菩提達磨の弟子たちの記録 <5>
「菩提達磨の弟子たちの記録」
「ボーディダルマ」 <5>
OSHO(著), スワミ・アナンド ソパン (翻訳) 1994/07 めるくまーる 単行本 700p
★★★★★
当ブログへの検索ワードには当然のことながら、傾向性があり、また頻繁に登場するワードというものもある。その中に「二入四行論」と「達磨無神論」がある。行きがかり上、確かにこのキーワードをブログに書いてはあるが、当ブログとて、決してその真意を理解しているわけではない。
さて今から始めるぞ、という程度のことなので、せっかく検索エンジンで当ブログにやってきてくれても、提供すべきものはなにもない。お恥ずかしい限りだ。これだけの重要ワードなのに、そこから当ブログへやってくるとは、検索エンジンのいたずらで、当ブログがリストの上位にランクされているからなのかもしれない。それだけ、他のページにおける展開も少ないということだろうか。今のところよくわからない。
「菩提達磨の弟子たちの記録」は「BIHL2-5」であるから、当ブログとしては再読モードでも一度ならず通り過ぎてきた道筋なのではあるが、どうもいまいち納得感がない。それは、いずれ「BIHL」としてではなく、各論としての「ボーディダルマ」を読もうと思って後回しにしているからである。そして、これはこれで、始めてしまうと、なかなか重そうなテーマなのだ。
ということで、今日の真夏日、海にもいかず、庭に水撒きをしたり、スイカを食べたりしながら、「ボーディダルマ」を読んでいた。暇にまかせて、一気に読んでやるぞ、と意気込んだはいいけれど、やっぱり眠くなる。ウトウトしながら、それでも半分くらい読んだかな。
「禅家語録1」にある「達磨二入四行論」もなかなか面白そうなのだが、Oshoにかかってはひとたまりもない。どの部分が達摩の直伝なのかも重要だが、達磨そのものも訂正される。マハヤーナという流派にいた達摩。Osho自身はボーディサットヴァでもアルハトでもないという。
敦煌本「達摩二入四行論」は、達摩のことばを伝える最古の文献である。ここにには、達摩とその周辺に集まった初期禅宗の人々の、素朴で力強い肉声がこもっている。それらの理解は後世のように堅苦理論を前提する必要がない。しかも禅の歴史と思想のすべては、この本から出てくると言ってよい。「禅家語録1」p5
当ブログではなんの躊躇もしないで書いてきたが、「達磨」と「達摩」、表記に違いがあるようだ。この本では後記を採用している。
いったい、敦煌本「達摩二入四行論」に重要な資料価値を認めたのは、鈴木大拙の「小室逸書」(昭和10年)が最初である。「禅家語録1」p5
この「二入四行論」という単語を知っているなら、かなり禅に鼻を突っ込んでいる方々であるだろうに、当ブログあたりにぶち当たっていたのでは、究極には辿りつかない。ましてや「二入四行論」そのものでも駄目だ。直接Oshoの「ボーディダルマ」を読み進めたほうが手っ取り早いのではないだろうか。
いったいに、真理にいたる方法は多いが、つづめていえば、二つにつきる。第一は、原理的ないたり方であり、第二は実践的ないたりかたである。「禅家語録1」p6
これがいわゆる「二入」だ。そして、実践的ないたりかたには4つの方法がある。
まず、前世の恨みに報いる実践とは何かと言えば、修行者たちが、もし苦しみに出遭うとき、自分の心に次のように反省するのである。(中略)
第二の因縁に任せる実践というのは、生きとし生けるものは自我がなく、すべて因縁の力に左右されていて、苦楽をひとしく感受するのも、いずれも縁によって起こったことだ考えるのである。(中略)
第三にものを求めぬ実践というのは、世間の人々はつねに迷っていて、どんな場合にもものをむさぼるが、これはつまり希求である。(中略)
第四に有るべきように生きる実践とは、万物が本質的に清浄であるという原理を、これをあるべき有り方(法)と名づけるのであり、この根本げんりからすると、あらゆる現象はすべて空しく、そこには汚れもなく執着もなく、此と彼の対立もない。(中略)「禅家語録1」p8~9
これがいわゆる「四行」だ。これで「達摩」「二入」「四行」「論」だ。だが、はて、当ブログのような凡夫が、「菩提達摩」というビッグネームに恐れおののいて、ここに書かれている文言を有難く拝聴し、解釈しようとしても、とてもとても究極には辿りつかない。
なぜか。だいたいにおいて、テキストが間違っているのだ。少なくとも、Oshoの「ボーディダルマ」を読む限り、通り一遍に「達摩」「二入」「四行」「論」に目を通しただけでは、絶対に開示されない境地というものがある。ここにこだわっていると、どんなことを書いても、むなしいブログになってしまう。
いつかは当ブログも「No Books No blog」の境地に進まなくてはならない。テキストにこだわっていて、リアリティを見逃してしまう可能性もある。いや少なくとも、これらの禅にまつわる話は、ことごとくテキストから離れていく必要があるのだ。
Osho「ボーディダルマ」。1987年の7月に語られたものだ。Oshoがこれを語っていたあのプーナのエネルギーのるつぼの中に、私もまたいたのだった。最後のZenシリーズの前に語られたもので、ジョークもなければ、冗漫でもない。ただただ真摯に達摩と向き合う。
この本、ソパンが翻訳し、モンジュがリバイスしている。信頼できるトランスレータ・チームが日本語にしていてくれるだけに、安心して読み進めることができる。この本がダイレクトにこちらのハートに飛び込んでくる大きな理由でもある。
心頭滅却すれば火もまた涼し、とか。今日の猛暑日、エアコンをばっちり利かせた部屋に寝っ転がりながら、そしてまた居眠りなんかもたっぷりしながら、Zenステッィクならぬ、アイスステッィクをかじりつつ、「ボーディダルマ」を半分ほど読んだ。
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