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2010/08/24

禅の逆襲 生老病死のなかの仏教

禅の逆襲
「禅の逆襲」 生老病死のなかの仏教
有馬頼底/對本宗訓  春秋社 2010/04 単行本 163p
Vol.3 No.0118☆☆☆★★

 この本もまた春秋社か。昨今において、ちょっと気になるような仏教書の出版元を見ると、この出版社であることが多い。なるほど、この出版社だからこそ、このテーマでこの時期にでたか、と思え納得することがたびたびある。陰にはそれだけの優秀な編集スタッフがいるのであろうし、それなりの経営努力があるに違いない。

 お寺さんたちも、生きて現代に存在している限り、現実と対処していかなくてはならない。禅が語られているこの本において、各論的には、さまざまな意見を言わせていただきたいとは思うが、とにかく、現代に生きる、という現実において、このような人々がいるのだ、と認識することができることは、大変うれしい。

 現実の生活の中では、まずは出会うことはない人々だ。たしかに対談の片方の方は私と同じ年齢だし、もともとお二方とも日本に生活をされているかぎり、物理的にお会いできないことはないだろう。しかし、そこに縁や必然性がなければ、生きてある空間の距離は縮まらない。しかしながら、このような、本、と言う形で表現されることによって、知らないでしまった世界が、ぐっと身近に感じられるのだから、まんざら本というものは簡単に捨てるわけにはいかない。

対本 畏敬という場合は良い意味の畏れですが、通常、畏れとは不安なり恐怖なりですね。ですから、「施無畏(畏れなきを施す)」というのは、不安なり恐怖なりを取り除いてさしあげようというわけです。禅では「無畏の請願」とも言いますね。p46

 私はこの三文字には、私なりの思いがある。必ずしも明言したり、額装して壁に掲げたりはしないが、それはまた、私の生涯の請願でなくてはならない。

対本 無畏のお話ですが、仏教では安心ともいいますね。心を安んじる、心を落ち着かせる、ということですが、とても大切なことです。禅では達磨と慧可の安心についての問答が、よく知られております。p52

 同じ物事でも、表現のされかたや、語る人によって大いにニュアンスが変わってくることがあるが、すくなくとも、ここでこの話題がでるべきだろうという時に、タイミングよくその話題がでてきたりすれば、話しは早い。

有馬 作家として大成されたから、それで良かったけれども、「やはり水上(勉)さん、仏飯をいただいて、人間は最後まで仏飯の恩義を忘れてはいけませんね」。「そうよ」と、おっしゃっていただきました。p72

 とりあえず作家・水上勉の全体評価については置いておこう。一宿一飯の恩義という奴も、とりあえず割り引いて考えておこう。ここで語られる言葉のセンスには、角度がちょっと違っているぞ、と感じないわけではない。しかし、その意味は、その通りだと思う。人間として生まれてきたかぎり、人間として育ててもらったかぎり、他の人々とともに、人間として生きていきたい。

有馬 「禅とは何か」というけれど、わしには、禅とは何もわからへん。禅とはいったい何ですか(笑)。

対本 本当に禅とは何でしょうね。私にもわかりません(笑)。ただ、禅はもっと具体的、積極的に社会とかかわっていかなければいけない。そういうところに、ひとつの新しい展開をもっていかなければならない。そう管長はおっしゃっていますね。「只管打座(ただ座れ)」もいいけれど、社会と隔絶して禅があるのではないと。p107

 よくスピリチュアリティを標榜する人びとのなかには、どこにも属さず、あらゆるものを取り入れる、みたいな表現をすることがあって、それが立派なライフスタイルであるかのごとき自負の念で支えられていることがある。しかるに、このお二方の人生のように、「寺」という具体的な社会的存在との関わりの中で生き、ひとつの仏教や宗派との繋がりを維持しながら、するどく禅を生きていく人々もいる。

有馬 禅というものは生きている人のためにならないとだめですね。仏教が葬式仏教というのは、私はたいへん良いことだと思います。人の最期の場面に携わることは大事なことです。たいへん結構なんですが、ところがそれは亡くなってからの話であって、生前になんとかなるべきではないですか。p114

 葬式仏教ではだめでしょう。これは仏教を批判した言葉である。しかるに、それはそれで受け止めるという現実性を忘れてはいけない。私も最期は、近くのお寺の和尚さんにお経を挙げてもらいながら、墓地に埋葬されることになるだろう。そうしていただきたい。しかしながら、「生前になんとかなるべきではないか」というのは、まさに正論である。

有馬 生きている人のための仏法でないといけない。だからぎりぎりまで生きて、あした死ぬかわからん、あさって死ぬかわからんという、その人のための仏法というものを確立すべきだと思います。p118

 おっしゃることが身にしみます。まさにLive Zenを生きなくてはならない。

 対本氏は、若くして一宗の管長に就任しながら、それを敢えて辞して医学生として学び直し僧医となられた方である。

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