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2010年8月の61件の記事

2010/08/31

The Long Tail  ロングテール 「売れない商品」を宝の山に変える新戦略

ロングテール―「売れない商品」を宝の山に変える新戦略
「ロングテール」 「売れない商品」を宝の山に変える新戦略 
クリス アンダーソン Chris Anderson (原著), 篠森 ゆりこ (翻訳)2006/09早川書房 単行本: 302p
Vol.3 No.0133

 この本、気にはなっていたのだが、いつのまにか当たり前のようになっていて、すっかり追っかけてみるチャンスを失っていた。いつもは行かない別のコーナーにこの本があって、なんだ、あるじゃないか、と慌てて手にとった。すでに4年前の本だが、決して内容は古くない。しかし、youtubeもtwitterも話題になる前のことであり、先端の事象がブログあたりになっているので、訂正すべき点があったのか、すでに2009/07にアップデイト版がでている。そっちも急いで読まなくちゃ。

 80対20の法則は、長きにわたって3つの理由で間違ったリ理解のされ方をしてきた。第一に、正確には80対20にならない場合がほとんどだ。僕が研究しているような在庫が巨大な市場は、たいてい80対10未満だ(商品のわずか10パーセントが売上の80パーセントを占める)。 

 80と10を足しても100にならないから納得がいかない、と言うあなたは鋭い。これが第二の理由であって、この法則の難しいところでもある。80と20はそれぞれ商品数と売上という別のものの割合なので、合わせて100になる必要はない。しかも、80と20の関係をどうあらわすか、あるいはどちらを一定にしておくか、これといった基準もない。ある市場が80対10なら、95対20(商品の20パーセントが売上の95パーセントを占める)だってありえるわけだ。 

 三つ目の理由は、この法則がさまざまな現象に対して使われることだ。そもそも商品と売上についての話なのに、商品と利益の関係にも同じように使かわれることがある。 

 もっともよくない誤解は、80対20の法則が、売れる20パーセントの商品しか置かないようにすすめる法則だと思ってしまうことだ。この思いこみは、基本的にどの商品を置くかよく見極めていい商売をするためにある法則だ、という考え方から来る。p168

 当ブログでも、何度か概略的に引用してきたパレートの法則だが、今後はこの点に留意していかなくてはならない。ただ、この図式化された法則が、割と広く引用されたということは、あらゆる階層で似たような現象があったということが言えるだろう。その場、その場で比率は変えられてしかるべきだが、実感として、多くの立場の共感を得ることができた。

 べき法則の特徴の一つはフラクタルだということだ。つまりどれだけ接近して細部を見ても、同じようなべき法則になっている。数学者は多重スケールにおける自己相似性という言い方をするが、これはロングテールが、小さな世界を持つたくさんのミニ・テールの集まりになっているという意味だ。p178「ロングテールのミニ・テール」

 ここもなかなか興味深い。このフラクタルの中には、出口王仁三郎などが言及した「国魂学」が関連する部分がある。つまり日本地図は世界地図の縮小版だ、というやつだが、ここでは、論旨が飛んでしまうので、脇道にそれるのはやめよう。

 情報科学では、何をどこに置くかという難しい問いのことを「オントロジー」問題という。オントロジーという言葉の意味は分野によって異なるが、図書館とIT業界の人たち(それと自覚はないかもしれないが店長たち)にとっては、物事を体系化して整理する方法のことを指す。p200「図書館の本の並べ方」

 ここも興味深い。漫然と分野別に図書や情報を整理するのではなく、独自の関連のなかで整理する必要もある。「松岡正剛のの書棚 松丸本舗の挑戦」などは、そのいい例だあろう。あるいは、一部の量販店の「ジャングル積み」なども、ここに繋がってくるだろう。

ロングテールの法則  

1)在庫は外注かデジタルに  

2)顧客に仕事をしてもらう 

3)流通経路を広げる  

4)消費形態を増やす 

5)価格を変動させる 

6)情報を公開する 

7)どんな商品も切り捨てない 

8)市場を観察する 

9)無料提供をおこなう  p276~p285

 ひとつひとつが興味深い。このあたり、2009/07にでた「アップデイト版」ではどのように表現されているか、比較しながら読み進めるのも面白そうだ。

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2010/08/30

twitterが変える投資生活!

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「ダイヤモンド ZAi (ザイ) 」 twitterが変える投資生活!
2010年 07月号 ダイヤモンド社; 月刊版 (2010/5/21)
Vol.3 No.0132☆☆★★★

 ここまでくれば、すでに追っかけすぎ

 「ツイッターなら、見出しとその人の意見と記事へのリンクがある。しかも、僕が”この人は面白い”と思ってフォローしてる人が選んだ記事だから、その時点で一度有益かどうかの選別を通ってる。」(中略)

 「本を繰り返し読むなんてあり得ない!! 小説を読むのって、人生で一番無駄な時間ですよ。情報収集と言う意味では全く意味ないですよね。娯楽なら、映画のほうが楽しめる。なんでわざわざ字ばっかりの本を読むのかな?」p32 ホリエモン

 彼の文章を読んでいる、私が馬鹿なんだろう。

 便利で楽しいツイッターには、恐ろしい落とし穴も少なくありません。気軽でスピーディなところが持ち味ですが、それだけにデマや煽りも簡単に広まります。信奉しすぎると、きっと痛い目に遭うでしょう。p41「投資に役立つツイッター活用術」

 ふう・・・・・・・・。

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勝間和代X香山リカ 公開ガチンコ90分 ツイッター「恋愛とマネー」

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「週刊アエラ」 勝間和代X香山リカ 公開ガチンコ90分 ツイッター「恋愛とマネー」
10年3月15日号
Vol.3 No.0131☆☆★★★

 なるほど、図書館で週刊誌のバックナンバーを検索か、とその便利さに気づいて、ろくでもないものまで借り出し始まっている。この二人の金網デスマッチ、完全にショー化されてるな。

香山 いくらツイッターで頑張れと言われても、目の前に手を差し伸べてくれる人がいたほうがいいと思うけど。p36

 まずは香山のスタンスはこれで決まりだな。

勝間 ***とツイッターでも呼び掛けています。声をかけるのは1日20人が限界でも、ツールを使うことで何万人にも何十万人にも広がる。

 これがまず、勝間の基本的な間違い。

香山 でも、自殺を考えている人がツイッターなんか読みますか。iPhoneなどを買うお金も知識もある、強者のメディアという気がするですが。 

 この辺では、香山はおよそ精神科医とは思えない発言を繰り返す。ミニだってロールス・ロイスだって何台も乗り回す加藤和彦のような人でも自殺する。

勝間 まだ浸透率が低いのでITリテラシーが高い人に偏っていますが、そこを基軸に繋がっていけばいいですよね。

 自殺するのはITリテラシーが低い人たち、と決めつけている。

香山 ダメな人のほうを基軸とするというのも問題だけど、私はどっちかというとそっちに足が向くんですよね。

 自殺するのはダメな人で、ダメな人だから自殺する、みたいに聞こえる。

勝間 カウンセリングの技術もないし、「弱者」が求めていることをきっと心からはわからない。

 カウンセリングの「技術」があっても、弱者をわかることはできない。そもそも弱者をわかることがカウンセリングではない。

香山 ツイッターでたくさんの人の関心を集めたりカツマーに信奉されたりすることは、勝間さんにとってやりがいがあるんですか。

 香山もツイッターにこだわりすぎ。自分でやってみればいいのに。何も勝間の専売特許ではない。

勝間 私は「静かな革命」を起こしたいんです。

 まぁ、いいけどさ。もう、言葉が完全に浮いている。 

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「2010年ツイッターの旅」 携帯電話、メールを超えるツイッターの猛威 「使えない」では済まされない! 140文字、1億人の「つぶやき」革命

「2010年ツイッターの旅」携帯電話、メールを超えるツイッターの猛威 「使えない」では済まされない! 140文字、1億人の「つぶやき」革命

2010tw
「週刊 ダイヤモンド」 2010年 1/23号 [雑誌]Vol.3
Vol.3 No.0130☆☆★★★

 へぇ~、正月早々、ずいぶんと煽っていたもんだな、と思う。正月にこの特集をだして、7月にはマーケティングに絡ませてさらに特集を組んでいる。そうとうな持ち上げ方だな。

掘江(貴文) いろいろスタイルがあると思うんですけど、(フォロー先が)50超えたら無理だと思うんですよね。

津田(大介) 僕は1700位フォローしているんですけど、全部終えたのは300くらいまでかな。

掘江 300って追えます? 僕は50で結構必死ですけど。ちゃんと読んでますから。まあ、タイムラインの流れを、ああこんな感じなのかなと思いながら見てるだけって使い方は、それはそれでありなのかなとも思いますけどね。

津田 フォローしている数が多ければ、ある種の民意が流れてくるように見えるわけですからね。「ツイッターは流行では終わらない」p35

 ホリエモン「ツイッター社会論」の津田の対談。編集の時期を考えれば、ほぼ1年前にならんとする時期ではあるだろうが、この時期でさえ、これが、全うな実感だと思う。だが、実際には、通常の個人でもひとりで1000単位でフォローし、フォローされている。さまざまな使いかたがあるわけで、それはそれでいいのだろうが、いわゆる「つながり」という意味では、過剰なつながり方になっていると言って、間違いない。

 それにしても<携帯電話、メールを超えるツイッターの猛威 「使えない」では済まされない! 140文字、1億人の「つぶやき」革命>というキャッチコピーはあまりにも過激ではないだろうか。

 パソコンでツイッターを使えるようになったら、ぜひ携帯電話を活用してみ よう。もしパソコンを持っていないのであれば、最初から敬愛電話で試してもよい。(中略)
 もっとツイッターを使いやすくするためには、iPhoneの購入をオススメする。なんといっても画面が大きくて見やすいし、タッチパネルによる操作性も優れている。「ツイッターをやるためにiPhoneに買い替えた」というツイッター利用者は案外多い。
p47「携帯電話とiPhoneを使ってツイッターを2倍楽しむ!」

 各社のスマートフォンが出そろいつつある8月現在とは状況は違うであろうが、タッチパネルは、最強ガラパゴス・ケータイのほうが上であろう。それに、ツイッターをやるためにiPhoneというのは、ちょっとiPhoneの機能を限定使用しすぎではないか、と思う。アプリの存在によって、それぞれ使い勝手は違うだろうが、ツイッターのためだけなら、最強ガラケーの方が上だと、ツイッター・ラガードでしかないが、そう思う。

「ああ、私、タイムライン読んでいませんから」
「え?」
「正確に言うと、タイムラインはたまたまログインしたときに流れているものだけをささっと読むだけ。それで十分です」 
p54 勝間和代

 ここまでスッキリ明言しておいてもらったほうが、話は早い。つまり、さまざまな利用のしかたはあれど、「利用」するだけで、フォロワーたちとの「つながり」とか、濃密な人間関係などは、最初から求めていないスタイルが一方には確実に存在する、ということである。

 フォロー数が500人を超えるとタイムラインは大きく様変わりします。気になる発言も目につくようになり、勇気を出して返信してみると、どんどん会話に参加できるようになりました。p52「友人がほとんどいない私でも『2000人とつながった!』」

 仮想社会のセカンドライフが、3Dの技術ではここまでできる、ということを実験しつづけているように、ツイッターにおいても、ここまで「つながり」、「活用」できる、という実例を伴った実験中なのであり、いずれ、「人間社会」に見合った活用方法の範囲が定まってくるのだろう。

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2010/08/29

つながり 社会的ネットワークの驚くべき力

「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」
「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」
ニコラス・A・クリスタキス (著), ジェイムズ・H・ファウラー (著), 鬼澤 忍 (翻訳) 2010/7 講談社 単行本: 408p
Vol.3 No.0129

 ある人の友人が5人しかいなくても、その5人にもそれぞれ5人ずつ友人がいれば、1人で25人に影響を与えられるし、その25人の友人125人にまで影響を及ぼせる可能性もある。たった1人の意思決定に影響を受ける人数が、あっというまに増えていくことがわかるだろう。1人あたりの家族と友人の合計数が平均10人だとすると、10人、100人、そして1000人に影響が及ぶことは容易に想像がつく。表紙見返し

 もう、ここだけ読んだだけで、私などは、この本は正しい、と独断的に即断してしまう。アメリカのハードカバー本だけに、例によって、いろいろな具体例やら歴史的背景などの説明がつくが、尾ひれ胸びれはいいとして、この本の意味するところは、それはそれでいいんじゃないか。

 六次の隔たりを経てあらゆる人とつながっているからといって、それらの人びとすべてに影響を及ぼせるわけではない。社会的な距離が問題となるのだ。私たち自身の研究から、社会的ネットワークにおける影響の広がりは、いわば「三次の影響のルール」に従うことがわかっている。

 私たちのあらゆる言動は、さざ波を立てるようにネットワークを進んでいき、友人(一次)、友人の友人(二次)、さらに友人の友人の友人(三次)にまで影響を及ぼすケースが多い。だが、その影響力は徐々に弱まり、三次の隔たりの位置に存在する社会的な限界を超えると、目立った効果はなくなってしまう。同じように、私たちは三次以内の関係にある友人から影響を受けるが、その先に連なる人びとからは影響を受けないのがふつうである。p43

 最近、ケータイを機種替えする際に、家族割サービス、というものに加入した。その内容は、3親等までの10人が「家族」として登録でき、そのグループ内では無料で話せるというものである。ちなみに配偶者関係は0親等となるので、結構範囲は広がる。ただ、ひとりの人間は、ひとつのグループにしか属することができなくて、その家族は単体として「独立」しているものとみなされるようだ。

 もしこのルールがなくなれば、この「家族」という概念は、どんどん膨れ上がっていって、かなり無料電話の範囲が広がるはずだ。もっともスカイプや光電話がある今、ケータイであっても無料電話はそれほどめずらしくもなくなった。

 この6次の隔たりと、80:20のパレートの法則をモデルとして、当ブログでは、自分の薄いネットワークを200人つくることを提唱している。そして、その中の20%、つまり40人程度の人々とやや深いつながりを持つことにする。そうすれば、地球の70億人とひろくゆったりとつながることができるはずだ、というイメージである。

 もちろん、これは成人の通常の平均値であり、子どもや職業、身心の健康の状態などによって、さまざまな違いはあるだろう。ツイッターでいえば、何百万人とつながる(フォローされている)人もあれば、まったく誰もフォローしていない人もある。これは、純粋に「ネットワーク」とは呼べない。すくなくとも、双方向の「つながり」ではない。

 たとえば、周囲の人々に「年賀状」を何枚に出すかを聞いてみると、40枚程度がかなりある。多い人で500枚ほど、出さない人はメールで済ましたりするので0枚。だいたいのところ、200枚程度が一家の平均値であると思うがどうだろう。

 ツイッターではまずは100人をフォローし、100人のフォロワーを獲得せよ、というアドバイスが多い。勝間和代なども、500人くらいまではなんとか読んだが、あとは増えるに任せて、あとはシャワーのように浴びている、というような発言があった。「ウェブ進化論」の梅田望夫なども、RSSリーダーに登録して読めるブログは数百程度、と言っていた。

 フォロワー数を「無形文化資産」のように言っていた勝間和代であるが、現在、ツイッターでは、約24000人をフォローしている。彼女が誠実な人で、24時間ツイッターに張り付いたとして、1時間に1000人のツイッターを読み続ける必要がある。一分間に17人程度、ひとり当たり3秒である。これはつながりとは言えない。

 逆に、彼女をフォローしているのは、42万人程度。当然、彼女は、誰にどんな形で自分がフォローされているか、なんてことは把握できていない。ただ、フォロワーを数量的に勘定しているだけなのである。それはパワートリップごっこならそれもあり得るのかもしれないが、すくなくとも双方向性のネットワークとは言えない。

 このような放射状の繋がりをもつことは必ずしもネットワーク理論から考えれば、正常な人間関係だとは思えない。そのようなライフスタイルを作っていることに、どこか無理があると思うし、そのような存在を必要とすることも、フォロワーとして、なにかが狂っていると思わざるを得ない。

 ケータイの電話帳に登録している電話番号は、みんな、どのくらい登録しているだろう。私は通常のビジネスパーソンとして普通だと思うが、約500。キャパシティーとしては1000名を登録できるが、ほとんど満杯になることはあるまい。

 もらった名刺も大事にして保存しているが、いつの間にか、単なるゴミになっている。やはり、現在生きている「人間関係」(ネットワーク)は数百、というところが本当だと思う。しかも、その中で、本当に活性化しているのは、その20%程度。

 しかし、この40~50人程度の広がりが、ひとりひとりの手をつないでいくことによって、地球全体に広がっていく、ということも本当なのだ。片手から流れていったエネルギーは、もう片手のほうに還ってくる。ひとりで、地球の裏側まで手の伸ばそうなんて、思わないほうがいい。もちろん、独りで籠ってしまっては、ネットワークは始まらないが。

 オンラインの社会的ネットワークに何百万人も友人がいると豪語する人がいる。人間の脳は巨大な社会的ネットワークに対応するようにできているとはいえ、友人の数にも許容限度がある。(中略)

 1993年に30人以上の科学者のコメントを付けて発表された有名な論文で、ダンパーはさまざまな霊長類の脳の大きさと集団の大きさの関係を検証し、人間の大きな脳に見合う社会的集団の規模を150人程度と推定した。この数字はダンパー数として知られるようになった。p308「友人を何人持てるか?」

 当ブログでは、実生活の経験上から、それを200人程度と予測してきたが、ここでいうところのダンバー数(150)と大きな違いはない。すくなくとも、全うな人間として生きていくのに、社会的なつながりを、万やそれ以上の単位で求めたところで、それは通常の誠意ある人間としての「つながり」ではない、と断言しても過言ではない。

 携帯メール、ツイッター、eメール、ブログ、インスタント・メッセージ、グーグル、ユーチューブ、フェイスブック。ほんの数年前には存在しなかったこうしたテクノロジーを、私たちは使っているのだ。とはいえ、テクノロジーによっては変わらないものもある。p318「仮想社会の現実的行動」

 テクノロジーが進化しても変わり得ない、人間としての根源的な基本というものがあるはうである。

 SNSの利用者の多くは、友人のリストに何百人からときには何千人もの名を連ねているが、フェイスブックの一般的な利用者がサイト内に持つ数はおよそ110人である。親しい友人がそのうちごく一部なのは言うまでもない。(中略)親しい友人は平均するとわずかに6.6人しかいないことがわかった。p340「友人が多すぎる?」

 これも妥当なところであろう。社会的な繋がりが約200人、そのうちのやや強いつながりの友人が20%の40人。そして、その中でも、ごく親しい友人は、ほんの数人、一桁、というのが、普通の人間社会の姿なのだ。仮想社会のネットワークの中で、過剰に人間関係を拡大することは、どこかで破綻することになるし、そもそも、そのような方向性に向かうこと自体、なにかが狂っていると思える。

 人間がつくりだすネットワークは、それ自体、生命を持っている。成長し、変化し、再生し、生き延び、そして死ぬ。さまざまなものがそのなかを流れ、移動している。社会的ネットワークは、いわば人間のつくる超個体であり、独自の解剖学的形態と整理---構造と機能---を持っている。p357「全体は偉大なり」

 全体がひとつの生命体であることに気づくとともに、自分が無へと向かう一つの生命であることも事実である。ほんの一桁のごくごく親しい友人なかの20%たるべきひとり、つまり自分自身こそが、ネットワークの基本であり、それが無限につながっていくのは、自分がひとりとして無だからなのである。

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2010/08/28

携帯& iPhone ツイッターを使いこなす!<3>140文字の「つぶやき」は最強の情報ツール!

<2>からつづく 

携帯& iPhoneツイッターを使いこなす!
「携帯& iPhoneツイッターを使いこなす!」 <3>140文字の「つぶやき」は最強の情報ツール!
武井一巳 2010/03 日本文芸社 新書 222p

 この本、結構よくまとまっているし、当ブログの当面の課題に適しているようなので、借り出し期間を延長して後半部分もゆっくり利用してみようと思っていたが、すでに私の後にリクエストが入っているので、返却しなくてはならない日程となった。アプリや機能をもうすこし追っかけたかったが、それは、直接サイトにぶち当たっていくしかないか。

1)イノベーター(革新的採用者)

2)アーリーアダプター(初期採用者)

3)アーリーマジョリティ(初期的多数採用者)

4)レイトマジョリティ(後期多数採用者)

5)ラガード(採用遅滞者) p216「ツイッターに乗り遅れるな」

 私の趣味としては、アーリーマジョリティあたりが狙い目なのだが、その考えは甘かった。

 日本では09年のブームになる前から利用していたユーザーがイノベーターで、09年秋までに参入してブームを作ってきたユーザーがアーリーアダプター、そしていち早くブームに乗り、09年後半に参入してきたユーザーがアーリーマジョリティと分類してもいいだろう。

 さらに、10年になってから、多くのユーザーが利用しているのを見て、自分でもやってみようかと参入するユーザーがレイトマジョリティになるだろう。

 本書が発刊される頃は、まだアーリーアダプターからアーリーマジョリティへの移行時期だといっていい。キャビズム、つまり本格的な普及期に移行する直前だと考えてもいいだろう。p218

 いやはや、ずいぶんと煽るものだ。これでは、私などは、レイトマジョリティどころか、ラガードに分類されてもしかたないようである。でもよく考えてみると、テレビにおいては例の地デジ化問題では、意識的に積極的ラガードの立場を狙っているし、ケータイにおいても、完全にラガードである。ムーバ機をフォーマ機にようやく機種変更したばかりだ。

 09年11月に中国の上海で行われたタウンホール・ミーティングのQ&Aセッションで、中国でツイッターの利用が制限されているという問題に関する質問を受け、オバマ大統領は「私は一度もツイッターを使ったことがない」と発言したのである。p179

 ハドソン川の飛行機墜落事故などとともに、いかにツイッターが有効であるかの宣伝によく使われるオバマ選挙活動のツイッター利用だが、リフレイン効果に振り回されると、もともとの風景が見えなくなることも懸念される。

 @BaracObamaのカウントはバラク・フセイン・オバマ・ジュニア自身ではないが、それはオバマ陣営の公式アカウントであって、オバマの意志をツイートするものなのである。p178

 属人性が強いと言われるツイッターだが、「つぶやき」だからと言って、それが真実性を込めた本音と受け取ってはならない。本当の本音など、ネットに書き込めるものでもないし、書きこむものでもない。ましてや本人が自分の「本音」がよくわからなかったりする。宣伝相ゲッペルスが、最新の宣伝技術を駆使したことを忘れてはいけない。

 大統領選に勝利した直後の、オバマ大統領のツイートは、たとえそれがオバマ陣営の誰かによって書きこまれたものであったとしても、オバマの言葉そのものなのである。p179

 この言葉には異議がある。オバマ本人の言葉なのか、大統領(候補)としてのオバマの立場なのかで、大きく変わる。もしそれが、大統領としてのオバマの発言ならば、何のために報道官がいるのか。インフォーマルな発言だったとしても、それは単にツイートという衣を着せた鎧をかぶった組織によってリリースされている管理された情報でしかないのである。

 「写ツ」というのは写真ツイートの略だと思われるが、「写ツ」は携帯電話のメール機能を利用しえ、メールでツイートを投稿できるという機能なのである。p114

 この他、数えきれないほどの機能やアプリが存在しており、ラガード(採用遅滞者)でしかない当ブログにおいては、追いかけるだけも青息吐息だ。だが少なくとも、現在のところ、スマートフォンとまではいかないが、自分にとっての最強ガラパゴス・ケータイを入手し、出先からツイートし始めたよ、というだけでも、進歩としておこう。

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Democracy with a Gun 「銃を持つ民主主義」<1>--「アメリカという国」のなりたち

銃を持つ民主主義
「銃を持つ民主主義」 <1>「アメリカという国」のなりたち
松尾文夫 2004/03 小学館 単行本 415p
Vol.3 No.0128☆☆☆☆☆

 「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」を書いた1933年生まれのジャーナリストの前著。共同通信社の記者として長くアメリカを取材してきた著者が、共同通信社マーケッツ社長などを退任したあと、現場のジャーナリストとして現役に復帰し、アメリカ、日本、そして、現代を問う。

 当ブログの現在の流れは、どうかすると浮わついたもので、ひとつのテーマを長く掘り下げる、というサイクルにない。新書本の一冊程度ならなんとか読みとおせるが、ハードカーバーはどうかな、と思った。だから、「オバマ~」の流れで、この本の存在を確認するだけの意味で、とりあえずこの本を取り寄せたのであった。

 最初パラパラとめくってメモだけするつもりだったのだが、どうも、そう簡単なことではすまなくなった。やめられないのである。決して派手などぎつい表現が使われているわけでもないのに、これだけ惹きつけられてしまうのは、著者自身が、自らの誠意にしたがい、自らの体験をもとに綴っているからである。ジャーナリストとして、真実を語っている、と直感的に思わざるを得ない。

6月17日 鹿児島 ・ 大牟田 ・ 浜松 ・ 四日市
同 19日 豊橋 ・ 福岡 ・ 静岡
同 28日 岡山 ・ 佐世保 ・ 門司 ・ 延岡
7月01日 呉 ・ 熊本 ・ 宇部 ・ 下関
同 03日 高松 ・ 高知 ・ 姫路 ・ 徳島
同 06日 千葉 ・ 明石 ・ 清水 ・ 甲府
同 09日 仙台 ・ 堺 ・ 和歌山 ・ 岐阜
同 12日 宇都宮 ・ 一宮 ・ 敦賀 ・ 宇和島
同 16日 沼津 ・ 大分 ・ 桑名 ・ 平塚
同 19日 福井 ・ 日立 ・ 銚子 ・ 岡崎
同 26日 松山 ・ 徳山 ・ 大牟田
同 28日 津 ・ 青森 ・ 一宮 ・ 宇治山田 ・ 大垣 ・宇和島
8月01日 八王子 ・ 富山 ・ 長岡 ・ 水戸
同 05日 佐賀 ・ 前橋 ・西宮 ・ 御影 ・ 今治
同 08日 八幡 ・ 福山 
同 14日 熊谷 ・ 伊勢崎 
p34

 最初、このリストを見て、何のことか分からなかった。これは1945年の米軍爆撃機B29による日本列島の空襲の記録である。これにグアム、テニアン、サイパン、そして沖縄などが加わる。著者は「次の世代のためにあえてその日付と中小都市名を記録しておく」p35という。ふと気づくのは、このリストには、ヒロシマ、ナガサキがないことだ。

 そのなかで不気味に「ルメイの爆撃」の目標からはずされていた都市群があった。広島、長崎、小倉、新潟、そして京都の五都市だった。p36

 これらは原爆投下目標の候補地として残されていたのである。当時、12歳の国民学校六年生だった著者は、この空襲体験をもとに、ジャーナリストになる決意をする。

<2>につづく

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2010/08/27

もうつぶやかなくていい! Twitterの本当の使い方 実際につぶやいているのは一割未満?

日経 TRENDY ( トレンディ ) 2010年 03月号 [雑誌]
「日経 TRENDY ( トレンディ )」 もうつぶやかなくていい! Twitterの本当の使い方
2010年 03月号 日経TRENDY (編集) ・日経BP社; 月刊版 (2010/2/4)
Vol.3 No.0127☆☆☆☆★

 いくらトレンディな雑誌とはいえ、半年も前の号だと、ややくたびれた感じがする。それにちょっと反感を感じるのは、この「クラウド」って奴が、やたらと話題になっていること。そもそも概念としては意味不明なところがあるのだが、いずれにしても、ケータイ等だったら、データそのものが雲の向こうにあって、手元にはブラウザーとしての入り口しかない、というのは、これはいかしかたないだろうな、と思う。

 「もうつぶやかなくていい! Twitterの本当の使い方」って記事がなんだかおかしい。意味的に、他人のつぶやきだけを聞いている、ってことだろうが、これってやっぱりおかしい。「実際につぶやいているのは一割未満?」p22

 意外に高い利用者年齢。女性より男性が多め。日本におけるTwitterのユーザー層は20~40代が中心。そのなかでも本も多いのは40代だ。男女比は6対4で男性がやや多め。ケータイなどからのアクセスは今後伸びる見込みで、年齢、性別ともに平均化に向かうと思われる。p22

 これはニールセン・オンラインというところの調べだが、こういう調査結果がでるとややほっとする。あまりに若い年齢層ばかりが台頭してくると、世の中のお父さん、お母さんの居場所がなくなってしまう。高齢化サイトもあっていいのだ。

 しかし、それでも、はて、本当にtwitterは「もうつぶやかなくてもいい!」のだろうか。私なら、つぶやくのが飽きたら、ほとんどtwitterは廃止だと思う。つぶやいてこそのサービスだと思うのだが。まぁ、まだビギナーだから、もう少し様子を見よう。

 とにかく、思い立って過去の雑誌類から現在までの動きを見てみると、実にiPhoneブームで、ほえ~、世の中は、こんなことで盛り上がっていたんだな、ってあらためて感心した。で、6年落ちのムーバを機種変えをするにあたって私が選んだのは次のコース。

1)最強ガラパゴス・ケータイで、まずは最近のケータイ状況に慣れよう。

2)ガラケーを使いこなす形で、ネットやツイッターをどこまで活用できるか。

3)必要なら、ガラケーは通話専用にし、二台めにスマートフォンを持つ。

 現在までの調べのところ、2)と3)は接続料金的にはほぼ同じとなる。しかし、機種代金を意識しないまま今まで月3000円ほどで使ってきたムーバから、1)フォーマにするだけで、機種代込みで約6000円になる。ここから2)ネット接続となると一気に約12000円となる。かなり高く跳ね上がるものだな、と素直にお父さんは思う。これは3)でも同じだが、はてさて、それほどの料金まで払って、スマートフォンとやらに乗り換えなくてはならないものか。

 あちこちの雑誌類を覗いていると、やはり、この感覚は私だけのものではなくて、スマートフォンに関心はあるけど、二の足を踏んでいる人はたくさんいるようだ。当然のことだ。「ケータイ料金はここまで下がる!!」p113なんて記事もあるが、接続品質から考えてみて、決して割安とは、まだまだ言えない。

 それと、「新世代ネット端末編 電子書籍が今年ブレイク!? 新端末&コンテンツ完全解剖」p10なんてところもやや皮肉に眺めている。そもそも、本を読むのなら、本そのものを読めばいいのに、と思う。何も端末に入れ込んで読まなくてもいいのではないか、などと言ったら、時代に遅れてしまうのだろうか。

 いつかやってみたいと思っている「新潮文庫20世紀の100冊」読破だが、例えば「青空文庫」のような無料サイトをもっともっと活用することもできるのではないだろうか、と思う。なんでもかんでも電子書籍だ、などとにぎわっていると、いつもながら、冷やかな批判精神とやらが、首をもたげてくる。

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「週刊 ダイヤモンド」 2010/ 7/17 特集 ツイッターマーケティング入門 ソーシャルメディアはこう使え!

