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2010/08/11

ニーチェ 道をひらく言葉 智恵の贈り物

ニーチェ道をひらく言葉 (智恵の贈り物)
「ニーチェ道をひらく言葉」 (智恵の贈り物)
ニーチェ (著), 野田 恭子 (翻訳) 2010/5 イースト・プレス 単行本: 228p 
Vol.3 No.0092☆☆☆★★

 「超訳ニーチェの言葉」を読んだ時もそうだったのだけど、正直言って、この本、あまり面白くない。そもそもどうしてこのような本が生れるのだろうか。読書というものの弊害を感じるのは、このような本に出会った時である。

 どうやら最近の私は本の読みすぎである。人生の中でこれほど本に触れている時代はないだろう。少なくとも冊数だけなら人生のピークを生きている。ジャンルや内容の読み込みという意味では、もちろん十分ではなかろうが、でも文字面を追うことなら、割と簡単にできる時代である。

 しかし、この「簡単にできる」というところが曲者だ。本来、本当に「道をひらく言葉」に出会うような場面とは、本など読まず、読もうとしても読むことができず、言葉などまったく信じていない、というような状況の方がより確率が高くなるのではないだろうか。

 いわゆる多読なものにおいては、ちょっとした洒落た言葉など、ほとんど感動しなくなってしまっているのだ。より刺激の強いものを求め、耐性がどんどん分厚くつみあがっていく。純粋な生な感性がどんどん麻痺していっているのではないか。

 難解なニーチェの、とびきり上等であるはずのアフォリズムをあちこちから抜き出してくれているはずの、この一冊なのだが、どうも、私には、それがどうした、と開き直ってしまっている自分しか見えてこない。

 自分の意見をもつ
 たいていの者は通念や世論で着飾っていないと、存在しないも同然で、世間では無と見なされる。仕立て屋が「人は服装しだい」と言うとおりだ。しかし、例外として「服は着る人しだい」と言われるにふさわしい人もいる。こうなれば、意見は世論の受け入れではなくなり、もはや仮面、美しい衣裳、おし着せのごまかしではなくなる。
 133 「さまざまな意見と箴言」

 別に当ブログは世論に反対しているわけでもないし、賛成しているわけでもない。むしろ、一般大衆の「コモンセンス」と同じ感性になれるのなら、それに越したことはない、とさえ思っている。別段に、珍しい個性として自らを磨きあげてみたい、などとは思わない。

 だけど、やっぱり違うな、と思った時は、なるべく思ったことを素直に言えるタイミングを持てるように計らっている。「裸の王様」を見た正直な子どもの話しではないが、どちらが本当なのか、なんてことは、結局よくわからないのだ。

 本を読む怠け者
 私は本を読む怠けものが嫌いだ。本読みがどういう者か知れば、だれも彼らのためになにかしてやろうとは思わなくなるだろう。こういう本読みたちの時代があと一世紀もつづけば、精神自体が悪臭をはなつようになる。
 だれも本を読むことなどおぼえたら、ゆくゆくは書くことだけでなく考えることも堕落していく。
173「ツァラトゥストラはこう語った」

 たしかに私は怠け者だが、別に、本を読んだから怠け者になったわけではない。現在は、奥さんのシュミに合わせて、いそいそと読書をしておるが、そのうちにやっぱり飽きてしまうに違いないのだ。手持ちぶたさだから、とりあえず、現在は読書ブログなどを書いている。

 だが、「考える」ということについては、いろいろある。考える、という意味では、結構、四六時中、なにかかにかを考えている。自分の頭で考えなくなるということはないだろう。まぁ、それが確かに「自分の頭」であればのことだが。

 しかし、当ブログの本当の目的は、実は反語的だが、「考えなくなる」ことにあるのだ。意識の時空間を、思考で一杯にしておいてはならない。むしろ、思考すべきことは最小限にして、次第に意識の領域を拡大しつづけていくことこそ、大事なのである。それをとりあえず、当ブログにおいても、「瞑想」と呼んでいるわけだ。

