松岡正剛の書棚 松丸本舗の挑戦
「松岡正剛の書棚」 松丸本舗の挑戦
松岡 正剛 (著) 2010/07 単行本 中央公論新社 単行本 127p
Vol.3 No.0084☆☆★★★
セイゴー親分も、老いてますます盛ん、というべきか。人にはいろいろな老いがあり、死があるが、死のベッドまで経済学者でいようとしたり、最後の最後までジャーナリストの鏡のような言動をしたりする人たちが多くいる。役作りのために、作った人物のまま生涯を閉じようする役者だとか、どこどこで死ねれば本望だ、という言葉があり、それにふさわしい生き方というものもあるのだろうが、傍から見ていて、なんだかなぁ、と思う時も多い。
さて、セイゴー親分においてや、編集や、編集者、編集工学、という立場にこだわりつつ、本に埋もれて死んでいくのは、本当にカッコいいのだろうか。「松岡正剛千夜千冊」、「ちょっと本気な千夜千冊虎の巻」、「多読術」、その他、いくつかの親分の本に目を通してきたが、当ブログとクロスする部分は多くない。クロスしない一番の理由は当ブログ側にあり、当ブログの次なるカテゴリは「No Books No Blog」を予定していることで分かるように、結局は、当ブログは、いかに本から離れるかを、目標としているからだ。
私は本に囲まれて死ぬなんていやだ。面白そうな本は何冊か手元に置きたいけど、「ネメシスの哄笑」にでてくるような、豚死は絶対いやだな。本に埋もれて暮らし、崩れてきた本の下敷きになって死ぬのが本望だ、なんていう人生は、私は選びたくない。ないしは、そんな死を選べるほど、本は読んでこなかった。
クロスしている部分が少ないとは言え、わずかではあるが、この本との接点がまったくないわけではない。
「グルジェフ伝」と「シュタイナー自伝」にも目を通したい、この二人は神秘思想家。神秘学も実は思想の一種であり、科学の一種であり、心理学の一種であり、宇宙論の一種である。p30「脳と心の編集学校」
エリック・レイモンドの「伽藍とバザール」は、アラン・ケイ時代から、ビル・アトキンスのハイパーカードやリーナス・トーバルスのLinuxが生まれていった背景を巧みにドキュメントした。IT技術は、設計図に基づいて大建築を構築する「伽藍型」ではなく、みんなが少しづつアイデアを持ち寄る「バザール型」の開発で進んできた。p33「脳と心の編集学校」
ヨーロッパ近代は傑作中の傑作を数多く生み出した。絶対にはずせないのだが、「カラマーゾフの兄弟」。ドストエフスキーが問題にしたのは、「神は人を裁けるのか」である。結論は「裁けない」。たっぷり時間をかけて読んで欲しい。p38「神の戦争・仏法の鬼」
こうなると、やはりニーチェの「ツァラトストラかく語りき」を薦めたい。一切のヨーロッパ思想の矛盾、限界、嘘を暴いた。ニーチェに倣って三島由紀夫のように行動を起こすのは危険だが、思想としてのニーチェを通過しないで、世界の思想を述べるのは、そろそろやめたほうがいい。p38「神の戦争・仏法の鬼」
トルストイの「アンナ・カレーニナ」。アンナが100ページ近くも出てこないのにも驚くが、一度出てくると一気に惹き込まれる。p65「男と女の資本主義」
アントニオ・ネグリが「<帝国>」その他で提唱した「マルチチュード」がある。ネグリはコロニーのようにたくさんの自治が横につながっていく様相を考えた。p114「お勧めの本」
この辺を皮切りに、接点をもっと広げていくことはできる。でもやっぱり、何かが違う。花屋さんの店先で生け花教室が開かれているような、たくらみ見え見えの部分がある。「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」。野の花は、野にありてこそ美しい。
当ブログは、いくつかのブックリストをナビゲーションとして、公立図書館から借りた本を中心に読書を進めてきたが、現在はBIHLの再読過程にある。新しい本を読みこむというより、読み忘れてきた部分を拾い集めている段階だが、何時の間にか硬直している部分もあるので、たまには、このような「他山の石」に触れるのも少なくない効果があるはずだ。
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