週刊 ダイヤモンド 2010年 7/17号 [雑誌]
「週刊 ダイヤモンド 」2010年 7/17号 [雑誌] 特集 ツイッターマーケティング入門 ソーシャルメディアはこう使え! twitter 
ダイヤモンド社; 週刊版 (2010/7/12)
Vol.3 No.0126☆☆☆☆★

 数年前に、自分が属する業界のネガティブキャンペーンが社会的現象として発生してから、どうも新聞ばかりか、このようなビジネス週刊誌のようなものに目を通すことがめっきり減ってしまった。自分自身が真摯に立ちかえれば解決する問題と、業界の慣習やビジネスモデルが硬直化しておれば、人っ子ひとりがどうあがいても、どうにもならないことが多すぎる。いきおい目を覆ってしまった、というのが正直なところか。

 ところで、今回、図書館の検索機能を使うと、雑誌類もけっこう読めることが分かった。いままでは、雑誌類は店頭立ち読みが多かったが、たまに買っては来ても、全部読み切らないともったいない精神がでてしまい、なかなかうまくライフスタイルに組み合わせることができなかった。

 図書館の週刊誌を借り出す、という手は、最近号では無理だが、すこし週落ち、月落ちくらいなら、なんとか間に合う程度に、活用できるのではないか。そう思った次第。

 「企業を変えるソーシャルメディア革命! ツイッター マーケティング入門」。革命の文字が躍る。なんでも間でも革命、革命だ。ちょとうんざりではあるが、目新しいもの紹介するには、「革命」と言ってしまったほうが手っ取り早いのだろう。

 今回の特集記事では、「ギャルからシニア世代までソーシャルメディアユーザー像」p50とう見開きページで、笑った。ここには約10いくつのユーザー像が天然カラーのイラストで書いてあり、まさにその関連図が「→」や「VS」付きで図式化してある。

 mixi、アメバ、2ch、Youtube、モバゲー、趣味人倶楽部、USTREAM、二コニコ動画、フェイスブック、GREE、りある、などが漠然と並んでいる。この図式の中に、ブログやTwitterも当然入っている。さまざまなユーザー像に焦点を当ててみるが、やっぱり、当ブログは「ブログ系」であることは間違いないようだ。

 アルファーブロガー系
 国内ユーザー20万~30万人(推定)。経営企画、マーケティング、プランナー、クリエーターの情報収集。影響力のあるブロガーのオピニオンに共鳴したり批評したりするコミュニティ。自己啓発本が好きで、オピニオンを持つ20~40歳代の男性。RSSリーダーを使ってニュースチェックをするなどの仕事効率化、自己改善に躍起。
p50

 ぴったりとはいかないが、引きこもりやオタク系(2ch)、とか、地方にすむオタク系(モバゲー&GREE)、フレッシュな女子大生(mixi)、アニメと音楽が好きなライトオタク(ニコニコ動画)などなどに比較すれば、まぁ、当ブログはジャンルとしては、まさに「ブログ」としかいえないだろう。ましてや、しこしこ本を読んでいるイラストが描いてあるところが、なんだかカリキュライズ化されているようで、尻がこそばい。

 Twitter
 国内ユーザー915万人(10年5月現在)。「中の人」になれるくらいの立場の個性、そして、会社の理解がある場合に限り、宣伝、告知。勤務中でもオフのときでも、とにかく140文字以内でつぶやける。サッカーのワールドカップなどイベント開催時に実況中継するユーザーが激増中。
 20~30歳代都市型男性。好奇心が旺盛で、iPhone保有率が高い。仕事と趣味を分けて考えない。ソーシャルメディア界のアーリー・アダプター層。
p50

 他の相関図においては、「類似」だとか、「反目」だとか書いてあるのに、ブログとTwitterは「重複」となっているところが面白い。当ブログは「都市型」ではないし、決して早いもの好きの「アーリー・アダプター」ではないが、微妙に「中の人」になれるくらいの立場、というところに重なっているところがあるかもしれない。

 ソーシャルメディアにおいて、企業の公式アカウントとして発言を更新している人のことを、”中の人”と呼ぶ。p56「”中の人”はかくあるべし」

 まぁ、しかし、業界のありかたもさまざまあり、一概に明確にカテゴライズすることはできない。ツイッターもビジネス雑誌も、トンとご無沙汰だったが、たまにちょっと古目なところを読んでみるのも、中くらいの刺激で、今の私には、ちょうどいい。

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貧者の領域  誰が排除されているのか

貧者の領域
「貧者の領域」 誰が排除されているのか
西沢晃彦 2010/02 河出書房新社 全集・双書 220p
Vol.3 No.0125☆☆☆☆★

 かつて私の子供時代、親戚に「コウベのおじさん」という人がいた。この人、どうやら神戸でそれなりの立場のある愛されるべき人物だったらしいが、私は一度もあったことがなかった。親戚に誰彼の話に登場するエピソードで、子供心に、その人物の存在感を楽しんでいたのである。

 コウベのおじさんは、なにか都合の悪いことがあったのか、神戸の都会を離れて地方に落ち伸び、当時、橋の下で暮らしていたのである。地方の農家や町家の一日仕事を請け負っては日々をすごしていたらしい。昭和30年代のことである。ボロをきたまま家々をまわる乞つ食きの人々もそれなりに受け入れられていたし、町並みのはずれの家は、掘立小屋のようなところもあった。

 いつの間にか、コウベの叔父さんの話しはでなくなった。亡くなったのか、あるいは、戦後の高度成長の波が彼を救ったのか、橋の下で暮らしている、という身分ではなくなったようだった。

 高校をでてヒッチハイクで日本一周した時、バックパッキングの身軽さからどこでも寝た。駅や屋根付きバス停はもちろん、工事現場のヒューム管の中(まるで、おそ松の漫画にでてくるような風景)や、小学校の校庭の片隅とか、海岸の網干し小屋とか、お寺のお堂とか、まぁ、毎日毎日がそれこそ風のふくままであった。

 ある時、ヒッチハイクで乗せてくれる車がなくて、何キロも何十キロもトボトボと歩いていたことがある。雨の降った日や、大都市近郊、日曜祭日などは、なかなかヒッチハイクがうまくいかない。

 ふと見ると、前のほうを、私と似たように歩いている人があった。彼はバックパッキンングではなかったが、手荷物を下げ、一人無言で歩いていた。その身なりからして決して裕福ではなかったのはすぐわかった。こちらも何日も風呂にも入らないヒッピースタイルだったが、彼はむしろ、その道のプロ、つまり乞つ食きの人であった。

 私は、ああ、ここに先輩がいる、とさえ思った。知らない町の知らない道をトボトボ歩いている私にとって、知っている人がいるわけではない。誰にも助けられずに歩いている自分にとって、すくなくとも、おなじ道の前をあるいている、ちょっと猫背の彼は、人生の先輩に見えた。

 しかし、何キロか歩いてついていくと、彼は、急に左に折れ、畑の中に入っていった。何をするんだろうと、その歩いていく先を見ると、そこには、小屋があった。段ボールやブルーシートのない時代である。それは、竹や杭、むしろや笹竹で覆われていた。そこが彼の住まいであることはすぐにわかった。

 ああ、あそこはあの人の家なんだなぁ。と、ふと気付くとともに、その時、自分には、自分の「家」というものさえないことに気づいた。あの人は決して豊かだとは言えない。いや、それこそ、貧者として排除され、ここの村はずれの畑の中で暮らしているのだ。しかし、私にはその、暮らしさえない。

 私はあれから、いろいろな境遇になったが、いわゆるホームレスになったことはない。それから何度もヒッチハイクしたし、インドやあちことを旅した。寮暮らしや、病室暮らしもしたが、やっぱり私には「家」が必要だった。「貧困」についての個人的体験は、書き始めるととめどなくでてくるので、今日はここまでにしておく。あとは、後日。

 90年代以降の「ホームレス問題」は、60年代の寄せ場暴動以来の隠蔽の失敗であるといえる。p125「崩壊する暗黙の連携」

 70年代、80年代には確かに表面化しなくなった「貧困」の問題は、90年代、そして21世紀の今日になって、やおら現実性を増して、日本社会の前面に噴出してきているようだ。

 G・ドゥルーズは1990年に発表されたT・ネグリによるインタビューにおいて、現代が、学校、工場、兵舎、病院などが施設への監禁(とそこでの治療)を主たる統治の技法とする規律社会から、「開放環境における休みなき管理」と「瞬時に成り立つコミュニケーション」によって人々を律する管理社会への移行期であることを指摘しているが、そのような管理様式は、東京の野宿者においてはグロテスクなかたちですでに実現しつつあるといえる。p127

 労働者、ルンペンプロレタリアート、未組織労働者に向けて、いまただちに「万国の労働者、団結せよ」マルクスが激を飛ばしたとしても、解決するものごとではない。そして、本当の豊かさや貧しさは、どこからくるのかを、真剣に考えなくてはいけない。

 診察に来る人の中には、有名人や経営者でお金もたくさん持っている人もいるけど、でも自分では独りだとか、友達がいない、集まってくる人はみんな金目当てと嘆いている人もいて・・・香山リカ勝間さん、努力で幸せになれますか」p54

 精神科医としての香山は、感性的に、社会のひずみを、物質的な部分だけではなく、構造的な精神性について指摘しているかのようである(それが成功しているかどうかはともかく)。

 それはネットの中だけ、ある程度の知的な階層のあいだだけ、情報弱者じゃない人たちだけ、にとどまっているような印象を受けますが。そういう限られた人たちの利他的な行動が、現実に食べるにも困っているような人たちにまで浸透していくための突破口はあるのでしょうか。香山リカ勝間さん、努力で幸せになれますか」p153

 貧困やホームレスの問題は、決してその場的ではなく、物事の全体、人間性の全体の中で、考えられていかなくてはならない。

 人もまた、「正義」だとか、「愛」だとか「夢」だとかそうした余計な口上にあ耳を塞ぐことにして、よくよく見れば生きているということ自体が実に味わい深いではないか。p186西澤「あとがき」

 路上に生まれ、親からホウキ一本を手渡され、裸同然で店頭の掃除をしながら日々の暮らしを立てて一生を終るインドの低カーストの人々。そこに怒りや社会の矛盾を感じない人の方が少ないであろうが、また、マヌ法典で裏打ちされるヒンドゥー社会の「智慧」を高く評価する声も多い。

 社会学者西澤晃彦に見えている「街角」もまた、当ブログに見えている「街角」とも、生活に供される路地でつながる地続きゾーンである。 

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セックスしたがる男、愛を求める女 脳科学で真実を明らかにする

 

 

セックスしたがる男、愛を求める女
「セックスしたがる男、愛を求める女」 脳科学で真実を明らかにする
アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ (著), 藤井 留美 (翻訳) 2010/7 主婦の友社 単行本 256p
Vol.3 No.0124☆☆★★★

 

 んなこと言われたって、それは太古の昔からそうなってんだからしかたないじゃない、そういうふうになってんの、と、言ってしまえば、それまでのこと。よく見れば、この本の著者夫妻は、かつて約10年前に「話を聞かない男、地図が読めない女」というベストセラーを出したカップルだ。日本で200万部、全世界で600万部のミリオンセラー、ということだが、トンデモない数だ。

 

 出しているのは主婦の友社。なるほど、そういう視点、そういう流れで、大きなセールスプロモーションのもとで、この本は出されたのだな。「ガラケーでつぶやく街角ジャーナリスト」に変身せんとする当ブログではあるが、まずは、図書館の新刊コーナーも、「街角」の一つではある。「No Books No Blog」のスローガンもそこそこに、なかなか図書館ばなれができない。

 

 そういえば、先日、同じ新刊コーナーで「コンドームの歴史」という本をみつけた。それについて書くと、御無沙汰だった常連さんなどが、のぞきに来る。このようなタイトルはタイトルで効用はないではない。蘊蓄もつくし、なるほど、と思うことも多い。しかし、カンフル剤にはなれど、興味は持続せず、いつか尻つぼみになる。これはやむをえないことだ。

 

 「One Earth One Humanity」を標榜する場合、それは、国境、人種、地域、宗教、思想、業種の壁を乗り越えてある全きの人間、無位の真人、を意味しているわけだが、そこには当然、年齢の壁や、男女の性別の壁を取り払うことも意味している。ことさら男女の違いを強調し、永遠に相互理解できないもの、としてしまうことではない。さて、そうはいいながら、はてさて・・・・・。

 

 40歳の男性は4分に1回はセックスを考える。18歳なら11秒に1回である。p2

 

 ぶふ。まぁ、そう言われてみれば、そうである。18歳の男性も経験したし、40歳の男性も経験した。そしていまや還暦を迎えんとする今は・・・、だれか、平均値をとってくれ。

 

 女が使う「愛」の7種類

 

1)ロマンチックな愛
お互いに惹かれ合う気持ち。セックスへの要求がかきたてられる。ホルモンのしわざ。

 

2)実利的な愛
自分の国や仕事を愛する気持ち。ショッピングやピザが好きというのも含まれる。

 

3)利他的な愛
神や宗教、大義を尊重する気持ち。

 

4)脅迫的な愛
嫉妬や執着といった強烈で不安定な気持ち。

 

5)きょうだい愛
友人や隣人を大切にしたいという気持ち。

 

6)人類愛
人類全体に対する気持ち。

 

7)家族愛
子どもや親、きょうだいをいとおしく思う気持ち。
 p48

 

 いや別に、これは「女」だけの特性ではないと思うがなぁ。男だって、十分この7つの愛を感じている。たしかに4)あたりはどうかなぁ、と思わないでもないが、こうしてみると、ワタシは結構「女」的なのかしらん。

 

 女にとって「セックスだけの関係」はありえない。愛とセックスは脳のなかでがっちりと結びついていて、両方が原因であり結果でもある。たとえ性欲を満足させるためだけにセックスをするとしても、無意識に自分のパートナーに適した条件の男を選んでいる。だが男は違う。セックスしたいとなったら、そこに必要なのはあそこだけ、なのだ。p150「なぜ男は愛とセックスがイコールではないの?」

 

 これは、個人的な感触とはかなり違うなぁ。これでは女は善人で、男はまるですべて罪人であるかのごとくイメージができあがるw 感触からして、善人的「男」もかなりいるし、罪人的「女」も結構いるぜやもし(何語じゃ)。

 

 なお翻訳に際しては読みやすさを重視して、長すぎる説明を省いたり、章の順序を入れかえるなどの工夫を行っている。そのため原書の内容や構成とは厳密に対応していないことをご了解いただきたい。p255「翻訳者あとがき」藤井

 

 私の感じてきた世界観の中ではあるが、東洋と西洋における男女感覚はかなり違うと思う。この本はオーストラリアのカップルによって書かれたとしても、邦訳にあたっては、かなりジャポニクス的に改ざんされているのではないだろうか。タイトルは面白いが、内容的には、かなり保守的だ。男女のイメージや役割を固定化しようとする、「悪意」さえ感じる。

 

 今回検索したら、「愛でセックスを買う男・セックスで愛を買う女」(織田隼人)なんて本も近刊ででているようだ。まずいぜよ、これって。タイトルは面白そうで、笑いは取れるかもしれないが、このように「女」と「男」をひとまとめにして戯画化してはいけない。女は男を誤解するようになるし、男は女を誤解するようになる。彼は「男」の属性を持っているかもしれないが、一個の「人間」なのだ。彼女は「女」の属性を持っているかもしれないが、彼女もまた一個の「人間」なのだ。そこに「One Humanity」を見つけることができないならば、どんな恋愛も「愛」も存在できない。

 

 そんなことを思いながら、勇んで街に出た「街角ジャーナリスト」、今日は、通り過ぎる女性たちの、いまだつづく夏休みモードの、超過激なファッションに鋭い視線を光らせながら、ひとりひとりチェックしていたのであった。

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2010/08/26

携帯& iPhone ツイッターを使いこなす!<2>140文字の「つぶやき」は最強の情報ツール!

<1>からつづく

携帯& iPhoneツイッターを使いこなす!
「携帯& iPhoneツイッターを使いこなす!」 <2>140文字の「つぶやき」は最強の情報ツール!
武井一巳 2010/03 日本文芸社 新書 222p

 さて、新しいカテゴリ「No Books No Blog」が始まる。ネット上の機能であるブログを運営する上で、いつの間にか旧メディアである本と図書館に依存する「読書ブログ」に「退化」してしまった現状を、当ブログは決してよしとはしてこなかった。

 このところ、図書館のネットワーク化はいちじるしく目覚ましいものがあり、それを活用することの面白さは、大いに私に新しい視点と、生活に張りを与えてくれた。実際にはこの読書ブログ、という傾向性は、今後も続いていくものとは思える。しかしながら、ここからは、いちど組み上げたスタイルを積極的に解体していきたいと思う。

 さて、結局は私が今回入手したのは、iPhoneでもなければiPadでもなかった。いろいろ選択肢を作ってみたのだが、当面はガラパゴス・ケータイ(ガラケー)の中でも、私にとっての「最強」機種となるものを選んでみた。

 いままでは、「パジャマのままパソコンに向かうブログ・ジャーナリスト」をキャッチフレーズにしてきたが、今日からは「ガラケーでつぶやく街角ジャーナリスト」に衣替えすることにした。旧キャッチフレーズも、パジャマはインドのパンジャブ・シャツを表しているし、ニューヨーク・タイムスへのあてつけの意味もあって、面白かったのだが、この辺ですこしイメチェンをはかろう。

 「ガラケーでつぶやく街角ジャーナリスト」。なかなか親しみやすくていいじゃないか、と思うが、当ブログにとっては、なかなかこれがハードルの高い目標なのである。6年落ちの旧ムーバ機ではツイッターができなかった。昨日ようやくツイッターに書きこめるフォーマ機に機種変更したばかりなのだ。慣れるまで大変だ。

 「つぶやき」、のほうも、実は、まだ100個ほどのつぶやきをパソコンからテストしてみたのみ。フォロー、フォロアーも、とりあえずの初期的バーとして設定してある100の半分の約50。さまざまな機能やアプリをテストするのもこれからだ。

 「街角」、だって、私には気が重い。あまり自分の住んでいるローカルなニュースにはこだわりたくはないし、個人情報が漏えいするような意味でのGPS活用は考えものだと思っているからだ。ただ、敢えていくなら、昨年から続いているウォーキングの途中、あ、このシーンをネットにアップしたらいいのに、と思うところが何度もあった。あのようなチャンスに、なにごとかネットにアクセスできるようになる可能性もある。

 さて、「ジャーナリスト」の分野はいかがなものか。ここは、全うにいろいろ考えていきたい。「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などをインデックスとして使いながら、いまいちど、ジャーナリズムとはなにかを考えてみたい。

 もっとも、いままで当ブログが追求してきたテーマは、すぐにはフェードアウトしない。とくに「BIHL」は、新しい角度で、もっとおっかけしたい。

<3>につづく  

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オバマ大統領がヒロシマに献花する日<3> 相互献花外交が歴史的和解の道をひらく

<2>よりつづく 

オバマ大統領がヒロシマに献花する日 (小学館101新書)
「オバマ大統領がヒロシマに献花する日 」 <3>
松尾 文夫 (著) 2009/8 小学館 新書 224p

 ふと気がついてみれば、カテゴリ「No Earth No Humanity」も108目の記事となった。当ブログでは、一つのカテゴリを108でまとめるのを恒例としている。現在は、一つのカテゴリだけを走らせて、細かいテーマ分けをしていない。前回のカテゴリは「One Earth One Humanity」だった。この言葉は、私が24歳の時にOshoから瞑想センターの名前をもらうときに、直接に伝えられた言葉の一説から取ってある。

 しかるに、今回のカテゴリ名は「One」ではなく「No」としておいた。そもそも、ひとつならざる地球があるからこそ、「One Earth」という概念が必要となる。もともとたった一つしかないのだったら、あえてOneを強調することなど、意味がない。ましてや地球という存在を意識することすらおかしいことになる。

 「One Humanity」にしても、そもそも地球人において、人間という存在に、互いの共通理解が存在していたとするなら、なにも今更「One」を強調することなどないのである。その「One」を意識しないことこそ、本来の在り方であるとさえいえる。

 「No Earth No Humanity」。私はこの概念を楽しんだ。そうあってしかるべきだと思う。そして、この概念にぴったりくるのはどんな本だろう、と思って身のまわりを見てみた。以前に読んでしまった本ではあるが、また読みたくなったので借りてきていた本が、この本である。「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」。

 現在、朝のテレビドラマ「ゲゲゲの女房」でも、この8月の終戦の日にちなんでなのか、戦争の回顧シーンが多くなっている。左手を失った漫画家の、戦争体験がありありと再現される。「戦争を知らない」と自嘲する私達戦後生まれ世代ではあるが、決して戦争を知らないで暮らしてきたわけではない。

 この本、前回はカテゴリ「地球人として生きる」の中で読んだ。バラク・オバマは、私達の世代よりさらに若い。オバマは、昨年の選挙活動にツイッターの機能をフルに活用したという説がある。が、公式には否定されているようである。

 もっともその後の報道によれば、オバマ大統領自身はツイッターを使ったことがないと語っている。それでも、このツイッターでの発言は、オバマ陣営の担当者から発信されたことは間違いないが。 

 ちなみにオバマ大統領のツイッターアカウント(@BarackObama)は、現在290万人近くものフォロワーがいる。このアカウントがつぶやけば、即座に290万人に情報が伝達される計算になる。 

 しかもRT機能によってそのツイートが転送されれば、ほんの一瞬にして数千万人にまでツイートが伝わる可能性があるのだ。 

 この数は、もはや「つぶやき」を逸脱してテレビ並みのいや、それ以上に大きな影響力を持っていると言っていい。 「携帯& iPhoneツイッターを使いこなす」p032

 いまこのアカウントをチェックしたら、フォロワー数は510万人を超えていた、なう。

 今回この「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」を手にとってみた。日本の新書本だから、ある意味、つぶやき的な軽い感覚で手にとることができる。しかしながら、この新書本は、インデックスとして使われるべき一冊であり、その奥には重い多くの深いテーマがあることがわかる。

 著者には他に「銃を持つ民主主義」(2004年小学館)がある。

<4>につづく

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100文字でわかる日本地図

100文字でわかる日本地図
「100文字でわかる日本地図」
青山やすし 2008/02 ベストセラーズ 新書 189p
Vol.3 No.0123☆☆☆★★

 100文字つながりで、「日本地図」まで来てしまったが、はて、こちらは「日本地図」でさまざまな事象をつないではみせたものの、最終的に、当ブログとつながってくるかは、見失いそうな一冊ではある。むしろ、ここからさらに「世界地図」までつながっていると、当ブログとしてはつながりがいい。

 日本国土の北端は択捉島の北緯45度、南端は沖ノ鳥島北緯20度である。この南北に長い地形のおかげで、日本の自然環境はとても多様性に富んでいる。また、中緯度地域のため、四季が非常にはっきりしているのも特徴だ。p14「多様性に富む日本の自然」

 すでに10代で各都道府県を踏破していたと自負していたが、こうして北端、南端、とまで言われると、日本は広い、と言わざるを得ない。

 日本でも地球温暖化の影響は確実に出始めている。ここ10年間の主要4都市(東京、名古屋、大阪、福岡)の猛暑日(35度以上)の日数は、それ以前の3倍に増加した。また、台風の接近数増加も温暖化の影響といわれる。p22「日本での温暖化現象」

 人によって、あるいは見るサイクルによっては、地球はむしろ寒冷化しているとも言われるが、少なくとも、今年の夏は暑い。今朝も暑くて早々と目が覚めてしまった、なう。

 人為的に、動植物が本来生息する土地から離れて移動することで、生態系が破壊される事例が増えている。また、人口の増加によって人間と野生動物の生活圏が隣接したことで、里化する動物などのトラブルも増えている。p34「人間社会が生態系に与える影響」

 この本、100文字つながりとはいうものの、それをインデックスとして、さまざまな情報やデータが満載されている。これって、ホントウに「100文字」理解と言えるかな。

 現在、日本には、ヒロシマの原爆ドームや厳島神社などの文化遺産が11、屋久島と白神山地と知床の自然遺産が3、合わせて14の世界遺産が存在する。一番新しく認定された世界遺産は、2007年6月に決まった石見銀山遺跡。p54「日本が誇る世界遺産」

 ヒロシマを世界に誇らざるを得ないのは悲しい遺産だが、しかし、それも「世界遺産」にならざるを得ない現実がある。

 日本古来の宗教は神道であり、また日本は世界有数の仏教国でもある。そのため歴史的に価値ある神社・仏閣も多く、人々の生活に密着している。なかんは世界遺産に指定されたものもあり、観光客の人気を集めている。p158「日本の有名な神社仏閣」

 100文字にまとめてしまえば、そうなるかもしれないが、各者異論があることだろう。日本とはなにか、宗教とはなにか。あるいは生活とは、観光とは、などなど。せめて、みんなで「光」を「観」ることにつながれば、この文字列のつながりも無駄ではない。

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100文字でわかる哲学

100文字でわかる哲学
「100文字でわかる哲学」
鷲田小弥太 2007/02 ベストセラーズ 新書 190p
Vol.3 No.0122☆☆☆★★

 「100文字でわかる『名画』の秘密」は意表をつかれた感じで、なかなかおもしろかった。こちらの「100文字でわかる哲学」も期待はしたのだが、さて、どうだろう。

 アテナイ最大の賢者といわれたソクラテスは、絶対的な真理などないとする考えを否定し、普遍的真理を発見する方法を探求した。そして、「無知の知」を基本とする対話法によって世の中の「定説」をつぎつぎと批判した。p26「ソクラテス--無知の知」

 なるほど、うまくまとまってはいるが、ソクラテスそのものがこの100文字の中にいるような感じはない。期待しすぎか。

 老子は、儒教の教えは人為的であり本来の人の道から外れた諸悪の根源であると批判した。そして法律や道徳などの人工的なものを捨て、自然と共生する無為自然を提唱した。一種のエコロジー思想でこれが道教のはじまりだ。p160「老子--道教」

 ふむふむ。これだけの今日的理解ができていれば、老子を知っている、ということになるか。

 インドの仏陀は、この世は「四苦八苦」であり、そこから逃れるには、現世へのあらゆる執着を捨てた生を送らなければならないと説く。仏教のはじまりである。この厭世思想はインドには根づかずアジア全域に広まった。p156「仏陀--仏教」

 これも、諸説あるだろうが、100文字的理解とするなら、これもまた、仏陀のお姿であろう。

 紀元0年前後に中近東で生まれたユダヤ人イエスは、神と人間が契約で結ばれているとするユダヤ教を批判し、神と人間は愛で結ばれていると説いた。ここからキリスト教が生まれ、以後の西洋哲学に大きな影響を与えた。p48「イエス--キリスト教」

 紀元0年前後、という表現が面白い。ちょうど0年に生まれたのではなく、キリストが生まれたから0年とされたのだがw そうか、キリストは、神と人間は「愛で結ばれている」と説いたのか。あらためて認識。

 オランダの哲学者スピノザは、デカルトの哲学を受け継ぎながら、独特の認識論を展開した。理性は真理を対象にするが、フィクション(虚構)知であり、感性は共通意識を対象とするが、リアル(具体)知であると説く。p86「スピノザ--異例の合理主義者」

 難解スピノザは、なるほどこのようにまとめられるのか。100文字になっても、やはり難解ではある。

 オーストリアの心理学者フロイトは、人間の精神には意識がコントロールできる部分とできない部分があると主張した。後者が「無意識」(超自我)で、それに拘束された人間を解放する「科学」=「精神分析」を提唱した。p122「フロイト--無意識の『発見』」

 当ブログにおいても重要ワード「意識」はこの様な形で登場する。としてみると、やっぱりフロイトははずすことのできない重要パーソンであるか。

 浄土宗の法然の弟子で、浄土真宗の開祖・親鸞は、「南無阿弥陀仏」を唱えて仏にすがることが極楽往生への道だと説いた。悟りは、人間の独力では無理であり、ただ仏の力にすがるしかないという、絶対他力の思想である。p174「親鸞--悪人正機説」

 当ブログがこのまま「意識をめぐる読書ブログ」と言うスタイルを維持していくとするなら、いずれは大きくぶち当たらなくてはならない山脈である。いや大海である。いや、なんだろう、わからない。いまのところ、当ブログは、絶対他力、という表現は好まない。ただ、「神秘」という表現からの理解なら、糸口はつくかもしれない。

 西田幾多郎は西洋哲学の主観と客観の分離を批判し、両者が未文化にある状態を「純粋経験」とした。その純粋経験が自己(意識)の絶対矛盾的自己同一の弁証法的運動によって充実、完成することを「善」(真善美)とした。p188「西田幾多郎--『善の研究』」

 これはちょっと字あまり的で、すこし100文字からはみ出している感じがする。いずれ鈴木大拙や禅との絡みで読んでみたい西田ではあるが、どうしても100文字には収まらないボリューム感が、読み手を遠ざける。

 ふむふむ、ひとりひとりについては、ちょっと食い足らないかな、と思わないでもないが、全体で100文字的理解をしていくと、西洋も東洋も、古代も中世、近代、現代も、ギリシャもローマもヨーロッパも、インドも中国も日本も、なんとなく地球全体が分かった気分になるから、不思議だ。

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2010/08/25

ヤフートピックスを狙え 史上最強メディアの活用法

ヤフートピックスを狙え
「ヤフートピックスを狙え」 史上最強メディアの活用法
菅野夕霧 2010/04 新潮社 新書 191p
Vol.3 No.0121☆☆☆★★

 何を持って、「史上最強メディア」を語るのか分からないが、たしかにヤフートピックスの露出度は高そうだな、ということはピンとくる。先日「ヤフー・トピックスの作り方」という本も読んだ。しかし、それ以上に、「活用」してやろう、という気までは起こらない。

 ニュース・メディアの在り方についてはさまざまな意見があれど、追いきれないほどの雑多な情報をどのように整理するかは、それぞれのセンスが分かれてくるところだろう。ツイッターのような、まるでニュースとさえ言えないようなモジュール化した文字列の中から、ニュースを拾い出すのも技術であれば、各マスコミをさらに統合したヤフートピックスの中に、うまく溶け込むように造るのもニュースの技術なのだろう。

 ニュースリリースの書き方

1)綺麗なリリースを心掛ける

2)できるだけA4一枚に要点をまとめる

3)余計な修飾語は不要

4)嘘は絶対書かない

5)基本情報を正確に書く

6)連絡先を必ず書く P183

1)は当然のようでもあるけれど、そうかなぁ、という気もする。そもそも、店頭に並んだ大根と、畑で採れたての大根では泥の付き方が違う。どちらが新鮮で、どちらが製品価値があるかは、微妙なところ。

2)当ブログのように、長々と書くのもどうかと思うが、ツイッターのように140文字にまとめろ、といわれるのも、なかなか難しい。たしかに読む方になってみれば、レターニュースはA4一枚がべストだ。標準化している。もちろん、B5一枚でもだめだし、A3一枚でもだめだ。

3)については、耳が痛い。

4)嘘、というより、真実を書くのはなかなか難しい。どこまでぼかし、どこまでニュースソースを明かすのか、明かさないのか。プライバシーを何処まで露出するのか、しないのか。ウソとまではいえないまでも、アバウトな書き方は一般には許される。ただ、「ニュース」において、最初っから「嘘」はもちろんNG。

5)これも、一般のブログやツイッターなら、全部そろっていなくてもいいだろうが、ニュースや告知なら5W1Hを中心として、基本情報は正確でなくてはならない。

6)ニュースリリースと、個人ブログ記事などでは当然違っているのだが、信憑性をどこまで必要とするかにおいて、正確に書くことはとても大事なことではある。もちろん、メディア側が「裏をとらない」といけないのだが、「ヤフートピックス」としては、裏をとってから流すなんて作業はほとんどしていないだろう。

 

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Twitterville--How Businesses Can Thrive in the New Global Neighberhoods

ビジネス・ツイッター
「ビジネス・ツイッター」 世界の企業を変えた140文字の会話
メディアシェル・イスラエル/滑川海彦 2010/03 日経BP社/日経BPマーケティン 単行本 438p
Vol.3 No.0120☆☆☆★★

 日本語版のツイッターは2008年4月とたいへん早くから提供されている。ツイッターの創業者たちによれば、メッセージに使用されている英語以外の言語を調査したところ、日本語が圧倒的に多かったからだということだ。これ以後、ツイッターは日本語版を新機能の実験室として使っている。新機能や改良はまず日本語版に登場してきた。日本のユーザーが新機能を期に入れば、やがてツイッターの生まれ故郷、カリフォルニアのシリコンバレーにいるわれわれもそれを使うことになる可能性が高い。p1「日本語版への序文」

 日本語版へのリップサービスと見ることもできるが、この文章が書かれた2010/01当時でも、そうであったとするならば、確かに、今年は日本語ツイッターが爆発する頃合いである、と言えなくもない。

 本書には、ツイッターを通じてさまざまなテーマについて会話する世界中の人々が登場する。仕事、遊び、政治、自身、医療、あらゆることが語られている。ツイッターというツールは国境の壁を取り払う。自分と共通の関心をもつ人々を世界中いたるところに発見できるチャンネルである。p2

 この二つの抜き書きの部分にはやや矛盾がある。日本語が多く流通していながら、国境の壁を取り払う、とあるが、ここには、日本がガラパゴス化する大きな要因がある。つまり、日本人は英語が苦手だ。そして、外国人で日本語が自由に読み書きできる人はすくないだろう。

 ところが、日本人で英語を読める人は少なくない。140英字程度なら、読めるし、書けるという人は、多分限りなくいる。むしろ、日本人はツイッター村で日本人街を作らずに、もっと英語を使って(もちろん、他の言語でもいいのだが)、もっと、国境の壁をぶち破っていってもいいのではないか。・・・というか、これは私の個人的な目標でもある。

 ツイッターは電話にも似ているが、同時にブログにも似ている。ただし、ツイッターのメッセージはブログ記事としてはたいへん短い。ツイッターは、いわゆる「マイクロブログ」を代表するサービスだ。ユーザーは自分の好きなことを何でも発言できる。読者はそう望めばコメントを加えることができる。ユーザーは他の特定のユーザー宛てに投稿することもできるし、投稿を広く世界に公開することもできる。それに対する返信も同様である。p17

 この本のタイトルは「ビジネス・ツイッター」だ。図書館のリストを見た時は、ちょっとなぁ、と思った。実際に手に取って見てみると、英語のタイトルは「Twitterville」、つまり「ツイッター村」だ。かなりイメージが違う。日本語のサブタイトルは「世界の企業を変えた140文字の会話メディア」。英語の方は「How Businesses Can Thrive in the New Global Neighberhoods」だ。直訳すれば、「ビジネスはどうすれば、あたらしいグローバルな近所付き合いができるようになるか」というあたりだろうか。

 この本、アメリカのいわゆるこの手の本なので、いろいろ具体例がたくさん載っていて、関係者には面白いだろうが、ちょっと興味をはずすと、いらぬ情報のシャワーを浴びることになる。そのなかから何かを学びとることができるかどうか、というところは、まさに、ツイッター的モジュール文化といえる。決して統合型ではない。

 市民ジャーナリズムは、われわれの先祖が洞窟で暮らしていたころから存在していた。部族のメンバーは血や果汁で洞窟の壁に狩りの様子を描いた。これも一種の市民ジャーナリズムだ。
 市民ジャーナリストは無給のノンフィクション作家だ。洞窟の壁に絵を書いていた先祖より、その末裔は少々背が高くなっているかもしれないが、人間としての本質はあまり変わっていない。ただし、使う道具は信じられないくらい優秀なものに進化した。道具が優秀になれば、使いこなす人間も増える。現代のテクノロジーは、洞窟絵画の時代に比べれてはるかに大量の情報をはるかに遠くに伝達する。
p277

 当ブログでは「パジャマを着たままパソコンに向かうブログ・ジャーナリスト」を標榜している。ニューヨーク・タイムスあたりが、初期のブロガーを揶揄した言葉を逆手に取ってのネーミングだが、ツイッター時代となれば、この辺はすこし変更しなければならないだろう。

 「書を捨てよ、街に出よ」とばかり、「パソコンを捨てよ、モバイルでつぶやこう」と、昨日は、繁華街のソフトバンクの店頭で遊んできた。iPhoneもすごかったが、二台持ちで、通話を期待しないなら、むしろiPadのほうが欲しいと、素直に思った。ほとんど同じ料金なのだから。

 しかし、すこし冷静に考えれば、現在のアクセス環境を一気に「かくめい」してしまったとしても、私の場合は転び石になってしまうこともよくある。この辺はすこしゆっくりと歩を進めるべきだと思った。目に見えていない盲点もいくつかあるはずなのだ。

スパム
1)プロフィール画像に若い女性のものを使っている(たいていはブロンド)。加えて露出の多い服装をしている。

2)最近登録したアカウントなのに100人をもフォローしており、逆にほとんどフォローされていない。

3)ユーザー名が文字や数字をでたらめに配置したものになっている。p354

 ネット上のサービスである以上、ツイッターも例外ではない。勝間和代が語るツイッター像はいかに偏っているかが判然とする。香山リカとの対談の日本語本がでたのが2010/01。こちらの英語本が書かれたのは、それをさかのぼること一年前2009/01だ。この本を勝間自身は読んでいなかったとしても、ツイッターを日本に紹介したような立場の人物であれば、すくなくともこのようなツイッターの影を部分をキチンと説明しておくべきである。

ツイッターを始める8つのヒント

1)自己紹介をしよう。

2)まず読んで、それから発言しよう。

3)呼んだらフォローする前に何か発言しておこう。

4)有名人のフォローにとどまらず友達を作ろう。

5)スパマーと思われないように注意しよう。

6)お気に入り機能を使ってみよう。

7)ゆっくりと楽しもう。

8)まずは身近なことから考えよう。 p368

 超ビギナーである私にはいろいろ耳に痛いところもあるが、当然と言えば当然のことが多い。

初心者向けヒント

○まず安全なスタートを。

○友達をフォローしている人をチェックしてみよう。

○コマンドについても理解しよう。

○ツイッターのユーザー名を告知しよう。p389

 これだって、よく考えれば、リアル社会の基本とほとんど何も変わらないのだ。

 フォロワーの知恵

○誰かの意見に反対するのはかまわない。しかし、敬意を持って行うように。不愉快な態度を示しては会話が成り立たなくなる。

○気前よく、寛大になろう。与えた以上の見返りがあるものだ。

○忍耐をもって会話を進めよう。誰もがあなたの話に聞き入っているわけではない。自分が会話から離れるからといって「この件についての話は終わった」などという態度を示さないように。

○特に最初のうち、発言の中に何か価値のある情報を入れるように心がけよう。知人が増えてくれば、昼食時のトリビアのようなものでも楽しんでもらえるようになる。p391

 などなど、いろいろあるが、よく考えてみれば当たり前のことが多い。ネット社会で鍛えられてきた猛者たちは、すでに実名でネット社会を闊歩し始めているが、これもまた、よくよく考えてみればリアル社会と地続きあって当たり前のことなのである。

 フォロワーを減らすことも大事だ。
 ここまで何度もフォロワーの数というものが過大に評価されている現状について書いてきた。むしろフォロワーの数を減らすことも、時には有益であると考えている。
p398

