ニューヨーカー」の記者によって書かれているように、アメリカのハードカバー本は、敢えてコンテンツとしての質を高めるかのように、さまざまな付加価値をつけて表現されている。コンテナについては、アート部門のコンテンツ部門のリードが必要だ。

 しかし、もし本当に「群衆」の上に位置する「キング」が必要だとするならば、それは、コンテナ部門のエンジニア達の技術でもなければ、コンテンツ部門のアーティストやジャーナリストたち表現者たちではないだろう。本来、キングの位置に登場すべきは、コンシャスネス領域の瞑想者であり、覚者だ。本当に必要な部分はここだ。

 ネット社会は十分成熟しきってはいない。それは人類がその可能性をすべてかなえていないのだから仕方ないとして、ただ、まだかなえられていないのだ、ということを強く認識して、さらにはそれはどの方向に導かれるべきなのかを、ひとりひとり、内なるものに問わなくてはならない。

 過去4カ月のアクセスログを見ると、検索サイトから当ブログへのアクセスのうち、88%がグーグルからだ。第二位のヤフーは6.4%にとどまっている。Bigloveやgooも総量としてはかなりの数字を稼いではいるのだが、パーセントを見れば、2.6%程度。それ以下の検索サイトにいたっては、ご苦労さまと頭を下げるしかない。ちなみに当ブログの提供サイトであるニフティの@niftyからの検索は0.1%だった。

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神智学大要<2> アストラル体

<1>からつづく

5
「神智学大要」 第2巻  アストラル体 <2>
A・E・パウエル (編集), 仲里 誠桔 (翻訳) たま出版 1981/01 313p
Vol.3 No.0065☆☆☆★★

 個人的には不用意な評価をすべきではないと思っている。読まれるべきは読まれても、書かれざることを書いておくと、不用意な、うち続くなにごとかに左右される可能性がある。あえて 言うなら、いわゆる敬遠すべき書物たち、ということになる。

 当ブログにおいては、図書館や書店に並ぶ書籍群を、漠然と、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、に分けてきた。「ウェブ進化論」などはコンテナに振り分け、「カラマーゾフの兄弟」のようなものはコンテンツに振り分けた。では、コンシャスネスの分野と言われると、現在のところ、これ、という一押しの決定打はないが、敢えてここは「禅宣言」あたりを出しておこう。

 しかし、これら三つの分野においても、さらに三つに分けることが可能ではある。例えばコンテナ群においては、佐々木俊尚「2011年新聞・テレビ消滅」のように、コンテナの更にコンテナ化、つまりコンベアを想定して3C論などと、当ブログから見れば後退現象のような兆候もある。

 あるいは、梅田望夫の「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代」などには、コンテナ群においては優れたコンシャスネス化が図られているかのようにも思うのだが、せいぜいコンテナ群に属しているという縛りは逃れようがない。ここで便宜上、コンテナ1、コンテナ2、コンテナ3のように、当ブログなりの表記をしておく。

 ではコンテンツ群で考えれば、例えば「カラマーゾフの兄弟」をコンテンツ2とするなら、一連の立花隆の著作などはコンテンツ1に留まるだろうし、より透明度を高めたとしても、ミハイル・ナイーミや、カリール・ジブランは、コンテンツ3あたりに位置する、ということになるだろう。

 ではコンシャスネスのステージでいえばどうなるか、と言えば、仮りに「禅宣言」をコンシャスネス2、とするなら、クリシュナムルティの「自我の終焉」などもやはりコンシャスネス2に分類するしかないだろう。

 一連のウスペンスキーやグルジェフはどの辺に来るか、となると、これもなかなか難しいことになるが、敢えていうならコンテンツ3か、コンシャスネス1がふさわしい、と思わないわけでもない。では、コンシャスネス3とはなにか、と言えば、ここはかぎりなく透明化しているので、敢えて言えば「イーシャ・ウパニシャッド」のようなものが入ってくるかとも思われるが、本来は、コンシャスネス3には入るものは、本当はあり得ない。

 コンシャスネスのコンシャスネス領域(つまりコンシャスネス3)においては、語られることもなく、聞かれることもない、という現象がおきる。当ブログでいえば、やがてやってくる「No Books No Blog」の領域だ。まぁ、しかし、この辺は、個人的なマトリックスの、個人的な恣意的な分類法によるものであり、個人的な好みに大きく左右される。

