子どものケータイ 危険な解放区
「子どものケータイ」 −危険な解放区
下田 博次 (著) 集英社 2010/7 新書: 240p
Vol.3 No.0091☆☆☆☆☆
自分の思春期時代もなんとかやり過ごし、長じて授かった子供たちもなんとか成人するまで見守ることができれば、あとは、「子ども」のことを考えることからはしばしの間、解放されたい、と言うのが本音のところ。それこそ、孫でも生れれば、あと10年後には、この本に書かれているような問題を自らの問題として考えなければならない時代が来るかもしれないが、それまで、一体にこの問題は持ちこされているだろうか。
20世紀の末、1999年に登場したケータイは、21世紀に入りまたたくまに高校生活の必需品となった。PHSの3円より安い「一円ケータイ」という販売戦略もあって、子どもたちはケータイに飛び付いた。p53「パーソナルメディアの時代へ」
思えば、このケータイの波のもっともキケンゾーンから、わが家はややはずれていたと言える。高校生になったお祝いにパソコンをプレゼントしたが、ネット社会もそれほど爛熟の時代を迎えてはいなかった。ケータイも、クラスのほぼ「みんな」が持つまで待たせた。最後の最後、仕方なく預けたのは、やはり横並びにして上げたかったからだが、そこまで遅くしたのは経済的負担も考慮しての上だった。
私自身も90年代の中盤から10年ほどPTA活動に参加したので、人並みにその立場から教育問題も語れるが、むしろ私たちが当時やっていたのは、パソコン教室の導入推進の働きかけであり、インターネット導入、学校ホームページ作成、と言った、表の陽のあたる部分がほとんどであった。いずれやってくると想定された負に部分にはあまり考慮してこなかった、と言える。
その地図のないコミュニティ、あるいはS・H・アロンソンのいう「サイコロジカル・ネバーフッド(心理的近隣)」は、背伸びしたり、冒険したりしたい時期の子どもにとって、ある種の心理的解放区とも言うべき機能を果たしているのではないだろうか。そして当然のことながら、この解放区では彼ら住民しかわからない、つまり大人にはわからない言葉もはびこる。彼らは、ネットの繋がりの中で、ケータイ語と呼ばれるような、いわゆる若者言葉中心のコミュニケーション世界を作り出しているのだ。p97「携帯サブカルチャー」
わが家の子どもたちが中学生だった時代にはケータイはほとんど普及していなかったし、高校時代も、必要に迫られて短期間だけ持たせたという経緯があり、その後、高校を卒業したあとや成人したあとは、バイトで通信費を払っていただけに、こまかいことは言わなくなった。ただ、頻繁に連絡をとっているようではあったが、子どもたちの交友関係が見えないことには、ちょっとイライラしたこともある。
しかしながら、2010年の現在、多分、中学生のケータイ化はかなり進んでおり、必要に応じて、小学生ですらケータイを携帯している時代なのである。新たなる認識を迫られる。
子どものケータイ利用の責任者である親がしっかりしていればよいが、問題は保護者らのレベルである。例えば2007年から09年にかけて、我が子にケータイを与え売春を強要した保護者の驚くべき事件が各地で報道されるようになった。p179「子どものケータイ利用問題が拡大した理由」
自分の思春期や、我が家の子供達の思春期を考えても、あの晴れやかながらも「うっとうしい時代」である期間は、どうやってもキケンに満ちていることは間違いない。なにも現代の子ども達だけがキケンに陥っているわけではない。しかし、それにしても、この10年間でも大変動は、上の世代には想像することさえできなかったほどに激変している可能性がある。
言うなれば、ケータイは現代の思春期の子どもが手にした史上最強の遊びメディアなのである。もちろん最強のパワーを発揮するからには注意して使わせなければ火傷もする。リスキーなメディアでもあるのだ。この場合のリスクは、最強のメディアを使う子どもだけではなく、それを好き勝手に使わせる親、保護者にも発生する。そのことが、保護者ばかりかケータイの提供者である携帯電話会社の責任者にもわからなかったと言うのだ。p192「子どものケータイ利用問題が拡大した理由」
後付けの言い訳にもなるが、私自身がパソコン化には割合すんなりと妥協的なのに、ケータイに対しては、スマートフォンやらツィッターやら、新しいサービスなのになんとなく飛びつきたくないのは、暗にこのような背景があるからだ。どうも面倒くさそうな問題が広がっている。
我が国の携帯電話業界は、世界に通用しないガラパゴス化現象を呈していると言われるようになったが、子ども相手の眼先の利益を追う安易な商法を簡単に止めることもできないだろう。とりわけコンテンツ業界は、これまでの対応から見ても、健全化努力を名目にフィルタリングから外れるサイトを増やそうとするであろう。現実にもその傾向は強まり、この一年でEMAは認定作業の速度を上げている。p212「子どものケータイ問題、どうなる、どうする」
この本は、この問題にあたってきた専門家の話であるだけに、結論部分は実に説得力のある話になっている。あるいは、どう考えてもそれしかないよ、という結論がみちびきだされている。関係者はこの本を通じて、より実態を知ることを務めるとともに、横の連携を図ることが最重要視されるだろう。
とか言いながら、はてさて、私は、当ブログは、この問題の「関係者」であるのであろうか、なかろうか。言えることは二つ。
1)ネットで繋がっており、世代で繋がっており、地域でつながっている限り、子どもたちの話題は、私や当ブログと無関係なわけがない。
2)自分の思春期時代、我が家の子ども達の思春期時代とともに、未来の地球人たちの中核たる今の子どもたちの、現在まっさかりの思春期に対して、見守りの視線を忘れてはいけない。
具体的に何ができる、ということではないが、私には関係ない、という姿勢だけはやめよう。せめて、このような本にも目を通して、このような話題があるのだ、と認識し、せめてたまにブログなどにメモしておくことも、次なるなにかのきっかけになるかも知れない。
| 固定リンク
「41)No Earth No Humanity」カテゴリの記事
- オバマ大統領がヒロシマに献花する日<3> 相互献花外交が歴史的和解の道をひらく(2010.08.26)
- 100文字でわかる日本地図(2010.08.26)
- 100文字でわかる哲学(2010.08.26)
- ヤフートピックスを狙え 史上最強メディアの活用法(2010.08.25)
- Twitterville--How Businesses Can Thrive in the New Global Neighberhoods(2010.08.25)
コメント