 これも当然のことだ。先日の勝間和代の話などに、私などは当然、かなり批判的である。

 ツイッターはいろいろな意味で会話時代の新聞となっている。興味の対象が変われば、フォローする人を変化させることでまたいろいろな話を聞くことができる。ムンバイやガザに関する速報も入ってくるし、演劇や音楽、絵画等につてのお勧め情報も入ってくる。”ツイッタータイムズ”は日々完全に自分好みに調整することもできる。また、いろいろな情報についてこちらから話をしてそれを聞いてもらうこともできるのだ。p402

 なかなか夢のあるお話しではある。

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2010/08/24

Twitterマーケティング 消費者との絆が深まるつぶやきのルール

Twitterマーケティング
「Twitterマーケティング」 消費者との絆が深まるつぶやきのルール
山崎富美/野崎耕司 2009/10 インプレスジャパン/インプレスコミュニケーションズ 単行本 223p
Vol.3 No.0119☆☆☆★★

 ここまでくると、自分もだいぶ教育されたというか、洗脳されたなぁ、と思う。はっきり言って面白い。この本はすでにほぼ一年前の本だが、実態はもっと進んでいることだろう。

 「本」という媒介を通して更新していると、次から次へと過去へのアクセスになってしまう。まさに白ヤギさんと黒ヤギさんのお手紙ごっこになりやすい。もちろんツイッターだって、メールの交換に変わりはないが、限りなくタイムラグがゼロに近いので、その情報メルティングが劇的に早い。

 もし、このままの成長が続けば、2010年には日本がツイッターの最大普及国になるとされいわれている。さらに、2010年から2011年にかけて、日本におけるクリティカルマスのキャビズム(16%)を超える可能性も出てきた。普及次第では、メールに取って変わるだけでなく、携帯電話やインターネット上のもっとも一般的なコミュニケーションプラットフォームになる可能性すらあるのだ。p5

 ちょっと前までの私なら、このような表現は信じなかった。あるいは興味なかった。考えてみれば、メールの活用方法は、圧倒的なジャンクメールやスパムに埋められて、本当に楽しい個人メールなどは、最近、鳴りをひそめていた。そういった意味で、たしかにツイッターは、久しぶりに楽しいな、と思わせる部分がある。

 男女比は58対42で男性が多く、年代は35~49歳のユーザーが全体の45%、50歳以上が17%(つまりユーザーの6割以上が35歳以上)と日本ではさらに年齢層が高めである。p28

 いままでの経験では、ネットサービス・ユーザーの平均値は、30歳前後であったと思うが、ツイッターの場合は、後ろのほうに5歳ほどずれているようだ。つまり、すでに50代も後半に突入している私などの世代でも、比較的「恥ずかしくなく」参加できるメディアのように思う。

 企業サイトや企業ブログ、写真や動画共有サイト、メールマガジンやSNSなど、いままで使ってきたオンラインツールやサービスとツイッターを連動させると、その威力もいっそう高まる。p42

 それほどコングロマリットにするつもりはないが、少なくとも、当ブログとツイッターの連携は割とスムーズにできそうである。また、新しい可能性も生まれてくる予感がある。

 日本はモバイルのみしか使わないという人たちもいますから、モバイルの可能性は非常に大きいと思います。p63

 たしかに、ブログをケータイだけで更新し続ける人は少ないだろうが、ツイッターなら、むしろケータイやモバイルからだけということは、大いに有り得る。

 すでに知人のツイートを読み落とさないようにするためにフォロワー相手の数を減らしたり、よほどそのツイートに興味の持てそうな相手を絞ってフォローすることに決めたりしているユーザーも多いだろう。p89

 これも大いにあり得る。私もそうした。さまざまな機能やアプリを使えば、「知人のツイートを読み落とさない」ようにするには、なにもフォロワーを減らさなくてもできる方法はたくさんある。勝間和代がいうように、無形文化資産として、フォロー数を無限に増やす、という方法は、やはり愚かしく思える人も多くいるに違いない。

 ただ、このメディアはどう使うかは人それぞれなので、100万、1000万とフォロワーを増やしたい、と思っている人もいるかもしれないし、今のところ、それを積極的に否定すべきではない。

 古いメディアを使っていた人が新しいメディアに興味を持たないと、次のメディアは流行らないんですが、最近はブログからツイッターに切り替える人も出始めていますね。これは、やはりブログと比べて手間が減るからだと思います。p104

 実は当ブログ<3.0>も、ツイッターで展開するのがいいのではないか、と思い始めた。それは手間が省ける、というだけではなく、そのメディアの特性として「なう」な部分や「属人」性が強いこと、軽く、早いことなど、がプラスされる。

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禅の逆襲 生老病死のなかの仏教

禅の逆襲
「禅の逆襲」 生老病死のなかの仏教
有馬頼底/對本宗訓  春秋社 2010/04 単行本 163p
Vol.3 No.0118☆☆☆★★

 この本もまた春秋社か。昨今において、ちょっと気になるような仏教書の出版元を見ると、この出版社であることが多い。なるほど、この出版社だからこそ、このテーマでこの時期にでたか、と思え納得することがたびたびある。陰にはそれだけの優秀な編集スタッフがいるのであろうし、それなりの経営努力があるに違いない。

 お寺さんたちも、生きて現代に存在している限り、現実と対処していかなくてはならない。禅が語られているこの本において、各論的には、さまざまな意見を言わせていただきたいとは思うが、とにかく、現代に生きる、という現実において、このような人々がいるのだ、と認識することができることは、大変うれしい。

 現実の生活の中では、まずは出会うことはない人々だ。たしかに対談の片方の方は私と同じ年齢だし、もともとお二方とも日本に生活をされているかぎり、物理的にお会いできないことはないだろう。しかし、そこに縁や必然性がなければ、生きてある空間の距離は縮まらない。しかしながら、このような、本、と言う形で表現されることによって、知らないでしまった世界が、ぐっと身近に感じられるのだから、まんざら本というものは簡単に捨てるわけにはいかない。

対本 畏敬という場合は良い意味の畏れですが、通常、畏れとは不安なり恐怖なりですね。ですから、「施無畏(畏れなきを施す)」というのは、不安なり恐怖なりを取り除いてさしあげようというわけです。禅では「無畏の請願」とも言いますね。p46

 私はこの三文字には、私なりの思いがある。必ずしも明言したり、額装して壁に掲げたりはしないが、それはまた、私の生涯の請願でなくてはならない。

対本 無畏のお話ですが、仏教では安心ともいいますね。心を安んじる、心を落ち着かせる、ということですが、とても大切なことです。禅では達磨と慧可の安心についての問答が、よく知られております。p52

 同じ物事でも、表現のされかたや、語る人によって大いにニュアンスが変わってくることがあるが、すくなくとも、ここでこの話題がでるべきだろうという時に、タイミングよくその話題がでてきたりすれば、話しは早い。

有馬 作家として大成されたから、それで良かったけれども、「やはり水上(勉)さん、仏飯をいただいて、人間は最後まで仏飯の恩義を忘れてはいけませんね」。「そうよ」と、おっしゃっていただきました。p72

 とりあえず作家・水上勉の全体評価については置いておこう。一宿一飯の恩義という奴も、とりあえず割り引いて考えておこう。ここで語られる言葉のセンスには、角度がちょっと違っているぞ、と感じないわけではない。しかし、その意味は、その通りだと思う。人間として生まれてきたかぎり、人間として育ててもらったかぎり、他の人々とともに、人間として生きていきたい。

有馬 「禅とは何か」というけれど、わしには、禅とは何もわからへん。禅とはいったい何ですか(笑)。

対本 本当に禅とは何でしょうね。私にもわかりません(笑)。ただ、禅はもっと具体的、積極的に社会とかかわっていかなければいけない。そういうところに、ひとつの新しい展開をもっていかなければならない。そう管長はおっしゃっていますね。「只管打座(ただ座れ)」もいいけれど、社会と隔絶して禅があるのではないと。p107

 よくスピリチュアリティを標榜する人びとのなかには、どこにも属さず、あらゆるものを取り入れる、みたいな表現をすることがあって、それが立派なライフスタイルであるかのごとき自負の念で支えられていることがある。しかるに、このお二方の人生のように、「寺」という具体的な社会的存在との関わりの中で生き、ひとつの仏教や宗派との繋がりを維持しながら、するどく禅を生きていく人々もいる。

有馬 禅というものは生きている人のためにならないとだめですね。仏教が葬式仏教というのは、私はたいへん良いことだと思います。人の最期の場面に携わることは大事なことです。たいへん結構なんですが、ところがそれは亡くなってからの話であって、生前になんとかなるべきではないですか。p114

 葬式仏教ではだめでしょう。これは仏教を批判した言葉である。しかるに、それはそれで受け止めるという現実性を忘れてはいけない。私も最期は、近くのお寺の和尚さんにお経を挙げてもらいながら、墓地に埋葬されることになるだろう。そうしていただきたい。しかしながら、「生前になんとかなるべきではないか」というのは、まさに正論である。

有馬 生きている人のための仏法でないといけない。だからぎりぎりまで生きて、あした死ぬかわからん、あさって死ぬかわからんという、その人のための仏法というものを確立すべきだと思います。p118

 おっしゃることが身にしみます。まさにLive Zenを生きなくてはならない。

 対本氏は、若くして一宗の管長に就任しながら、それを敢えて辞して医学生として学び直し僧医となられた方である。

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2010/08/23

モジュール化の終焉  統合への回帰

モジュール化の終焉
「モジュール化の終焉」 統合への回帰
田中辰雄 2009/12 NTT出版 単行本 272p
Vol.3 No.0117☆★★★★

 早い話が、「モジュール化の終焉」とは「統合への回帰」だし、「統合化の終焉」とは「モジュールへの回帰」なのである。物事には離散集合の歴史があり、そのサイクルを調べることによって、未来を予測しようという試みだ。対象となっているのは、世界市場の中における日本のパソコンやケータイなどの通信事業全般。

 当ブログのいままででてきた用語に置き換えれば、「バザールの終焉」と「伽藍への回帰」、と読み変えることもできるだろうし、「クラウドソーシングの終焉」と「クラウドコンピューティングへの回帰」と読み変えることができないでもない。つまり、分散化と統合化の波をうまいこと歴史順に並べてみようということである。

 統合型製品の代表としてはワープロ専用機が登場し、分散型としてはパソコンが登場する。これって、かなり微妙な分類である。ワープロ専用機はともかくとして、パソコンは、たしかに統合派マックに比べたらwin機は確かに分散型ではあるが、リナックスをOSにしようとする動きに対しては、はるかに統合的である。

 しかるに、単体の製品ばかりではなく、産業構造全体を、そのモジュール化と、統合、という尺度でとらえてみようという試みである。電話産業などは、極めて統合的な産業構造であり、それに比すと、ケータイ産業は分散型である。自動車産業も統合型とみなされる。

 ただ、この価値基準は、かなり曖昧なもので、視点を変えるとどんどん違った意味になってしまうので要注意。自動車などは現在はたしかに統合型であるが、電気自動車が標準になってくれば、モーターさえ調達してしまえばいいわけだから、かなりモジュール化した自由性の効く産業になってしまう可能性がある。

 このスケール基準の中で、著者はケータイやiPhoneなどを引き合いに出していろいろ試論を繰り出すのだが、それはあくまで試論であって、学者によれば、こういう予測もひとつとしてでています、程度の、当て馬的、逃げ兎的、かなりアバウトなものである。実態はなにもともわない、ともすれば空論にさえなりかねない学説にすぎない。

 アルビン・トフラーなら、オーケストラとジャズ・バンドに例えるだろうし、精神世界なら、カソリックとスピリチュアリティに比されるかもしれない。まぁ、かなりいい加減な推論だ。集合と分散。結局は、うまい具合にちょうどいいところに収まってくれればいいだけのことであり、どっちへの極にかたまってしまうのもよくない。

 振れ過ぎた振り子が元に戻るように、どちらへの振れを見せながら、結局は可動的な平均値周辺が一番ここちよい、ということになるに違いない。なんだかもっさりした一冊なので、引用するのさえ、ちょっとためらってしまった。

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勝間さん、努力で幸せになれますか カツマー VS カヤマー 

勝間さん、努力で幸せになれますか
「勝間さん、努力で幸せになれますか」 
勝間 和代 (著), 香山 リカ (著) 2010/1 朝日新聞出版 単行本: 192p
Vol.3 No.0116☆☆☆☆★

 申し訳ないが、香山リカの本はまったく読めない。当ブログが、自らを読書ブログであると認識した当時、数年前のことだが、すでに図書館は彼女の本でいっぱいだった。ひとつまとめて読んでやろうと、一時は努力したのだが、だめだった。おかげで彼女の本は、「当ブログが読んだワースト本ベスト10」のトップを飾っている。

 かたや、勝間和代においても、数年前にたまたま読んだ「東洋経済」で彼女が紹介されており、その推薦本「本を読む本」とやらを読んだのが最初だが、その後、店頭でよく見かけるこの方の本を手にとってはみるのだが、数ページで指から頁をめくる力がなくなる。どうしてだろう。

 勝間和代さんと対談することになったと告げると、口の悪い私の弟は、「日経VS東スポ、って感じだな」とつぶやきました。p182香山

 言い得て妙。少なくとも、お二人より、この弟のセンスに私は近い。日経はまぁ雑誌類ではいろいろとお世話にはなっているが、その限界もわかる。東スポは、床屋の待ち時間に、珍しいのでめくってみる程度。なるほどね、かなりベクトルが違う。この二人を土俵に挙げて、行司役を務めたのは、朝日新聞。まぁまぁ、いい役どころだな。

 勝間 同じことがツイッターでも話題になっていました。ツイッターは、発言を読むために自分のページを登録してくれている「フォロワー」の数がわかるんです。その人に10人のフォロワーがいるのか、300人のフォロワーがいるのか、1万人なのか10万人なのかというのが、誰にでもわかるようになっています。フォロワーの数は、その人のページがいかに人気で読む価値があるかを示す、いわゆる無形文化資産です。

 インターネットによって、それまで持っていても目に見えなかった無形資産が、数値化され、万人に公開されてしまうがゆえに、自分より恵まれている人がいることがわかり、不幸感を加速させてしまいます。p53

 こういう論理はまずいだろうな。ヤフオフだってミクシーだって、それは数量化されている。しかし、多ければいいなんて論理はどこにもない。そして、それはいくらでも偽造できるし、また、それが虚構なものである、と見抜いている人はたくさんいる。そもそも、独立した個人なら、それを見抜かなくてはならない。

香山 ただ、そのフォロワーというのが多いほうが幸せかどうかはわからないですよね。フォロワーが10万人いても、家に帰ったときには誰もいなくて寂しい、という人もいるんじゃないですか。診察に来る人の中には、有名人や経営者でお金もたくさん持っている人もいるけど、でも自分では独りだとか、友達がいない、集まってくる人はみんな金目当てと嘆いている人もいて、「あなたが望んでいまのポジションを目ざしたんじゃないの?」と突っ込みたくなることもある。p54

 香山という人も、よくわかっていない。外でツイッターをやって帰ってきて、家で独り、なんてことはない。家に帰っても独りだから、家でツイッターをやってフォロワーのタイムラインを読むのじゃ。ボケとる。そもそも、独立した個人なら、そこそこで足りているはずだ。足りているなら、誰も精神科など頼りはしない。病人ばかり見ているうちに、ごく全うな人間がみえなくなっているのでは、ありゃぁせんか・・?

勝間 いわゆる2対8の働きアリの法則ですよ。これはモデルを組むとわかりますけれども、全員のアリが働くとハイパー競争になってしまって、アリたちがくたびれてしまうんですね。なので、2割のアリが一生懸命に働いて、残りの8割が適度にサボるぐらいで、実は社会の最適配分になるという理論があるんですよ。p99

 勝間という人も強引である。これは「百匹目のサル」と同じように、ひとつの思いつきによる喩え話であって、それを人間社会にすぐ当てはめるのは無理じゃ。アリだの、サルだのと、根本的に、人間は違う。女王アリもいなければ、サル山のボスもいない。

 百歩譲って、パレートの法則80対20の理論という仮説があったとして、なんでもこれに当てはめようとしてはいけない。これは現代の都市伝説であり、いわゆる迷信の類である。

香山 だとしたら、さきほどの「無駄」だってOKじゃないですか。自分は8割派だと思って、職場でもお茶をすするなり、同僚の悩み相談やグチを聞くなりしながらずいぶんに適当にやってよいことにはなりはしませんかp99

 精神科医という職業も、科学者の一種だと思うのだが、ここでも香山はまんまと勝間の迷信に踊らされてしまう。全体が見えていない。100あるからこその20であり、80なのである。地球の20%は大陸で、80%は海だとしたら、私は海だけでいい、と言ってもそうはならない。体の中の個体は20%は個体で、あとの80%は水分だとして、私は水分だけあればいい、というわけにはいかないのである。

 働いてばかりいるのもおかしいし、サボってばかりいるのもおかしい。全体が見えているなら、こんな発想はでてこないはずなのだが・・・・・。

勝間 私がツイッターで、「こういうことが知りたい」「これってどうなるの?」とつぶやくと、誰も何の得にもならないのに、みんなすごく書きこんでくれます。私がそれを読まないかもしれないし、読んでも「ありがとう」とは言わないかもしれない。それでも書いてくれるのは、やっぱり人の役に立ちたいという気持ちがみんな共通にあって、知っていることは人に教えてあげたくてしょうがいないからですよね。p153

 この人、本当にそう思っているのなら、そうとうの確信犯だ。それこそアスペルガー症候群の可能性がある。であるからこそ、精神科医としての香山が、職業的に放っておけなくて、過剰に反応してしまうのだろう。 

 勝間はたしか津田大介「Twitter社会論」の中で、津田と数十ページに渡って対談していた。ツイッターに参加している人たちは、「誰も何の得にもならないのに、すごく書き込んで」くれているのだろうか。ビジネスの潮流を変えると言われているツイッターなのである。虎視眈眈と利益をどこから生み出そうか、と、魑魅魍魎が跋扈していることを忘れてはならない。すくなくとも勝間は公認会計士を名乗る人物である。ケツの毛を抜くビジネスのプロだ。

香山 でもツイッター的な姿勢が現実社会で普遍的に浸透しているかというと、そうでもないですよね。OSのLinuxが出てきたときも、同じようなことを言われましたよね。しかし、それはネットの中だけ、ある程度の知的な階層のあいだだけ、情報弱者じゃない人たちだけ、にとどまっているような印象を受けますが。そういう限られた人たちの利他的な行動が、現実に食べるにも困っているような人たちにまで浸透していくための突破口はあるのでしょうか。p153

 もうここまでくれば、なんでもありの女子プロレス並みの華やかさである。お互い髪を振り乱しながらのタイツ姿の取っ組みあいが似合いそうだ。せめて、リナックスを語るなら、ストールマンの「フリーソフトウェアと自由な社会」や、トーバルスの「それが僕には楽しかったから」、レイモンド「伽藍とバザール」などを読み直し、いかにこの20年以上のあいだ、フリーソフトウェアやオープンソースが、地球社会の隅々まで恩恵を行き渡らしたか確認したうえで、発言してほしい。

 少なくとも、「職場でもお茶をすするなり、同僚の悩み相談やグチを聞くなり」しているだけでは、リナックスは出来上がらない。それとも「現実に食べるにも困っているような人たち」も一緒になってフリーソフトウェアや、オープンソース活動に参加してくれるのだろうか。「ある程度の知的な階層」の「情報弱者じゃない人たち」が地道に活動してくれているからこそ、私たちはその恩恵を受けているのだし、一つの新しい地球人のクラウドソーシングの理想をそこに見るのである。

 ところで、お二人とも社会的にはそうとうな発言力や立場を与えられている人たちではあるが、それを支持したり、ネットワークでつながっている人が多ければ多いほど、正しくてよいことだ、と私は思わない。ある適度な生活圏を確保する、ある適度なネットワークが機動しておれば、十分だと思う。少なくとも、マイミクやフォロワーの数や、ヤフオクの評価ポイントの数だけで全人格を判断するような一面的独断性は、ご免こうむりたい。 

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月面上の思索 The Way of the Explorer <1>

月面上の思索
「月面上の思索」The Way of the Explorer <1>
エドガー・ミッチェル/前田樹子 2010/07 めるくまーる 単行本 413p
Vol.3 No.0115☆☆☆☆★

 この本、だいぶ前から手元にあるのだが、どうも流れ的にこちらに来ない。延長してゆっくり読もうとしたら、すでに私のあとに何人もリクエストが入っているので、そろそろ貸出期限がきれてしまう。厚い本なので、しかも結構内容のありそうな本なので、すぐには読めない。ここは簡単にメモだけしておいて、機会を見て再読しよう。

 この本でまず面白いと思ったのは、翻訳を前田樹子が担当していること。彼女関連の本は、何冊か読んできた。

「グルジェフ・弟子たちに語る」ゲオルギー・イワノヴィッチ・グルジェフ, 前田 樹子 1985/09 めるくまーる

「人間に可能な進化の心理学」P.D.ウスペンスキー , 前田 樹子 1991/03 めるくまーる

「エニアグラム進化論」前田樹子 1994/04 春秋社 2008/03

「UFOテクノロジー隠蔽工作」 スチーヴン・M. グリア, Steven M. Greer, 前田 樹子 めるくまーる

「月面上の思索」エドガー・ミッチェル/前田樹子 2010/07 めるくまーる

 この中、「UFO~」が近刊としてあるとは思わなかった。内容も内容だし、近隣の図書館にも入っていないので、すぐには読めないが、前田樹子の、一連の仕事として、一度目を通してみたいと思う。

 本書「月面上の思索」は月世界を歩いた12人の宇宙飛行士の一人、エドガー・ミッチェルの自伝である。NASA宇宙飛行士に選ばれた彼は1971年1月、アポロ14号による月ミッションで、月着陸船の操縦士という大任を果たし、人類史上6番目に月を歩く人になった。p410「訳者あとがき」

 類似のテーマ本としては、立花隆の「宇宙からの帰還」がある。宇宙船には科学者だけではなく、詩人をのせたい、というテーマだ。宇宙旅行から帰ったあと、宇宙飛行士たちはさまざまな進路を選ぶが、エドガー・ミッチェルは、彼なりの「神秘」な道を歩きはじめる。

 当ブログは現在、「iPhoneでツイッター」というテーマの周辺をうろうろしている。これがなかなか新鮮で面白い。これはこれで何かの画期的な局面を開きそうだ、と感じ始めている。しかし、iPhoneはコンテナ論で、ツイッターはコンテンツ論、である、ということにはかわりない。では、何についてつぶやくのか、となると、当ブログとしては、やはり、コンシャスネス論の「意識」を外すことはできない。「意識をめぐるiPhoneツイッター」とでも名付けられることになるのだろうか(爆)。

 ここ数年間、私は講演活動とコンサルタントの仕事で生計を立ててきた。その間ずっと、意識を研究するための遂行中の調査結果を----その中で適したものは何でも----私の研究に吸収してきた。それは概して、一人ひとりが自分自身についていっそう幅広い観点を見つけられるように助力するためだった。p388 エドガー・ミッチェル「未来へむけて」

 宇宙工学やロケット製作はまさにコンテナ論だ。そして、NASAの「月面に人類を届ける」というのは、ひとつのコンテンツ論だ。しかし、その次、「ロケット」で「月に行った」人間は、「どうなるのか」というところに、意識、「コンシャスネス論」がある。

 翻って、卑近な例として、当ブログがぶち当たっている状況を考える。iPhoneという「コンテナ」で、「ツイッター」という「コンテンツ」を使いながら、私たち地球人は、どのような意識「コンシャスネス」へと進もうとしているのか。ここにこそ、当ブログのテーマはあり、遅々たる歩みで有りながらも、大いなる希望を持っている地平がある。

 この本、そういう意味合いをも込めて、いずれ再読することになろう。

<2>につづく

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2010/08/22

『iPadショック』 iPhoneが切り拓き、iPadが育てる新しいビジネス<1>

iPadショック iPhoneが切り拓き、iPadが育てる新しいビジネス
「iPadショック」 iPhoneが切り拓き、iPadが育てる新しいビジネス<1>
林 信行 (著) 2010/5 日経BP社 単行本 232p
Vol.3 No.0114☆☆☆☆★

 1995年にwin95が発売され、それまでパソコンといえばマックというイメージだったのだが、マック派はどんどん少数派になっていき1対9くらいまで追い込まれてしまった。巻き返しを図ろうとしたマックは1998年にiMacを発売した。

 製品としては必ずしも完成品ではなかったが、win一色になろうとしたパソコン状況に大きな波紋を生みだした。FDDが標準装備されていなかった。スケルトンのボデイが意表を突いた。丸いマウスが奇妙に気持ちよかった。

 iMacはわが家にもやってきた。子どもたちのおもちゃになった。だが、winはその後、98や2000とヴァージョンアップすることによって、一極支配の色を強くし始めた。仕事においてパソコンは不可欠なものとなり、パソコンを使えない社員は配置転換や早期退職を迫られた。

 win98が発売される頃、それまで国内のガラパゴス・パソコンの6割以上を占めていたNECPC98シリーズが、win98との98繋がりの中に紛れるように、ms-dos化して行った。これで統一基準が強まり、ビジネス界は、winNT、Meそして2000、に標準を合わせ、2001年のXP機の登場により、ほぼプラットフォームをwinの上につくることになった。

 したがって、左脳的なビジネス界にいる私などは、魅力を感じたとしてもmacは活用できず、ましてやLinuxの台頭もあり、iMacなどの潮流とはかなり隔たりを感じるようになった。逆にいえば、右脳的アートな産業な連中はどんどんmacに特化して行った。

 その後の動きについては、本書「iPadショック」に詳しい。これらの歴史的背景があってこそ、このiPadの登場している意味や、今後の動向が占える、ということになる。

 さて、わが身に立ちかえって、ケータイ問題を考えてみるに、3つほどのコースがあることが分かってきた。

1)6年落ちのドコモムーバ機をあと2年弱使う。

2)自分にとっての最強ガラケーSH03Bに移行する。

3)SH03BとiPhone4の二台持ちになる。

 滑稽なようにも思うが、1)も有り得るのである。携帯通話の必要性、回線の安定性、機能の定番性を考えれば、このままムーバの最後を見届けることも、なにも恥ずかしいことではない。

 だが、費用や接続料金、機能の拡大性を考えると、2)がもっとも現実的であるようである。ガラケーとして使うなら、現在の料金とほぼ変わらない。端末料を含んでも、割高感はない。だが、スマートフォン的に使うとするなら、このコースがベストとばかりは言えない。

 3)は、ある意味理想的な状態とも言える。二台の使い勝手を比較することもできるし、話題性も確保することもできる。2)の使い方と3)の使い方ではほぼ料金は横並びになる。ただし、2)は、途中で撤退してガラケー通話専用機にいつでも変身できて通話料金も低額に下げることができるのに対し、3)はスタートしてしまえば、27カ月は戻ることができない。

 ただ、ここにiPadが絡みこんでくると、またまたバトルロイヤルは再燃する。ひとつひとつ調べて、本当に必要なのは何なのか、考え直す必要がでてくる。

<2>につづく

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Twitterの衝撃 140文字がビジネスからメディアまで変える

「Twitterの衝撃」  140文字がビジネスからメディアまで変える
  日経BP社/枝洋樹 2009/11 日経BP社/日経BPマーケティン 単行本 205p
Vol.3 No.0113☆☆☆☆★

 図書館にリクエストしても、人気本はなかなかやってこない。今回ようやく連絡がきたので、図書館に行ってみると、2冊が届いていた。リクエストした時はあまり意識していなかったが、この2冊の本、同じようなタイトルと同じような表紙だった。よくよく見てみると、同じ日経BP社の本だった。

 なるほど、TwitterとiPod。この二つを並べてみれば、いかにも今日的話題となる。「衝撃」と「ショック」、なるほどね、このあたりが狙い目なのか。

 Twitterの衝撃 140文字がビジネスからメディアまで変える

          iPadショック

 「Twitterの衝撃」。この本はもともとは「日経ビジネスオンライン」で2009年7~8月に展開された7人の論説が一冊になったものである。つまり順番を待って本が来るまでのんびりしているのではなく、そのオンラインを見ていれば、この内容はすでに分かっていてしかるべきモノなのである。

 当ブログの次なるテーマは「No Books No Blog」である。なんでもかんでも本にならなければ信憑性がない、などというスタイルはどんどん捨てていかなければならない。もっと感性豊かにネット上における有意義な情報を「なう」にゲットしていかなくてはならない。そして、なにも長々とブログに書く必要もないのだ。

 iPhoneに内蔵したGPS(全地球測位システム)を活用して位置情報を取得し、例えば半径2キロメートル以内の最新のつぶやきを総覧できる。近くにいる人のつぶやきを見て、最寄り駅で「車両点検で電車が遅れ、ホームがあふれている」といった情報がわかったり、近くの店で「特別セールを実施中」であることがわかったりする。p44 「Twitter XiPhoneが切り開く新情報時代」林信行

 このGPS機能は他のスマートフォンやガラケーでも活用できるだろうか。それにしても、このようなGPS付き情報がもっともっと溢れかえらないと、まだまだ活用できるまでにはいかないだろう。これからに期待というところか。

 Web2.0の重要な概念のひとつに「永遠のβ(ベータ)版」がある。β版とはソフトウェア用語で開発途上版のことだが、ソフトウェア中心の今日では、製品やサービスは常に市場の反応に応じて進化を続けるものなのだ。p57 林

 永遠の未完成品。未完の天才、みたいな言い方だな。

 マイクロブログであり、ミニSNSであり、そして情報源でもあるTwitterを活用するユーザーにとって、この制限は取り払われるべき欠点でしかない。(中略)
 安定稼働を取るか、制限を緩めるか。日々ユーザー数が増加する中、Twitterを支える技術は岐路に立っている。仮に技術の用意が済んだとしても、後はユーザーをどれだけ集められるか。システム構築以外のテクニックにかかっている。
p178「Twitterを支える技術の現在と将来」高橋秀和

 早い話が、周辺でうろうろしている私などがかき集められている段階であり、一年前とは状況はだいぶ違ってはいるのだろうが、これからがTwitterの正念場、ということであろう。

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テレビが言えない地デジの正体

テレビが言えない地デジの正体
「テレビが言えない地デジの正体」
たくきよしみつ 2009/09 ベストセラーズ 新書 239p
Vol.3 No.0112☆☆☆☆☆

 地デジ問題もいまいち分からない。どうも納得感のないまま潮流に押し流されている感じがする。そもそも面倒くさいから新聞はすでに購読していないが、テレビだって、この際、やめてしまおうか、と思ってさえいる。残り一年、わが家のテレビ環境はどうなってしまうのだろうか。

1)アンテナ問題は解決済み。地デジとBSデジタルに付け替えており、業者が言うには、放送局(しかも4局ほど)とわが家の屋根の上の間には、なんの挟雑物がなく、電波状況は超優秀だそうだ。マンションの陰になったり、新幹線の反響の影響がでる近隣の地域の中にあって、受信状態はベスト1だそうだ。

2)地デジチューナーを家族が準備してくれたので、いつでもブラウン管で地デジが見える環境は整っている。むしろ、来年、ブラックアウトするわが家のテレビの瞬間を見ることを楽しみにしているくらいだ。しかし、BSデジタルチューナーは、また別個買わなければならないようだ。

3)いざとなれば、32~37インチ程度の液晶、HDD外付け、録画機能内蔵のテレビを格安で買ってきて、付け替えれば、なんの問題もなく、わが家の地デジ問題は解決するだろう。

4)しかし、と思う。そもそも、地デジとは一体、なんなんだ。なんでそのようなことになってしまったのか。それほど、高画質は必要ない。テレビに双方向性なんて必要ない。それにまだまだ使えるビデオセットやDVDセット。貯まった録画メディアのこれからの対応はどうすればいいのか。

5)これらのことについては、問題山積みだ。総論的には「なんだかよくわからない。あ~、めんどくさい」地デジ問題、各論的に対応していくとすると、結構厄介なことが次から次へと起こる。

6)そもそも、パソコンやケータイと、これからのテレビはどう絡みこんでくるのか。ここのところが一本納得ができていない。

7)ロールスロイスとモーリス・ミニとモーターバイクの三位一体のように、飛行機と新幹線と地下鉄の三位一体のように、あるいは江戸時代の馬車とカゴと徒歩の三位一体のように、これからテレビとパソコンとケータイの三位一体は、どう変わっていくのか。

8)思えば、この21世紀的情報三位一体のことを真面目に、各論的に精査していくには、ちょうどよい時期が来ているともいえる。

9)そもそも、パソコンやケータイに比べれば、テレビはフェードアウトしても問題はないのではないか、と思う。スマートフォンまでいかないまでも、最強のガラパゴス・ケータイを持てば、3in1で一挙解決してしまうのではないか、とさえ思える。

10)ワンセグ機能を組み合わせれば、もはや地デジテレビはいらない。進化したスマートフォンなら、パソコンをもっとうまく取り入れて、パソコンレス社会を作ってくれるかもしれない。そもそも、ちょっと前までは職場にも家庭にもパソコンなんてなかったのだ。なければなしで、生きてはいけるはずなのだ。

 私は2004年の中越地震で、新潟県北魚沼郡川口街にあった家を失い、その年の年末、福島県の阿武隈山系にある過疎の村に空き家を見つけ、引っ越してきた。p199

 この人、1955年生まれだから、私よりはちょっと若い。だが、それにしても、これらの問題について、実に各論的に詳しい。必ずしも通信の専門家ではなかろうが、持って生まれたマルチな才能が、この人を黙っていることを許さないのだろう。

 まさに、その業界に米ビツを持っていないからこそ、ひとつひとつの疑問に自らのライフスタイルからぶつかっていく。ここまで「テレビは言えない」だろう。実際におかしいことがいっぱいある。私なら、ああ、めんどくせぇ、と逃げておいて、あとは、ぱっと対応テレビを買って、何事もなかったように、地デジライフを始めるだろう。もっとも総務省やテレビ局は、総勢がそうなってくれることを願っているのである。面倒くさい問題を掘り起こされたくない。

 こんな状況で郵政大臣に就任した田中は、各県ごとに利権を一本化し、一気に34の地方局に放送免許を出した。p67「『地デジの呪い』は田中角栄の亡霊か?」

 時は1957年、田中39歳の時までにさかのぼるというのだから、ことは面倒なはずである。

 日本でも「いい機会だからテレビをやめよう」と思う人は、これから先、増えていくかもしれない。p237あとがき

 賛成。私はこの派である。実にいい機会だと思っている。

 最終的には、テレビを一旦見捨ててみることこそ、文化を建て直す最良の方法なのかもしれない。p238

 賛成。

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2010/08/21

100文字でわかる「名画」の秘密

100文字でわかる「名画」の秘密
「100文字でわかる『名画』の秘密」 
佐藤晃子 2009/03 ベストセラーズ 新書 189p
Vol.3 No.0111☆☆☆☆★

 そもそも140文字にはどの程度の情報を込めることができるのか。リンクのURLなども加えると30文字程度の余裕が欲しいが、そうすると、実文は100文字程度か。そう思っていたら、こんな本のタイトルが目についた。