 読書は気晴らし
 私の場合、読書はみな気晴らしで、もはやまじめに考えるようなことではない。あらゆるもののなかでも読書はとくに、私を自分自身から解放し、未知の知識や未知の人たちのなかを散歩させてくれる。まさに真剣勝負からの気晴らしである。
211「この人を見よ」

 この箴言については、50%賛成、50%不可解、というところ。文字面だけなら、これでいい。まぁ、気晴らしであることに変わりはないし、他に真剣勝負がある、という意見には賛成である。だが、ニーチェって人をまだよくわかっていないから、どこでどう切りかえされるかわかったものではない。気を許せない。だから、本を読む、特にニーチェなどを読む、ということは、今のところ、私にとっては、真剣勝負なことでありたい。

 伝える相手を選ぶ
 人はものを書くtき、理解されることだけを望むわけではない。同じくらい、理解されないことを望んでいる。理解できないと言われても、それは必ずしも批判されたということではない。おそらくそれも著者のねらいのつちである。つまり、「一般大衆」には理解されたくないということだ。高貴な精神と趣味のもち主は、自分を伝えたいときには相手を選ぶのである。
219「悦ばしい知識」

 この箴言にも難がある。そもそも、当ブログは「理解されること」を望んで書いているわけではない。ほとんど、独りごとのようなもので、実際には、自分が何を読んで、何を感じたかをメモしておけばそれでいいのだ。大体において、自分が自分を理解できない可能性だってあるのだ。そう思ってきたが、あとから読んでみると、誤字脱字で、文脈不明になっている文章は多々あるが、「何を考えていたか」が不明になっているわけではない。

 「一般大衆に理解されたくない」などとは、露にもおもわず、むしろ私が感じたことが、「一般大衆」と同じだったらいいのに、という、ちょっとした祈りのような希望を持っていることも事実なのだ。一般大衆の常識やコモンセンスから、大きく外れていたとしたら、私はちょっと残念に思う。だが、重視すべきは自分の感性のほうなので、だからと言って一般大衆の方へ寝返りを打つ、ということはあまりない。ないし、寝返りを打つ必要のない程度の自由な時空間で生きていきたい。

 くりかえしたいと思う人生を生きる
 この大地に生きるのは、無駄なことではない。ツァラトゥストラとともにすごした祭りの一日が、私に大地を愛することを教えてくれた。
 「これが人生だったのか?」私は死に向かって言うつもりだ。
「ならば、もう一度!」228「ツァラトウストラはこう語った」

 だんだんと前期高齢者の領域にちかづきつつ私であってみれば、「これが人生だったのか?」と思わずつぶやいてしまうシーンというのは、だんだんと増えている。それは軽い感動をともなっている時もあれば、漆黒の虚無感や諦念をともなっている場合もある。ただ、私は死に向かって「ならば、もう一度!」とは言わないのではないだろうか。

 死ぬのなら、そのまま死んでいきたい。同じことをくりかえしたいとは思わない。今回の人生においても、可能性はたくさんあった。分岐点においては、熟慮して選択した道筋だった。結果がどうであれ、これはこれで一つの可能性であり、ひとつの実態であった。しかし、これだけが絶対だとは思わない。いいや総じて、人生とは、相対的なものでしかない。

 そしてまた、死というのは、なにかの完結のようには、思えないのである。とくに最近の私はそう感じるようになってきた。昨日と今日を隔てる、シンデレラの時計が12時の音を鳴らすように、死は、何かの前後をシンボル的に飾ってはくれるかもしれない。だが、今日は昨日のくり返しであるはずがなく、明日は、今日のくり返しであるはずがない。ないしは、くり返したくはない。日々新たな生き方をしたいではないか。

 とまぁ、この本を紐説いたからと言って、ニーチェを読んだことにはならないだろうが、こういう本に触れていると、遠い銅像のようになってしまっているニーチェが、近くのかわいい青年に見えてくるから不思議である。

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