超訳ニーチェの言葉
「超訳ニーチェの言葉」
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ/白取 春彦 2010/01 ディスカヴァー・トゥエンティワン 単行本
Vol.3 No.0080☆☆☆★★
BIHLのトップを飾るのは、ニーチェの「ツァラトウストラかく語りき」である。3日目には僧燦の「信心銘」に取って変わられたとしても、まずは口火を切ったのがニーチェであることに変わりはない。他の哲学や、同時代の現代神智学的流れ、あるは心理学的な蠢きの中にあって、ニーチェが切り開いた地平は大きく、その位置は押しも押されもせぬ、確固たるものとして存在する。
といいつつ、当ブログでは、せいぜいニーチェの一冊を紐解いた程度で、その一冊でさえもて余している、と言っていい。すでに百数十年が経過していれば、その邦訳もさまざまなヴァージョンが存在する。自分に最適なテキストを探すだけでも結構な労力が必要となるが、その全著作に目を通すことなど当面は無理だろう、と諦めることになる。
そんな時、この「超訳ニーチェの言葉」のような、全著作からアフォリズムを抜き出したような一冊は、ニーチェの全体像を、まずはひととおり感じてみようという向きには最適な本かもしれない。ましてや今年になってからでた本でもあり、話題性もある。実に簡潔に書いてあり、こんなんでいいの? と思うほど読みやすい。
しかし、読みやすいだけに、なんだか骨抜きのお手軽お惣菜を出されているようでもあり、食べ応えとしては、いまいち、それこそ喰い足らん、という印象もある。痛し痒しではある。何々について、という章立ては、まるでジブランの「預言者」にも対応しているかのようでもあり、本家本元となのに立場が逆転さえしているようで、可笑しい。
危険なとき
車に轢かれ危険性が最も大きいのは、一台目の車をうまくよけた直後だ。
同じように、仕事においても日常生活においても、問題やトラブルをうまく処理して安心から気をゆるめたときにこそ、次の危険が迫っている可能性が高い。「人間的な、あまりに人間的な」 104
そうかなぁ、と思う。仕事柄、多くの事故現場を見てきたが、ここでのニーチェの言葉には素直に納得はできない。事故がおこる要素はそう簡単ではない。そもそも一台目がどう近づいてきて、どうよけたのかも勘案しないと、次の事故に遭遇することは避けられない。確かに日本においては交通事故の死亡者は減り続けているけど、それは車の安全対策が進んだからであって、事故の件数が減っているわけではない。
本を読んでも
本を読んだとしても、最悪の読者にだけはならないように。最悪の読者とは、略奪をくり返す兵士のような連中のことだ。
つまり彼らは、何かめぼしいものはないかと探す泥棒の目で本のあちらこちらを適当に読み散らし、やがて本の中から自分につごうのいいもの、今の自分に使えるようなもの、役に立つ道具になりそうなものを取り出して読むのだ。
そして、彼らが盗んだもののみ(彼らがなんとか理解できるものだけ)を、あたかもその本の中身のすべてであるというように大声で言ってはばからない。そのせいで、その本を結局はまったくの別のようにしてしまうばかりか、さらにはその本の全体と著者を汚してしまうのだ。「さまざまな意見と箴言」 180
この部分は、この「超訳ニーチェの言葉」を編集したチームの自戒の言葉でなくてはならない。もちろん、読者としても重々留意しなければならないのは当然のことだ。新井満の一連の「自由訳」という奴もあったが、「超訳」とはいかなるものか。スーパー意訳、という程度のことだろうか。それにしても、あれだけの全集から、わずか232のアフォリズムを象徴させなければならないのだから、容易なことではない。
自分の哲学を持つな
「哲学を持つ」と一般的に言う場合、ある固まった態度や見解を持つことを意味している。しかしそれは、自分を画一化するようなものだ。
そんな哲学を持つよりも、そのつど人生が語りかけてくるささやかな声に耳を傾けるほうがましだ。そのほうが物事や生活の本質がよく見えてくるからだ。
それこそ、哲学するということにほかならない。「人間的な、あまりに人間的な」 197
どうかすると、上の読書に対する態度と矛盾するような言説だが、ここでのニーチェの主張はそのまま受け入れることができる。言葉はやさしいが、これこそニーチェの主張のメインテーマであろう。
よく考えるために
きちんと考える人になりたいのであれば、最低でも次の三条件が必要になる。
人づきあいをすること。書物を読むこと。情熱を持つこと。
これらのうちどの一つを欠いても、まともに考えることなどできないのだから。「漂泊者とその影」 213
ここは難ありだ。あたっているようでもあり、はずれているようでもある。まず、人づきあいが下手だったニーチェから「人づきあい」をせよ、と忠告されるのは、心外だ。別に人を避けているわけではないし、その通りだと思うが、やはりここは本人の存在を以て、その言葉の意味を発してほしい。
「書物を読むこと」。ここも難ありだ。ほぼ毎日一冊づつ、この4年間で2000冊以上の読書ブログをつけてきた当ブログとしては、「書物を読むこと」は反対はしない。しかし、今はそうであっても、いつかはパタッと読書をやめる可能性がある。
「情熱をもつこと」。これはこれでいいんじゃないかな。つまり人間としての生命力、生きてあることの根源だよね。熱くありたい。
さて、ここで上の「ニーチェの言葉」を自分なりに「哲学」すると、自分なりの言葉になる。それは「よく考えるため」ではなく、「より意識的であるために」という表題になるだろう。自らの中にとどまりなさい。自らを見つめなさい。そして、情熱的でありなさい。まぁ、こう言いかえたとしてもニーチェは、自分の言葉を、あいつは自分の都合のいいように作りかえた、と言って怒りはしないだろう。
| 固定リンク
「41)No Earth No Humanity」カテゴリの記事
- オバマ大統領がヒロシマに献花する日<3> 相互献花外交が歴史的和解の道をひらく(2010.08.26)
- 100文字でわかる日本地図(2010.08.26)
- 100文字でわかる哲学(2010.08.26)
- ヤフートピックスを狙え 史上最強メディアの活用法(2010.08.25)
- Twitterville--How Businesses Can Thrive in the New Global Neighberhoods(2010.08.25)
コメント