ひまわり
ゴッホが晩年の1888年に描いた作品。画面全体に広がるひまわりの花が、強烈な色彩で迫ってくる。同題の作品は複数あり、これはその中の一枚。ひまわりは芸術と愛の象徴であり、キリスト教徒のシンボルでもある。
p100

 これでちょうど100文字。原稿用紙の4分の1。いつの間にか、駄文をどんどん伸ばす技術ばっかり覚えて、きちんとした簡潔な文章を書く練習をさぼってきた。

かぐわしき大地
南洋に惹かれたゴーギャンが、19世紀末に、一回目のタヒチ訪問を果たした際に描いた作品。対象を力強い輪郭線で区切って表現している本作は、発表時は「切り絵」と酷評されたが、作者の死後に、評価が高まった。
p98

 これも100文字。なるほど、けっして窮屈な感じがしない。

慧可断臂図
禅僧である雪舟が1496年に描いた作品。坐禅をしている達磨に向かい、神光という僧が切断した自らの手を差し出して、弟子入りを願う図だ。雪舟は当時の人としてはめずらしく、中国で絵画の勉強をした経験をもつ。
p160

 こちらは漢字交じりだが、これはこれで100文字におさまっている。

 このシリーズ、「名画」だけでなく、「哲学」、「心理学」、「宗教」などの100文字本があるようだ。

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「ネットに弱い」が治る本 世界一やさしいネット力養成講座

「ネットに弱い」が治る本
「『ネットに弱い』が治る本」 世界一やさしいネット力養成講座
2009/09 講談社mook 日本放送協会 ムックその他 207p
Vol.3 No.0110☆☆☆☆★

 私はネットに強いのだろうか、弱いのだろうか。ネット繋がりの友人たちと比較すると、私のネット力はかなり見劣りする。だが、必ずしもめちゃ弱いとは言えない。しかるに、同年輩の遊び仲間たちや仕事仲間たちから見ると、私はネットに「やや」強い、と見られている。だが、好きではあるが、決して強いとは言えない。まぁ、同年輩の、同職種の人々の中では「平均」的であればいい、と思っているのだが・・・・。

 個人のネットワークがどんどんつながっていくトラックバックは、ブログに革命をもたらしたといわれています。
 数学の世界では、「6人いれば、世界中の人とつながることができる」(6次と隔たり)という考え方があります。Aさん→Bさん→Cさん→Dさん→Eさん→Fさん→Gさん→と6人を通じていけば、大統領にも偉人にも、世界中のあらゆる人に行き着くことができるというネットワーク論です。
 ブログによって、この「つながり力」はより力を増しました。
p114

 以前も当ブログに書いたが、この「6次の隔たり」と「80対20」の法則を使えば、ネット上にゆるい200人の友人をもち、そのうちの40人程度のやや強いつながりの友人と通信していれば、世界中の70億人のすべてと繋がり得る、という論理がある。それは実感として、そうだと思う。

 ブラク・オバマとなら、ツイッターですぐフォローできるが、彼のほうから私をフォローしているとはとても思えない、一方方向だ。仮に何千万人が一人の人間をフォローしているとしても、本当は、それはネットワーク理論の理想ではない。

 むしろ、ネット上でのゆるい200人との双方向のつながりこそ(つまりそのうちの40人とはやや強いつながり)、ほとんど完成形であるし、それこそが「平均」値なのである。だから、私はSNSや当ブログで、そこそこそれをカバーしているので、「ネット」に「平均」、と言えるのではないか、と思っている。

 ”人気ブロガー”になる方法

1)意外性

2)テーマが一つはっきりしている

3)読者の視点もちょっと、持ってみる p113

1)の「メジャーな話題をマニアック/個人的な切り口で語る」、というのは、なるほどと思う。もともと当ブログは「個人的な切り口」でしか語りえないが、扱っている話題は必ずしも「メジャー」とは言いにくい。ましてや「マニアック」かどうかは、自分では分からない。しかし、この指摘は言い得ていると思う。

2)「テーマがはっきりしていると、あなたのブログの更新を楽しみに待つファンが着きやすくなる」という指摘も正しいと思う。現在の当ブログのテーマは「意識をめぐる読書ブログ」である。これは結果論でこうなってしまった。それが正しいのかどうか分からないが、たしかに毎回アクセスしてくれる常連さんは漸増しつつある。

3)「人に読んでもらっているという意識をもって工夫」というところも、ちょっと耳に痛い。そもそも当ブログこそ「つぶやき」なのであって、あまり読者に対する配慮が徹底しているとは言えない。サービス精神がないわけではないが、客疲れしてしまうのであれば、淡々とひとりでつぶやいているほうがいい。ただアクセスログ解析があるので、かなり細かく反響はわかるようになっているので、ブログ運営上に反映できればいいと思っている。

 このような人気のブログですが、日記のように書いていくこともなかなか出来ないという人もいるでしょう。そこで、最近になって注目を集めているのが「ミニブログ」です。
 「twitter」というミニブログは、「今、なにしてる?」ということを、140字以内で書くものです。他の人のtwitterを「フォロー」(閲覧予約)しておくと、フォローした人たちのつぶやきが、自分の画面で一覧できます。
 友達や興味のある有名人が、今、なにをしているか、どんなことを感じているかということがズラリと並ぶと、それはもう、ちょっとしたメディアといえます。
 ブログもミニブログも、予想を越えた「つながり」が生まれる可能性があるところが魅力ですね。
p119

 ブログもなかなか興味深いが、ここは、あまり食わず嫌いにならずに、ツイッターとやらに触れていくのも面白いかな。

 

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追悼 セカンドライフ 合掌

 わずか1年半の短い命のブームだった?「セカンドライフ」。もうすでに終わったのか、新しい時代のために準備しているのか。セカンドライフ「本」ウォッチャーとして、いつか再考してみたいと思う。今回は、リストだけ制作しておく。

Sl_poolside

セカンドライフ本一覧

「ウェブ仮想社会『セカンドライフ』」 ネットビジネスの新大陸 枝大志 2007/4 アスキー

「セカンドライフスタートガイドブック」 ミサイルプロジェクト 2007/05 ローカス

「セカンドライフ」はじめ方から稼ぎ方まで 毎日コミュニケーションズ 2007/05

「セカンドライフの歩き方」 バーチャルワールドガイドブック 三淵啓自 2007/03 アスキー

「セカンドライフ非公式まるわかりガイド」 ポール・カー /グラハム・ポンド 2007/06 徳間書店

「やさしいセカンドライフ入門」 スタジオセロ 2007/06 STUDIO CELLO 

「日本語で始めよう!セカンドライフスピード攻略」 日経BPパソコンベストムック 2007/06 日経BP出版センター

「セカンドライフ公式ガイド」 マイケル・リマズイスキー /中川蘭丸 2007/06 インプレスR&D /インプレスコミュニケ

「セカンドライフ メタバースビジネス」 大槻透世二 2007/07 ソフトバンククリエイティブ  

「セカンドライフで『見る・遊ぶ』を体験する本」  竺振宇 /松本淳 2007/07 インプレスジャパン /インプレスコミュニケ

「セカンドライフの達人」  増田真樹 2007/06 翔泳社

「週刊アスキー 臨時増刊 セカンドライフのすべて」 2007年7/24号 臨時増刊

「セカンドライフ創世記」3Dインターネット・ビジネスの衝撃 2007/07 鴨沢浅葱 インプレスジャパン /インプレスコミュニケ

「『セカンドライフ』ビジネス参入マニュアル」 1週間で理解する3D仮想空間メディア 
イーブランド /メタインパクト 2007/07 笠倉出版社

「セカンドライフの作り方」日本語版対応 バーチャルワールドガイドブックシリーズ 西真由 2007/08 アスキー

「セカンドライフの儲け方」 セカンドライフno.1起業研究会 /永島蓮汰郎 2007/07 あさ出版 単行本

「やさしいセカンドライフ入門(2)」日本人居住区を歩く スタジオセロ 2007/08 STUDIO CELLO

「ガールズ・セカンドライフ」可愛くなくちゃ始まらない!関谷えみりー 2007/07 ランダムハウス講談社

「セカンドライフで作るリンデンスクリプト入門」 セカンドライフアーキテクト育成scripting ウェブインパクト 2007/08 インプレスR&D /インプレスコミュニケ

「超図解Web 2.0セカンドライフコンサルタントが教えるセカンドライフで稼ぐ方法」 松浦秀俊 2007/08 エクスメディア

「セカンドライフ歩き方ハンドブック」 Jinn Lyne 2007/08 ソーテック社

「早期参入企業から学ぶセカンドライフビジネスの始め方」 ついに公開!最新日本語版に対応!!月刊アスキー編集部 /浅枝大志 2007/08 アスキー

「500円でわかるセカンドライフ」 学習研究社 2007/08 

「セカンドライフ成功マニュアル」 宝島社 2007/08

「超カンタン!セカンドライフ」 「遊び」「仕事」「お金」のある仮想世界で第二の自分が生活する 東京メディア研究会 2007/08 工学社

「セカンドライフLinden Scripting Languageプログラミング入門」 日本語版対応 バーチャルワールドガイドブックシリーズ 赤坂玲音 2007/09 アスキー 

「日本版『セカンドライフ』まるわかり!」 賢くスタートできれば、もらえる・稼げる・楽しめる!スパイラルグロース 2007/10 ゴマブックス

「中毒するセカンドライフ」三上義一 2007/09 ランダムハウス講談社

「セカンドライフ探検ガイド」三淵啓自 /デジタルハリウッド大学 2007/10 実業之日本社

「恋するセカンドライフ」 徹底攻略!セカンドライフで恋を満喫しよう 笠倉出版社 2007/08

「セカンドライフ完全攻略」 日本語版完全対応 2007/09 学習研究社

「セカンドライフを楽しむ本」 河出書房新社 /Linzoo Ringo 2007/09

「セカンドライフを読む。」 ティム・ゲスト /笹森三和子 2007/11 エンターブレイン

「セカンドライフ仮想空間のリアルなビジネス活用」永島蓮汰郎 /木下裕司 2007/10 オーム社

「セカンドライフ最新最速パスポート」 ワンクリックで、行ける!稼げる!楽しめる!2007/10 ダイアプレス

「セカンドライフ7つの誤解」 H14 2007/10 宝島社

「仮想世界で暮らす法」「Web 2.0」社会でどう生きるか 内山幸樹 2007/10 講談社

「セカンドライフマガジン(vol.1)」仮想社会を創るコラボレーション情報誌 2007/12インプレスR&D /インプレスコミュニケ  

「セカンドライフマガジン(vol.2)」仮想社会を創るコラボレーション情報誌 2008/03インプレスR&D /インプレスコミュニケ

「セカンドライフマガジン(vol.3)」仮想社会を創るコラボレーション情報誌 2008/08 特集:セカンドライフでお店を出そう!インプレスR&D /インプレスコミュニケ

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携帯& iPhoneツイッターを使いこなす! <1>140文字の「つぶやき」は最強の情報ツール!

携帯& iPhoneツイッターを使いこなす!
「携帯& iPhoneツイッターを使いこなす!」 <1>140文字の「つぶやき」は最強の情報ツール!
武井一巳 2010/03 日本文芸社 新書 222p
Vol.3 No.0109☆☆☆☆★

 「iPhoneでツイッター」と言ったら、とりあえず当ブログの現在のひとつの極となるテーマではある。今頃そんなこと言っていたら、それこそサルにも笑われてしまうかもしれない。しかし、それでもそれが当ブログの「なう」なのだから、まぁ、いいじゃないですか。

 この本を読んでいて、ひとつのイメージが湧いてきた。決していいイメージではない。つまり、マルチ販売のこと。マルチが好きな人は好きなようだ。ある一つのサービスが始まり、上にならないといけない、ということで、早目に会員になる。会員になった人は、どんどん下を作っていく。ある程度のところに来ると、ヘッドの何人かが捕まる。そして、そのサービスは一応の終局を迎える。

 ところが、花が咲いて、ちいさな種がばらまかれるように、指導層ではあったが、捕まらなかった有力メンバーが何人かでコアグループをつくり、またあたらしい商品を媒介としたマルチを始める。新しい人脈も混入してくるが、以前のネットワークが行き場を失っていたところだったので、渡りに船と、新しいサービスに入ってくる。入ってくるばかりでなく、大きな骨格となり支えるようになる。

 そして、いつの間にか、また何人かが捕まり、そのサービスも終局を迎える。そして、また新たなるリーダーが生れ、新しい商品が作られ、新しいネットワークが生れる。そして、その連鎖が繰り返される。毎回、違ったグループの名前で、違ったサービスのように思えるのだが、実態は、同じような仲間達が、同じ様な仕組みで、結局その世界に蠢きあっている。

 これは単なるイメージだ。実際にそのような動きがあったら、すでに誰かがうまいこと小説にでもしているだろう。これは実業だとか、金融業だとか、あるいは思想運動や、政治活動などでもあることだろう。とにかく、そのような連鎖が、この本を読んでいて、イメージとして湧いてきた。

 ツイッターは、本当に新しいのだろうか。パソコン通信、メーリングリスト、ホームページ、巨大掲示板、ブログ、SNS、などのサービスの変遷を見ていると、結局、その後ろで蠢いているのは、いつも同じような人々だったのではないか。同じ様な面々が、今回はツイッターという新しい装いのもと、お色直しをして登場してきた、というイメージがどうしてもつきまとう。

 初期的なパソコン通信あたりでは内輪だけであったし、某巨大啓示版などでは、まったくの実名性に隠れた所業が多かったのに、SNSでは比較的、相互理解の人間関係を重視し始めた。ブログなどでは、ひとり個人で立つ人も増えてきた。そして、ツイッターでは面白いことに、、実名でネット上に登場し、活動する人が増えてきたように思う。

 つまり、ネット社会は、さまざまな変遷をたどりながら、個人個人は結構鍛え上げられてきた、と言えるかもしれない。成熟してきたと言えばそう言えないこともない。あるいは、ちいさな動きがすこしづつまとめられてきて、全体的になってきたとも言える。すくなくとも、私はこの20年間、ネット上では、結局、どこに行っても、コアとなる友人グループと出会うことになる。そして、その人々の「成長」過程をみていると、性懲りもせずに、まだネット上で「活躍」しておられますなぁ、と思う。もちろん、私もだらだらしていて、凝り性がないようだ。

 面白いサービスが始まったと聞き、ツイッターのアカウントを作ったのは、2007年の春だった。ブログサービスが落ち着き、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)に急速に人気が移行しようしようとしている時期だった。p003

 そのSNSが一定程度の爛熟期にさしかからんとする時、新たなるサービスが台頭してきたというわけだ。それは「新し」ければ新しいほどいい。なにかまったく別の違ったものが始まったような気がするからだ。だけど、それを支えているのは、結構もの好きな同じメンバーだったりするのではないだろうか。

 「ツイッターをビジネス」に、なんていう台詞を聴いていると、ほんのちょっと前まで、次期ウェッブのセカンドライフに乗り遅れるな、なんて騒いでいた人たちはどこに行ったのだろうか、と思う。きっと、多くの人々は、時代の流れに身を任せて、右往左往しながら、セカンドライフの横を素通りし、今度は、ツイッターまで運ばれてきているのだ。

 遅かれ速かれ、ツイッターも頭打ちとなる時期が来る。そしてその頃には、また新たなるサービスが始まろうとするのだ。そして、それなりに「成長」した人々が、その蠢きを支えながら、そちらに流れていく。この人々を、クラウドソーシングと呼んだらいいのだろうか。あるいはマルチチュードと呼んでみたらどうだろうか。どんなサービスが栄枯盛衰しようとも、そこに生きていくのは人間だ。

 積極的にツイートを発し、より多くのユーザーをフォローすることで、まずフォロワー100人を目指そう。p199

 なんだか、どっかのマルチなビギナーコースのマニュアルを読んでいるようだ。そんなことめざすなよ。10人でも十分な人もいるのだし、黙っても100万人がすぐ集まってしまう人もいる。そもそも積極的に「つぶやかなくてはならない」というのも苦痛だと思うがなぁ。つぶやきたい人はつぶやけばいいが、なにも他人をプッシュするまでもないのではないか。

 セカンドライフとツイッターでは、もちろん、対極に位置するサービスだ。片や間口が狭く、奥行が広いので、どこに行っても「誰もいない」。寂しい大陸が永遠と続く。それに比すと、ツイッターは、間口が広い分だけ、混雑している。どこに行っても「人々でいっぱい」だ。

 「ブログよりも親近感の強いつぶやきのほうが、フォロワーの目に止まりやすいようです。その意味でも、サイトとブログ、それにツイッターとを使い分ける必要があるでしょう」p294

 ほえ~、なんだかなぁ~。ロールスロイスと、ミニと、モーターバイクを使い分ける必要があるでしょう、なんてレクチャされているようで、なんだか窮屈。そんなに意図的になって、ウェブに参加しなければならないのかな。

 このサービスで、何人かのスターが生れ、何人かの落ちこぼれが生れる。そして、もうすこしすると、別なサービスが生れ、攻守ところを変えて、また別な形で、みんなで楽しむ、なんてことが繰り返されることだろう。

<2>につづく 

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2010/08/20

スマートフォン徹底活用ガイド! MobileHack

MobileHackスマートフォン徹底活用ガイド!
「MobileHackスマートフォン徹底活用ガイド!」
アスキームックアスキー・メディアワークス/角川GP 2008/01 アスキー・メ ムックその他 243p
Vol.3 No.0108☆☆☆☆★

 スマートフォンをキーワードとして検索してみるのだが、近刊も含め、単行本となっているのは極めてすくない。ガラパゴス・ケータイの栄える日本本土にあっては、まだスマートフォンは新種に属する外来種なのか、あるいは、すでに他の名前の元で進化を遂げているのかは分からない。

 今日のところ発見したのはこの本だけだが、2008年1月、という発行年度が気になる。すでに3年以上前の編集によるものだから、内容が2010年の今日はマッチしないだろうとすぐ予想はついたが、どうしてどうして、この本はいろいろ興味深い。

1)「オフィス文書・PDF・PowerPointを活用する」p024

 現在のMSモバイルOSでも可能なのかどうか知らないが、様々なオフィスが「活用」できるとすれば、面白い。もちろんその環境を整えたり、その活用に限度はありそうだが、それでも、なるほど、そういう面からスマートフォンを見ることも必要だと思う。

2)「はてな、ココログ、mixi 他 主要blogへの簡単投稿(写真付きも)」p100

 すでにケータイからはチャレンジ済みではあるが、ブログのサンプルとして当ブログがお世話になっている「ココログ」が上位に表示されることは少ない。実際に当時のスマートフォンを使っての作業の手順が興味深い。

)「セカンドライフをモバイルで楽しむ方法」p108

 これは驚き。数年前は、わざわざセカンドライフをやるためにパソコンを買い替えたのに、小さなスマートフォンでSLがやれるのである。もちろん、アプリを使ったビューアーのようなもので、フルにSLの中には入れないだろうが、三年前に「ケータイでSLができない」と早合点していた自分の態度は改めなくてはならない。もちろん、その環境をつくることができる、というだけであって、本当に実用的かどうかはまだ判断つかないが。

4)「Twitter Mobile」p112

 ケータイ音痴の当ブログでさえ、現在スマートフォンからのツィッター接続を話題にする時代になっている。この本がでた当時はまだツィッターそのものがマイナーだったが、それでも、すでにモバツイについて画像入りで紹介してある。

5)「GPSログをGoogle Earthに表示させよう!」p137

 これもまた現在では当然なのかもしれないが、3年前には、私は、このような技術について考えてもみなかったし、その必要性も感じなかった。今は、端末選びにおいては、重要なチェックポイントにさえなりつつある。

6)「Bliuetoothキーボード、USBキーボードで快適入力」p147

 QWERTY入力の小さなキー達のことではなく、ほぼフルサイズのキーボードを外付けにしてスマートフォンを使い倒そう、という発想である。これは私もありそうだし、必要だなと思っていたが本当にあるのだ。しかし、繋がっている端末は外国のものだから、現実的に、日本の状況の中で使えるかどうかは、これから調べてみなくてはなんとも判断がつかない。

7)「QWERTYキーボードスマートフォン、1000文字タイピング速度比較」p151

 なるほど、これは誰も考えそうなことだ。同じ人の体験だと、パソコンのキーボードに比べると、スマートフォンのキーボードからでは、大体4~5倍ほどの時間がかかるようだ。もっとも、内臓されている変換ソフトや、キーの形状により大きな違いがでてくるので、機種別に7種類のスマートフォンが実験されている。しかし、興味深いのはいずれしても、同じ文章を3回づつ打ちこんでみると、だんだん早くなっていること。慣れれば、どの機種でも結構早く打てるようになるのである。(それでも3倍はかかる)。

8)「お出かけのときの電源グッズ」p160

 もう、いちいち文句ばかりを言っている当ブログとは違う。車でドライブするにはガソリンが必要だ。どこでタンクを満タンにするか、という風な、すでにじつに実務的な話題に切り込んでいる。ただ、やっぱり、ケータイの電源は長時間持ってほしい。途中で災難にあったり、山で遭難したりすることを考えると、通常使用でフル充電で一週間くらい持続してほしい。だが、現在のスマートフォンでも結構、何時間程度、という致命的なレポートがあちこちに散見される。

9)「日本語版BlackBerryの紹介」p176

 店頭ではブラック・ベリーを見て、お、いいな、と思ったが、接続料金の問題や、ディスプレイの大きさなどから、次第にフェードアウトしそうな雰囲気だ。しかし、なぜブラック・ベリーがこれだけポピュラーになったかというと、そのセキュリティの高さによるもので、その端末だけではなく、そのキャリアの思想にある、ということも見逃せない。

10)「スマートフォンの通信速度比較」p232

 これもまた興味深々というところだが、実験されている機種は10種類ほどあるが、どれも今日日本で一般に使われているスマートフォンではない。電波やキャリアの問題だけでなく、端末にもその速度の要因があるとするならば、無視はできない。しかし、実感として一般人が比較できるわけではないので、ネット上のユーザーたちのレポートなども参考にして、このようなことにも気を配る必要を感じた。

11)「寝モバのススメ」p238

 もともと読書は寝っ転がらないと出来ない性格の私としては、今後スマートフォンと付き合う時間が長くなるとすれば、当然ソファーで寝っ転がって使用することを考えるだろう。ところが、この本においては、「寝」ということをもっと細かに状況設定して、どの機種がベストかレポートしている。隣に誰か寝ているのか、明りはついているのか、音は出せるのか、などなど、なるほどね。至れりつくせりだ。

 この本は「モバイル・ハック」のタイトルがつくムックであることから分かるように、一般むけの本ではない。いわゆるハッカーを自認するようなマニアたち、あるいは技術者たちによるレポートである。かなり突っ込んだ話が多い。

 閉ざされたガラパゴス島に、海の外から吹いてくる、一陣の風が、この本ですでに表現されていた。

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お父さんのための携帯電話ABC<2>

<1>よりつづく

お父さんのための携帯電話ABC
「お父さんのための携帯電話ABC」 <2>
法林岳之 2007/04 日本放送出版協会 新書 254p
Vol.3 No.0108☆☆☆★★

 スマートフォンについてのなんかいい本がないかなと図書館の棚の前を逡巡したが、なかなかない。新刊本はすでに出払っており、予約がいくつも入っている。開架棚に残っているのは、2~3年よりさらに以前の本ばかり。この世界は情報の移り変わりが早い。2~3年前の本では役に立たないことが多い。

 諦めかけている時に、ポケットのケータイに連絡が入った。うちの奥さんが最近ゲットしたらくらくホンからの初メールだ。仕事が入ったからすぐ戻れという。みんなが静かにしている図書館だから、バイブ機能にしていて誰にも気づかれなかった。ポケベル的な使い方とは言え、時勢からは大きく外れてのんびりしている我が家ではあるが、時代はここまで来ているんだな、と思った。 

 ということで、せっかく図書館まで足を運んだのだから、眼の前のこの本をつかんで、手続きを済ませて帰宅とあいなった。この本、出版当時に読んだ記憶がある。あの時の印象と、今回3年が経過して読んでみて、どんな違いがあるだろう。

 ケータイはパソコンやインターネットと並び、これからの時代に欠かせないモノです。自分のもっとも身近にある便利はツール「ケータイ」。これを上手にかしこく使うために、ちょっとケータイの世界をのぞいてみませんか?p5

 私のムーバはすでに6年落ち。たしかオサイフ機能が付いた最初の機種だったはずなのだが、いつかこの機能を使ってやろうなんて思っているうちに、オサイフ機能がついていないケータイなどない時代になっていた。いや、むしろオサイフ機能がないことを敢えてマイナスとしないスマートフォンとやらも登場している。

 NTTドコモのサービスで比較すると、デジタル方式のmovaでは1パケットあたり0.315円であるのに対し、3GケータイのFOMAならでは1パケットあたり0.21円以下となっています。p35

 当時はちょうど端境期にあり、サード・ジェネレーション(3G)とやらが登場しつつあった。こまかい料金の違いに目を止めることはなかったが、このiModeの料金の高さも、結局は使わなかった原因なのであった。なるほどFOMAなら安くなっていたのか。

 FOMAはつながりにくいからいやだ、なんて言い訳をしていたが、いつのまにかmovaの試用期限も迫っており、なにやら新しいFOMAすら新しくスタートし始めるようだ。

 パケット通信は現在のケータイにとって、欠かせないもののひとつですが、音声通話などと違い、今ひとつ使った実感をつかみにくい料金でもあります。しかし、パケット通信料はケータイ本体や各社のサイトで使った量を確認することもできますし、パケット通信料の割引サービスや定額制サービスに加入することで、多少なりとも負担を軽減することができるようになっています。p105「3Gケータイが有利なパケット通信料」

 この辺あたりで、なるほど、なんてうなづいているから、先日ドコモショップの兄ちゃんに舐められたんだなぁ。

 フルブラウザの実際の使い勝手については、パソコンほどの快適さは得られませんが、画像や文字が縮小されるため、十分に実用にあるレベルです。用途にもよりますが、ちょっとパソコンのホームページをチェックするために、モバイルノートパソコンを持ち歩いていたユーザーは、もうノートパソコンを持ち歩かなくても十分、ケータイのフルブラウザで対応できる環境が整ったというわけです。p198

 この時点からすでに3年が経過して、すでにケータイ公式サイトではなく、最初からブラウザの一般サイトをメインに考えるスマートフォンの時代がやってきている、というわけだな。

 普段、日本で使っているケータイのまま、あるいは同じ電話番号のまま、海外で利用できる国際ローミングは、海外旅行などに非常に便利ですが、実は注意しなければならない点があります。p224

 先日、アイスランドの火山が爆発してヨーロッパに足止めされたお客さんから、電話があった。用事があったのだが音沙汰がないのでへんだな、と思っていたところだったが、「パリで足止めを食らって、パリばっかり見ているの飽きちゃった」とかいう話であった。問い合わせの返信で、こちらからも電話をかけたので、その料金はどうなっているのか気にはなっていたが、こちらは国内の通話料だけを負担すればいいという。

 パリにいるお客さん夫妻は、となりにいる子ども達に通話するだけでも、一回国際電話で日本につなげ、それからさらに日本からパリにつないでいるとのことだから、とても高い通話料になっている可能性がある。これは今でもそうなのかどうか、後で確認することにしよう。

 おサイフケータイで利用されている電子マネー機能もアプリで提供されていますし、GPSケータイの地図表示やナビゲーションをするためのアプリケーションもアプリ機能によって実現されています。ワンセグやFMラジオなどのチューナー機能の一部もアプリ機能を利用しています。p231

 この辺はいちいち面倒くさいから、全部パスしていたが、アプリの中には自分のライフスタイルにあった掘り出し物もあるかもしれないから、チェックの必要があるのかもしれない。

 ワンセグはケータイやカーナビ、携帯情報端末などを対象とした地上デジタル放送で、基本的には通常の地上デジタル放送と同じ内容の番組を視聴することができます。p243

 車載テレビは20年ほど前に使っていたが、いまはナビで見ることができる。ケータイまでワンセグが必要なのかどうかと疑問に思うが、あれば見るだろう。しかし、最近の流行のスマートフォンには、ワンセグがないのが当たり前になっている。

 iMacにフロッピーがついていなかった時にびっくりしたが、いまじゃフロッピーは過去のものになった。はてワンセグは、これから追加されていくのか、退化していくのか。ガラパゴス・ケータイと揶揄される日本のケータイと、OS競争を生き延びてきたグローバルOSを内蔵したスマートフォンの、これからのバトルロイヤルも見ものではある。

 ケータイで音楽再生をする上で、気になる点もあります。たとえば、バッテリーのもち具合もそのひとつです。p249

 音楽も再生できるのであれば、活用することになるだろう。しかし、バッテリーの持ちも気になる。最近のスマートフォンはかなり不利だ。使い方によっては6時間ほどでバッテリーが空になるので、予備のバッテリーは不可欠、というユーザーも少ないようだ。

 とここまで書いてきて、前回3年前に書いた自分のブログを読んでみた。なるほどね。基本的には、自分の感性はそれほど変化していない。しかし、周囲は大きく変わっている。技術の革新もすごい。ここは、虚心坦懐に、2010年のケータイやスマートフォン状況を直視する必要があるな、と、あらためて、お父さんは思った。

追伸
そういえば、いつのまにか、テレビ番組「お父さんのためのワイドショー講座」もなくなっていたな。

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いまさらはじめる60歳からのインターネット生活 シニア世代、「デ実家」への挑戦

いまさらはじめる60歳からのインターネット生活
「いまさらはじめる60歳からのインターネット生活」 シニア世代、「デ実家」への挑戦
「デ実家」普及委員会 NTT出版 ・発行年月: 2010/03 単行本 103p
Vol.3 No.0106☆☆★★★

 デ実家とは、煎じつめれば、30年前にアルビン・トフラーが「第三の波」で「エレクトロニクス・コテッジ」と喝破したもの。職住一致とかプロシューマーという概念からは外れるけれど、30年前の夢は、21世紀の現実のものとなっている。

 本書では、インターネットでポジティブな人生を謳歌するシニア世代のあり方を、「デ実家」と呼びます。すでに独立した子供世代の家庭とホットラインを形成し、さらに地域から広い社会へとアクセスしていく21世紀型の「実家」として・・・・。ICTによってパワーアップした、新たなシニア世代の生き方を提案いたします。p3 

 ICTとは情報通信技術の意味で、「デ実家」とは、デジタル化した「実家」を意味する造語。

 この本、NTT出版から出たものだが、そもそも出版社から全国各地の図書館に贈呈されたもの。めずらしくこの本にはNTT出版の営業本部長ST名義のそのレターが挟まりこんでいた。司書がはずすのを忘れたのだろう。贈呈本の中には司書も扱い方が困る本も多く、時には、図書館の玄関に「自由にお持ち帰りください」となって、平積みされていることがある。たまに掘り出しものがあることもある。

 さて、この贈呈本、めでたく蔵書となるか、お持ち帰り本となるか、微妙なところではあるが、総ページ総天然色で、実に金のかかった作りである。この本、通常なら800円では作れない。ましてや、全国に多分何千とある図書館に無料で送付されたのだと考えると、なんとNTTの贅沢なことよ、とため息がでる。

 この本、早い話しが「デ実家」プロジェクトが推進すれば、NTTの基盤がより盤石になるわけであり、シニア世代を応援しているようでもあり、また自社の活動領域を広げているようでもあり、まぁ、痛いところをついている、とも言える。

 ただ内容は実に貧弱。すくなくとも、当ブログの読者なら、この本で開眼することはなにもない。当たり前の内容だ。むしろ、家電店のカタログをかき集めて、実に分かりやすく作った入門用パンフレットの位置づけとなろう。

 私なら、この内容でNTTドコモのケータイ(あるいはスマートフォン)の入門本が欲しい。我が「デ実家」はすでにだいぶ前から光ファイバーでブロードバンド化しているし、PC端末も家族一人当たり一台以上、という状況が出来上がっている。無線LANも当たり前のことだが、最近はむしろ有線をありがたがっている。

 現在はむしろ、ケータイやスマートフォンで、デジタル個人(つまり「デ個人」)化しているのではないだろうか。そういう意味においては、私個人はデ個人化は遅れていると思う。だいたいにおいて、あのケータイ文化になじめなかった。その理由を考えてみた。

1)そもそも通信料金が高すぎる。

2)画面が小さすぎる。

3)キーボードが小さすぎる。

4)出来る作業が限られている。

5)パソコン本体があれば、そちら優先でしてしまう。

6)接続速度は、トンボがとまるほど遅い。

7)端末の商品生命のサイクルが短すぎる。

8)あのケータイショップの在り方を見ると、無駄にもうけすぎていると思う。

9)音楽やワンセグやアプリなどは、本当に必要か、悩む。

10)子供マーケットにおけるドサクサも気になる。

 この数日は、当ブログも「No Book No Blog」の掛け声のもと、デ個人化プロジェクトを推進しようと、ケータイショップ通いを続けている。だが、なかなか、いままでのイメージは変わらない。

1)いずれにせよ、ポケットにインターネットを入れようとすると、月々プラス6000円はプラスになる。つまり、デ実家で光ファイバーを入れるのと同等の値段である。その割には、スマートフォンで得ることのできるメリットは少ない。

2)画面はかなり大きくなってきているとは言うものの、そもそも手のひらの上のことであるから、大きなパソコン画面をそのまま見るというのはまず苦痛が伴う。慣れるということはない。むしろスマートフォン専用の画面を拾ってみていく、ということになるだろう。

3)QWERTY入力キーボードを小さくしました、というだけでは、やはりタッチタイピングはできない。すくなくとも入力速度は10分の1に落ちる。ここはテンキーで親指入力を使いこなした方がストレスが少ないかも。

4)少なくとも、ケータイやスマートフォンで仕事は完結はしない。入力用とか情報入手用とかに特化するにしても、路上や出先でその要に迫られるシーンはどれほどあるだろう。

5)デ実家にいるなら、ケータイは使わない方が妥当性がある。

6)光ファイバーでブロードバンドが常識化してしまっている今、10数年前の電話回線接続を思い出す速度では、ストレスがたまる一方である。

7)10年前のXP機でも、メモリーさえ増量すれば、まだ使える。6年前のムーバ機でもまだ使えるが、時代からは大きく取り残されている。一時のパソコンの機種替えのサイクルにも似ている。もうすぐすれば落ち着くのだろうか。

8)まぁ、儲けに妥当性があれば、利益を上げるのは当然だが、猫だまし商法だけはやめてほしい。

9)卵が先か鶏が先か、ということになるが、なければないで過ごせるサービスやアプリが多すぎる。

10)ケータイ文化の爛熟で、さまざまな弊害が喧伝されていることも忘れることはできない。

 今後は、ケータイしか出来ないこと、スマートフォンしか出来ないことをもっと見つけ出しては、そちらに移行していくことを試みようと思う。すくなくとも、路上で通話するにはケータイは必要だ。そして、パソコンもまた「デ実家」としては絶対に必要なもの。つまり、パソコンとスマートフォンの連携と使い分けが、どのようにすみやかに進行するかが、今後の課題である。