 さて、このような分類で考えると、この「神智学大要」は、せいぜい、コンシャスネス1、という分類が正しいであろう。この本を支えるものとして、ブラヴァッキーや、アニー・ベサント、リードビーターなどがあり、その支柱群を経めぐってこないことには、正しい評価はできない。

 あるいは場合によっては、このシリーズはコンテンツ2に成り下がることもできるし、コンテナ3に留まってしまう場合さえ想定できる。いや、実際には、現在の個人的な評価はコンテナ3でしかないのだ。この書を読み進めるのは相当に難しい。こちらのコンシャスネス力が問われる。

<3>につづく

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2010/07/03

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか <2>

<1>よりつづく

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書) 
「ウェブ時代をゆく」 いかに働き、いかに学ぶか<2>
梅田 望夫 (著) 2007/11 筑摩書房 新書: 256p
☆☆☆☆★ 

 なにかのバランスを取るかのように、現代神智学のエーテル体やらアストラル体、コーザル体などの言葉群にさらされていたら、急に、こちらの、一連の梅田望夫本が読みたくなった。一度整理しておかなくてはならないとは思っていた。

 むろん自分にとっての重要な本を座右に置くことの意味は絶対になくならない。しかしネット上にアレキサンドリアの理想通りの万能図書館が誰にも無償で開かれる時代には、そのことの意味も相対化されていく。充実した知的生活を営むためには、そこに注ぎ込み得る時間こそが希少資源となっったのである。

 間違いなく十年後には、知的生活を送りたい人にとって最高の環境がウェブ上にできあがっているはずだ。環境をもつための努力ではなく、誰にも与えられる最高の環境をどれだけ活かせるかに知的生活のポイントが移行する。知的生活に惜しみなく時間を使えることこそが最優先事項となるだろう。
p159

 当ブログは、現在、Vol.1~2を総合すると、日々数百のアクセスがある。いつ減り始めるか、と思ってはいたのだが、今のところ、急増とまではいかないが、依然として横ばい状態で、減ることはない。

 アクセスログ解析を活用すれば、来訪者の傾向と素顔がまったく見えないわけでもなく、むしろ、当ブログは、現在見えているアクセス者たちとの「クラウドソーシング」を目論見始めている。

 毎日来る人もあれば、忘れた頃にひょっこりやって来る旧友たちもいる。90%は一見さんだが、残り10%は、わざわざ当ブログを目ざしてやってきてくれる。その数は決して多くはないのだが、その数は確実に増えている。

 現在、当ブログでは、おおよそ108人の来訪者を想定して、テーマを選び、書込みの進行を計画して行こうと思っている。当然、一人ひとりの個性には強弱がある。しかし、SNSのような「閉じられた空間」ではなくて、ブログのような「開かれた空間」において、これだけのアクセス者の顔が見えつつある、というのは驚異的なことだ、と個人的に強く思う。

 さて、そんなことを考え始めたのは、「神智学大要」を読み始めたからだ。A・E・パウエルが、あのシリーズをまとめたのは1928年当時のこと。東西の文化の在り方も、交通も、情報も、2010年の現在とはまったく違っていた。

 コリン・ウィルソンが、皿洗いなどの仕事をしながら、フリーターのごとくの風体で大英図書館に通った1950年代とか、通販ネットワークを駆使して、あらゆるスピリチュアルな本を買い集めて独学したケン・ウィルバーの1970年代と比較すれば、2010年のウェブ時代を生きている私たちは、大きく違った環境に生きている。

 立花隆の蔵書を集めた仕事場「猫ビル」とか、松岡正剛の「千夜千冊」を生みだす個人図書館の存在は、たしかに迫力はあったにしても、限りなく魅力的に見える時代は終わっている。

 ネットを使えば、2010年を生きている私たちは、少なくとも、図書を利用できる、という意味では、誰でもが、コリン・ウィルソンにも、ケン・ウィルバーにもなれるし、立花隆、松岡正剛と言った現代の知的コングロマリット達にさえ十分対抗できるはずなのである。

 敢えて、当ブログが、無料ブログサービスと、公立図書館の開架棚にある図書にこだわってきたのは、そういうカウンター意識があった。一部の知的エリート達だけが享受できる知的環境というものはすでに崩壊しつつある。誰もが、望みさえすれば、この地球上に現れた最高の知的存在にアクセスすることのできる可能性はでてきているのだ。

