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2010/07/29

禅と日本文化 柳田聖山

「禅と日本文化 」(講談社学術文庫 (707))
「禅と日本文化」 (講談社学術文庫 (707))
柳田 聖山 (著) 1985/10 講談社 新書: 285p
Vol.3 No.0076☆☆☆☆★

 世界の名著シリーズ18 「禅語録」柳田聖山・責任編集がなかなかの好著だったので、この方の名前で検索してみた。そしたら、なんと「禅と日本文化」があるではないか。鈴木大拙の同名の書BIHL4-5にリストアップされている。もともとは英文で書かれたものであり、この書の柳田訳があるのだとすれば、さぞや現代文として名著であろうと思った。

 しかし、実際には、当然のことながら大拙の著書を知りつつ、あえて同名のタイトルで出された一冊なのであった。このビッグタイトルの意味を著者が知らないわけがない。あえて同名にした理由があったのであった。

 もともとはNHKが1982年に企画した国際放送向けの日本文化の紹介の番組を、著者が担当したことによる。企画はNHKで、強く辞退したものの押し切られたという経緯があるものの、後半は、あえて著者は開き直って、このビッグタイトルに挑戦した、ということだろう。ガッツのある人でなければ、50年前の大拙の本と同名とすることはできなかった。

 馬祖につぐ百丈懐海という弟子が、そんな普請の生活規則を成文化する。清浄な、当たり前の共同生活の規則というので、清規(しんぎ)とよばれる。
 「一日作(な)さざれば、一日食らわず」。一日でも、働かねば食わんというのが、当時の禅の精神であった。
 これは、技術と道徳と、そして芸術の感覚が、渾然と一つにとけあった、当たり前の人間の言葉なのである。
p57「禅と日本文化」

 ここでも百丈懐海という名前がでてきた。おなじHui Haiとアルファベット表記される大珠慧海とは別人、とのことだが、この二人、並べて比較してみたら、面白いかもしれない。

 近代ヨーロッパで起こる無神論は、「神は死せり」という、有名なニイチェの言葉に要約されるが、それも、じつはキリスト経の伝統あってのことである。「神は死せり」というのは、われわれ人間のたよるべき神が、今はすでにいない、みずからが神となるほかはないという、悲歎もしくは居直りのことばであった。キリスト教は、そんな近代の無神論と対決しつつ、今も根強く西欧の文化の中に生きている。

 ところが、禅の無神論は、当初より神も仏も立てぬことより始まる。禅は仏教の一派だが、仏教の仏は自ら目覚めた人のことであるから、近代ヨーロッパの無神論のように、あらためて仏を否定する必要がなかったのである。p117

 禅は仏教の一派だ、という文脈は、Oshoなら真っ向から否定するだろう。禅は、仏教の一派どころか、仏教とは何の関係もない、と。柳田聖山は、後に勲章をもらうほどのオーソドックスな学者であっただけに、言っている知識に間違いはないし、冒険的でありつつも、決して常軌を逸しているわけではない。ある意味、sosoのところにいる。無難で、中庸ではあるが、禅の桁はずれな自由無碍な境地を表現しきれているとは言えない。

 本書には「禅と日本文化」の他、「純然の道を求めて---白隠・隠元・道元」、「無字のあとさき---そのテキストをさかのぼる」などが収容されているが、ちょっと知が勝ちすぎ、当ブログのようなそそかしい読み方では、その歴史や解釈がちょっとまどろっこしい。

 日本人の精神生活は、意識するとしないとにかかわらず、当初より無神論的な基盤の上に、さまざまの宗教や、思想や、技術を受け入れる仕事の、果てしない努力の持続であったといえる。この点を見落とすと、日本文化の現在を、正しく把(つか)むことは難しいのである。p122

 エスノセントリズムとして、日本、日本と、こだわる時代はもうとっくに終わっている。この本は、すでに30年近く前の本であってみれば、ここは、今日的21世紀風に書きなおされなければならないだろう。「そもそも、グローバルな地球人のスピリチュアリティは、もともと無神論的な基盤の上に、さまざまな無限な可能性を受け入れているのだ」と。この点を見落とすと、地球人スピリットの現在を、ただしく把かむことはできない。

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コメント

ユニテリアン・ユニヴァーサリズムは興味深い動きですね。エマソンやホイットマンも、もうすこし読み進めてみたいと思っています。
鈴木大拙が欧米で「禅と日本文化」を発表した経緯や、その中で見られた「日本」の特性と、キリスト教の中の1つの教派としての「ユニテリアン主義」では、スケールの意味でも、時間的スパンでも、違いがあると感じます。

投稿: Bhavesh | 2010/07/30 19:17

> 日本人の精神生活は、意識するとしないとにかかわらず、当初より無神論的な基盤の上に、さまざまの宗教や、思想や、技術を受け入れる仕事の、果てしない努力の持続であった

 西洋のキリスト教文化でも、前にぼくの日記で取り上げたエマソンやホイットマンが属していた「ユニテリアン・ユニヴァーサリズム 」は共通する部分があるかもね。実際に幕末の時期に日本に取り入れようという動きもあったし。

投稿: チダ | 2010/07/30 11:02

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