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2010/08/19

情報は集めるな! 情報の洪水に溺れない極意

情報は集めるな!
「情報は集めるな!」 情報の洪水に溺れない極意
指南役 マガジンハウス 2010年03月 ・サイズ: 単行本 ・ページ数: 181p
Vol.3 No.0105☆☆★★★

 この本の結句は「さあ、書を捨てよ、街に出よう!」(コレクターと考古学者以外の人たちへ)だ。この「情報は集めるな!」というタイトルでもあるし、結構期待したのだが、空振りの一冊であった。自宅の本棚やマガジンラックは捨てよ、という。そのご提案には大賛成だ。だが、その次がいけない。情報を求めるなら国会図書館と大宅壮一文庫に行けばいい、と来た。

 たしかに国会図書館は最後の砦だし、最近でも当ブログに届いた「狂い者」などは国会図書館から転送されてきた。その他、英書や古書などを中心にだいぶお世話になっている。しかし、そんなに簡単に国会図書館ばかりに通い詰めることはできない。ましてや大宅壮一文庫は行ったことはないが、この分野については、近くの大型古書店がとても便利ではある。

 しかしながら、「情報は集めるな!」という意味は、そういうことではないだろう。ましてや「情報の洪水に溺れない極意」を標榜するなら、それはちょと違う。辰巳渚「『捨てる!』技術」やリズ・ダベンポート「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」のほうがより実務的で、私にはより効果的であった。

 そして、更に、著者がいうには、新聞を読めという。

 そう、生まれた時から当たり前に新聞があるから、そのありがたみに気づいていないが、冷静に考えれば新聞はありえないくらい便利で、画期的な商品なのだ。
 大きくプリントアウトされているから読みやすいし、見出しだけ斜め読みもできる。毎日、家まで届けてくれ、しかも1ヶ月たったの3千円程度である。携帯電話で支払う金額の実に3分の1だ。
p47「ラクして情報」

 わが家でも新聞を取らなくなって3年半になる。あっと言う間だ。この間カットできたのは、パソコン一台分に対応する購読料だけではない。毎日意味もなく一緒に織り込まれてくるチラシの山。これがすぐにいっぱいになりリビングを圧迫する。

 なに、新聞の紙面自体が広告の山ではないか。たまに知人宅にいくと、癖で新聞に手がでるが、そのむさくるしさにすぐ蕁麻疹がでてきてしまう。ましてや、記事だって、ゴミの山だ。政治家がどうした、円が上がった下がった、あの俳優が離婚した、あの女優が自殺した。相撲取りが博打をしたの、ホリエモンが復活したの、ああ、もうゴミの山だ。

 百歩譲って、ケータイをやめて新聞を取って、履歴書に「朝日新聞購読」と書いたとしても、就活は失敗する。電話連絡先は書かなくてはならない。友人からのメッセージは届かなくなるし、無駄に定期券を何枚も持たなければならなくなる。デジカメだって使えない。そもそもケータイと新聞を価格比較する事態、時代からセンスが大きくずれている。

 著者は「指南役」というペンネームを使ったりして、おちょくっているつもりなのかもしれないが、受け狙いでこのような本を書いたとしても、魂がこもっていないんじゃぁないですかなぁ。少なくとも一貫性がない。

 メモるページは、とにかく新しいページにどんどん書き込んだらいい。カレンダーなど気にすることはない。
 メモはできる限り、詳しく書いたほうがいい。単語の羅列は、その時は理解できても、後で読み返すと理解できない。人間は忘れる動物である。
p163「情報の天才」

 この本、狙いは悪くないが、羊頭掲げて狗肉を売る、という典型の一冊。そもそも、こんな蓮っ葉な本から「情報を集めよう」としてはいけない。

 

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2010/08/18

からくりインターネット アレクサンドリア図書館から次世代ウェブ技術まで

からくりインターネット
「からくりインターネット」 アレクサンドリア図書館から次世代ウェブ技術まで
相澤彰子/内山清子/池谷瑠絵 2010/03 丸善 新書 172p
Vol.3 No.0104☆☆☆☆★

 この本もまた、アレクサンドリア図書館から始まる。「永久の哲学 ピュタゴラスの黄金詩」「アレクサンドリア図書館の謎」「触発する図書館―空間が創造力を育てる」、などなどで、当ブログにおいても定番化している登場ワーズである。最近のインターネット上の情報の集積は、古代アレクサンドリアの厖大な書籍に比較されることが増えてきた。

 しかし、古代において、いくら武力によって集められたパピルス本たちであったとしても、それはコンテナ化した「本」であったとしたら、それは燃えてしまえば、結局それまでなのだ。本来、図書館は「本」を集めるのが目的ではなく、「知」を集積することこそ本来の業務と言える。しかも、それは「知識」ではなく、「智慧」でなければならない。

 グーグルやそれに類する新興のサービスは、ことごとくネット上に情報をアップし、それを集積することに血道をあげているが、結局、コンテナとしての情報を集めるだけなら、計算上は、膨大に肥大化したコンピュータ群によって、この地球上は埋め尽くされしまうことになる。

 非公表ではあるが、すでにグーグルのコンピュータだけでも何百万台も存在しているとされ、そのコンピュータを稼働させるだけで、地球の温暖化に悪影響を与えている、とさえ揶揄されているくらいだ。

 実は現在のところ、多くのコンピュータにとって文章を「読む」とは、出現回数と単語の統計情報のリストを作成することに他なりません。文の中にある単語にはそれぞれ品詞があって、その語順や形容関係等があってはじめて意味を成すわけですが、コンピュータが「読む」時にはそのようなつながりを全部外してしまい、あたかもブロックでつくった家を突き崩して、単語というブロックのひとつひとつに分け、これを残らず一杯のバケツに入れるような具合に処理していきます。p75

 いくらアレクサンドリア図書館にいくら貴重なパピルスを厖大に集めたとしても、それを解読し、人生に活かす智慧がなければ、それはたんなる宝の持ち腐れでしかない。翻って、現代の情報の集積でも、単に情報や「本」を集めただけでは、単に集めてみました、ということだけになる。むしろ、厖大な情報に埋もれてしまう可能性もある。それを読み解く現代の「ミステッィク」の存在が絶対に必要なのである。

 このようなツールを使う際、やはり気になるのは、コンピュータがどれだけ意味をわかっているのか、どれだけ賢いのか、という点です。そこで、ある機械が知的かどうかを判定する「チューリングテスト」がという有名なテストがあります。p140

 チューリングテストは、茂木健一郎「意識とは何か」でも取り上げられているが、コンテンツ→コンシャスネスにおける、重要なチェック・ポイントであるが、現代科学においては、まだまだ十分な検討が加えられておらず、まともな研究結果も少ない。当ブログは、本来そのあたりへと進むべくコンピュータ科学周辺をうろついているのであるが、画期的な手掛かりは少ない。

 私にとってたいへん印象深く思われるのは、これまで人間が「知」であると思っていたものが、どうも変化しているのではないか、という問題です。検索エンジンの登場で、今ウェブ上にあふれているのは、ひとつひとつとしてはむしろさしたる価値のない個々の事例に過ぎません。従来、このような事例や具象物は「知」とは遠いものであったと言えるでしょう。「知」というのは、もっと抽象的で、さまざまな事例を包括する概念のようなものであり、そのようにして集積されたものを指していたはずです。

 ところがコンピュータによって導きだされる新しい「知」は、大量の事例や具象物(インスタンス)を重視します。この大量のインスタンスから、コンピュータは計算によって価値ある情報を抽出し、人間には発見できなかった新しい「知」へと到達しようとしているのです。このことは、最近注目を浴びている「データ中心科学」も同じ考えを共有しており、知の地殻変動を示唆していると言えなくもありません。

 このような新しい「知」をどのように評価していくのか、そしてどのように使っていくのか、未来にはさまざまな課題が待ち受けています。p150「ウェブが知識をつむぎ出す」

 ここで「知」と言われているものは、知識、智慧、情報、認識、理解、など、さまざまに受け止められる。なんであれ、1+1=2であるかぎり、それは科学であろうし、どこまでも膨大化してしまいそれは統計や平均値をとらざるを得ないような、実態のない空論となってしまう可能性がある。+1-1=0になるような、あるいは0+0=0になるような、無の方に向かう仕組みが出来なければ、コンピュータ科学はいずれモンスターサイエンスとして死滅していくことになりかねない。

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狂い者 その詩と譬え カリール・ジブラン

Photo
「狂い者」 その詩と譬え
カリール・ジブラン/佐久間彪 2008/10 至光社 単行本 121p
Vol.3 No.0103☆☆☆☆★

 この本、だいぶ前に図書館にリクエストしていた本だが、近隣の図書館にはなかったらしい。気長に待っていたら、国会図書館から転送されてきた。類書には小森健太郎訳「漂泊者(さすらいびと)」があり、佐久間彪にはジブランの「預言者」や、そのポケット版の訳書がある。10種以上あるジブランの「預言者」の中でも独特の位置を占めている。

 さて、この「狂い者」、訳者においては、「預言者」に先立つジブランの処女作のような評価がされている。いままでは「預言者」を処女作と考えてきたが、何度も手を入れられtいることを考えれば、なるほど、こちらの「狂い者」のほうが先、ということになるのか。35ほどある短編の中でも、限りなく小さな詩片も多く、最近はやりのツイッターの140文字縛りでも、全然問題なくスルーしてしまうようなちいさな作品も含まれている。

 一匹のきつねが、日の出に出来た己の影を見て言ったものだ。 「俺、きょうの昼飯はらくだにするぞ。」 それで朝中らくだ探しをした。しかし昼になって、また己の影を見て----いうことには、「鼠にしとこう。」 p46「きつね」

 これで約100文字。

 先夜、私は新しい快楽を見つけ、それを初めて味わっていた。すると天使と悪魔が、ひとりずつ我家に飛んできた。ふたりは家の戸の前で出遭い、私の新しい快楽について互いに論じあった。ひとりが叫んだ。「それは罪悪だ!」---もうひとりも叫んだ。「それは美徳だ」と。p52「新しい快楽」

 こちらもなんとか140文字以内に収まっている。 

 私の父の家の庭園には、ひとつの檻、ひとつの鳥籠がおいてあった。檻にはライオン、父の使用人たちがニナヴァーナの砂漠から運んできたもの。鳥籠には歌わない雀が入れられていた。毎日、夜が明けると、雀がライオンに呼びかけて言った。「おはようさん。御同囚!」 p62「檻と籠」

 こちらもセーフ。実にまぁ、うまいことジブランもつぶやいているものだ。

 きのう、神殿の大理石の階段で、ひとりの女が、ふたりの男のあいだに座っているのを見た。女の顔の片面は青ざめており、片面は赤らんでいた。p68「神殿の階段で」

 こちらはなんと140文字の半分の70文字。なるほど、文字数が少ないから表現できない、なんてことはないようだ。 

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2010/08/17

iPhone4の使い方がわかる本

iPhone4の使い方がわかる本
「iPhone4の使い方がわかる本」
家電批評ビギナーズバイブル 100%ムックシリーズ 2010/08 ムックその他 130p
Vol.3 No.0102☆☆☆☆★

 「特選街」の「iPhone4丸かじり!」を見て、「家電批評」の「勝ち組iPhone4の真価」を見てみる。いままでキャリアとしてのソフトバンクは選択肢に入っていなかったので、真面目にiPhoneを考えていなかったのだが、これは真剣に考えないといけないな、と思う。ましてやスマートフォンを使うという目標を達成するために、2台持ち、という方法があるとすれば、ここは、大真面目にiPhoneを考えたい。

 ということで、「特選街」より鋭い批評をしていた「家電批評」に「iPhone4の使い方が分かる本」というものがあることが分かって、さっそく紀伊国屋へ。パソコン本コーナーに行って、この本を手に取る。ああ、これは実際にiPhoneを購入したあとに読む本だ。それに批評的な面白さはない。

 ふと見ると、回りはiPhone特集本でいっぱいだった。なんだ、なんだ、これは。これはブームなんだな。こんなにいっぱい出ている。この中から一冊だけ抜き出すなんて、もう無理。こんな本を見ているより、実際にiPhone4を手にとってみるしかないな。と、同じフロアにあるケータイ売り場コーナーへ移動。

 大きくディスプレイされていたが、カタログ類は品薄。さっそくiPhone4のデモ機を触らしてもらう。担当は、ヒールの高いサンダルをはいた長髪のお嬢さん。こちらは、ソフトバンク専門店ではないので、かならずしも一方的にセールスはしてこないが、なかなか応対の阿吽の呼吸がうまい。こちらの要求はすべてこなす。

 触って思った。ああ、これはすごい。もう、本だの批評だの、カタログだの、と言っている場合ではない。まずデザインがかっこいい。軽い。紐をつけるところはないらしいが、必要な人はカバーをつけるという。ネットにつなげると、たしかに繋がるのは時間がかかる。どうかすると10秒、20秒が経過する。しかし、端末内にあるソフトの起動であるなら、すっきりスマートで、サクサク動く。

 う~ん、iPhone4ね。もう考える必要はないな。欲しいならすぐ買うべきだ。欲しくないなら、考える必要もない。どうせカタログや雑誌を見ていたって、なんの意味もない。iPhone4のことなんか忘れてしまったほうがいい。二台持ち。端末2年契約で通話をまったくしないコースで月々5780とか。端末価格込み。

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2010/08/16

「ツイッター」でビジネスが変わる! グーグルを越える情報革命

「ツイッター」でビジネスが変わる!
「ツイッター」でビジネスが変わる! グーグルを越える情報革命
ジョエル・コム/小林啓倫 2010/01 ディスカヴァー・トゥエンティワン 単行本
Vol.3 No.0101☆☆☆☆★

 気がついて見れば図書館にも、今を盛りに「ツイッター本」は何冊も入っている。すこしづつテーマをずらしてはいるが、概して似たような傾向になるのは仕方ない。これはアメリカ人による評論だから、すこし視点は違うかな、と期待した。

 でも、もともと「Twitter Power」である原題がなんで「『ツィッター』でビジネスが変わる!」になってしまうのか、いつもこの手の本を読むときに感じることだ。このようなタイトルにしないと日本では売れないのだろうか。できれば、「『ツィッター』で意識が変わる!」程度にしていただくと、当ブログとしては取り上げやすい。

 とはいうものの、結局、読み終わってみれば、この邦訳タイトルがふさわしいような一冊だった。このようなモチベーションがないと、さまざまな起業がすすまないのだろうが、どうも、ビジネス、という単語に逆反応する自分がいる。自分だってリアルな世界ではまさにビジネスパーソンなのであるし、日々のビジネスからは逃れることはできない。

 ヴァーチャルな世界としてのネット社会に、もろにビジネスを持ち込むことを躊躇する自分がいる。趣味とか、逃避先としてのネット社会が、私の場合、意味を持っているのだろう。

 産婦人科医と掛けて、遊園地の従業員、と解く。その答えは、他人の遊び場が、私の職場です。という謎かけがあったが、ネット社会こそビジネスだ、とばかりに、息せき切って飛び込んでくる人々に対しては、私はいつも冷やかだ。

 ケン・ブランチャードはかつて、人生をゲームのモノポリーにたとえた。いくら多くの土地を購入し、多くの家を建てたとしても、ゲームが終われば「すべては箱の中に還る」。私たちが最終的に手にできるのは、他人との間に育んだ関係、自分が影響を与えた人々、そして自分に影響を与えてくれた人々だけである。私たちに残されるのは、他人と共有した体験だけなのだ。p2

 これって、本当なのかなぁ。先日読んだ「修証儀」にはこうある。

 無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身巳に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに隋い行くは只是れ善悪業等のみなり。お経 禅宗」p99

 最終的には、土地も家も持っていけないは当然のこととして、他人との関係や、自分が影響を与えた人や与えてくれた人々も連れてはいけないのだ。「他人と共有した体験」だけなんてことはあり得ない。修証儀では「無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し」とある。

 「唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに隋い行くは只是れ善悪業等のみなり。」という言葉は当ブログのセンスではないが、すくなくとも「私」さえ行かない可能性があるのだ。ただ意識だけがあるのだ。

 あの「お経 禅宗」の表紙を書いているのは横尾忠則。ごくごく最近私も始めてみたツイッター だが、いままでのところ、自分がつぶやくのも、他人のつぶやきをフォローするのもまだ十分できていない。すこしづつフォローしている人の一人に横尾忠則氏 がいる。今日の氏のつぶやきはこうだ。

 ぼくは毎日同じぼくを感じることはできない。明日のぼくは今日のぼくが感じたぼくはもういない。だから明日のぼくは新しいぼくだ。

 

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Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流

Twitter社会論
「Twitter社会論」 新たなリアルタイム・ウェブの潮流
津田大介 2009/11 洋泉社 新書 191p
Vol.3 No.0100☆☆☆☆★

 手元のムーバはすでに6年前に発売されたもので、1年落ちで購入したとしてもすでに5年が経過していたのであった。光陰矢のごとし。たしか、このムーバは、逮捕直前のホリエモンも使っていた(色違いだった。彼は青モデル)のだから、当時としては、まぁまぁ、普通に人目に触れても恥ずかしくない程度のものだった。

 しかし、今回、ムーバでツィッター、という概念のソフトではうまくいかないことが分かった。私の機種の場合、一段テーマを掘り下げて、iModeでツィッター、というところまで下りていかなくてはならない。その概念で探してみれば、それをサポートしている極く個人的なソフトも存在しているのだが、それをダウンロードしてはみたが、なかなかうまくいかなかった。

 そこで、編み出したのが、うちの奥さんのらくらくフォンからのツィッターである。らくらくフォントは言え、先日登録したばかりの新機種だから、これが簡単にできた。パソコンからそれらしきページを検索して、バーコードリーダーで読み込んで、あとはツィッターIDとパスワードを入れるだけでアクセス完了。

 文字打ちも、慣れない機種だから、ちょっと引っかかるが慣れれば、普通のメールを送信する程度で超カンタン。あとはタイムラインを読むほうも、文字は大きいし、量は多いが、あとは課金状態を確認すれば、らくらくツィッターが一台できあがり、ということになる。これなら、独居老人の生存確認の発信用に十分使える。

 ツィッターのことをよく知らない人に、ツィッターの何が革新的なのか、どこが面白いのかを説明するのは困難を極める。基本的には、今現在自分が内をしているのかを140文字以内で投稿し、同じように投稿された他人の他愛ない日常を読む、たったそれだけのサービスだからだ。だが事実として既に全世界で5500万人(引用者注2009/10現在)近くのユーザーを抱え、彼らの日々の記録をグーグルやマイクロソフトが大金を払って利用しようとしている。ここには一過性のブームでは片付けられない貴重な価値が間違いなく眠っているのだ。p4

 だいぶ前のことになるが、2003年頃、ヤフオクで1500円で落札した、ほんと初期のwin3.1が入っていたIBMノートに、リナックスであるVineをインストールしようとして、あくせくしていたことを思い出した。あの時も、ネット上のサポートでなんとか成功したのだったが、まぁ、あれはあれで、インストールできた、というだけであって、すぐにこれは新しく買い変えるべきだ、という結論に達した。ただ、悪戦苦闘するだけの面白さはあった。

 さて、今回の「iModeでツィッター」というテーマも興味シンシンではあるのだが、そんなことにかかずらっている間に、最新の格安機種を購入して、ネットにアクセスしてしまったほうが、はるかに上手な時間の使い方、ということになろう。コンテナにばっかり時間をとられ、ましてやコンテナ論をコンテンツ化してしまっても、それって結構後ろ向き。当ブログの大いなる目標は、コンテナ→コンテンツ→コンシャスネス、というところまで行きつくことにあったのでアール。

 ちなみに、この140文字という文字数は米国の携帯電話のSMSの送受信文字数が160字までというところから来ている。06年のサービス開始当初、ツイッターは投稿文字数に制限がなかった。しかし、当初からSMSでつぶやきを受信する機能はユーザー使われており、160文字を超える長文のメッセージは自動的に160文字に分割されて、連続して届けられるという仕様になっていた。

 このためSMSの受信数が必要以上に多くなり、通信代が高くなるという問題があった。そこでツイッター社は使用変更し、ユーザー名とメッセージ前方のコロンを加味した20文字をバッファーとして残し、ツイッターへ投稿できる文字数を140文字以内としたのだ。p28

 ツイッターの特徴を考える場合、過去のサービスを思い出してみると、比較しやすい。

1)パソコン通信や、その前のワープロ通信などでは、ホントに内輪的な通信網だったので、すぐバトルが始まり、前より仲が悪いグループ性ができることがあった。

2)ニフティのフォーラムなども整然としたテーマ別の楽しさはあったが、いかんせん課金の問題や、いわゆるドメステッィクに特化したガラパゴス化していたので、グローバル性やオープン性に欠けていた。

3)HP上の掲示板なども見ている人が極めてすくなく、反応もよくわからなかった。

4)某巨大掲示板に至っては、功罪相反する評価が併存する。私が好きじゃなかったのは、匿名性、誤字脱字と言えど修正できない。ましてや一度書きこむと自分の力では削除できない。

5)一時のブログブームは去ったとは言え、ブログは大いなるメディアであることにはかわりない。長所も多いが、短所を挙げれば、数が多すぎ、RSSリーダーなどをつかわなければ全部を読むことができない。ましてや、長文などを書かれると(つまり当ブログごときのブログ)、いちいち読んでなんかいられない。

6)クラウド・コンピューティングのセキュリティの高さもいいのだが、どうも管理者の存在が目についてしかたない。素朴な味わいがそがれてしまう。

7)SNSも一巡してしまい、どうもダレている。互いに認証しなければならない、という人間関係が、逆に重くなってしまうことが多くなってきた。

 それに対応する形でこのグーグルを越えるとさえ過剰表現される新しいサービスを比較してみる。

1)ツイッターなら、内輪的な密接性を持ちながら、誰にでも読まれてしまうし、誰をもフォローできる、という極めて高いオープン性がある。

2)言語的なハードルはあるが、ネットがつながっていれば、いずれからのアクセスも可能である。しかも、一個のつぶやきで終わらせることもできるし、全世界に大声で発信する波及性も、可能性として秘めている。

3)HP上の情報もいつ更新されたのかわからないものも多く、私の仕事用のHPごとく、すでに最終更新してからすでに数年が経過してしまっているものも多くある。こうなってしまえば、もういくら更新しても誰も来ない。ツイッターなら、簡単につぶやけるし、それがすぐフォロワーたちに伝わる。

4)ツイッターは属人性がつよい。政治家や芸能人に限らず、一個人であっても、個人としての「責任ある」つぶやきが文化として根付き始めており、そこから本音を読みとることも可能ではない。それに、簡単に前言を削除することができる。

5)当ブログとしての反省でいえば、ついつい長文になってしまうところ。それにアクセスログ解析を活用するとは言っても、具体的な反応をなかなかつかみづらいところがある。またプッシュ型で更新を受け取ってくれない人も多い。つまりリアルタイム性に欠ける。

6)ツイッター社の方針として、過重なサービス化することを避けているらしい。ここがよくもわるくもツイッターと言われるところとなろう。今はいいほうに作用しているようだ。

7)SNSについては、すでに乱立していた他の弱小サービスは次々と閉鎖しているし、本当に生き残るところだけが生き残る時代となっている。しかも、そのサービスは過重化しており、新鮮味がなくなくりつつある。

 あといろいろあるが、まぁ、ツイッターに注目してみることに妥当性があることはわかった。

 ブログ時代は「メイン=マスメディア」と、「サブ=ブログ」という明確な力関係があったが、ツイッター時代になり、両者は徐々にフラットな立ち位置に向かっている。その方向に向かえるのは、ひとえにツイッターの持つ強烈な属人性とリアルタイム性が個人の情報発信力を最大化させているからだろう。p117

 この属人性とリアルタイム性、というのがいわゆるツイッターの持ち味と言えるが、これに加えて、リアルプレイス性というものもある。GPS機能などを使えば、「今」だけではなく、「ここ」も表示できるようになるらしい(もうできているかも)。そして、属人性というものを、「私は誰か」という風にとらえることができるとすれば、それは当ブログでいうところの、コンシャスネス性へと発展する糸口と見ることも可能なのかもしれない。

 そのデータベースが10億人規模程度まで拡大すれば、確かにそれは「地球の鼓動」であり、「神経系のネットワーク」ともなるだろう。凄まじい勢いで成長を続けるツイッターを見ている限り、それは決して夢物語ではないようにも思える。p188

 ツイッターを「思考や感情をP2Pでゆるやかにつなぐサービス」と見る著者の、ややオーバーな評価ではあるが、ツイッターでなかったとしても、そのような方向になにかをみんな求めていることは確かなのだ。SNSなどがそれぞれにガラパゴス化している現状で、それを大きく打破していく破壊と創造をツイッターに求めようとする潮流はたしかに存在する。

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2010/08/15

スマートフォン<全方位>読本

家電批評 2010年 09月号 [雑誌]
「家電批評」 スマートフォン<全方位>読本
2010年 09月号 晋遊舎 2010/8 月刊雑誌 発売日: 2010/8/3
Vol.3 No.0099☆☆☆☆☆

 家人を駅に送ったあと、やっぱり気になるので、今日もドコモショップへ。あれこれモデルとカタログを手にとって比較していると、「研修生」という名札も初々しいお嬢さんが、何をお探しですか、と声をかけてきた。ちょっと細身で長身、ショートカットで小顔、そう、あのいつもテレビでみるあの女優さんによく似ている。

 ほら、あの、いや、あの、っていっても、そもそもその番組も女優さんの名前も、もともと知ってはいない。知ってはいないのだが、いつも見る顔なので、おお、っと思いながら、ついついウェストをかなり絞りこんだドコモショップの制服に身を包んだ彼女に、案内を乞う。

 さすがに研修生、こちらの質問に優等生的に応えてはくれるが、ちょっと突っ込んだ質問になると、たびたびカウンターの奥に引っ込んでなにやら先輩のレクチャーを受けてから、再度、笑顔で走ってきて、答えてくれる。どこまでも笑顔が絶えないのがいいじゃないですか。だいたい分かっていることではあっても、ひとつひとつ質問して確認しておく。

 ひととおり説明が終わったので、今日は書き換えに来たわけではないことを告げ、もうすこしゆっくり見てみます、と傍らのコーヒー機器でホットコーヒーを一杯作って飲む。ソファにもたれつつ、やっぱりらくらくフォンかなぁ、と思いながら、ムーバからフォーマへの書き換えコーナーに足を運ぶ。

 逡巡していると、今度は、ちょっと八重歯がきらりとひかる長身のイケメン風の男性店員が近寄ってくる。学級委員長まではいかないが、学級「副」委員長クラスの軽さとさわやかさがいい。なかなかこちらも親切だぞ。

 え~とそうですねぇ、OSって言って、そもそも機械が違うんですよ、プロバイダっていって、電話会社によってつながるところが違うんですね。うんうん、と、うなずきながらも、こいつ、こちらがらくらくフォンコーナーにいたものだから、かなりな初心者だと見ているな、と反感。おい、お前が幼稚園か、それより小さい時から、こちらはパソコンいじってんだ。そこまでやさしく説明してもらう必要はない。ぷりぷり。

 心の中では、やや切れかかりながらも、決して低くはない私の身長より、さらに高い位置にある彼の顔を見上げながら、う~ん、ここで取っ組み合いのけんかになったら、あきらかに負けるな、と、すこし心を落ち着ける。まぁ、とにかく親切だ。ありがたい。で、今日もだいぶスマートフォンについてはかしこくなったぞ。

1)どうやったって、結局は通信費がプラス5~6千以上は多くなる。

2)ブラックベリーはよさそうなのだが、他機種より特別料金が1.5千円ほど高くなるらしい。

3)ウィンドウズOSよりは、これからはアンドロイドOSでしょう。

4)スマートフォンはiモードは使えない。

5)機種や会社によってダウンロードできるソフトが違う。

6)当然カスタマイズの仕方にかなり違いがでてくる。

7)二つ折り式でなくても、通話に問題はない。

8)筆箱風パソコンは、通常のケータイ風に通話するには向いていない。

9)とにかく、何をやりたいのかによって、機種選びが違ってくる(当然だろう)。

10)えっと、それからそれから・・・・・

 何をやりたいのですか、って、それはですね、「最新のスマートフォンを手に入れて、みんなに自慢したいだけなんですよ」。使うのは、通話と、デジカメ(200万画素も可)と、あとはiモードメールでしょう。ああ、それなら、ムーバで十分ですね、あと2年弱使えます。そうなんだよ、それは分かっているんだって、最初から。だから、かなり無理があるのだ。

 自慢するだけで年間6万位かかるなら、むしろ、2年間で最新のパソコンを買い替え続けたほうが、よっぼどインターネットライフが充実する。誰だ、そろそろスマートフォンは「買い時だ」なんて抜かしたやつは。ちょっと肩をおとしながら店をでる。

 自宅まで帰る途中にある、遊べる書店ビレッジ・ヴァンガードで、一息いれようではないか、と寄り道。この本屋、近くにあるのでいつも行くのだが、どうも品揃えが、私個人としては「卒業」してしまった分野が多く、いまいち買いたいものがない。いつもただただ見るだけで帰ってくる。大体において、この十数年、通い続けているけれど、この店、ほとんどパソコン雑誌が一冊もなかった。ほんとうに特徴的と言えば、これほど特徴的な本屋もすくない。

 でも、今日は違った。「家電批評」。こんな雑誌あるのは知らなかったが、第一特集「スマートフォン『全方位』読本」のタイトルにはググっときた。今日はすみやかにこの一冊を購入して、自宅にご帰還。

 先日、「特選街」のスマートフォン比較テストを読んだ時には、あまり気にならなかった「iPhoneに注目が集まっているけど、ドコモユーザーはどうしたらいい?」という記事の選択肢が気になり始めた。 

1)iPhoneに乗り替える

2)NTTドコモ端末とiPhoneの2台持ちにする

3)NTTドコモのXperiaに乗り替える 

 今日のところ、通信費の問題で、3)NTTドコモのXperiaに乗り替える、は、なくなった。そう言えば、あの記事にも、割高だ、と書いてあった。であるなら、1)や2)を真面目に考える必要がでてきたのではないか。

 さて、この問題について「家電批評」p041においては、「iPhoneと2台持ちとする場合、普通のケータイとお勧め料金はコレ!」がある。ドコモなら、

タイプSSバリュー  980円
iモード使用料    315円
パケ・ホーダイ下限 390円       合計月々1685円
 というコースになる。

 この料金体系という奴もよく分からない。何が一番大事なのか、というところを抑えていないと、無駄に料金を払い続けることになる。それに、いままでドコモだけで考えていたが、2台持ちだと、最初から選択肢としてiPhoneが登場してくる。さて、本当にiPhoneは必要なのか、死角はないのか。アンテナ問題やバッテリー発熱問題は一体どうなっているのか。

 こちらの「家電批評」を読んでいると、結局、「買い時」というより、まだまだ「待ち」という結果がでそうな雰囲気になってきた。しかし、徹底批評なので、なかなか興味深い記事が満載されている。このスマートフォン問題、継続してウォッチングしていく必要がありそうだ。

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超訳『資本論』(第3巻(完結編)) 「資本主義」は、なぜ人々を不幸にするのか?