 マダム・ブラバッキー、P・D・ウスペンスキーやG・I・グルジェフ、あるいはニコライ・レーリヒのように、一部の人たちだけが、世界を旅行し、その秘教を体験できるという時代があった。その場に行き、その道を体験することの重要性は今でも変わらない。

 だが、そのような「恵まれた」環境にある者だけが、それゆえに評価され愛される時代というものは、かぎりなく速やかに終わるつつあるのだ。だれもが、旅をし、体験することができる時代が来つつある。

 しかし、ここまで語られたことは、コンテナの次元のことであり、せいぜい拡大してもコンテンツまでのお話のことだ。コンシャスネスにおいては、そう簡単に物事は進まない。いや、むしろコンシャスネスにおいては、昔も今も、なんにも変っていないのだ。

 コンテナ、コンテンツは十分に提供されている。もうそれは検証済みのことだ。しかし、問題はこれからだ。コンシャスネスのステージにおいては、誰もがイージーに体験できる、味わえる、という時代にはなっていない。あるいは、それは、「時代」ではなく、ひとりひとりの「個」にまかされた次元の問題となる。

 A・E・パウエルもまた、そういった意味においてコンテナ、コンテンツに恵まれた一人であったことは間違いない。その時代において、多くの情報に触れることができ、それを整理することのできる知性に恵まれていた。そしてシリーズ本をまとめることができた。

 現代神智学とはまだ、キチンと正対峙できないでいる当ブログだが、いたずらに100年、200年の過去に戻るだけが得策ではない。20世紀、19世紀あるいは中世や古代の知識を学びつつ、私たちは、ITが跋扈するウェブ時代を生きているのだ、ということを忘れることはできない。

 例えばパウエルの提示する用語ひとつひとつに対しても、2010年なら2010年なりの検証が必要なのではないか。そして、それはこの時代にこそ許された技術や環境というものがある。そしてオープンソースとしての、クラウドソーシングの思想がある。

 そのような視点から、現代神智学の再検証が必要であろう。てらいのない徹底的な検証が必要だ。そして、もちろんそこには個々の「体験」、個々の「理解」に裏付けられた「知識」が必要だ。個々の体験はなかなか共有できないものだが、幸いウェブ時代には「匿名性」とか「同時性」という特性がある。そこからさらにその大きな特性のひとつである「双方向性」が活性化される時、21世紀的神智学が立ち現われてくるはずだ、という強い予感がある。

 梅田望夫は、当ブログから見ると「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代」あたりで、足踏みしているように見える。そもそもITコンサルタントであってみれば、「いかに働き、いかに学ぶか」という枠組みから外れる書物を容易に出せないことはよくわかる。しかし、人生は、「いかに働き、いかに学ぶか」という結論に再到達する前に、コンシャスネスのステージが「個」的に熟成される必要がある。

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神智学大要<1> エーテル体

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「神智学大要」 第1巻  エーテル体 <1>
A.E. パウエル (編集), 仲里 誠桔 (翻訳) たま出版  1981/06 単行本 p212
Vol.3 No.0064☆☆☆★★

 この手の本は苦手なのだから、読むには読んでも、ブログなどに書きつけておくことなど最小限にとどめておきたい。どんな人がこのような本を読むのだろう、と検索してみると、近くの図書館には1981年の初版と、5冊合本になった1984年セット版が揃っていたので、驚いた。せっかくだから、ふたつとも借り出したが、内容はまったく同じだった。

 もっとも、その後、年を追うごとに、21世紀になっても、さまざまな改訂版やら決定版などというものもあるらしいので、内容や翻訳も違って来ているかもしれない。表紙デザインも大きく変化しているし、多くの人に読まれている形跡がある。

 図版も多く取り入れられ、身体論やチャクラ、クンダリーニ論などについても、諸説並列の形で書かれている。すべては著者パウエルが集めたものを、彼自身のセンスでまとめたものであり、必ずしも、一個の体験として、統一された認識ではない。

 ただ、著者がいうように、このような形でまとめられることの良し悪しはあれど、メリットもなくはないだろう。たしかに全体的に俯瞰的に見る場合、いわゆる現代神智学がどのようなまとめ方を試みたか、興味は湧く。

