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2010/07/25

信心銘 NEITHER THIS NOR THAT<3>

<2>からつづく

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「信心銘」 NEITHER THIS NOR THAT <3>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳) 禅文化研究所 1994/06 単行本: 470p
☆☆☆☆☆

 この本、「オショウの講話タイトル:年代順」(シーポヨのしわざ)でみるところの74/10/21から10日間に渡って語られた「Hsin Hsin Ming: The Book of Nothing 」であるはずなのだが、サブタイトルが違っている。いくつかのヴァージョンの違ったテキストがあるのかもしれない。

 三祖僧璨(そうさん)は、菩提達摩→慧可→僧璨というほとんど伝説や神話の部類に位置する存在だ。6世紀から~7世紀の中国禅伝統のほんの初期の人で、7世紀半ばに成立した『続高僧伝』には名前がみえるものの、その人物像も言行録も詳しくはわからなかった。20世紀になって敦煌で発見された写本の数々の中で、ふたたび僧璨の詩句が脚光を浴び、欧米でも人気を得るようになったという。

大いなる道は難しくない。
選り好みをしなければよいだけだ。
愛も憎しみもなければ、
すべては明瞭で、隠されたものとてない。
だが、ほんの僅かな区別でもすれば、
天と地は無限に離れる。
だから、真理を見たいと願うなら、
いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。
好きとか嫌いの葛藤、
これが心の病だ。
p3「第一章 大いなる道」

 まるで、カリール・ジブランの「預言者」の一節であるかのように、軽く、的確で、美しい。しかし「信心銘」には、詩文としての美しさに加えて、見者としての僧璨のリアリティをともなった真実がある。あくまでも静かに読み手の感受性に働きかけてくるので、それは確かに左手で持たねばならないような、あやうさも伴うが、そここそがこの本の持ち味である。

僧璨の「信心銘」はもともと禅の本質でありながら、禅ぽくないところが魅力である。かなり核心をずばりと射ぬいている。だから当然のごとく、Oshoの「信心銘」もいわゆる禅臭さがない。いやむしろ、禅の文化的香りは、ずっと後世になってから付加されたものであって、その源泉においては限りなく無色透明であったのだと思われる。

 Oshoはボンベイのアパートメントからプーナのアシュラムに引っ越した1974年の3月から、すこしづつその講話の局面を変え、話しをするべき聴衆の傾向を変えていった。この「信心銘」をテキストとして講話したのは1974年の秋のこと。実際、実に簡潔な僧璨の言葉になにを加えることも必要がないのであろうが、この言葉を借りながら、Oshoは新局面の波動を調整している。

 私はこの本について、話したことがある。そして、あれ以上に話すことを愛したことhない。私の講話の最高の瞬間は、僧璨について話しているときだった。話すことと、沈黙があった・・・・・。話していながら、しかも話していない。なぜなら、僧璨は話さないことでしか説明されえないからだ。彼は言葉の人ではなかった。沈黙の人だった。彼はまさに最小限を語った。許してくれ、僧璨。私はあなたを忘れた。あなたのおかげで、扉を叩いて私の午睡を妨げるような二、三の本を思い出した。だからそれについても触れたほうがいいだろう。
 一番目は僧璨の「信心銘」だ。
Osho「私が愛した本」p28

 こう話すのは、1981年のOshoだ。7年前の「信心銘」を語った時と、さらにここからさらに7年後に「最後のZENシリーズ」を語る時のOshoでは、かなりの局面の違いがある。話している内容が違っているということではなく、一つのことを話すにおいても、これだけ幅広く話すことができる、という意味合いにおいてだ。もっというなら、ひとつのことを話していたわけではなく、自由闊達に「ありのままに」Nothingnessを語っていただけ、ということになるのだろうが。

 このOsho「信心銘」を再読しながら、Oshoの講話年代がやたらと気になった。断章取義とやら、あちこちの文脈を抜き出して、読み手の好き勝手にくっつけてしまうことの功罪があるとするならば、当ブログの行いも、功少なくして罪はかりなし、とならないとは言えない。さまざまなテキストをまぜこぜに読み進めることも意図なき行為ではないのだが、反面、時代の中でキチンと整理しておくことも必要であろう。

 そんな思いから暫定的ではあるが「OSHO講話タイトル:年代順」をアップしておくことにした。これはシーポヨのしわざのリストを全面的に借用したものだが、これでOsho講話の全体像と、ひとつひとつのテキストの位置関係がわかるようになる。これまでも「Osho最後の講話録・ZENシリーズ(未確認版)」や、「玉川信明選『和尚著作参考文献』」などで、暫定的にOsho講話リストを暫定的に作成してきた。しかし、全体性や整合性という意味で難なしとしない。

 もちろんこの「シーポヨのしわざ」バージョンにも何点か手を加えなければならない点がある。
1)1972年以前の講話についての情報がない。
2)ヒンディー語で語られた講話が入っていない。
3)50冊ほどあるダルシャン日記が入っていない。
4)リーフレットシリーズや編集本が入っていない。
 その他、同じ本でも再編集されたり、再刊にあたって合本されたり別冊化されたりしているものもあるし、それぞれの翻訳で違ったニュアンスになっているものもある。

 このフォーマットを今後、どのように当ブログなりに活用していくのかはまだ未知数だが、すでに現在でもすでに大きなリストなので、ブログ機能の制限もあるだろうし、ゆっくり考えてみたいと思う。

 人間は、言葉の、言語の故に、迷っている。実在の中で迷っているのではない。人は言葉の夢の中で迷っている。なぜなら実在は常に人の目の前にあるが、人は常に実在の前にいないからだ。どこか他の所にいる。いつも別の所だ。なぜなら人は思考(マインド)であり、思考とは横道にそれることだからだ。Osho p420「第十章 昨日もなく、明日もなく、今日もない」

 相変わらずOshoの指摘も手厳しいが、その慈愛にも甘えつつ、当ブログなりの無明もまた続く。

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