モジュール化の終焉 統合への回帰
「モジュール化の終焉」 統合への回帰
田中辰雄 2009/12 NTT出版 単行本 272p
Vol.3 No.0117☆★★★★
早い話が、「モジュール化の終焉」とは「統合への回帰」だし、「統合化の終焉」とは「モジュールへの回帰」なのである。物事には離散集合の歴史があり、そのサイクルを調べることによって、未来を予測しようという試みだ。対象となっているのは、世界市場の中における日本のパソコンやケータイなどの通信事業全般。
当ブログのいままででてきた用語に置き換えれば、「バザールの終焉」と「伽藍への回帰」、と読み変えることもできるだろうし、「クラウドソーシングの終焉」と「クラウドコンピューティングへの回帰」と読み変えることができないでもない。つまり、分散化と統合化の波をうまいこと歴史順に並べてみようということである。
統合型製品の代表としてはワープロ専用機が登場し、分散型としてはパソコンが登場する。これって、かなり微妙な分類である。ワープロ専用機はともかくとして、パソコンは、たしかに統合派マックに比べたらwin機は確かに分散型ではあるが、リナックスをOSにしようとする動きに対しては、はるかに統合的である。
しかるに、単体の製品ばかりではなく、産業構造全体を、そのモジュール化と、統合、という尺度でとらえてみようという試みである。電話産業などは、極めて統合的な産業構造であり、それに比すと、ケータイ産業は分散型である。自動車産業も統合型とみなされる。
ただ、この価値基準は、かなり曖昧なもので、視点を変えるとどんどん違った意味になってしまうので要注意。自動車などは現在はたしかに統合型であるが、電気自動車が標準になってくれば、モーターさえ調達してしまえばいいわけだから、かなりモジュール化した自由性の効く産業になってしまう可能性がある。
このスケール基準の中で、著者はケータイやiPhoneなどを引き合いに出していろいろ試論を繰り出すのだが、それはあくまで試論であって、学者によれば、こういう予測もひとつとしてでています、程度の、当て馬的、逃げ兎的、かなりアバウトなものである。実態はなにもともわない、ともすれば空論にさえなりかねない学説にすぎない。
アルビン・トフラーなら、オーケストラとジャズ・バンドに例えるだろうし、精神世界なら、カソリックとスピリチュアリティに比されるかもしれない。まぁ、かなりいい加減な推論だ。集合と分散。結局は、うまい具合にちょうどいいところに収まってくれればいいだけのことであり、どっちへの極にかたまってしまうのもよくない。
振れ過ぎた振り子が元に戻るように、どちらへの振れを見せながら、結局は可動的な平均値周辺が一番ここちよい、ということになるに違いない。なんだかもっさりした一冊なので、引用するのさえ、ちょっとためらってしまった。
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