<第2巻>よりつづく

超訳『資本論』(第3巻(完結編))
「超訳『資本論』(第3巻(完結編))」 「資本主義」は、なぜ人々を不幸にするのか?
的場 昭弘 (著) 2009/3  祥伝社 新書: 400p
Vol.3 No.0098☆☆☆★★

 現実においては(すなわち現象界においては)事実は逆になっている。剰余価値は与えられているが、商品の費用価値を超える商品の販売価格の超過分として与えられている。そこではこの超過分がどこから出ているか、生産過程における労働の搾取からなのかは、いまだ神秘である。Marx p43

ふむ~、唯物史観の元祖たるべきマルクスから「神秘」の言葉でてくるとは思わなかった。

 最初に発明した企業家はたいてい破産し、建物、機械装置などを安く入手した、のちの企業家の代になって繁栄する。だから、人間精神の一般的労働と、結合労働によるその社会的応用との新しい発展から、最大の利潤を引き出すものは、多くはもっともくだらない、もっともだめな種類の貨幣資本家なのだ。Marx p77

 確かにつぶれたところを安く買い叩いて、次の悪徳業者が繁栄する、という図式はあちこちで見聞してきた。だが、かならずしも、安く買い叩いたから利潤がでるとも限らない。別な見方をすれば、オープンスースをもっとも活用したグーグルなどは、この類の利潤の挙げ方に近いように思うが、もっとも「だめな種類」の企業家たち、と言われることはない。

 こうして、ここで資本家たちは相互の競争では偽りの兄弟愛を示しつつ、労働者階級全体に対してはフリーメーソンを形成するのかについてはの正確な数字的証明が与えられるのである。Marx p120

 ほう、ここでFMの文字がでてくるとは思わなかった。まさかマルクスがここで陰謀史観に陥っているとは思われないが(マルクスは陰謀史観の中の最右翼に組み込まれている)、いきなりここでこの文字が飛び出してくるとは思わなかった。

 しかしまぁ、あの鳩山内閣の「友愛政治」とは何だったのだろうか。自由、平等、友愛、は、まさにFM三位一体の一角を占める言葉であるが、まんまとこのロジックにごまかされてしまったともいえる。そういえば、騎兵隊政治とか言っていた菅直人首相ではあるが、就任当初ちょっと言っただけで、あとは引っ込めてしまった。

 まさに昨今のあいつぐバブル、そしてその崩壊を見ればわかるように、崩落がまったく予測できない。それはあまりにもシステムが複雑だからです。的場 p261

 とか言われても、一般市民や市井の読者はどうしたらいいのか路頭に迷う。複雑だから予測がつかない、などと言われても、専門家が生涯かけて経済学を研究して、結論がそれかよ、と、ちょっとがっくりきますね。

 銀行団の一団は、その金融の力で、国民から利益を貪りくらい、しかも生産に携わる人々を恐怖に陥れ、あたかも彼らが生産するから社会が成り立つのではなく、金融業者がいるおかげで社会が成り立っているのだと倒錯した考えを生み出すわけです。的場 p282

 この辺はまったくいまいましくも、全く同感と言わざるを得ない。ほとんど金利ゼロでまきあげた国民の貯金を、裏口からサラ金に高利で貸し付ける。サラ金は破産者を多く生み出すことによって、オールリセットの猶予者を生みだしている。時には年間4万人に到達しようする自殺者を生みだすことによってしか成り立たない社会とは一体なにか。

 企業を助けるのか、国民を助けるのか、という政治家達の妄言も、どこまで行っても歯切れの悪いものだ。亀井静香の国民派的な言動も実にずさんな図式に基づいているし、菅直人だって、いざ実務に当たれば、企業減税を優先せざるを得ない。

 貨幣システムは本質的にカトリック的であり、信用システムは本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金を嫌う」。紙幣にとって、商品が貨幣として存在することはそれがたんに社会的な存在であることを意味している。信仰さえもてば、聖列に参加できる。商品に内在する霊魂としての貨幣価値に対する信仰。生産様式とその予定調和に対する信仰。自己自身を価値増殖する、たんなる資本の人格として、個々の生産担当者に対する信仰。しかしプロテスタントがカトリックから解放されないように、信用システムは貨幣システムから解放されない。Marx p288

 ここではあたかも「伽藍とバザール」にでてくるような対峙の図式が、カトリックとプロテスタントの対峙で語られる。しかし、この貨幣システムと信用システムの対峙を、この二つの潮流に類似させるというのも、ちょっと安直すぎる感じがするがなぁ。

 これは一種の魔術である。資本主義社会の真の意味での搾取関係が見えないのはまさに再魔術化された世界にそれがあるからです。資本主義といういわば合理的で脱魔術化した世界が、実は奇妙な神秘主義の上に覆われた再魔術化した世界であるということをマルクスは鋭い筆致で語っているわけです。的場 p363

 あちこちモザイク状に切り取った文言にコメントつけているだけでは何を言っているのかわからなくなるが、それにしても、いくら「鋭い筆致」で語られたとしても、結局「奇妙な神秘主義の上に覆われた再魔術化した世界」などという、結論では、なんともはや、とため息がでる。

 だから世界市場を前提にすれば、低い労賃と安い地価に投資し、そこでものをつくればいい。まさにグローバリゼーションの時代で行われていることですが、労賃を下げることで利潤を得る。また利子部分を下げるには利子率の低い地域で資本を調達すればよい。いわば日本のように低利率の国で資本調達し、それを利子率の高いところに貸し付けるキャリートレイドと呼ばれる投資ファンドのようなこともこれに近いといえます。的場 p373

 利は元にあり、だから、安く仕入れて高く売るのは、わらしべ長者の昔から、いまやユニクロや、ダイドーに代表される百均の台頭を許す商売の、もともともの原理である。まぁ、マルクスや資本論を持ち出すまでもなく、そんなことは当たり前で、それは資本だけでなく、ひとりひとりの労働者、農民だって分かり切っていることなのだ。

 「『資本主義』は、なぜ人々を不幸にするのか?」 このサブタイトルはセンセーショナルではあるが、センセーショナルであるだけに、この本を読み終わって見れば、このサブタイトルを、「『資本論』は、なぜ人々を不幸にするのか? 」と読み替える必要さえ感じ始める。そう読み変えることができるとすれば、そこからは、当ブログの主テーマ、ということになる。

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2010/08/14

超訳『資本論』(第2巻)拡大再生産のメカニズム

<第1巻>よりつづく 

超訳『資本論』(第2巻)
「超訳『資本論』(第2巻)」 拡大再生産のメカニズム
的場昭弘 2009/04 祥伝社 新書 祥伝社 新書 276p
Vol.3 No.0097☆☆☆★★

 お盆時期の恒例のテレビ番組はいろいろあれど、ヒロシマ・ナガサキにつづく終戦(敗戦)の日についての特番は、先祖の供養という意味も込めて、なかなか重いテーマを扱っているものが多い。例えばロシア軍によるシベリア抑留の体験談を聞いたりすると、いかに共産主義、マルキシズムが、体験として、悪魔的であったかが浮き彫りとされる。

 一方で、例えば帝国日本軍の所業は、それに参加した個々の兵士の苦労話として語られることが多いが、帝国日本軍に侵略された側からの告発として、日本のテレビが全うに取り上げることは少ない。

 卓上の「マルキシズム」や「共産主義」は、いかに理想的に語られたとしても、歴史的な「マルキシズム」や「共産主義」は、決して理想の人間的な道を歩んできたとは言えない。しかし、それはなにもこれらのサヨク的な動きばかりではなく、総じて20世紀は、戦いに彩られた世紀であったから、仕方ないのかもしれない。他に理想的な動きなどあったのか。

 マルクスは、まさに現代直面している資本主義の危機を信用論でとらえています。今回お届けする二冊は、エンゲルスが編集した「資本論」第2巻と第3巻を対象とします。この二つの巻はひとつと考えてもいいでしょう。なぜなら、この二つの巻の対象は、工場から出ていった商品が流通過程でどう販売され、そのあとどう再生産されるかということを問題にしているからです。第1巻では基本的に工場の中だけの問題でしたが、ここでは工場の外の市場が問題になります。商品の価値は市場の中ではそのまま実現されない。的場 p10

 マルキシズムは決して完結した完全無欠な論理ではない。いやむしろ未完の一試論であったとさえ言える。その出版後に世界の人類史に与えた影響を考えれば、いまさら試論であったとされても、しかたないのだが、それでもやっぱり、それだけの多くの影響力を持ち得た要因はどこにあったのか、気にはなる。

 労働力が市場にある間は、資本ではなく、商品資本でもない。労働力はけっして資本ではない。労働者は資本家ではない。労働者は商品を、つまり自らの肉体を市場にもっていくのだが、労働力が売られ、生産過程に合体されたとき、---したがって商品として市場で流通するのをやめたのち、はじめて生産資本の構成部分となる。
 つまり剰余価値の源泉としては可変資本であり、労働力が支出された資本価値の回転から見れば、生産資本の流動的構成部分になる。
Marx p122「固定資本と流動資本に関する理論(1)」

 家計簿をつけたり、小さな企業の借方勘定や貸方勘定を仕分けしているだけでも面倒なのに、マクロな経済を一辺に学ぼうとしても、七面倒くさいうえに、21世紀の現代にあてはまっていないのではないか、という疑問がどこまでも付きまとう。しかし、研究者たちは、牽強付会にあちこちくっつけては、さまざまな解釈をしてくれる。たしかにそれはそれで、わかったような気にはなるのだが、やっぱり、どこか抜けてるよなぁ~。

 なぜ社会主義では恐慌が起きないか
 資本主義社会ではない社会だと、これはどうなるのでしょうか。それは実は問題にならないといいます。なぜか、そうした社会では計画的な過剰な生産が行われることで、在庫として供給される。生産調整が計画的に行われることで過剰生産が恐慌へと導かれないというわけです。生産が増えることはそれ自体問題ではない。しかし資本主義では生産が無政府的であり、それが予期せぬ過剰生産、過小生産を引き起こす。それが経済を行き詰まらせ、破綻に至るというわけです。
的場 p243「単純再生産」

 18世紀なかばにマルクスによってつぶやかれたこのような論理が、その当時や20世紀に信仰されていたとしても、それから1.5世紀が経過した21世紀の今日において、このような卓上の空想論を鵜呑みにするようなロウドウシャは絶無に近い。もしそれを信仰しているとすれば、それは迷信というに、さもふさわしいであろう。

 なにが抜けているのかなんて、いまさらここで言うことでもあるまい。徹頭徹尾、不足しているものがある。また、徹頭徹尾、それを抜いたからこそ、マルクシズムや共産主義として存在し得たのであろう。でも、それってやっぱりいびつだ。全体的ではない。全体的ではない、ということは、人間的ではない、ということであるし、真実でもない、ということになる。

<第3巻>につづく

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グーグルが描く未来

グーグルが描く未来
「グーグルが描く未来」二人の天才経営者は何を目指しているのか?
リチャード・L.ブラント/土方奈美 2010/07 武田ランダムハウスジャパン 単行本 297p
Vol.3 No.0096☆☆☆★★

 グーグルに関するこの類の本がキリなく、次から次へと出版されるのは、それだけ、グーグルが注目されており、人々の関心が常に集まっているからだろう。それはそれで仕方ないのだが、手を変え、品を変え、同じメニューを繰り返し出されているようで、ちょっと興ざめする部分が多い。

 この本、原書は2009年、「INSIDE LARRY AND SERGEY'S BRAIN」というタイトルで出版された。さしずめ「内気なラリーとサーゲイの頭脳」、とでも直訳されるところであろうか。日本語では「二人の天才経営者」となってしまうが、たしかに天才経営者と呼ばれるにふさわしいであろうが、天才経営者たちであったがゆえにグーグルを生んだのではなく、グーグルを生んだからこそ天才経営者と呼ばれるにふさわしくなった、と言える。

 携帯電話はグーグルの今後に極めて重要な事業だ。スマートフォンは様々な意味で、新たなパソコンといえる。そして着実に、世界的なインターネット・デバイス(機器)になりつつある。グーグルの幹部はスマートフォン上の検索や広告の事業規模が、いずれコンピュータ上のそれを上回るのは確実だと口をそろえる。p258「グーグルが電話会社になる?」

 今日もケータイショップを覗いてきた。狙い目はアンドロイドOSの搭載されたスマートフォン。私にはあまりに先進過ぎて、ちょっととっかかりにくいものになっている。どうかすると敬遠して避けて通りたい、とさえ願う。

 しかし、と思う。ポケットベルができた時だって、すごい、と思った。あのままポケットベルだけでも十分満足していたが、技術はそこでとまらなかった。文字が送ることができるようになり、PHSができた。多少、回線の繋がりは悪かったが十分な音声伝達マシンだった。しかし、時代はそこに満足せず、ケータイへと突進した。

 そしていまや、メールやデジカメ搭載、あるいはi-modeと言った機能は中途半端なケータイの象徴でしかなくなりつつある。時代はスマートフォンだ。ポケットにはいるコンピュータ。そこには世界の情報が「全部」入ってしまう可能性さえ、でてきた。

 なにもこの二人の「天才経営者」たちが登場しなくても、いずれ人類は、このようなイノベーションを到達しないではいられないのだろう。この情報革命の技術革新はどこまでいくのだろうか。かつての音速旅客機コンコルドや核兵器のように、技術としてはモンスター化してしまうものも多々あったが、さて、この情報革命はどこまで行けば、満足するのだろう。

 最近のグーグルにまつわる話題と言えば、中国におけるグーグル事業の、香港への引き上げがニュースになった。まさに「伽藍とバザール」を連想させるような、極めて鮮やかな対比が引き出されている。でも、よくよく考えてみると、どちらが伽藍で、どちらがバザールだろうか。

 オープンソフトをベースとした巨大ネットワークを構築したグーグルは一見バザール派のように思えるが、中央集権的な経営システムや秘密主義などから考えれば、伽藍派である、と断じられても、いかしかたない面もたくさんある。

 かたや、中国共産党だが、今やコチコチの伽藍派と目されているとしても、もともとは、労働者階級の人民をベースとしているバザール派であったはずではなかったのか。今や、巨大潮流となった、中国共産党とグーグルだが、ここでの角の突き立てあいは、次の時代の東の横綱と西の横綱、というがっぷり四つの状態になっている。

 もうここまでくると、あとは、どちらが東でどちらが西、なんてことは分からない。赤コーナーと青コーナーとでも言いなおすべきか。地球上の5人にひとりは中国人だ。圧倒的な「シェア」を持っている。かたやグーグルはたしかにわずか創業10年ちょっとの新入りではあるが、それを支える大きな流れの象徴的な位置を確保しているに過ぎないとも言える。

 しかしまぁ、遅かれ早かれ、進化の過程というものは、いずれ行き着く先に行き着くのであろうから、ここはおちついて、その潮流をみておくことが大切だろう。あまり回りにばかり目を奪われて、自分自身を失ってしまうのもどうかと思う。

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2010/08/13

スマートフォン 比較テスト

特選街 2010年 09月号 [雑誌]
「特選街 」2010年 09月号 [雑誌]
マキノ出版発売日: 2010年08月03日 サイズ: B5
Vol.3 No.0095☆☆☆☆☆

 家電製品を買う場合、だいたい、数件の販売店を覗いてパンフレットやカタログを集め、大体の目途をつけてから、「特選街」を買う。そして、自分の判断が正しいことを決定づけてから、再び家電店に向かって、ご契約、というのが大体のパターンだ。

 車や工業製品の場合、最新型のものは、どうも受け入れにくくなっていて、少し型落ちで定番化しつつあるものが、眼に馴染んできてお手頃なイメージとして残る。数年前はあまりに新しすぎてついていけない、と思ったものが、2~3年すぎると、おっと思うような魅力を感じるのだ。

 さて、このわが消費者マインドのパターンは、ケータイやスマートフォンにはどう反応しているだろうか。これがまためちゃくちゃだ。最近、ケータイなしで何の不足もなく暮らしてきたわが家の奥さんであったが、ついにらくらくフォンを手にいれた。道々を歩いていて、公衆電話がなくなり、とても不便になってしまったからである。

 使い方がよくわからないから教えてくれ、とか言われるが、人のケータイなど、いちいち説明書を見るのもおっくうだ。自分でバンバンしなさい、と突き放してみるものの、らくらくフォンですら、すでに面倒だ。

 ましてやだ、これからスマートフォンとやらに挑戦するだけの「若さ」がまだわが体に残っているのだろうか。ポケットにあるのは、だいぶ前に買ったドコモのムーバだ。本当のことをいうと、これで何の不足もない。

 電波の調子はいいし、電池も最近貯まっていたポイントで手出しなしで交換したばかり、二つ折りでディスプレイの部分がクルリと反転するのがカッコイイ(と自分では思っているのだが)。200万画素のデジカメも、これで仕事用には十分だし、メールのやり取りもほんの数人の人々としかやっていないので、拡張機能は必要ない。

 至れりつくせりなのだが、ムーバはやがてあと1年ちょっとで廃止になるという。フォーマに移動しなければならないのだ。ぎりぎりまで頑張ってみようとはしているのだが、最近、数人からケータイに電話したけど、つながらなかったと言われたのが気になる。

 どうやら、折りたたみ部分の接触が悪くなっているらしく、畳んでいると、勝手に電源が落ちているらしい。なんらかの故障であるのだろうが、これが修理となると、また数週間かかるらしい。買い替えるなら、今か、と思う。それにどうやらスマートフォンとやらが、「買い時」になっている、というではないか。

 そこで、当ブログおなじみのおっとり刀取材斑は、ちかくのドコモ店までお散歩。お盆休みとあって、なかなか混雑している。いや、先日奥さんのらくらくフォンを契約する時もだいぶ混んでいたから、ここのドコモ店は、この混雑が慢性化しているらしい。

 時間待ちで、展示用のモデルをみているうちに、手の中はパンフレットでいっぱいになってしまった。あのモデルも、このモデルもなかなか魅力的ではある。だが、実際に使ってみたらどうなのか。入力システムは、電話としての使い勝手は、そして最後は気になる料金システムは・・・。

 はてなマークでいっぱいになっているのだが、なかなか私の番が回ってこない。番号札を握りしめているうちに、汗が噴き出してきて、今日も、すごすごと自宅にご帰還とあいなった。あ~、めんどくせ~。

1)家族割りとやらを活用するためには、ドコモは外せない。

2)ほとんどポケットコンピュータ化したモデルもあるが、やはりケータイは「電話」としての機能が充実していなければならない。

3)もちろん、現在の料金体系からいちじるしく跳ね上がってしまうのであれば、今回は、私もらくらくフォンじゃ。

 ということで、まずはソフトバンクのiPhonは今回は最初からはずれる。アンドロイド搭載のXperiaとか、フルキーボード付きのT-01Bあたりが最新でカッコイイのだが、店頭には期間や数限定ではあるが、ちょっと型落ちの機種が割安に並んでいる。迷いに迷う。

1)スマートフォンはスマートすぎて、電話としてキチンと使えるのだろうか。やっぱりマイクは口の前にこないといけないでしょう。

2)あのタッチパネルの入力システムは、どの店においてもガラスに手の脂がついて汚い感じがする。あれって、システムに合理性がないように思うのだが。

3)すでに、ホントにポケットコンピュータ化していて、電話機能さえなさそうな(本当にないのかもしれない)のもある。

 もし、ポケットコンピュータ、というなら、私の場合、悲しいかな、キチンとウィンドウズが動かないことには、仕事にならない。

1)そもそも、携帯電話とコンピュータは別ものだ。この機能の合体がケータイからスマートフォンだとしても、日本のガラパゴスケータイのみならず、グローバルなケータイ進化も、わがライフスタイルとは、必ずしも一致しない。

2)大体において、私はマウスがないとコンピュータは使えないのだ。昔、IBMのステッィク型のポインターがあって、あれは使い勝手が良かったが、現在は、過去の遺物化している。

3)本当は、コンピュータと言えば、プリンターとの接続もよくないと、私の場合は仕事にならない。敢えてスマートフォンにプリンタとのアクセスを求めることが、すでにどうかしているのだが、そうなると、やはり、この話はもともとなかったことになるではないか。と、私は、ここで大きくため息をつく。

 iPhoneに注目が集まっているけど、ドコモユーザーはどうしたらいい? p41

 ここでの「特選街」のお勧めは3つ。

1)iPhoneに乗り替える

2)NTTドコモ端末とiPhoneの2台持ちにする

3)NTTドコモのXperiaに乗り替える

 1)だって、もちろん可能性がないわけではない。料金も「安そう」だし、電話番号さえ変わらなければ、メルアドなどは変更になっても実害は少ない。ただし、ソフトバンクは電波状況がなぁ・・・。

 2)なるほど、2台持ちすることによって、料金がやすくなら、これもありか。通話はドコモに任せて、あとはiPhoneでね。でも、胸のポケットにはiPhoneで、お尻のポケットにはドコモ、ってなんだかモコモコして、カッコわるくない?

 3)ここは清水の舞台から飛び降りるつもりでXperiaってもありだな。なに、機能を絞れば、料金もそれほど行くまい。電話としての機能も、まぁ、なんとかなるんじゃないかな。しばらくは、自慢話ができるじゃないか(聞いてくれるのはボランティア精神が発達したごく一部の友人だけだが)。でも、機能を絞って、電話機能に特化したXperiaってなんだろう。

 おサイフ機能もいらないし、ワンセグなど見ない。音楽などもほとんど聞かないし、WiFiまで使ってネットにつながなくてはならない理由は、どこにあるだろう。アプリやらモバゲやらグリーとやら、ああ、すでにわが50代はケータイマーケットから、大きくはずされているようだ。

 徘徊監視用のGPSと、記録ソフト連動の万歩計と、文字が大きくなる拡大機能があれば、まぁ、それでいいのかなぁ。って、やっぱり、それは、らくらくフォンじゃないですか。ツィッターとやらも流行っているらしいが、140文字じゃぁ、とてもじゃないがボヤキ切れないぞ。 

 スマートフォン 機種をめぐりて ガラパゴス  bhave

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シュタイナー輪廻転生譚

シュタイナー輪廻転生譚
「シュタイナー輪廻転生譚」 
ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 2009/01 風濤社 単行本 219p
Vol.3 No.0094☆☆★★★

 シュタイナーは、クリシュナムルティやウスペンスキーと同時代人でもあり、その依って立つ精神的基盤である神智学あたりをベースとして、いちどどっぷりと浸かって比較検討してみる必要があるだろう、と思ってはいる。

 しかし、いままで当ブログとしては、コリン・ウィルソン「ルドルフ・シュタイナー」や子安美知子「シュタイナーの世界」ビデオ・シリーズ、高橋巌訳「神秘学概論」「シュタイナーの宇宙進化論」などに目を通したきたきりだ。

 この「宇宙進化論」を書いた西川隆範の近刊に属するのが、こちらの「輪廻転生譚」ということになるだろう。この人1953年生れということだから、私と同年代だが、若くしてシュタイナーを自らの道と決めて生きて来た人なのだろうか。

 この本「Steiner's Reincarnation」と横文字のサブタイトルを持ってはいるけれど、このようなタイトルの欧米の本が実際に一冊として存在しているのかどうかはわからない。むしろ、あちこちの文献から、この本のテーマにふさわしい部分だけを抜き出してきた編集本なのではないだろうか、と思う。

 そもそも編集本には功罪ある。その人物の思想の中のひとつのテーマをしぼって早分かりするには編集本は適しているが、どの文脈でそれが語られたのかがぼやけてしまうことで、その部分が意味不明になることもあるというデメリットもある。

 とくにこの本のような、肯定も否定もできないようなテーマを扱う場合、前後の脈絡の中でこそ味わわれるべきものも多くあるのではないか、と思われる。その編集や翻訳に携わる者の意図いかんによっては、もともとの言葉の意味が大きく損なわれる場合があるし、場合によっては、読み手に必要以上の混乱や、予期せぬ悪効果を生むことすらある。懸念される点である。

 ある時期、私も内観の中から自らのリーンカーネーションのイメージをいくつか掴んだことがある。そればかりか、他者のそれも「見える」ようになったことがある。小説などもあまり読まない私の中の、どこからこのようなストーリーが導きさされるのか、実に不思議な想いになったものだった。

 その時期はある意味、ゲーム感覚で、他者のそれを見ていた。それを知った知人達が、「見てほしい」と言いだす始末である。お試しに、ということで、何人かを見て、そのストーリーを告げたことがある。ある意味、簡単な遊び心だった。

 ある時、ある人からやはり同じような依頼があった。私は気軽に引き受け、数日後その世界に入った。その時、私が見たものは、どうしてもその人の過去生は動物であったとしか言えないものであった。そして、だからこそ今こうしてこの世に生を受けているという美しいストーリーがあった。

 私は逡巡したが、そのストーリーをその人に告げなかった。あなたは過去生で動物でしたよ、などと、いくら遊び心でも言えない。それに、その言葉にどれほどの信ぴょう性があるだろうか。単なる私の個的なイメージでしかないのではないか。そのことは忘れようとした。

 しかし、それは忘れることができなくなった。その人の体には、その過去生がそうであった、と言わんばかりの特徴があったのである。服を着た外見からは分からないが、別な友人の証言によれば、それは私の直感を補完するものであった。私は唖然とした。

 最初は遊び心であったが、それは証明も否定もできないものではあるが、ひょっとすると、自分の直感には、かなりの「信ぴょう性」があるのではないか。あるいは、それは自分にとっては「事実」なのである、という確信さえ持つようになった。その知人についてのことは結局、自分だけのこととし、それから、その遊びは封印することとした。すくなくとも、私にとっては「輪廻転生譚」はあってしかるべき、という位置に固定された。

 この本、シュタイナーの直感による歴史的有名人たちの「輪廻転生譚」が縷々述べられている。しかし、それはシュタイナーにとっての真実であったとしても、それが文字として固定され、しかも編集されて意味づけが変わってくることによって、現代の読者としての読み手に、どれほどの「真実」が伝わるか、疑問である。

 スエデンボルグはイエズス会のイグナティウス・ロヨラと関係が深く、スピノザはアラビアでの人生があり、マルクス・エンゲルスは8~9世紀のフランスの北部での出来事と関連がある、とされている。ニーチェはかつて禁欲的なフランシスコ会修道士で、徹底的に自分を傷めつけた(p63)という。

 ヨーロッパの地理や歴史、文化の変遷をカオス的に学んでいこうとするなら、この本もまた役に立つこともあるだろう。シュタイナーという人の生真面目でありながら、突拍子もない想像性には多く学ぶところもあるし、20世紀初頭のモダニズムの中で、彼がおかれた位置で、彼なりの活動をしたということは、十分理解できる。

 しかし、一旦、自分に還り、無に還ろうとした場合、この本は、大いなる足かせになってしまう可能性がある。このシュタイナーの有象無象のイマジネーションが、読み手の瞑想を妨げてしまうことになるかもしれないと危惧する。

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2010/08/12

ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する!

ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する! (ハヤカワ新書juice)
「ライフログのすすめ」 人生の「すべて」をデジタルに記録する!
ゴードン ベル (著), ジム ゲメル (著), Gordon Bell (原著), Jim Gemmell (原著), 飯泉 恵美子 (翻訳) 2010/01 早川書房 単行  392p
Vol.3 No.0093☆☆★★★

 原題は「トータル・リコール」、完全記憶能力、と翻訳される。

 記憶をなくしたくない。僕がほしいのは完全記憶能力だ。
 大風呂敷を広げているのではない。技術の三本の流れ--記憶、保存、高度な検索--がすでにライフログ時代をスタートさせている。2020年までに、これらの技術の流れが合流し、トータルリコール技術が完成するのは確実だ。
p47「来るべき世界」

 いまから40年前近く、18歳でヒッチハイク80日間日本一周の旅に出た時は、叔父のドデカイカメラをバックパックに詰めていた。だが、旅の途中で使ったのは、24枚撮りのフィルム、ほんの数本。それでさえ、現像する金がなかったので、長い間フィルムのまま保存されていた。

 23歳の時に、はじめてインドに行った時、20本ほどのフィルムとちょっと小型化した一眼レフを持っていった。でも結局、この時も、一年間の旅の割には、使ったフィルムはほんの数本だった。あまりにインドの風景に圧倒されて、カメラのレンズを通して記憶することなどアホらしい、と思った。全部自分の目でみて、自分の頭に記憶するんだ、と思った。

 その後、子どもたちが生れて、はや20数年。この間の記録もたくさんあるが、一般家庭としてはやや少ないのではないだろうか。すくなくとも、ビディオカメラを担いで、運動会や発表会でカメラマンパパ化することはなかった。

 もともとカメラマン・マインドがないのだろう。今でも、仕事上デジカメは手放せないが、実務上は小さなレンズのついた200万画素のケータイのカメラ機能で十分足りている。そして、数十枚撮影しても、不要になれば、即削除してしまう。

 たしかに人生の全てが記憶されていれば、あの時の記録がもっと鮮明になるのに、という人生の中のいくつかのシーンはある。中学生時代に仲間と作った肉筆漫画誌(当然一冊しかない)を、仲間の母親がバックナンバー5冊とも、他の漫画本と一緒にチリガミ交換に出してしまったなんて、信じられない出来事だった。あれは戻ってきてほしい。

 友人が、青春時代に大事にためていた作品ノートのごっそり入ったバッグを、電車の網棚に忘れてしまった。とうとう、戻ってこなかった、という話を聞いた時にも、がっくりきた。いずれ出版されるだろう、と期待していたのに、記録としては永遠に戻ってこなくなってしまった。

 最近でも、愛用のノートPCにモーニングカップいっぱいのコーヒーをご馳走した時もめげた。ちょっと高めのPC本体の物理的損失だけでなく、中味のデータが使用不能になった。でも、こちらは、データのかなりの部分がクラウド化していたので復活可能だったし、そもそも、ぶっ壊れたはずのPCが、奇蹟的に半年後に復活したのだから、まずはめでたし。

 ライフログを残すとは、デジタル化された物を無数に集めることだ。そして、その種類は多ければ多いほどよい。人は、人生を織りなす糸のすべてをたぐり寄せたいと思っている。休暇中に撮ったビデオ。あのスキー旅行で目にした雪景色。我が家で一番の毛布(つまりおばあちゃんの毛布)。高校時代につくった曲。バースデーカード。コンサートのチケット。あの大事な試合の、第3クォーターのここぞとう場面で父親が放った言葉。旅先の地図。レシピ。ほしいものリスト。パーティの招待客リスト。乾杯、称賛の言葉、そして赤ちゃんがはじめて口にした言葉。自分だけの大切な多い出の数々。p207「現世から来世へ」

 人生の中では、記録したくないこと、思い出したくないこと、すっかり忘れてしまいたいこともたくさんある。それこそ人生をオールリセットしたい、と思う時だって、ないではない。人生そのものをデジタル化できる部分は多くなってはいるとは言うものの、全てがデジタル化できるわけではない。しかも、一部であるとは言っても、それを「無数」に集めることに、無批判的に賛成することはできない。

 世界はすでに記録されることにあわせて変化しつつある。グーグルは、全方位カメラをルーフに搭載した車から路上の景色を撮影し、グーグルマップに加えた。p247「革命を生き抜け」

 我が家などもまっさきにストリートビューされた。ほほう、と驚いたものだが、あれはあの瞬間の我が家でしかない。あの時の我が家の庭の風景は、いまではすっかり変わってしまっている。隣の家の洗濯ものだって、あれからずっと干しっぱなしになってしまっているではないか。記録、というより、一瞬の風景を固定化してしまう危険性が大きい。つまり虚像を生む。

 馬に乗った人を轟音とともに追いぬいた最初の自動車のように、ライフログのある生活は現在の僕らにとって異質なものだろう。しかし、自動車と同じく、ライフログを拒絶したら、すばらしい利点をあきらめるとう代償を払うことになるだけだ。適応に大きく乗り遅れると、新しい技術の利用もうまくいかなくなる。p256「革命を生き抜け」

 この辺はアーミッシュな人々を想定して言っているのだろうか。もちろん車がない世界なんて想定できない時代になっているが、車そのものも大きな変化を遂げている。すでに、轟音をたてる車も絶滅化しており、車のない生活を享受している人々も多くなっている。

 未来の世代に自分の物語を伝えたいと思っているなら、デジタル版の墓や図書館のこともお忘れなく。p287「さぁ、はじめてみよう」

 図書館のことは当ブログの主テーマであるが、デジタル版の墓は想定外だった。リアルな墓としては、近くのお寺の墓地に決めているが、なるほど、デジタル版の墓、ですか。もし予告なく長期間、当ブログが停止したら、その時は、ここを私のデジタル墓にしてもらおうかな。もっとも、余命何日か分かったら、ここで暗に告白していくしていくことにしよう。あるいは、本質的に、もうその準備をしつつある、ということになるのかな。

 この本は、マイクロソフト社にかかわる人物たちが書いているので、へんなオプティミズムにみちた乾いた風が吹いている。乾いているだけでなく、ちょっと幼い感じもする。どうかすると、無機質な物質化の流れを感じる。コンテンツ→コンテナ→コンべアの、逆コースにさえ見える。ここからコンシャスネス論へと話の筋を訂正するのは、なかなか困難だ。

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2010/08/11

ニーチェ 道をひらく言葉 智恵の贈り物

ニーチェ道をひらく言葉 (智恵の贈り物)
「ニーチェ道をひらく言葉」 (智恵の贈り物)
ニーチェ (著), 野田 恭子 (翻訳) 2010/5 イースト・プレス 単行本: 228p 
Vol.3 No.0092☆☆☆★★

 「超訳ニーチェの言葉」を読んだ時もそうだったのだけど、正直言って、この本、あまり面白くない。そもそもどうしてこのような本が生れるのだろうか。読書というものの弊害を感じるのは、このような本に出会った時である。

 どうやら最近の私は本の読みすぎである。人生の中でこれほど本に触れている時代はないだろう。少なくとも冊数だけなら人生のピークを生きている。ジャンルや内容の読み込みという意味では、もちろん十分ではなかろうが、でも文字面を追うことなら、割と簡単にできる時代である。

 しかし、この「簡単にできる」というところが曲者だ。本来、本当に「道をひらく言葉」に出会うような場面とは、本など読まず、読もうとしても読むことができず、言葉などまったく信じていない、というような状況の方がより確率が高くなるのではないだろうか。

 いわゆる多読なものにおいては、ちょっとした洒落た言葉など、ほとんど感動しなくなってしまっているのだ。より刺激の強いものを求め、耐性がどんどん分厚くつみあがっていく。純粋な生な感性がどんどん麻痺していっているのではないか。

 難解なニーチェの、とびきり上等であるはずのアフォリズムをあちこちから抜き出してくれているはずの、この一冊なのだが、どうも、私には、それがどうした、と開き直ってしまっている自分しか見えてこない。

 自分の意見をもつ
 たいていの者は通念や世論で着飾っていないと、存在しないも同然で、世間では無と見なされる。仕立て屋が「人は服装しだい」と言うとおりだ。しかし、例外として「服は着る人しだい」と言われるにふさわしい人もいる。こうなれば、意見は世論の受け入れではなくなり、もはや仮面、美しい衣裳、おし着せのごまかしではなくなる。
 133 「さまざまな意見と箴言」

 別に当ブログは世論に反対しているわけでもないし、賛成しているわけでもない。むしろ、一般大衆の「コモンセンス」と同じ感性になれるのなら、それに越したことはない、とさえ思っている。別段に、珍しい個性として自らを磨きあげてみたい、などとは思わない。

 だけど、やっぱり違うな、と思った時は、なるべく思ったことを素直に言えるタイミングを持てるように計らっている。「裸の王様」を見た正直な子どもの話しではないが、どちらが本当なのか、なんてことは、結局よくわからないのだ。

 本を読む怠け者
 私は本を読む怠けものが嫌いだ。本読みがどういう者か知れば、だれも彼らのためになにかしてやろうとは思わなくなるだろう。こういう本読みたちの時代があと一世紀もつづけば、精神自体が悪臭をはなつようになる。
 だれも本を読むことなどおぼえたら、ゆくゆくは書くことだけでなく考えることも堕落していく。
173「ツァラトゥストラはこう語った」

 たしかに私は怠け者だが、別に、本を読んだから怠け者になったわけではない。現在は、奥さんのシュミに合わせて、いそいそと読書をしておるが、そのうちにやっぱり飽きてしまうに違いないのだ。手持ちぶたさだから、とりあえず、現在は読書ブログなどを書いている。

 だが、「考える」ということについては、いろいろある。考える、という意味では、結構、四六時中、なにかかにかを考えている。自分の頭で考えなくなるということはないだろう。まぁ、それが確かに「自分の頭」であればのことだが。

 しかし、当ブログの本当の目的は、実は反語的だが、「考えなくなる」ことにあるのだ。意識の時空間を、思考で一杯にしておいてはならない。むしろ、思考すべきことは最小限にして、次第に意識の領域を拡大しつづけていくことこそ、大事なのである。それをとりあえず、当ブログにおいても、「瞑想」と呼んでいるわけだ。

 読書は気晴らし
 私の場合、読書はみな気晴らしで、もはやまじめに考えるようなことではない。あらゆるもののなかでも読書はとくに、私を自分自身から解放し、未知の知識や未知の人たちのなかを散歩させてくれる。まさに真剣勝負からの気晴らしである。
211「この人を見よ」

 この箴言については、50%賛成、50%不可解、というところ。文字面だけなら、これでいい。まぁ、気晴らしであることに変わりはないし、他に真剣勝負がある、という意見には賛成である。だが、ニーチェって人をまだよくわかっていないから、どこでどう切りかえされるかわかったものではない。気を許せない。だから、本を読む、特にニーチェなどを読む、ということは、今のところ、私にとっては、真剣勝負なことでありたい。

 伝える相手を選ぶ
 人はものを書くtき、理解されることだけを望むわけではない。同じくらい、理解されないことを望んでいる。理解できないと言われても、それは必ずしも批判されたということではない。おそらくそれも著者のねらいのつちである。つまり、「一般大衆」には理解されたくないということだ。高貴な精神と趣味のもち主は、自分を伝えたいときには相手を選ぶのである。
219「悦ばしい知識」

 この箴言にも難がある。そもそも、当ブログは「理解されること」を望んで書いているわけではない。ほとんど、独りごとのようなもので、実際には、自分が何を読んで、何を感じたかをメモしておけばそれでいいのだ。大体において、自分が自分を理解できない可能性だってあるのだ。そう思ってきたが、あとから読んでみると、誤字脱字で、文脈不明になっている文章は多々あるが、「何を考えていたか」が不明になっているわけではない。

 「一般大衆に理解されたくない」などとは、露にもおもわず、むしろ私が感じたことが、「一般大衆」と同じだったらいいのに、という、ちょっとした祈りのような希望を持っていることも事実なのだ。一般大衆の常識やコモンセンスから、大きく外れていたとしたら、私はちょっと残念に思う。だが、重視すべきは自分の感性のほうなので、だからと言って一般大衆の方へ寝返りを打つ、ということはあまりない。ないし、寝返りを打つ必要のない程度の自由な時空間で生きていきたい。