 しかし、それは結局、外側にある物好きなゴシップの連続になりやすく、自分自身のこととなると、むしろ、それは弊害になる危険性が高くなる。例えば、リードビーターの「チャクラ」なども面白いのだが、個人的な体験からすると、その見え方は大きく違っている。

 実際的な医学のような臓器に関する図解ならともかく、内視するエネルギーだから、見る者によって、その見え方は大きく異なってしかるべきだ。そこに共通するのは、個々における「納得」だけなのであって、図解され、カラーで色づけされればされるほど、誤解は大きくなってしまう危険性が高い。

 このようなものがあるらしい、というきっかけで自分の内面を見つめる旅を始めるにはいいかもしれない。だが、そこに書いてあることをそのまま自分の内部に求めようとすると、まったく見つからないばかりか、自分でそこに虚構を生みだし、ひいては袋小路や迷い道にさまようことにもなりかねない。

 言葉使いなども、敢えて、統一したりすることには拘泥したくない。この本は5冊セットになっており、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、太陽系、などのタイトルでまとめられている。これらの言葉群も、それだけで地場を持ってしまう可能性があるので、敢えてここは、単に、本やものごとのを識別するための単なるインデックスとしてだけ使いたい。

 Oshoの初期、特に1970年前後に語られた講話録、とくにヒンディー語などで語られたものは、これらの現代神智学の概念を借りて語られているものも、多くありそうだ。特に「奇跡の探究」などは、その言葉使いや概念は、まさに現代神智学そのものと言っていいくらいだ。

 しかし、もともと古代より続いている叡智だとするならば、数ある表現方法の中から、敢えて、我がマスターが、そのところだけそのように表現しているとするならば、なぜ他のものを採用しないで、その部分を引用したのか、など、弟子としては、興味深いものがある。

 そういう意味では、マスターが引用した部分と、「引用しなかった部分」を対比させてみる意味でも、このような「神智学大要」シリーズに目を通しておくことも、悪くはあるまい。必須条件だとは思わないが、いずれの意味においても視野狭窄にならないように、裸眼で、物事を見る訓練は必要だ。

<2>につづく

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2010/07/02

ターシャム・オルガヌム<7>

<6>よりつづく

ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)―世界の謎への鍵
「ターシャム・オルガヌム」(第三の思考規範)―世界の謎への鍵 <7>
P.D. ウスペンスキー , 高橋 弘泰 , 小森 健太朗 2000/06 コスモスライブラリー 単行本p451
☆☆☆☆☆

 今回もまた、この本を図書館に返すタイミングがやってきた。読めば読むほど、ウースペンスキーが当時の現代神智学の中で、必死に蠢いている感じが浮きあがってくる。すでに何回かめくったはずなのに、どうしてそのことに気がつかなかったのだろう。気がつきたくなかったんだろうな。そう思いたくなかった。

 そうは言っても、事実は事実として、ウスペンスキーを理解しようとすれば、当然のごとく、彼がそこを後ろにして羽ばたこうとした現代神智学というものの全容を俯瞰しておく必要がでてくる。クリシュナムルティもまた現代神智学という背景の中から飛び出した。二人とも、同じ時代に、同じような風景を背にしながら、違った環境の中で、それぞれの道へと歩み始めた。

 「ターシャル・オルガヌム」にはロシア版があったり、英語版やら改訂版などがあって、どれが一番重要ということは容易に決定できないが、今、こうして手元にある改訂版の邦訳に頼ることしかできない。改訂がいくつか重ねられていると、誤字脱字の訂正ならともかくとして、その他に用語の統一とか、趣旨の変換とかがあったりするとなれば、時代を経た一読者としては、なんだか、ためらい傷のように見えて、いまひとつスッキリしない。

 しかしそれでもなお、一読者としては、読めば読むほど新しい発見があり、今後も何回かこの本をめくっていくことになるだろう。いずれは自分用に一冊準備するとしても、手元に置いたというだけでは、また積ん読本になってしまうので、こうして図書館から借りたり返却しながらそのたびごとにメモし続けることも、まぁ、当ブログなりの流儀ではあろう。

 そういえば、以前、当ブログ「何回もページをめくった本ベスト10」という書込みをしたことがある。当時の第一位は「ウェブ進化論」の46回であったが、あれはもう閉じたままになっている。第二位の「私が愛した本」などは当時30回だったのに、現在はすでに80回になっている。この本をきっかけにあと何回も書き込みすることになるのだろう。

