ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として
「ポストモダンの共産主義」 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として
スラヴォイ・ジジェク (著), 栗原 百代 (翻訳) 2010/7 筑摩書房 新書 269p
Vol.3 No.0086☆☆☆☆★
スラヴォイ・ジジック
1949年 スロヴァニア生まれ。哲学者、精神分析家、文化批評家。現在は、リュブンリアナ大学社会学研究所の上級研究員など。現代政治から大衆文化まで扱うラカン派マルクス主義者。裏表紙 著者紹介
なんだか面倒くさそうな一冊だなぁ。ラカン派マルクス主義者とは何者? 哲学者にして、精神分析家・・・・。共産主義つながり、しかも新刊で、新書、という安易な気持ちでリクエストして、手元に来てしまったので、しかたなく目を通した。なんだかなぁ、またまた、モノトーンなコチコチな世界に突入ですか・・・。
と、最初はモンドリうってしまったが、これがなんとアタリの一冊だった。最初こそ、すこし経済的ニュースに辟易したが、全体的な総カラー天然色の世界観においては、すこしは、グレーや白黒の部分も必要なのだ、という程度のことであった。
「マルチチュード」の共著者マイケル・はーととアントニオ・ネグリまでがこの相似を裏づける。中心となる<自己>の不在を脳科学が教えているように、自らを統治するマルチチュードの新しい社会は、主導する中央権力なしの相互作用のパンデモニアム(混沌状態モデル)としての自我とう、現代認知科学の発想へと接近するだろう。ネグリの考えるコミュニズムが、不気味なほど「ポストモダン」のデジタル資本主義と似てくるのも無理もない。「デジタル資本主義へ」p099
この本、なんだか難しそうではあるが、やたらと知ったような名前がでてくる。つまり、当ブログが「公立図書館の開架棚」にこだわってきた部分と、著者が「大衆文化」として扱っている部分が、どうやら重なっているようなのだ。
すでに2100冊を超える本についてメモしてきた当ブログではあるが、現在の自分の記憶のなかでは、「大衆文化」という文字を打ち込んだのは初めてでなかろうか。そう思って、「Bhavesh 大衆文化」を検索してみた。
ない、と思っていたが、そうでもなかった。「ジャパンクールと江戸文化」と、「チベットを知るための50章」の中にでてきていた。江戸文化やチベットの人々の暮らしの話しと同じレベルで「共産主義」が語られるとすれば、これはこれで、革命的なことだぞ。
そして同義語反復的に主体を「対象でない対象」と定義し、自己を対象と称すること(=他者にとって欲望される「私」とは何かを自覚すること)の不可能性から主体は成り立つのだという。ラカンはこのようにして「病理学上の主体的立場の相違を生成し、それをヒステリー性の問いへと答えの相違として解釈する。p111「資本主義の『新たな精神』」
そもそも「ラカン派」とは何ぞや。以前から気になる存在であるが、やんわりと迂回して回避しつづけてきた。でも、いつかはバッティングしそうだな。
現代グローバル資本主義において、イデオロギーの自然化はかつてないレベルに達してしまった。もはや他のイデオロギーがありうるなどとユートピア的な夢想をしようと思う物はまれである。生き残っている数少ないコミュニズム政体は、次々と新たな、よりダイナミックで効率的な「アジア的価値観をもつ資本主義」の権威ある庇護者へと自らを改造しつつある。p133「コミュニズムよ、もう一度!」
この本、第1章は「資本主義的社会主義?」というタイトルがついている。グローバル金融を皮肉っているわけだが、これをひっくり返せば、「社会主義的資本主義?」という反語が容易に生れてくる。アメリカが一方の極にあるとすれば、21世紀の現代において、他方の極はアジア、とくにその人口が10億を超すといわれる巨大マーケットをもつ中国にうつりつつある。 白い猫でも黒い猫でも、ネズミと獲る猫はいい猫だ、とばかり、結局は、まんまと支配層は、着々と自らの足場を固めつつある。
最後の特徴--<包括される者>から<排除される者>を分けているギャップ--は、前の三つと質的に異なる。前の三つはハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶもの、社会的存在であるわれわれが共有すべき実体のべつの側面を表したものだ。これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってしてでも抵抗しなければならない。p154「新時代の共有地囲い込み」
小説や文学においては、セックス描写や暴力シーンは欠くことのできないファクターとなってきているが、現実の世界においては、むしろ、セックス描写や暴力シーンは過剰になってしまっているのではないか。無条件の非暴力的抵抗主義が、極めて非力であることは事実だが、いくら「共産主義」を語る本書であったとしても、なかなかこの「暴力」という言葉を違和感なく受け入れることはできない。
オバマの勝利がこんな熱狂をもたらしたのは、苦難を乗り越え実現したからというより、このようなことが実現可能だと証明したからである。あらゆる大きな歴史の裂け目に同じことが言える。p180「理性の公的使用」
この本の原書は2009年にでている。当然オバマのことが話題にならないわけがない。しかし、それにしても、この本の「大衆文化」性は高く、映画や小説、はやりの歌などがふんだんに取り入れられていて、なかなか読む者を飽きさせない。
超自我が陥りがちな苦境に囚われた西側の姿は、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の有名な一節がもっともよく表わしている。「ぼくらはみな、すべての人に対して、すべての人について罪があるのです。そのうちでも、ぼくがいちばん罪が深いのです」。そうして罪の告白をすればするほど、罪の意識がいっそう深まるのだ。こうした考察から、これと対をなす第三世界諸国による西側批判の二重性が見えてくる。p192「ハイチにて」
このほか、ビル・ゲイツ、リナックス、レイ・カーツワイル、エコロジー思想やら、ドゥルーズやら、カウンセリング、などなど、あちこちに、いかにも「大衆文化」に精通している著者の糸口が次々と仕掛けられている。ともすれば、俗に堕してしまいそうな勢いであるが、この一冊の「新書」におさまっている著者の魅力は、いわゆる「ラカン派マルクス主義者」という矜持から湧き出てくるところが大きい。
クラフチェンコのような偉大な反コミュニストでも自分の信ずるところへある意味で戻れるのだから、今日のわれわれのメッセージはこうあらねばならない。恐れるな、さあ、戻っておいで! 反コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ! p256「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」
あちこちに愉しい仕掛けがいっぱいある大衆性に富んだ一冊ではあるが、結局、この本は「ハーメルンの笛吹き男」ではないのか。おもしろおかしく説き起こしながら、それに魅かれる子供たちを連れて、どこかに消えていってしまいそうな、恐ろしそうな深みがある。かつてキケン思想とみなされた共産主義。一度は失敗したとされる共産主義。しかし、そこに味わい尽くされずに、残っている魅力は計り知れない。だが、依然として、本質的なキケン性にも変化はない。
しかしまぁ、そもそも「ラカン派マルクス主義」とは一体何ぞや。昼寝をしながら、おもいだしたようにパラパラめくる読書では、その辺は謎のままである。
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