 くりかえしたいと思う人生を生きる
 この大地に生きるのは、無駄なことではない。ツァラトゥストラとともにすごした祭りの一日が、私に大地を愛することを教えてくれた。
 「これが人生だったのか?」私は死に向かって言うつもりだ。
「ならば、もう一度!」228「ツァラトウストラはこう語った」

 だんだんと前期高齢者の領域にちかづきつつ私であってみれば、「これが人生だったのか?」と思わずつぶやいてしまうシーンというのは、だんだんと増えている。それは軽い感動をともなっている時もあれば、漆黒の虚無感や諦念をともなっている場合もある。ただ、私は死に向かって「ならば、もう一度!」とは言わないのではないだろうか。

 死ぬのなら、そのまま死んでいきたい。同じことをくりかえしたいとは思わない。今回の人生においても、可能性はたくさんあった。分岐点においては、熟慮して選択した道筋だった。結果がどうであれ、これはこれで一つの可能性であり、ひとつの実態であった。しかし、これだけが絶対だとは思わない。いいや総じて、人生とは、相対的なものでしかない。

 そしてまた、死というのは、なにかの完結のようには、思えないのである。とくに最近の私はそう感じるようになってきた。昨日と今日を隔てる、シンデレラの時計が12時の音を鳴らすように、死は、何かの前後をシンボル的に飾ってはくれるかもしれない。だが、今日は昨日のくり返しであるはずがなく、明日は、今日のくり返しであるはずがない。ないしは、くり返したくはない。日々新たな生き方をしたいではないか。

 とまぁ、この本を紐説いたからと言って、ニーチェを読んだことにはならないだろうが、こういう本に触れていると、遠い銅像のようになってしまっているニーチェが、近くのかわいい青年に見えてくるから不思議である。

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2010/08/10

子どものケータイ 危険な解放区

子どものケータイ−危険な解放区 (集英社新書)
「子どものケータイ」 −危険な解放区
下田 博次 (著) 集英社 2010/7 新書: 240p
Vol.3 No.0091☆☆☆☆☆

 自分の思春期時代もなんとかやり過ごし、長じて授かった子供たちもなんとか成人するまで見守ることができれば、あとは、「子ども」のことを考えることからはしばしの間、解放されたい、と言うのが本音のところ。それこそ、孫でも生れれば、あと10年後には、この本に書かれているような問題を自らの問題として考えなければならない時代が来るかもしれないが、それまで、一体にこの問題は持ちこされているだろうか。

 20世紀の末、1999年に登場したケータイは、21世紀に入りまたたくまに高校生活の必需品となった。PHSの3円より安い「一円ケータイ」という販売戦略もあって、子どもたちはケータイに飛び付いた。p53「パーソナルメディアの時代へ」

 思えば、このケータイの波のもっともキケンゾーンから、わが家はややはずれていたと言える。高校生になったお祝いにパソコンをプレゼントしたが、ネット社会もそれほど爛熟の時代を迎えてはいなかった。ケータイも、クラスのほぼ「みんな」が持つまで待たせた。最後の最後、仕方なく預けたのは、やはり横並びにして上げたかったからだが、そこまで遅くしたのは経済的負担も考慮しての上だった。

 私自身も90年代の中盤から10年ほどPTA活動に参加したので、人並みにその立場から教育問題も語れるが、むしろ私たちが当時やっていたのは、パソコン教室の導入推進の働きかけであり、インターネット導入、学校ホームページ作成、と言った、表の陽のあたる部分がほとんどであった。いずれやってくると想定された負に部分にはあまり考慮してこなかった、と言える。

 その地図のないコミュニティ、あるいはS・H・アロンソンのいう「サイコロジカル・ネバーフッド(心理的近隣)」は、背伸びしたり、冒険したりしたい時期の子どもにとって、ある種の心理的解放区とも言うべき機能を果たしているのではないだろうか。そして当然のことながら、この解放区では彼ら住民しかわからない、つまり大人にはわからない言葉もはびこる。彼らは、ネットの繋がりの中で、ケータイ語と呼ばれるような、いわゆる若者言葉中心のコミュニケーション世界を作り出しているのだ。p97「携帯サブカルチャー」

 わが家の子どもたちが中学生だった時代にはケータイはほとんど普及していなかったし、高校時代も、必要に迫られて短期間だけ持たせたという経緯があり、その後、高校を卒業したあとや成人したあとは、バイトで通信費を払っていただけに、こまかいことは言わなくなった。ただ、頻繁に連絡をとっているようではあったが、子どもたちの交友関係が見えないことには、ちょっとイライラしたこともある。

 しかしながら、2010年の現在、多分、中学生のケータイ化はかなり進んでおり、必要に応じて、小学生ですらケータイを携帯している時代なのである。新たなる認識を迫られる。

 子どものケータイ利用の責任者である親がしっかりしていればよいが、問題は保護者らのレベルである。例えば2007年から09年にかけて、我が子にケータイを与え売春を強要した保護者の驚くべき事件が各地で報道されるようになった。p179「子どものケータイ利用問題が拡大した理由」

 自分の思春期や、我が家の子供達の思春期を考えても、あの晴れやかながらも「うっとうしい時代」である期間は、どうやってもキケンに満ちていることは間違いない。なにも現代の子ども達だけがキケンに陥っているわけではない。しかし、それにしても、この10年間でも大変動は、上の世代には想像することさえできなかったほどに激変している可能性がある。

 言うなれば、ケータイは現代の思春期の子どもが手にした史上最強の遊びメディアなのである。もちろん最強のパワーを発揮するからには注意して使わせなければ火傷もする。リスキーなメディアでもあるのだ。この場合のリスクは、最強のメディアを使う子どもだけではなく、それを好き勝手に使わせる親、保護者にも発生する。そのことが、保護者ばかりかケータイの提供者である携帯電話会社の責任者にもわからなかったと言うのだ。p192「子どものケータイ利用問題が拡大した理由」

 後付けの言い訳にもなるが、私自身がパソコン化には割合すんなりと妥協的なのに、ケータイに対しては、スマートフォンやらツィッターやら、新しいサービスなのになんとなく飛びつきたくないのは、暗にこのような背景があるからだ。どうも面倒くさそうな問題が広がっている。

 我が国の携帯電話業界は、世界に通用しないガラパゴス化現象を呈していると言われるようになったが、子ども相手の眼先の利益を追う安易な商法を簡単に止めることもできないだろう。とりわけコンテンツ業界は、これまでの対応から見ても、健全化努力を名目にフィルタリングから外れるサイトを増やそうとするであろう。現実にもその傾向は強まり、この一年でEMAは認定作業の速度を上げている。p212「子どものケータイ問題、どうなる、どうする」

 この本は、この問題にあたってきた専門家の話であるだけに、結論部分は実に説得力のある話になっている。あるいは、どう考えてもそれしかないよ、という結論がみちびきだされている。関係者はこの本を通じて、より実態を知ることを務めるとともに、横の連携を図ることが最重要視されるだろう。

 とか言いながら、はてさて、私は、当ブログは、この問題の「関係者」であるのであろうか、なかろうか。言えることは二つ。

1)ネットで繋がっており、世代で繋がっており、地域でつながっている限り、子どもたちの話題は、私や当ブログと無関係なわけがない。

2)自分の思春期時代、我が家の子ども達の思春期時代とともに、未来の地球人たちの中核たる今の子どもたちの、現在まっさかりの思春期に対して、見守りの視線を忘れてはいけない。

 具体的に何ができる、ということではないが、私には関係ない、という姿勢だけはやめよう。せめて、このような本にも目を通して、このような話題があるのだ、と認識し、せめてたまにブログなどにメモしておくことも、次なるなにかのきっかけになるかも知れない。

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2010/08/09

ヤフー・トピックスの作り方

ヤフー・トピックスの作り方 (光文社新書)
「ヤフー・トピックスの作り方 」 
奥村倫弘 (著) 2010/4 光文社 新書: 205p
Vol.3 No.0090☆☆☆☆★

 最近こんなことがあった。仕事をしていたら、突然奥さんが飛び込んできた。隣室でテレビの地域ニュースを見ていて、知った人の名前がでてきたのだ。この年になると、結構知った人の名前や顔がニュースになるのも珍しくなく、自分だって、どうかするとネタにされていることもある。

 しかし、その夕方の奥さんの顔からは血の気が引いていた。あわてようは半端じゃない。仕事をほっぽり投げて、テレビの前にいくと、最初の半分は終わっていたが、まだ残り半分のニュースをやっていた。

 早い話しが、このところ3年間ほど定期的に、仕事上で付き合いのあったある人物(公務員)が、預けられていた会計の立場を使って公金を私的に流用していた、ということである。まぁ、よくある話ではないか。

 発覚後、全額返却したので当局は告訴は見送るということで罪人になることはなかったが、その事実を公表され、職場を追われた。高級自動車どころか、中古住宅ならちゃんとした一軒家を購入できるほどの金額なので、おいおい、どうしたことか、と驚いた。あと数年がんばれば、退職金だって、その倍はもらえただろうに。

 この人物、近年やたらとモンスター化しており、非常に他罰的になっていた。こちらに対する突っ込みもきつくなっていた。すこしアスペルガー化しているのではないか、などと噂になっていた。なるほどな、ああいう境地になると、あのような行動にでるのか、テレビを消したあと、すこしボ~としていた。もうすこし詳しく知りたかった。

 すると奥さんは「ヤフー・トピックスにでているかもしれない」と叫んで、自分のパソコンをいじりだした。結果はまだそのニュースは反映していなかった。私もさっそく検索してみたが、その夕方直後ではそれほどひっかかってこなかった。

 しかし、数時間後には、某巨大掲示板にも専用のスレットができたし、各ニュースサイトにも反映され始まった。テレビニュースの動画サイトでも、くり返しみることができるようになった。

 顔写真こそでないものの実名報道だから、そうとうにキツイ。一般企業なら、これほどキツイ想いをしなくてもすんだかもしれない。全額返却したのだし、辞表をだしたのなら、それはそれでプライバシーの保護、個人情報の保護の類が護ってくれるに違いない。

 そう言えば、数年前に、教育機関のトップに上り詰めた、かつての同級生が、電車内のセクハラ行為により、ニュースになったこともあった。あの時も、某巨大掲示板での、あまりにひどい書き込みのされ方に同情して、私はますます掲示板という奴を見なくなった。

 で、結局、今回のニュースの出所は、当局の定期的な記者会見の場で発表されたことであって、その過去ログを遡っていくと、定期的にそのような処分が繰り返し発表されており、まぁ、かの職場においてはよくあることだったのだ。そもそも、その当局のホームページをみれば、ニュースの詳細は書いてあったのである。

 その後、ニュースサイトを注意深く見ていたが、各機関から流される情報はほぼ同じもの。結局は、当局のプレスリリースをコピーしているだけで、どのサイトもほとんど変わりない文字を繰り返しているだけだった。

 その後数日して、いわゆるサードパーティなグループの運営するサイトには、それ以上のニュースが展開されるようになり、新しい情報が追加され始まったが、どこまでが取材に基づいた正しい情報なのか、憶測に基づいて書かれたものなのかは、定かではなかった。

さて、今回のできごとで、わかったこと。

1)うちの奥さんは、地域のニュースを小まめに見ていること。
2)デスクトップにはYahooを貼り付けており、毎日、ヤフー・トピックを見ていること。
3)とは言え、あまりに密着した地域ニュースは、大手サイトでは見れないということ。
4)細かいが、自分の関連のあるニュースも日々流れているということ。
5)でも、本当に知りたいニュースは、やっぱり自分でキチンと把握しなければならない、ということ。
6)すくなくとも、流れている噂話に毛の生えたような情報だけでは判断できない、ということ。
7)いままで見逃してきたニュースもたくさんあったのだ、ということ。

 さて、この本はヤフー・トピックスの編集に携わる立場の人の裏話。

 アクセス数の推移を見ると、一般的な社会人のリズムに呼応すうようなアクセスのグラフが描かれています。午前8時~同30分、午後12時~同30分、午後5時~同6次の3つにアクセスのピークがあります。それぞれ、世間一般の企業の就業開始時間、昼休み、退社時間に相当しています。p28「トピックスの作り方」

 比較にはならないが、当ブログにもアクセス時間帯のピークがある。朝はなく、昼と夕方は同じ。そして夜9時~11時に再び山が来る。

 トピックス編集部の就業時間である午前10時になると、トピックス編集部員が次々と出社してきます。年齢構成で見ると30歳前後の編集者が中心で、男女比はほぼ半々。p30「トピックスの作り方」

 そもそもネット上のさまざまなサービス利用者の年齢層をみると、ほぼ30歳をピークにきれいな山になっている。もちろんケータイにまつわるものはもっと若年層に寄るが、全体が40~50歳側に寄ることはほとんどない。50歳以上の調査など、50歳以上、となっているだけで、こまかくリサーチすることさえ無駄、という態度の調査結果が多くある。だから、ヤフー・トピックスの編集部のスタッフの平均がが30歳前後である、ということは妥当性があるだろう。

 さて、またまた当ブログの比較であるが、書き手がまず、前期高齢者域に近づいていることもあり、顔の分かっているアクセス者20人ほどの平均をとってみると、お見事に50歳を超えている。男女比でいうと6対4か、7対3で、男性のほうが多い。話題によっては逆転することがある。逆転した時は、かなり注意深く調査して、できるだけ、男女半々の比率が維持されるよう気をつけることにしている(が、なかなかできない)。

 当ブログ全体のアクセス者の細かい分類はできないが、平均30歳、というところまで持っていくのは無理だろう。村上春樹やら、臨床心理学などの話題を展開すると、若い女性などがどんどんアクセスしてくれていそうなのだが、どうも、書き手側に無理があり、長続きしない。

 ニュースサイトと読書ブログ、という違いはあれど、ネット上で蠢くヤフー・トピックスの裏事情を知っておくのも悪くない。

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2010/08/08

仕事で使える! Twitter超入門

仕事で使える!「Twitter」超入門 (青春新書INTELLIGENCE)
「仕事で使える! Twitter超入門」
小川 浩 (著) 青春出版社 2009/9 新書: 181p
Vol.3 No.0089☆☆☆★★

 Twitterには完全に出遅れた。というか、ほとんど食指が動かない。ワープロ通信、ニフティフォーラム、ホームページ作り、メーリングリスト、巨大掲示板、SNS、セカンドライフ、などなど、毎回新しいサービスが生れては、浮き沈みを繰りかえしている。

 現在なら、必要に迫られて企業や団体のホームページをつくることは、会社の看板を掲げたり、名刺を造ることとおなじように当たり前になっているが、でもそれって、あの創成期のような熱気にあふれたものではない。必要に迫られて、ネクタイをしめるような形でのホームページ作りになっている。

 SNSにしても、それこそ「仕事で使える」という使い方もできないではないが、正直言って私は飽きた。一時は10個ほどのSNSに登録していたのだから、ちょっとやりすぎたのがいけなかったのかもしれない。せっかく高機能のパソコンを買ってまで始めたセカンドライフも、最近では、まるで情熱が失せてしまった。

 最近は、このニフティ・ブログにハマったきり、一番住みやすいのはここぞとばかり、ブログばっかり書いている。これもまた、ブログサービスも10個ほど登録して使い勝手を確かめたのだが、私の場合は、このニフティ・ブログが今のところはベストだ。<1.0>を置いている楽天ブログなら、ここまでブログ・ライフは続かなかっただろう。ここにはここにしかない楽しみがある。

 しかし、実は当ブログは<3.0>に向かって地道に模索をしているのも事実で、非公式にいろいろな実験を繰り返しているのだが、どうもうまくいかない。なにかどっかできっかけが生れてくるに違いないのだが、まだ見つからない。

 ブログは「Web2.0」という一大ムーブメントの立役者だった。そしてツィッターはポストWeb2.0の世界の代表的存在になるだろう。p6

 という呼び声も高いサービスだが、私にはどうもそうは思えない。他の関連本や「ツイッターノミクス」などという本にも手をだしてみたが、どうも納得がいかない。あんまり悪口ばかり書いていると、センスのない奴だなぁ、と笑われるばかりだから、今夜のところは、この辺で止めておこう。

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インターネット新世代 村井純

インターネット新世代 (岩波新書)
「インターネット新世代」 
村井 純 (著) 2010/1岩波書店 新書: 240p
Vol.3 No.0088☆☆☆★★

 著者の本は何冊か読んでいると思っていたが、どうやらそれは、当ブログがスタートする前のことだったようだ。言ってみれば、インターネット正規軍であり、全うに推進している、全うな研究者の立場にある人である。しかも評論するだけの人ではないので、責任ある言動が求められる。

 だが、本としてはこのベタなタイトルからわかるように結構地味で、真面目すぎる嫌いがある。今年、わずか半年前に出た本としては、確かに情報は今日的で正確な情報なのであろうが、いまいち、心を湧き立たせるようなニュースに乏しい。

 パラパラめくって閉じて、ふと考えてみると、この本の中にグーグルという文字は出てきただろうか、と記憶があやしくなってきた。いわゆる3C論でいえば、まさにこの本はコンテナ論にどっかりと中心を据えている本であり、テレビのデジタル化やスマートフォンやネットブックの話題などもテーマの中心となっている。

 当ブログとしては、コンテナ論からコンテンツ論、そして、コンシャスネス論へと、話を展開していきたいと思っているので、いくらコンテナ論を詳しく語られても、もうこれ以上のコンテナの爛熟はいらないな、とさえ思う。不要とまでは言わないまでも、まぁ、担当の方々の奮闘に期待する、という程度で素通りしたくなる。

 現在私たちが使っているインターネットは、技術としては20年前の技術であり、そろそろ新しい技術が生まれなくてはならないといわれています。それがフューチャー・ネット、あるいはネクスト・ジェネレーション・ネットワーク(NGN)という表現で呼ばれているものです。現在のインターネットにとらわれないまったくの新しいものをつくるということが、研究上の課題としては存在しており、新しいものをめざす機運は高まっています。p48「次世代のインターネット」

 私は年齢が次第に前期高齢者域へと近づいてきてるせいか、最近は、あんまり「新しい技術」ということに飛び付くことはなくなった。最近はやりのツィッターとやらにもまったく食指が動かず、デジタルテレビにも買い替える気がが起こらない。アンテナを変えて、コンバータを家族が買ってくれたから、デジタル化がいきなり始まっても、なんとか天気予報と地震速報を見逃すことはない。でも、もうテレビにもあまり期待することもすくなくなった。

 ケータイにしても、いまや電話時代の黒電話に比較されるほどのムーバを使っており、別にドコモから言われなければ、フォーマに変える必要はまったく感じていない。スマートフォンとやらも、自分のライフスタイルにフィットしているとは言い難い。敢えていうならネットブックの方だろうが、これもまたアクセス課金の問題で、自らのものにしたいとは思わない。こうしてみると、最近の私は結構醒めてるなぁ、思う。

 そもそもクラウドコンピューティングとは、語源からいえば、ユーザーがネットワークを通じて外部のサービスを利用することの総称です。p91

 科学者や技術者たちの、日々の努力の成果があればこそ、こうした日々の生活の情報環境ができているのであろうが、当たり前のこととなると、ついつい感謝する心を忘れてしまうものだ。なくなればなくなったで、相当にパニックに陥るだろう。電気、水道、ガス、インターネットだ。新聞、テレビ、ラジオ、よりその必要性は上になっているだろう。

 でも、ある日、プツンと、ネットが使えない、使わなくてもよくなる、という日がやってきたとして、それはそれで楽しいのではないか、と私は思う。もちろん、現在は、仕事をやっている以上、ネットが使えなければ、完全アウトである。来月から生活費が入って来なくなる。凄いといえば凄いな、いつの間にか、こんな状態になっていたんだな。

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2010/08/07

伽藍とバザール オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

Photo
「伽藍とバザール」 オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト
エリック・スティーブン レイモンド (著), Eric Steven Raymond (原著), 山形 浩生 (翻訳) 1999/09 光芒社単行本: 252p
Vol.3 No.0087☆☆☆☆☆

 「松岡正剛の書棚」を読んでいて、そう言えばこの本があることを思い出した。もともとリアルタイムでネットで読んでいたので、この本があることさえ気がつかなかった。この本はリチャード・ストールマン「フリーソフトウェアと自由な社会」や、リーナス・トーバルスの「それがぼくには楽しかったから」と並んで、基本中の基本、オープンソフトの古典中の古典である。

 安いインターネットは、リナックスモデルの発展にとっての必要条件ではあったけれど、でもそれだけでは十分条件ではなかったと思う。もう一つの重要な要素は、開発者が共同開発者を集めて、インターネットというメディアを最大限に活かすためのリーダーシップのスタイルと、協力のための慣行が開発されたことだろう。p51「伽藍とバザール」

 この邦訳が出版されてからでさえすでに10年以上が経過している。

 この論文の題名にでてくる「ノウアスフィア(noosphere)というのはアイデア(観念)の領域であり、あらゆる可能な思考の空間だ。ハッカーの所有権慣習に暗黙に含まれているのは、ノウアスフィアの部分集合の一つであるすべてのプログラムを包含する空間での、所有権に関するロック理論なんだ。だからこの論文は「ノウアスフィアの開墾」と名づけた。新しいオープンソース・プロジェクトの創始者がみんなやっているのがそれだからだ。p101「ノウアスフィアの開墾」

 1995年のインターネットの爆発的拡大ののち、その利用法が桁違いのスケールで検討された。

 オープンソースへの転換が完全に終わったあとのソフトウェア界は、どんな様子になっているだろう。
 この質問を考えるためには、そのソフトが提供するサービスがどこまでオープンな技術企画に基づいて表現できるかによって、ソフトの種類を仕訳すると訳に立つ。これは、そのソフトのベースとなるサービスがどこまで共有化しているかときれいに相関している。
p199「魔法のおなべ」

 この論文が書かれた頃にはまったく想像できなかったことがある。それはGoogleの登場だ。まさに企業としのGoogleはこの1998年に誕生しようとしていたが、まだ企業とは名ばかりの小さなものだった。

 インターネットがあったからこそ、リナックスができた。そしてリナックスができたからこそGoogleは誕生し得た。あれから10年が経過して、さて、これからの10年後。ネット社会はとんでもない変化を遂げている、ということは大いにあり得る。いや、むしろ、とんでもないことになっているはずだ、という予想の方が確実性がある。とすれば、それはGoogleがあったからこそ、こうなった、というものになるだろう。

 翻訳者の山形浩生には2007年の「新教養としてのパソコン入門」という本がある。こちらの「伽藍とバザール」の論調にくらべれば、はるかにトーンダウンしたきわめておとなしい一冊だ。カクメイがどこかで頓挫してしまったのか、とさえ勘違いする。

 ぼくはあまり自由とかの話しはあまりしたくないんだ。ぼくだって、ゆずりあいと共有に基づく社会が嫌だと言うんじゃない。でも、自由のためにオープンソフトを使っていただく、といのは辺だと思う。オープンソースはそれ自体メリットのあることで、だから採用しましよう、というのをきちんと説得できなかれば、絶対に行き詰るよ。p219「エリック・S・レイモンド 大いに語る」

 最近は、紛らわしい言葉として、クラウド・コンピューティングとクラウド・ソーシングという二つの言葉がある。前者のクラウドは「雲」(cloud)。大型コンピュータを雲の向こうにおいて、すべては向こうで管理してもらい、手前には小さなアクセス用の最小限の入出力装置だけを置きましょう、という考え方だ。かたや後者のクラウドは「群衆」(crowd)の意味でオープンソフトに連なる意味を持っている。「思想」としては、真っ向から対立している。

 1999年の「伽藍とバザール」は、2010年の「雲と群衆」に置き換えられていると言える。そして、どうもファイル交換ソフトなどの劣勢を見ればわかるように、P2P的なダイレクトなネット上の個人個人のつながりよりも、巨大化したシステムが逆襲を遂げているように見える。

 最近は、リナックスが話題になってきて、いろんな人がオープンソースがどうしたとかシェアウェアがどうしたとか、きいたふうなことを言ってくれる。でもフリーソフトのコードを一行も書かず、ドキュメントの貢献もない、寄付もしたことがない、ましてや使ってすらいないとおぼしき人物が「フリーソフトは生き残れるか」などとしたり顔で語るのをみると、ぼくはついつい「テメーはなにをしたね」と言いたくなる。p245山形「ノウアスフィアは、ぼくたちの開墾を待っている」

 私はコードを一行も書けなかったが、それこそインストールオタクとして、さまざまなディストリビューションに挑戦した。実際に使っていたし、あるドキュメントには、ちょっとした質問マニアみたいな登場の仕方をしたことがある。寄付はしたことないけれど、機会をとらえて話題にしてきたし、当ブログでも、たびたび取り上げてきた。

 ただプログラマーたちと違って、このオープンソースの成功例に学ぶところは、成果物としてのネット上のソフトではなく、地球上で生きるべきライフスタイルだと思っている。ダイレクトにつながりはないにせよ、シノニムスとして、オープンソースの存在には、極めて強い示唆を感じる。 

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ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として

ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)
「ポストモダンの共産主義」 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として
スラヴォイ・ジジェク (著), 栗原 百代 (翻訳)  2010/7 筑摩書房 新書 269p
Vol.3 No.0086☆☆☆☆★

 スラヴォイ・ジジック
 
1949年 スロヴァニア生まれ。哲学者、精神分析家、文化批評家。現在は、リュブンリアナ大学社会学研究所の上級研究員など。現代政治から大衆文化まで扱うラカン派マルクス主義者。
裏表紙 著者紹介

 なんだか面倒くさそうな一冊だなぁ。ラカン派マルクス主義者とは何者? 哲学者にして、精神分析家・・・・。共産主義つながり、しかも新刊で、新書、という安易な気持ちでリクエストして、手元に来てしまったので、しかたなく目を通した。なんだかなぁ、またまた、モノトーンなコチコチな世界に突入ですか・・・。

 と、最初はモンドリうってしまったが、これがなんとアタリの一冊だった。最初こそ、すこし経済的ニュースに辟易したが、全体的な総カラー天然色の世界観においては、すこしは、グレーや白黒の部分も必要なのだ、という程度のことであった。

 「マルチチュード」の共著者マイケル・はーととアントニオ・ネグリまでがこの相似を裏づける。中心となる<自己>の不在を脳科学が教えているように、自らを統治するマルチチュードの新しい社会は、主導する中央権力なしの相互作用のパンデモニアム(混沌状態モデル)としての自我とう、現代認知科学の発想へと接近するだろう。ネグリの考えるコミュニズムが、不気味なほど「ポストモダン」のデジタル資本主義と似てくるのも無理もない。「デジタル資本主義へ」p099

 この本、なんだか難しそうではあるが、やたらと知ったような名前がでてくる。つまり、当ブログが「公立図書館の開架棚」にこだわってきた部分と、著者が「大衆文化」として扱っている部分が、どうやら重なっているようなのだ。

 すでに2100冊を超える本についてメモしてきた当ブログではあるが、現在の自分の記憶のなかでは、「大衆文化」という文字を打ち込んだのは初めてでなかろうか。そう思って、「Bhavesh 大衆文化」を検索してみた。

 ない、と思っていたが、そうでもなかった。「ジャパンクールと江戸文化」と、「チベットを知るための50章」の中にでてきていた。江戸文化やチベットの人々の暮らしの話しと同じレベルで「共産主義」が語られるとすれば、これはこれで、革命的なことだぞ。

 そして同義語反復的に主体を「対象でない対象」と定義し、自己を対象と称すること(=他者にとって欲望される「私」とは何かを自覚すること)の不可能性から主体は成り立つのだという。ラカンはこのようにして「病理学上の主体的立場の相違を生成し、それをヒステリー性の問いへと答えの相違として解釈する。p111「資本主義の『新たな精神』」

 そもそも「ラカン派」とは何ぞや。以前から気になる存在であるが、やんわりと迂回して回避しつづけてきた。でも、いつかはバッティングしそうだな。

 現代グローバル資本主義において、イデオロギーの自然化はかつてないレベルに達してしまった。もはや他のイデオロギーがありうるなどとユートピア的な夢想をしようと思う物はまれである。生き残っている数少ないコミュニズム政体は、次々と新たな、よりダイナミックで効率的な「アジア的価値観をもつ資本主義」の権威ある庇護者へと自らを改造しつつある。p133「コミュニズムよ、もう一度!」

 この本、第1章は「資本主義的社会主義?」というタイトルがついている。グローバル金融を皮肉っているわけだが、これをひっくり返せば、「社会主義的資本主義?」という反語が容易に生れてくる。アメリカが一方の極にあるとすれば、21世紀の現代において、他方の極はアジア、とくにその人口が10億を超すといわれる巨大マーケットをもつ中国にうつりつつある。 白い猫でも黒い猫でも、ネズミと獲る猫はいい猫だ、とばかり、結局は、まんまと支配層は、着々と自らの足場を固めつつある。

 最後の特徴--<包括される者>から<排除される者>を分けているギャップ--は、前の三つと質的に異なる。前の三つはハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶもの、社会的存在であるわれわれが共有すべき実体のべつの側面を表したものだ。これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってしてでも抵抗しなければならない。p154「新時代の共有地囲い込み」

 小説や文学においては、セックス描写や暴力シーンは欠くことのできないファクターとなってきているが、現実の世界においては、むしろ、セックス描写や暴力シーンは過剰になってしまっているのではないか。無条件の非暴力的抵抗主義が、極めて非力であることは事実だが、いくら「共産主義」を語る本書であったとしても、なかなかこの「暴力」という言葉を違和感なく受け入れることはできない。

 オバマの勝利がこんな熱狂をもたらしたのは、苦難を乗り越え実現したからというより、このようなことが実現可能だと証明したからである。あらゆる大きな歴史の裂け目に同じことが言える。p180「理性の公的使用」

 この本の原書は2009年にでている。当然オバマのことが話題にならないわけがない。しかし、それにしても、この本の「大衆文化」性は高く、映画や小説、はやりの歌などがふんだんに取り入れられていて、なかなか読む者を飽きさせない。

 超自我が陥りがちな苦境に囚われた西側の姿は、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の有名な一節がもっともよく表わしている。「ぼくらはみな、すべての人に対して、すべての人について罪があるのです。そのうちでも、ぼくがいちばん罪が深いのです」。そうして罪の告白をすればするほど、罪の意識がいっそう深まるのだ。こうした考察から、これと対をなす第三世界諸国による西側批判の二重性が見えてくる。p192「ハイチにて」

 このほか、ビル・ゲイツ、リナックス、レイ・カーツワイル、エコロジー思想やら、ドゥルーズやら、カウンセリング、などなど、あちこちに、いかにも「大衆文化」に精通している著者の糸口が次々と仕掛けられている。ともすれば、俗に堕してしまいそうな勢いであるが、この一冊の「新書」におさまっている著者の魅力は、いわゆる「ラカン派マルクス主義者」という矜持から湧き出てくるところが大きい。

 クラフチェンコのような偉大な反コミュニストでも自分の信ずるところへある意味で戻れるのだから、今日のわれわれのメッセージはこうあらねばならない。恐れるな、さあ、戻っておいで! 反コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ! p256「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」

 あちこちに愉しい仕掛けがいっぱいある大衆性に富んだ一冊ではあるが、結局、この本は「ハーメルンの笛吹き男」ではないのか。おもしろおかしく説き起こしながら、それに魅かれる子供たちを連れて、どこかに消えていってしまいそうな、恐ろしそうな深みがある。かつてキケン思想とみなされた共産主義。一度は失敗したとされる共産主義。しかし、そこに味わい尽くされずに、残っている魅力は計り知れない。だが、依然として、本質的なキケン性にも変化はない。

 しかしまぁ、そもそも「ラカン派マルクス主義」とは一体何ぞや。昼寝をしながら、おもいだしたようにパラパラめくる読書では、その辺は謎のままである。

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2010/08/06

オバマ大統領がヒロシマに献花する日<2>相互献花外交が歴史和解の道をひらく

<1>からつづく 

オバマ大統領がヒロシマに献花する日
「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」 相互献花外交が歴史和解の道をひらく <2>
松尾文夫 2009/08 小学館 新書 220p
☆☆☆☆☆ 

 65年前にヒロシマに原爆が投下された今日8月6日、駐日ルース米国大使が、平和式典に参加することになった。わずか一年前には、ひとつの理想論として語られていたこの本の表題が次第に現実のものになってきた。

 今回は、国連議長や駐日米大使というレベルであるが、いずれはアメリカ大統領が「すべての原爆」の犯罪を認めざるをえなくなるだろう。その方向にむけて、現実の政治の舵が切られているのであれば、大いに喜ぶべきことだ。

 米国そのものの軍事費も大きく削減されることになっている。これも大いに喜ぶべきことだが、いくつかのパラドックスが隠されている。米国本国の軍事費が削減されるために、海外に駐在している米軍に対する依存度が高まっているというのだ。

 例えば、オキナワに駐在している米軍に対する経費は、おもいやり予算も含め、日本政府がかなりの額面を負担しているので、むしろ、オキナワの機能を減らすことができないというのだ。つまり、米国が軍縮するために、オキナワの基地は維持しなくてはならない、ということだ。

 当ブログは正直言って、昨年はオバマ大統領の登場と、日本の民主党政権の成立で、多いに期待感が盛り上がった。もうこうなったら、当ブログの主テーマはここだ、とばかり、大きく方針を変更しようとさえ思っていたほどだ。

 だが、しかし、その後の民主党の体たらくを見ていて、ああ、この話題はもう触れたくない、とばかり、すっかり逃げ腰になってしまった。なんなんだ一体! もともと、それほど穏健でもない当ブログだが、このテーマにだけはモンスター化する。徹底的に文句を言いたい。

 オキナワの基地問題はどうなったのだ。おいおい、民主党のマニフェストとやらはどうなっているんだ。高速無料化については大目に見よう。脱ダム問題も、まぁまぁ、両論併記で、よく話を聞こうじゃないか。年金問題はたしかに大問題だし、消費税問題も、まぁまぁ、何でも反対、という姿勢は取らないよ。

 だけど、オキナワ問題はどうしても納得ができない。極めて現実的な問題なのに、解決策をみつけることができなかった、鳩山「友愛」政治とはなんだったのか。市民運動から立ち上がった管直人新首相にも期待したいところだが、ひとり誰かに期待するというより、日本に住む地球人たち、地球市民たちは、今後どう動くのだろう。

 ルース大統領がヒロシマに献花する、というニュースは素晴らしいことだ。バン国連議長がナガサキに献花する、という勇気にも、たいへん感動するところがある。しかし、なにか忘れていないか。

 「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」のサブタイトルは「相互献花外交が歴史和解の道をひらく」となっている。日本において、鳩山元首相が「真珠湾に献花する」という話題がニュースになったことがあるだろうか。それを期待している日本に住む人々はどれほどいるだろうか。今年の12月8日、管直人・新首相はパールハーバーに献花できるだろうか。それだけのガッツがあるだろうか。

