« ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として | トップページ | インターネット新世代 村井純 »

2010/08/07

伽藍とバザール オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

Photo
「伽藍とバザール」 オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト
エリック・スティーブン レイモンド (著), Eric Steven Raymond (原著), 山形 浩生 (翻訳) 1999/09 光芒社単行本: 252p
Vol.3 No.0087☆☆☆☆☆

 「松岡正剛の書棚」を読んでいて、そう言えばこの本があることを思い出した。もともとリアルタイムでネットで読んでいたので、この本があることさえ気がつかなかった。この本はリチャード・ストールマン「フリーソフトウェアと自由な社会」や、リーナス・トーバルスの「それがぼくには楽しかったから」と並んで、基本中の基本、オープンソフトの古典中の古典である。

 安いインターネットは、リナックスモデルの発展にとっての必要条件ではあったけれど、でもそれだけでは十分条件ではなかったと思う。もう一つの重要な要素は、開発者が共同開発者を集めて、インターネットというメディアを最大限に活かすためのリーダーシップのスタイルと、協力のための慣行が開発されたことだろう。p51「伽藍とバザール」

 この邦訳が出版されてからでさえすでに10年以上が経過している。

 この論文の題名にでてくる「ノウアスフィア(noosphere)というのはアイデア(観念)の領域であり、あらゆる可能な思考の空間だ。ハッカーの所有権慣習に暗黙に含まれているのは、ノウアスフィアの部分集合の一つであるすべてのプログラムを包含する空間での、所有権に関するロック理論なんだ。だからこの論文は「ノウアスフィアの開墾」と名づけた。新しいオープンソース・プロジェクトの創始者がみんなやっているのがそれだからだ。p101「ノウアスフィアの開墾」

 1995年のインターネットの爆発的拡大ののち、その利用法が桁違いのスケールで検討された。

 オープンソースへの転換が完全に終わったあとのソフトウェア界は、どんな様子になっているだろう。
 この質問を考えるためには、そのソフトが提供するサービスがどこまでオープンな技術企画に基づいて表現できるかによって、ソフトの種類を仕訳すると訳に立つ。これは、そのソフトのベースとなるサービスがどこまで共有化しているかときれいに相関している。
p199「魔法のおなべ」

 この論文が書かれた頃にはまったく想像できなかったことがある。それはGoogleの登場だ。まさに企業としのGoogleはこの1998年に誕生しようとしていたが、まだ企業とは名ばかりの小さなものだった。

 インターネットがあったからこそ、リナックスができた。そしてリナックスができたからこそGoogleは誕生し得た。あれから10年が経過して、さて、これからの10年後。ネット社会はとんでもない変化を遂げている、ということは大いにあり得る。いや、むしろ、とんでもないことになっているはずだ、という予想の方が確実性がある。とすれば、それはGoogleがあったからこそ、こうなった、というものになるだろう。

 翻訳者の山形浩生には2007年の「新教養としてのパソコン入門」という本がある。こちらの「伽藍とバザール」の論調にくらべれば、はるかにトーンダウンしたきわめておとなしい一冊だ。カクメイがどこかで頓挫してしまったのか、とさえ勘違いする。

 ぼくはあまり自由とかの話しはあまりしたくないんだ。ぼくだって、ゆずりあいと共有に基づく社会が嫌だと言うんじゃない。でも、自由のためにオープンソフトを使っていただく、といのは辺だと思う。オープンソースはそれ自体メリットのあることで、だから採用しましよう、というのをきちんと説得できなかれば、絶対に行き詰るよ。p219「エリック・S・レイモンド 大いに語る」

 最近は、紛らわしい言葉として、クラウド・コンピューティングとクラウド・ソーシングという二つの言葉がある。前者のクラウドは「雲」(cloud)。大型コンピュータを雲の向こうにおいて、すべては向こうで管理してもらい、手前には小さなアクセス用の最小限の入出力装置だけを置きましょう、という考え方だ。かたや後者のクラウドは「群衆」(crowd)の意味でオープンソフトに連なる意味を持っている。「思想」としては、真っ向から対立している。

 1999年の「伽藍とバザール」は、2010年の「雲と群衆」に置き換えられていると言える。そして、どうもファイル交換ソフトなどの劣勢を見ればわかるように、P2P的なダイレクトなネット上の個人個人のつながりよりも、巨大化したシステムが逆襲を遂げているように見える。

 最近は、リナックスが話題になってきて、いろんな人がオープンソースがどうしたとかシェアウェアがどうしたとか、きいたふうなことを言ってくれる。でもフリーソフトのコードを一行も書かず、ドキュメントの貢献もない、寄付もしたことがない、ましてや使ってすらいないとおぼしき人物が「フリーソフトは生き残れるか」などとしたり顔で語るのをみると、ぼくはついつい「テメーはなにをしたね」と言いたくなる。p245山形「ノウアスフィアは、ぼくたちの開墾を待っている」

 私はコードを一行も書けなかったが、それこそインストールオタクとして、さまざまなディストリビューションに挑戦した。実際に使っていたし、あるドキュメントには、ちょっとした質問マニアみたいな登場の仕方をしたことがある。寄付はしたことないけれど、機会をとらえて話題にしてきたし、当ブログでも、たびたび取り上げてきた。

 ただプログラマーたちと違って、このオープンソースの成功例に学ぶところは、成果物としてのネット上のソフトではなく、地球上で生きるべきライフスタイルだと思っている。ダイレクトにつながりはないにせよ、シノニムスとして、オープンソースの存在には、極めて強い示唆を感じる。 

|

« ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として | トップページ | インターネット新世代 村井純 »

41)No Earth No Humanity」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 伽藍とバザール オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト:

« ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として | トップページ | インターネット新世代 村井純 »