 ふと、108という数字が浮かんできた。108-80=26。この本を「めくる」回数はあと残る26回に限定してみようか。BIHL16までつづくとして、残る13セッション分をまとめれば、ちょうど13*2=26となって、ちょうどいいくらいだな。それより続きそうだったら、また一回目から新規まき直しにしたらいい。

 そんなことを考えていて、カテゴリ名「No Earth No Humanity」は必ずしも悪いネーミングではなかったと思う。まだ17個の書込みをしただけだが、もう次のカテゴリ名を思いついた。次なるカテゴリ名は「No Books No Blog」だ。

 先日の夏至に「上半期に読んだ新刊本ベスト10」をアップしたが、今年上半期に読んだ新刊本なんて、ようやくこのベスト10を構成する程度のものでしかなかった。それだけに、一冊一冊が粒ぞろいだったが、すくなくとも、当ブログは、「読書ブログ」として、次から次へと新しい「本」を追いかける時代は終わりつつある、と言えるだろう。

 本ではなく、その中身だ。だから、繰り返し読むに値する本をそろそろ何冊か準備し、BIHLではないにしても、108回くらい何度もめくってみたくなるような本を持つ時代になりつつあるのだ。そして、それは多分「本」ではないのだ。そこに書かれている何か。例えばこの「ターシャム・オルガヌム」であれば、テーマは「意識」だ。そこの掘り下げ、そこの積み上げ、そこの透明化、そこの見極めの必要性が、次第に見えてきていると言える。

 そしてインプットとしての「読書」、アウトプットの「ブログ」という形は次第に曖昧化し、よりジンテーゼとしての「意識」が中心となるだろう。本もなくなり、ブログもなくなる。そういうステージは必ず来る。そして、より「意識」というテーマに集約されるステージが来る。そのステージに残る中の一冊として、この本は存在する可能性がでてきた。いずれやって来る「地球人スピリット・ジャーナル」最終章に向けて、当ブログは、大きく舵を切り始めている。

つづく・・・・

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2010/07/01

自我の終焉―絶対自由への道 <3>

<2>からつづく

Jk
「自我の終焉」絶対自由への道 <3>
J.クリシュナムーティ (著), 根本 宏 (翻訳), 山口 圭三郎 (翻訳) 1980/08 篠崎書林 単行本: 446p
☆☆☆☆★

 こちらもまた「BIHL3」の5番目に「The First and the Last Freedom by J. Krishnamurti」として登場してくる一冊である。ようやく「BIHL1~2」の準備が整ったところなのに「BIHL3」へと上滑りしてしまっていいのか、という忸怩たる思いは残る。

 しかし、BIHL1はその10冊として完結することを望まず、BIHL2の11冊を加えてマジックナンバー21としたところで、オリの中に放り込まれた猛獣たちは、さらなる自由を求めて、括りとしてはばかるオリの金柵を食いちぎる。

 そこで便宜上、BIHL3の8冊を加え、29冊の括りを考えてみる。29もまた当ブログにおいては、重要なマジック・ナンバーのひとつである。いずれはこのささやかな俄か作りの金柵は食いちぎられ踏み倒される運命にあるのだが、非力な一読書ブログ子に、残された秘策はほとんど残されていない。

 さて、クリシュナムルティ、なぜこんなに読みにくいのか(当ブログにとって)を考えてみた。ひとつ、この本の原書は1954年に発行されている。その年は私が生まれた年でもあるので、記念すべき年ではあるのだが、1895年生まれのクリシュナムルティーはすでに還暦を迎える時代となっていた。

 1929年に「星の教団」を解散し、1930年には神智学協会をも脱退したクリシュナムルティは、それからこの本が出るまでの四半世紀に渡って、一般には無名、あるいは「神秘」のベールに包まれていた。詳しい経歴さえ、つまびらかにされていなかった。だから、さまざまな誤解やフレームアップに包まれていて、その中にこれら一連のクリシュナムルティーの言辞があると、ごみ捨て場で白鳥に出会ったような、普通の白でも、より純白に見えたのかも知れない。