 被害者意識ばかりが強くて、自らがモンスター化しているのを知らないでいることがある。それをアスペルガーと言うかどうか知らないが、よもや、そうなってはいないだろうなぁ。隣国の状態を見ると、国際外交とはまさに互いがアスペルガー化しているかに見えるが、とにかく、上手につきあっていくしかない。

 「戦争をとめた喫茶店」のところにも書いたけれど、ヒロシマの平和公園には18歳の時、38年前に一回しか行ったことがない。だけど、かの地の意識の思い出は忘れることができない。8月6日だけがヒロシマではない。8月9日だけがナガサキではないのだ。

 所詮、部屋を閉め切って、ソファに寝っ転がり、エアコンをカラカラ鳴らせながら本をめくっているだけの当ブログであるが、今日はやっぱり、すこし背筋を伸ばして、かの問題について想いを巡らしたい。

 合掌

<3>につづく

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2010/08/05

超訳『資本論』

超訳『資本論』 (祥伝社新書 111)
「超訳『資本論』」  
的場 昭弘 (著) 2008/4 祥伝社 新書: 352p
Vol.3 No.0085☆☆☆★★

 BIHL12-3、カール・マルクス「資本論」。「私の愛した本」を読むにあたって、まず第一目に資本論のところを抜き出していたのだから、それ以前の私は、むしろこのマルキシズムに近いほうの本に関心を持っていた、ということになる。ただ、Osho自身は、わざわざ「それを読まないように」とコメントし、しかも、そこにアンダーラインを引け、とまで言っている。

 読めと言われば読みたくなくなり、読むなと言われれば、なんだか読みたくなってしまうのが、ひねくれ者の常だが、じゃぁ、読んでやろうじゃないか言って簡単に読める本ではない。的場昭弘の近著に「新訳『共産党宣言』」がある。あちらは、あんなに薄い「共産党宣言」をよくまぁ現代においてこんなに分厚い本にできるなぁ、と関心したが、こちらは、あれほどの大冊「資本論」をよくまぁ新書一冊にしたものだ、と感心至極。

 「歴史的大書が新書1冊に!」の腰巻コピーが躍っているが、今ググってみたら、なんとこの本には続編、続々編があるらしく、なんだ、「新書1冊」にまとまっていないじゃないか、と、ちょっとがっかり。近くの図書館には入庫していないので、そこまで追っかけて読むほどではないが、いずれBIHLトリップの中で「資本論」を読まなければならないとしたら、この的場の一連の書物は一読に値するのではないか、と推測しておく。

 ---スピノザのために弟子がしたことを、マルクスはヘーゲルのために行なった。しかしである。「マルクスのために」誰が進んで助けようとしているのか。だれもいないでいないではないか、だから私がやろう、と。p46的場

 なるほどね、その心意気やよし。

 認識論という次元で見れば、マルクスの理解はやはり19世紀のレベルにあるわけです。物理学的世界においても、眼に映るものが光という外の刺激によって刻印されているだけだという議論は、今ではなされないわけですね。脳科学の発展によって、どう認識するかという主体の側の問題も議論されている。ものが何かを表わそうとしているレベルと、それをどう人間が理解しようというレベルは違う。だから商品のレベルと同じことが言える。p81的場「第1章 商品」

 マルクスにはマルクスのアルファベットがある。そのアルゴリズムを学ぶところまで、当ブログに力はない。

 こうした分野として服飾産業をあげます。革命をもたらしたのはミシンだと---。
 ミシンの導入によって男性労働者が駆逐され、女工がそれに取って代わったのでした。最初は小ミシン所有者が仕事をしていましたが、ミシンの低廉化で大規模なミシン所有者がこれらを駆逐します。こうして小規模のマニュファクチャ、家内工業が主だった分野で工場経営が進んだのです。
p216的場「機械装置と大工業」

 日本語でミシンと言われるものは、ソーイング・マシンのこと。マシンがなまってミシンになった。当時の家庭における「機械」はソーイング・マシンしかなかったから、家庭用マシンと言えばすぐ「ミシン」のことを意味するようになった。現在、携帯電話が「ケータイ」と総称されるようになりつつある現象にやや似ている。

 グルジェフはミシンの修理でひと儲けした。ミシンの歴史を追っかけることはなかなか興味深い。さて、一般過程に入ってきた「機械」の一番最初がミシンだったとしたら、その一番最新のものは「パソコン」だろう。究極の「機械装置」だ。しかし、そのパソコンも、「クラウド・コンピューティング」の進行によって、またまた「大工業」のシステムの中に組み込まれつつある。19世紀の「資本論」を、21世紀的に読みなおしてみるのも、価値なしとしない。

 労働者もだまっていない
 だからこそ、その秘密を労働者が知るとどうなるか。それは労働組合が失業者を組織しはじめるときに怒ります。これは資本にとっては快適な衝撃をあたえるわけですから、何がなんでも止めなければならないことです。
p291的場「第23章 資本主義的蓄積の一般法則」

 なるほど、現在でも世界の労働組合は、派遣、フリーター、請負などの労働者、さらには失業者との連携を行おうとしています。資本家にとって、これは困る。しかし一般には、とりわけ多くの日本の労働者は、マルクスの言葉とは違って、労働者自体が困る、自らの賃金を下げるのではないかと恐れています。p292的場「第23章 資本主義気的蓄積の一般法則」

 さぁ、いよいよキナ臭くなってきたぞ。

 この本の一部は、短い間だが、ミクシィのサイトで公開されていたという。著者のミクシィ名はmarxだとか。

 マルクスは革命家であったわけです。革命家として資本主義社会の根幹をつかみ、未来社会を構想しようとしました。その際のキーワードは階級闘争です。プロレタリアートの中に未来の世界を見たというのは、もちろん彼らへの同情があったからですが、しかし、彼は同情なんかでプロレタリアートを支援していません。歴史を動かす大きな客観的な力をそこに読みこんでいるのです。p15的場「マルクスは現代を変える革命家です」

 当ブログとしては、この19世紀的プロレタリアートを21世紀的マルチチュードと読み変えているわけだ。そして、その際のキーワードを「コンシャスネス」にしようとしている。それらは「革命家」とは呼ばれないかもしれないが、革命的存在にはなりうるはずだ。

<第2巻>につづく

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2010/08/04

イーシャ・ウパニシャッド 存在の鼓動<3>

<2>からつづく

イーシャ・ウパニシャッド
「イーシャ・ウパニシャッド」 存在の鼓動<2>
OSHO/スワミ・ボーディ・マニッシュ 1998/07 市民出版社 単行本 461p
☆☆☆☆

 例えばこの本は「シーポヨ・リスト」には載っていない。この本を手に取っただけでは、講話の時期や、原書が出た時期、もともと英語で語られたのか、ヒンディー語で語られたのかさえ、定かではない。これは邦訳を作る時の出版社の姿勢に問題があると、思う。読者がそれをチェックするかどうかはともかくとして、出版社としての姿勢には大きな問題がある。意図的にまぜこぜにしてしまうことも可能だが、それはもともとの違いが分かっていてできることだ。新しい読者は混乱するに違いない。

 当ブログでは、個人的な整理のために、上記シーポヨ・リストをベースとして、K'sリストを上書きしながら、今まで読んで来たOsho本をリンクする作業に着手したところだ。部分的に、脈絡なく紹介されてきたOsho本だが、翻訳や出版にかかわる人々の御苦労とはうらはらに、一読者でしかない当ブログは、わりと平然と勝手な意見を持ってしまう。

 今回も、この本は手元に一カ月あった。Osho本はほとんど手元にあるのだが、発売と同時に入手(あるいは発売前から送られてきた)した本の多かった前期と比べ、わがOsho本読書ライフの後半は、むしろ、ゆっくりとOsho本を入手することが多くなった。他の本と同じように、本当に自分に必要で、しかも数千円というこづかいを供出するに足るタイムリーな本なのかどうか、という判断がかなり働くようになったのである。

 この「イーシャ・ウパニシャッド」もいずれは我が書庫に収まるのだが、ゆっくりとその間合いを縮めようとしているところだ。最初の2週間が過ぎ、延長の2週間がすぎ、あっという間に一カ月が過ぎた。今日が返却日、今回もまた、良く読みこまないまま終わってしまった。

 「この本、面白くないな、と思ったら、どうする?」と、なんの説明もなく奥さんに質問してみた。「そんなのすぐやめる。面白くない本を読まなくてはならない、というほど苦痛なことはないじゃん」ときた。う~ん、実際にはそれが本当だろうな。だけど、別にマゾフィズムに陥ってしまったわけではないが、「面白くない」本を手にして、なんで面白くないんだろう、と考えてしまうのも、当ブログのいつもの習癖だった。

1)もともとつまらない本だから。

2)作り方が悪いから。

3)内容がないから。

4)自分の関心と重なっていないから。

5)すでに卒業している内容だから。

6)まだ、読むべき時期に来ていないから。

7)読む角度が違うから。

8)短すぎるから、あるいは、長すぎるから。

9)なにか、腹に一物あるから。

10)読解力がないから。

11)え~と、それから、それから・・・

 面白くない」理由は、数えあげればいくつもでてくるだろう。むしろ本当に面白いと思える本に出会うことのほうが数少なくて、面白い本にであうために、多くの面白くない本を手にしている、ということもできる。しかし、面白い本が、いつまでも自分にとって面白いと限らず、以前は面白くなかったのに、ある時から俄然として超「面白い」本に変貌してくることも、自分の体験としてよく知っている。

 この「イーシャ・ウパニシャッド」を読むには、まず、なにか一工夫が必要だ。「OSHO講話タイトル:年代順(工事中)」の中のいわゆる「初期講話」の中にも、「セックスから超意識へ」「未知への扉」「秘教の心理学」など、「面白く」読んだ本もある。だが、当ブログとしては最初に読んだ「究極の錬金術」などは、何年も経過しても、いまだに読み進めていない。

 最近登場した新説がある。それは、後期においてはリアルタイムにその講話を知っているが、ちょうど接点としてあった1975年の「存在の詩」あたりで、ようやくOshoと読者としての波動がようやく合致したのであり、それ以前は、探求者としての私の要求がそれだけ成熟していなかったのではないか、ということ。だから、例えば1968年の講話、と言われれば、1968年の中学生だった自分が思い出され、その時点での自分の探求心がどれほどのことだったかが思い出されてしまい、それが邪魔するのではないか、ということ。

 この本、私の他にはリクエストが入っていないので、またすぐ私のところにリターンしてくるのだが、はて、すぐ読めるかな。BIHL2-8「イーシャ・ウパニシャッド」が入っているかぎり、本家本元のこの本もキチンと読み進める必要がある。

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2010/08/03

松岡正剛の書棚 松丸本舗の挑戦

松岡正剛の書棚―松丸本舗の挑戦
「松岡正剛の書棚」 松丸本舗の挑戦  
松岡 正剛 (著) 2010/07 単行本 中央公論新社 単行本 127p
Vol.3 No.0084☆☆★★★

 セイゴー親分も、老いてますます盛ん、というべきか。人にはいろいろな老いがあり、死があるが、死のベッドまで経済学者でいようとしたり、最後の最後までジャーナリストの鏡のような言動をしたりする人たちが多くいる。役作りのために、作った人物のまま生涯を閉じようする役者だとか、どこどこで死ねれば本望だ、という言葉があり、それにふさわしい生き方というものもあるのだろうが、傍から見ていて、なんだかなぁ、と思う時も多い。

 さて、セイゴー親分においてや、編集や、編集者、編集工学、という立場にこだわりつつ、本に埋もれて死んでいくのは、本当にカッコいいのだろうか。「松岡正剛千夜千冊」「ちょっと本気な千夜千冊虎の巻」「多読術」、その他、いくつかの親分の本に目を通してきたが、当ブログとクロスする部分は多くない。クロスしない一番の理由は当ブログ側にあり、当ブログの次なるカテゴリは「No Books No Blog」を予定していることで分かるように、結局は、当ブログは、いかに本から離れるかを、目標としているからだ。

 私は本に囲まれて死ぬなんていやだ。面白そうな本は何冊か手元に置きたいけど、「ネメシスの哄笑」にでてくるような、豚死は絶対いやだな。本に埋もれて暮らし、崩れてきた本の下敷きになって死ぬのが本望だ、なんていう人生は、私は選びたくない。ないしは、そんな死を選べるほど、本は読んでこなかった。

 クロスしている部分が少ないとは言え、わずかではあるが、この本との接点がまったくないわけではない。

 「グルジェフ伝」と「シュタイナー自伝」にも目を通したい、この二人は神秘思想家。神秘学も実は思想の一種であり、科学の一種であり、心理学の一種であり、宇宙論の一種である。p30「脳と心の編集学校」

 エリック・レイモンドの「伽藍とバザール」は、アラン・ケイ時代から、ビル・アトキンスのハイパーカードやリーナス・トーバルスのLinuxが生まれていった背景を巧みにドキュメントした。IT技術は、設計図に基づいて大建築を構築する「伽藍型」ではなく、みんなが少しづつアイデアを持ち寄る「バザール型」の開発で進んできた。p33「脳と心の編集学校」

 ヨーロッパ近代は傑作中の傑作を数多く生み出した。絶対にはずせないのだが、「カラマーゾフの兄弟」。ドストエフスキーが問題にしたのは、「神は人を裁けるのか」である。結論は「裁けない」。たっぷり時間をかけて読んで欲しい。p38「神の戦争・仏法の鬼」

 こうなると、やはりニーチェの「ツァラトストラかく語りき」を薦めたい。一切のヨーロッパ思想の矛盾、限界、嘘を暴いた。ニーチェに倣って三島由紀夫のように行動を起こすのは危険だが、思想としてのニーチェを通過しないで、世界の思想を述べるのは、そろそろやめたほうがいい。p38「神の戦争・仏法の鬼」

 トルストイの「アンナ・カレーニナ」。アンナが100ページ近くも出てこないのにも驚くが、一度出てくると一気に惹き込まれる。p65「男と女の資本主義」

 アントニオ・ネグリが「<帝国>」その他で提唱した「マルチチュード」がある。ネグリはコロニーのようにたくさんの自治が横につながっていく様相を考えた。p114「お勧めの本」

 この辺を皮切りに、接点をもっと広げていくことはできる。でもやっぱり、何かが違う。花屋さんの店先で生け花教室が開かれているような、たくらみ見え見えの部分がある。「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」。野の花は、野にありてこそ美しい。

 当ブログは、いくつかのブックリストをナビゲーションとして、公立図書館から借りた本を中心に読書を進めてきたが、現在はBIHLの再読過程にある。新しい本を読みこむというより、読み忘れてきた部分を拾い集めている段階だが、何時の間にか硬直している部分もあるので、たまには、このような「他山の石」に触れるのも少なくない効果があるはずだ。 

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2010/08/02

人生をいじくり回してはいけない 水木しげる

水木しげる 人生をいじくり回してはいけない (人生のエッセイ)
「水木しげる 人生をいじくり回してはいけない 」 (人生のエッセイ)
水木 しげる (著) 2010/04 日本図書センター 単行本: 241p
Vol.3 No.0083☆☆☆☆★

 最近よく朝のNHKドラマ「ゲゲゲの女房」を見る。7:45からBSで見て、8:00からNHK総合でまた見る。どうかすると、お昼の12:45頃もちょうどこの番組にチャンネルがあっている時がある。さらには夜にもやっているらしく、また週末にも特集編みたいなのをやっている。必ず見ようと思っているわけでもないので、見逃しているところもたくさんあるのだが、なぜだか、ついつい見てしまう。

 ドラマの現在進行中なのは、漫画家として大ブレーク寸前の、ようやく貧乏神が離れていった段階のところだが、なんだか、あの貧乏風景がいいのかもしれない。しかもあの貧乏に人間が負けていない。必死で、「豊かに」生きている。そんな風景がたくさん表現されていて、パワーをいっぱいもらえるからだ。きっと、世間的にもこの番組は話題になっていることだろう。

 この本、この番組にヒットしたことにあわせた書きおろしかな、と思ったが、「人生のエッセイ」というシリーズ物の中の一巻で、いままで何冊もでた水木しげるの本のなかから、あちこち集めてきたものを一冊にしたものである。いずれ、水木しげるブームに合わせた一冊である。

 水木さんがベビーの頃までは、島根半島にキツネやタヌキがいた。でも今はもういない。電気だらけの奇妙な時代になって、島根半島だって電気がついています。昔の境港は、蛍光灯も今みたいに明るくはなかった。うっすらとした明るさが妖怪にはちょうどいいんです。最高なのは行灯(あんどん)の光です。行灯が消えたから、妖怪も消えました。それが証拠に、蛍光灯が普及してから、新しい妖怪が出てきません。蛍光灯の光は、行灯と違って想像力を働かせないんです。p169「妖怪が棲めない国はダメになる」

 昔のことや、戦争のことがいっぱいでてくる。南国の”土人”のこともたくさんでてくる。戦争のこともでてくる。敵弾が破裂して左手をうしなったこと。紙芝居、貸本漫画との出会いもある。不思議にぶらぶらして一生を終えた親族の話しなど、興味は尽きない。

 以前、水木しげるの「妖怪図鑑」なんてものを買ったことを思い出した。一時期、私のお宝だった。今でも、書庫を探せば出てくるだろう。水木しげるは、独特な世界を生み出した。つげ義春や池上遼一らが門下にいる。

 世代的には私の父親世代だ。悲しい話ではあるが、戦争の話は貴重である。私の父親も戦地に赴いたが負傷して復員したため、私が物心ついたころには療養生活に入っており、ついぞ、戦争の話など聞くことはできないまま亡くなった。水木しげるの話しを聴いていると、とても親しい肉親から話しを聴いているような、ほのぼのとした雰囲気につつまれる。父親のかおりがする。

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雑誌「時空間」8~11 雀の森の住人たち

 ラオツ氏からのリクエストがあり、なんとかしなくてはならないな、と思う。「湧き出ずるロータス・スートラ」は、1992年当時のまとめだが、遡ること、1974年当時のまとめは、当時作っていたミニコミ「時空間」8号の「特集・雀の森の物語」だ。私の文章のタイトルは「男根武装・勃起貫徹」、当時の笑いのセンスを理解してくれる読者以外にはとてもとても、まともに開陳することはできない。  

 私個人としては、「物語」が第一部、「スートラ」が第二部、そしてこの「ジャーナル」が第三部の位置づけになる。今後の当ブログの行方は誰にも分からない。一番可能性があるのは、突然ある日、終了すること。ネタ切れ、情熱切れ、が原因でしょう。

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 1974年、1992年、2010年。こうして列挙してみると、ちょうど18年スパンのサイクルになる。思えば、74年から92年の18年間も長かった。そしてさらに92年から今年2010年も奇しくもちょうど18年目になるのだった。

 久しぶりに「時空間」を引っ張りだしてきた。1974~5年当時、わら半紙と、謄写版と、カッターナイフでの切り抜きシルクスクリーンで、こんなものを作っていた。この頃、「存在の詩」に出会った。そして、その後、何も書けなくなった。何も書かなくてもよくなった、と言うべきか。

ガリ版雑誌「時空間」12号 へ続く

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新訳 共産党宣言-初版ブルクハルト版(1848年)

新訳 共産党宣言――初版ブルクハルト版(1848年)
「新訳 共産党宣言」 初版ブルクハルト版(1848年)
カール・マルクス (著), 的場 昭弘 (翻訳) 2010/6 作品社 単行本 480p
Vol.3 No.0082☆☆☆★★

 BIHL12-7。「共産党宣言」。しかも「新訳」。ほほう、と、ため息が出る。翻訳者の名前に記憶がある。当ブログとしては以前ネオ共産主義論」を読んだ。共産党、共産主義、コミュニズムという単語はまだ死語となっているわけではない。だが、すでに過去の遺物化しているのではないか、という思いはつよい。

 OshoがBIHLで言っているほど共産党や共産主義をマイナス評価はしないが、一定程度の関心を惹かれつつ、そこから前へ進めない膠着状態でずっと来ていることも事実である。世紀を越えてマルクス・エンゲルスが世界史に影響を与えてきたのは分かるが、次なる世界へと夢や希望を持たせてくれているか、というと、どうも違う。

 今から20年ほど前にソビエト連邦は崩壊し、地球上の社会主義政権の力が縮小した。共産主義的思想は次第にフェードアウトしていくものと思われていた。しかし、その後、中国共産党の跋扈や、ネグリ=ハートの一連のマルチチュードもので、なんらかの命脈を保っているかのようである。

 「英知の辞典」の中では、コミューン主義と共産主義を並べて、Oshoはこう語る。 

 内なる革命を経験しつつある多くの人々がともに暮らすとき、そこには必ず新たな質が生まれてくる。それは「社会主義(ソーシャリズム)」と呼んでもいいが、もっとよい名前は「コミューン」から来た「共産主義(コミュニズム)」だ。共産主義を実現できるのはコミューンだけだが、コミューンはごくまれにしか存在しなかった。Osho「英知の辞典」p228

1818年生れのマルクス、共産党宣言の初校は1848年(弘化5年・江戸時代)、30歳の時の作品だ。幸徳秋水や境利彦による日本語部分訳が「平民新聞」に掲載されたのは、1904(明治37)年のことである。

 この日本語に言う「宣言」とはマニフェスト。マニフェストを掲げて政権奪取を敢行した民主党が、混乱を見せたまま、わりとあっさりと現実路線に移行するのを見ていて、私は、ああ、やっぱり、政治や経済は、当ブログの主題ではないな、と、そそくさと、これらのテーマからは撤退した。

 Oshoの最後の講話は「ZENマニフェスト」。「禅宣言」。The Zen Manifesto; Freedom from Oneself。当然、このマニフェストという部分は、マルクス・エンゲルスの「宣言」になぞらえている。しかし、自由になるのは、資本やブルジョワジーの支配からではない。自分自身からの自由だ。

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2010/08/01

ニーチェ入門 悦ばしき哲学

ニーチェ入門
「ニーチェ入門」 悦ばしき哲学
Kawade道の手帖 2010/06 河出書房新社 単行本 207p
Vol.3 No.0081

 超訳ニーチェの言葉」で、超カンタンにニーチェの全貌を把握するのなら、やっぱり、こちらの「入門」で補完しておかないと、なんだか中途半端で落ち着かない。もちろん、解説本を一冊二冊読んだからと言って、この百数十年間にニーチェが地球上に放ってきた光の総量を受け取ることはできない。ただ、この「ニーチェ入門」は、ごくごく新刊なのがうれしい。そして、なんと、ほとんどの文章が「ですます」調で来ている。

 1900年(明治33年)ニーチェの死が報じられると欧米でも日本でもニーチェが大きく取りあげられ、彼の思想は広く知れわたりました。明治34年8月に樗牛が「美的生活を論ず」を発表すると、人々は一斉に樗牛のこの新規な主張に注目しました。

 本能の満足こそ美的生活で、人生の至樂は性欲の満足にある、一方知識道徳は相対的価値を持つだけだという極端な論旨は、つい最近まで日本主義を振りかざしていた樗牛の発言だけに世の人々を唖然とさせたのです。

 すぐさま多くの雑誌に美的生活論の是非を論ずる記事が続出しました。なかでも登張竹風が樗牛の思想はニーチェ主義に基づくと解説したことから、美的生活論即ニーチェ主義という通説が成り立ち、ニーチェ論議へと発展していったのです。p163杉田弘子「ニーチェと格闘した近代日本の知性たち」

 高山樗牛については、個人的に思い入れがある。高校を卒業してすぐ友人達とコミューン(ごっこ)を始め、そこを起点として、日本一周ヒッチハイクの旅を試みた。その時、自分たちのグループ名をつけようということになり、結局は近くの森林公園になじんだ名前になったのだが、反対側の丘の上には、樗牛ゆかりの景勝地があり、そこには樹齢600年の松の老大木があった。

 その松の元で、旧制二高で学んでいた時、かなわぬ恋を嘆き、樗牛は海岸線をみながら瞑想をしたという。それにちなんで「瞑想の松」と名づけられていた。必ずしもこの人物のことについて詳しく知っていたわけでもなかったが、この松にちなんで、私たちのグループ名のひとつは「瞑想の松ビューロー」と名付けられた。

 近くを迂回する公共バスの名前は「瞑想の松循環」というラインであった。すでに地名として馴染んでおり、誰ひとり不思議にも思わないネーミングだったが、今考えても、なかなか感慨深いバスの行く先ではないか。私に文才があれば、いつかこの松をテーマに小説を書こうと思ってきたのだが、果たせないでいる。無い袖は振れない。

 この当時72年、私は18歳。ここから始まった私の旅は、結局、75年にOsho「存在の詩」と出会う旅に連なり、77年にインドに向かい、翌年末に帰国して瞑想センターなるものを立ち上げることになった。「瞑想の松ビューロー」から「瞑想センター」へ。いわずもがなの破天荒な青春時代ではあったが、あれから40年近く経過してみると、結構ダイレクトに敷かれた軌道の上に、私たちの青春もあったのかも知れない。

 樗牛は、1871年に生まれて、結核によってわずか31歳で死んでしまいます。しかもその思想は極端から極端へと言っていいほど振幅が激しい。樗牛自身、大学やアカデミズムを攻撃するのですが、「博士」にこだわるなど、制度や体制に対して非常にアンビバレントな態度をとっていた。

 その中で超保守主義と言ってもいい樗牛の日本主義が出てくる。さにはその過激な思想を突き詰めた果てに、不安や懐疑をもって自己を見つめるようになる。ニーチェと出会い、日蓮に向かうのはちょうどその頃です。

 そしてニーチェの死に同時代人として立ち向かうことになる。ニーチェの死の直後に「文明批評家としての文学者」を提出します。この論考はニーチェを介して、人間が生きる上でもっとも重要なのは社会や歴史ではないと主張したものです。

 アンチ歴史主義を真正面から論じたものです。時代的な限界としてニーチェの「力への意志」をそのまま読み込んだものではありませんが、何よりもまずニーチェは社会や歴史にアンチを唱えた人だと高山樗牛はとらえるわけです。

 人間にとって「美」を求める個人的な欲望(欲動)こそが最も大切なものである。さらに、そもそも文学は社会の役にたたない、だけれどもそこに別個の価値はあるのではないかということで、樗牛は次なる論考「美的生活を論ず」に進んでいきます。

 ニーチェが「力」と呼んだものを樗牛は「美」と読み替えていくのです。(ただしこの論考にはニーチェは直接登場しません)。その樗牛をサポートしたのが、アカデミズムでドイツ文学を論じ、宗教学を論じた登張竹風と姉崎嘲風です。p180安藤礼二「ニーチェと日本人」

 安藤礼二の名前は、「村上春樹『1Q84』をどう読むか」などで当ブログにも登場した。あの本もそうだったが、こちらも結構「クラウドソーシング」な一冊と言える。ここで登場する登張竹風こそ「如是経 一名 光炎菩薩大獅子吼経 序品 つあらとうすとら」を大正10年(1921)に著した登張信一郎である。

 樗牛は日蓮をイエスのような存在として考えている。樗牛の「文明批評家としての文学者」や「美的生活を論ず」をニーチェの名のもとに擁護した、つまり樗牛=ニーチェという図式を仕上げた張本人である登張は親鸞の言葉をそのなかに溶かし込むような形で「ツァトウストラ」を訳す。その冒頭はこう始まります。「光炎菩薩、御歳三十にして、その故郷を去り、故郷の湖辺を去り、遠く山に入りたまへり」。

 ツァラトゥストラが光炎菩薩に変貌を遂げているのです。樗牛の日蓮と登張の親鸞。日蓮の法華経と親鸞の浄土真宗は鎌倉時代に仏教の革命的な論理となり、明治期でもまた新たな宗教改革の、そして社会改革の論理となろうとしていた。ニーチェの新時代の紹介者がそれぞれニーチェと日蓮、ニーチェと親鸞を重さね合わせていることは非常に象徴的だと思います。p182安藤礼二「ニーチェと日本人」

 この時代の思想界には、なんでもありの自由奔放な試行錯誤があった。

 高山樗牛が美的生活論を書いて国家主義から個人主義へ転向した明治34年は幸徳秋水が「二十世紀の怪物帝国主義」を書き、社会民主党が結成され即日解散された年でした。日進戦争後日本の資本主義は急速に発達しましたが、その結果生じたのは政財界の癒着による社会的腐敗や目を覆うばかりの貧富の格差です。時は日露戦争勃発前夜で非戦論は幸徳秋水や堺利彦などの社会主義者ばかりか無境界派のクリスチャン内村鑑三も非戦の論陣を張り、多くの若者が彼に心酔しました。p167杉田弘子「ニーチェと格闘した近代日本の知性たち」

 読みようによっては、このクラウドソーシングの一冊は、さまざまなリンクを創り出し、当ブログにおいて、画期的な地平を切り開くだろう。しかし、ことはそう簡単にいきそうにない。

 本家本元のない時代が到来する前に、本家本元をもたないことをニーチェは教えてくれたわけですから、その多様なあり方が重要になると思います。それはこれからヨーロッパの人も知らなくてはいけないし、日本のニーチェ受容だってやらなくてはならないでしょう。もういちど断っておきますが、それは「高山樗牛とニーチェ」とか、「魯迅とニーチェ」とかいうケース・スタディーやカントリー・レポートではだめです。p84三島憲一「世界はニーチェをどう読んできたのか」

 21世紀の今日、真に問われているのは、ニーチェでもなければ、それを受け止めたその時代の人々のことでもない。問われているのは、21世紀においてニーチェを読んでいる私たち自身だし、21世紀地球人たちのスピリチュアリティである。

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超訳ニーチェの言葉

超訳ニーチェの言葉
「超訳ニーチェの言葉」
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ/白取 春彦 2010/01 ディスカヴァー・トゥエンティワン 単行本
Vol.3 No.0080☆☆☆★★

 BIHLのトップを飾るのは、ニーチェの「ツァラトウストラかく語りき」である。3日目には僧燦の「信心銘」に取って変わられたとしても、まずは口火を切ったのがニーチェであることに変わりはない。他の哲学や、同時代の現代神智学的流れ、あるは心理学的な蠢きの中にあって、ニーチェが切り開いた地平は大きく、その位置は押しも押されもせぬ、確固たるものとして存在する。

 といいつつ、当ブログでは、せいぜいニーチェの一冊を紐解いた程度で、その一冊でさえもて余している、と言っていい。すでに百数十年が経過していれば、その邦訳もさまざまなヴァージョンが存在する。自分に最適なテキストを探すだけでも結構な労力が必要となるが、その全著作に目を通すことなど当面は無理だろう、と諦めることになる。

 そんな時、この「超訳ニーチェの言葉」のような、全著作からアフォリズムを抜き出したような一冊は、ニーチェの全体像を、まずはひととおり感じてみようという向きには最適な本かもしれない。ましてや今年になってからでた本でもあり、話題性もある。実に簡潔に書いてあり、こんなんでいいの? と思うほど読みやすい。

 しかし、読みやすいだけに、なんだか骨抜きのお手軽お惣菜を出されているようでもあり、食べ応えとしては、いまいち、それこそ喰い足らん、という印象もある。痛し痒しではある。何々について、という章立ては、まるでジブランの「預言者」にも対応しているかのようでもあり、本家本元となのに立場が逆転さえしているようで、可笑しい。

 危険なとき
 車に轢かれ危険性が最も大きいのは、一台目の車をうまくよけた直後だ。
 同じように、仕事においても日常生活においても、問題やトラブルをうまく処理して安心から気をゆるめたときにこそ、次の危険が迫っている可能性が高い。「人間的な、あまりに人間的な」
 104

 そうかなぁ、と思う。仕事柄、多くの事故現場を見てきたが、ここでのニーチェの言葉には素直に納得はできない。事故がおこる要素はそう簡単ではない。そもそも一台目がどう近づいてきて、どうよけたのかも勘案しないと、次の事故に遭遇することは避けられない。確かに日本においては交通事故の死亡者は減り続けているけど、それは車の安全対策が進んだからであって、事故の件数が減っているわけではない。

 本を読んでも
 本を読んだとしても、最悪の読者にだけはならないように。最悪の読者とは、略奪をくり返す兵士のような連中のことだ。
 つまり彼らは、何かめぼしいものはないかと探す泥棒の目で本のあちらこちらを適当に読み散らし、やがて本の中から自分につごうのいいもの、今の自分に使えるようなもの、役に立つ道具になりそうなものを取り出して読むのだ。
 そして、彼らが盗んだもののみ(彼らがなんとか理解できるものだけ)を、あたかもその本の中身のすべてであるというように大声で言ってはばからない。そのせいで、その本を結局はまったくの別のようにしてしまうばかりか、さらにはその本の全体と著者を汚してしまうのだ。「さまざまな意見と箴言」
 180

 この部分は、この「超訳ニーチェの言葉」を編集したチームの自戒の言葉でなくてはならない。もちろん、読者としても重々留意しなければならないのは当然のことだ。新井満の一連の「自由訳」という奴もあったが、「超訳」とはいかなるものか。スーパー意訳、という程度のことだろうか。それにしても、あれだけの全集から、わずか232のアフォリズムを象徴させなければならないのだから、容易なことではない。

 自分の哲学を持つな
 「哲学を持つ」と一般的に言う場合、ある固まった態度や見解を持つことを意味している。しかしそれは、自分を画一化するようなものだ。
 そんな哲学を持つよりも、そのつど人生が語りかけてくるささやかな声に耳を傾けるほうがましだ。そのほうが物事や生活の本質がよく見えてくるからだ。
 それこそ、哲学するということにほかならない。
「人間的な、あまりに人間的な」 197

 どうかすると、上の読書に対する態度と矛盾するような言説だが、ここでのニーチェの主張はそのまま受け入れることができる。言葉はやさしいが、これこそニーチェの主張のメインテーマであろう。

 よく考えるために
 きちんと考える人になりたいのであれば、最低でも次の三条件が必要になる。
 人づきあいをすること。書物を読むこと。情熱を持つこと。
 これらのうちどの一つを欠いても、まともに考えることなどできないのだから。
「漂泊者とその影」 213

 ここは難ありだ。あたっているようでもあり、はずれているようでもある。まず、人づきあいが下手だったニーチェから「人づきあい」をせよ、と忠告されるのは、心外だ。別に人を避けているわけではないし、その通りだと思うが、やはりここは本人の存在を以て、その言葉の意味を発してほしい。

 「書物を読むこと」。ここも難ありだ。ほぼ毎日一冊づつ、この4年間で2000冊以上の読書ブログをつけてきた当ブログとしては、「書物を読むこと」は反対はしない。しかし、今はそうであっても、いつかはパタッと読書をやめる可能性がある。

 「情熱をもつこと」。これはこれでいいんじゃないかな。つまり人間としての生命力、生きてあることの根源だよね。熱くありたい。

 さて、ここで上の「ニーチェの言葉」を自分なりに「哲学」すると、自分なりの言葉になる。それは「よく考えるため」ではなく、「より意識的であるために」という表題になるだろう。自らの中にとどまりなさい。自らを見つめなさい。そして、情熱的でありなさい。まぁ、こう言いかえたとしてもニーチェは、自分の言葉を、あいつは自分の都合のいいように作りかえた、と言って怒りはしないだろう。

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