 一般的には、彼の邦訳がでたのは、この「自我の終焉」が最初であり、時代はすでに1980年となっていた。その時、クリシュナムルティ御年、85歳。日本で「唯一の『星の教団』の会員」だったとされる今武平の息子・今日出海でさえ、この本を1980年になって、偶然、書店の店頭で手に取ったというのだから、日本ではまったく無名だった、ということになる。

 個人的には、私が肉体的にクリシュナムルティに一番近かったのは1977年のこと。ボンベイからプーナに向かい、ようやくアシュラム生活にも慣れてきた頃、周辺の何人かのサニヤシン達がボンベイに向かった。クリシュナムルティの講演会があったのだ。

 あの時、誘いに乗って私もボンベイまで行っていれば、私の生涯にわたる「自慢話」のひとつにでもなるところだが、40年以上経過した今でも、なぜか、惜しかったなぁ、失敗したなぁ、とは思わない。Oshoの講話でクリシュナムルティのことは知っていたが、その人物のなりや業績(?)については何も知らなかったから止むを得ない。だが、そのような精神世界の「有名人」に会って舞い上がる、ということ自体、クリシュナムルティが指摘している精神世界の落とし穴でも、あった。

 いずれにせよ、1980年にでたこの邦訳にはオルダス・ハクスレーの序文は載っておらず、巻末においては、鈴木大拙がハクスレーを通じてクリシュナムルティを知っていなかったのは惜しかった、というような表現p432があるが、どうやらこれは誤解であるようだ。大拙は、一時「神智学協会」日本支部の代表格として存在したことがあったようで、その後のクリシュナムルティの登場についてまったく知らなかった、ということはないだろう。

 かくのごとくよくわからないまま、誤解や虚飾を交えて紹介されてきたクリシュナムルティであるし、アンソロジーのように何十年間のものを一気にまとめて読まされる側にしてみれば、「読みにくい」のは当然なのではないか、と思う。禅に近い、と一部で評価されるクリシュナムルティではあるが、よくよく自分なりに、原寸大で判断しないと、まだまだ総合的評価はできない。

つづく・・・・・ 

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知覚の扉・天国と地獄

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「知覚の扉・天国と地獄」
オルダス・ハックスレー (著), 今村 光一 (翻訳)1976/03 河出書房新社 単行本 p192
Vol.3 No.0063☆☆☆★★

 この本の原書は1954年にでている。クリシュナムルティの「The First and Last Freedom(邦訳・自我の終焉)」もまた同じ1954年にでている。そしてハクスレーは、クリシュナムルティの本の序文を10ページに渡って書いている。残念ながらその部分は邦訳からは割愛されているが、二人のこの時代の親密ぶりを物語っている。

 ハクスレーはここから亡くなる1963年あたりまで、「エスリンとアメリカの覚醒」に繋がっていいくような動きをする。この「知覚の扉・天国と地獄」はハクスレーの代表作とも目される本である。全般にサイケデリックスに彩られ、場合によっては、同好の人々に教則本的な扱われ方さえされている。

 ハクスレーの邦訳・近刊としては「多次元に生きる 人間の可能性を求めて」2010/02を読んだ。あるいは、当ブログで進行中のテーマに連なるものとして、「永遠の哲学 究極のリアリティ 」1988/03などにも目を通した。その他「素晴らしい新世界」や小説「島」などもいずれ目を通す必要があるだろう。

 ただ、よくもわるくも20世紀中盤以降に強いモダニズムとして現れたサイケデリックスについて、それが、ナチュラルであろうとケミカルであろうと、21世紀の今日もまた継続して「実験」し続けなければならないのだろうか、と、強い疑問は湧きあがる。

 古代や中世において、高い精神性や秘儀の中で使われたサイケデリックスが公開され、一般化されることによって、20世紀後半にはすでに風俗と化し、乱用されるに至っている。個々の問題については個々に対処しなければならないが、ことコンシャスネスというキーワードにおいてハクスレーを再読する時に、この部分だけに注目し、抜き書きするようなことはあってはなるまい。

 ましてや、当ブログのような不特定多数にオープンな姿勢を取っている「読書ブログ」としては、好奇なスノビズムだけでハクスレーを見ることは、内外にとって極めて危険である。ただ、クリシュナムルティを読み進めたり、人間に可能な進化の心理学に想いを馳せるとき、ハクスレーの名前は避けて通れない。

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