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2010/08/18

からくりインターネット アレクサンドリア図書館から次世代ウェブ技術まで

からくりインターネット
「からくりインターネット」 アレクサンドリア図書館から次世代ウェブ技術まで
相澤彰子/内山清子/池谷瑠絵 2010/03 丸善 新書 172p
Vol.3 No.0104☆☆☆☆★

 この本もまた、アレクサンドリア図書館から始まる。「永久の哲学 ピュタゴラスの黄金詩」「アレクサンドリア図書館の謎」「触発する図書館―空間が創造力を育てる」、などなどで、当ブログにおいても定番化している登場ワーズである。最近のインターネット上の情報の集積は、古代アレクサンドリアの厖大な書籍に比較されることが増えてきた。

 しかし、古代において、いくら武力によって集められたパピルス本たちであったとしても、それはコンテナ化した「本」であったとしたら、それは燃えてしまえば、結局それまでなのだ。本来、図書館は「本」を集めるのが目的ではなく、「知」を集積することこそ本来の業務と言える。しかも、それは「知識」ではなく、「智慧」でなければならない。

 グーグルやそれに類する新興のサービスは、ことごとくネット上に情報をアップし、それを集積することに血道をあげているが、結局、コンテナとしての情報を集めるだけなら、計算上は、膨大に肥大化したコンピュータ群によって、この地球上は埋め尽くされしまうことになる。

 非公表ではあるが、すでにグーグルのコンピュータだけでも何百万台も存在しているとされ、そのコンピュータを稼働させるだけで、地球の温暖化に悪影響を与えている、とさえ揶揄されているくらいだ。

 実は現在のところ、多くのコンピュータにとって文章を「読む」とは、出現回数と単語の統計情報のリストを作成することに他なりません。文の中にある単語にはそれぞれ品詞があって、その語順や形容関係等があってはじめて意味を成すわけですが、コンピュータが「読む」時にはそのようなつながりを全部外してしまい、あたかもブロックでつくった家を突き崩して、単語というブロックのひとつひとつに分け、これを残らず一杯のバケツに入れるような具合に処理していきます。p75

 いくらアレクサンドリア図書館にいくら貴重なパピルスを厖大に集めたとしても、それを解読し、人生に活かす智慧がなければ、それはたんなる宝の持ち腐れでしかない。翻って、現代の情報の集積でも、単に情報や「本」を集めただけでは、単に集めてみました、ということだけになる。むしろ、厖大な情報に埋もれてしまう可能性もある。それを読み解く現代の「ミステッィク」の存在が絶対に必要なのである。

 このようなツールを使う際、やはり気になるのは、コンピュータがどれだけ意味をわかっているのか、どれだけ賢いのか、という点です。そこで、ある機械が知的かどうかを判定する「チューリングテスト」がという有名なテストがあります。p140

 チューリングテストは、茂木健一郎「意識とは何か」でも取り上げられているが、コンテンツ→コンシャスネスにおける、重要なチェック・ポイントであるが、現代科学においては、まだまだ十分な検討が加えられておらず、まともな研究結果も少ない。当ブログは、本来そのあたりへと進むべくコンピュータ科学周辺をうろついているのであるが、画期的な手掛かりは少ない。

 私にとってたいへん印象深く思われるのは、これまで人間が「知」であると思っていたものが、どうも変化しているのではないか、という問題です。検索エンジンの登場で、今ウェブ上にあふれているのは、ひとつひとつとしてはむしろさしたる価値のない個々の事例に過ぎません。従来、このような事例や具象物は「知」とは遠いものであったと言えるでしょう。「知」というのは、もっと抽象的で、さまざまな事例を包括する概念のようなものであり、そのようにして集積されたものを指していたはずです。

 ところがコンピュータによって導きだされる新しい「知」は、大量の事例や具象物(インスタンス)を重視します。この大量のインスタンスから、コンピュータは計算によって価値ある情報を抽出し、人間には発見できなかった新しい「知」へと到達しようとしているのです。このことは、最近注目を浴びている「データ中心科学」も同じ考えを共有しており、知の地殻変動を示唆していると言えなくもありません。

 このような新しい「知」をどのように評価していくのか、そしてどのように使っていくのか、未来にはさまざまな課題が待ち受けています。p150「ウェブが知識をつむぎ出す」

 ここで「知」と言われているものは、知識、智慧、情報、認識、理解、など、さまざまに受け止められる。なんであれ、1+1=2であるかぎり、それは科学であろうし、どこまでも膨大化してしまいそれは統計や平均値をとらざるを得ないような、実態のない空論となってしまう可能性がある。+1-1=0になるような、あるいは0+0=0になるような、無の方に向かう仕組みが出来なければ、コンピュータ科学はいずれモンスターサイエンスとして死滅していくことになりかねない。

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41)No Earth No Humanity」カテゴリの記事

コメント

☆setu
長文のレスありがとう。複数の掲載の場所があるので、どこにレスつけようか迷ったけれど、自分のブログへのレスへのレスをつけるのが一番全うなので、ここにお礼を書いておきます。
他の場所については、おいおい、意味的に、レスしていこうと思います。
基本的には、読書であっても、情報であっても、それは単にリーナス・トーバルスが言うようにJust for Fun が一番正しい人間としての生きる態度だと思います。「それが僕には楽しかったから」。これが唯一の価値基準なのだと思います。
当ブログはいつの間にか「意識をめぐる読書ブログ」を標榜しているけれど、私は読書が趣味の人間ではなく、むしろ「書を捨てよ街にでよ」派だったはず。
某巨大掲示板にしてもSNSにしても、他のネット遊びが一巡しちゃって、私にはどうも「楽しくなくなって」きてしまった。だから、ひとつの逃避先としてブログがあっただけなのです。そして、これは実は今もけっこう楽しいのです。
しかしながら、「もっと」楽しいことがあるはず、という思いから、次なる当ブログのカテゴリは「No Books No blog」をスタートさせようとしています。積極的な意味で「意識をめぐる読書ブログ」というスタイルを解体していこう、という試みです。
ただ「意識」についてはどうもまだ追っかけ足りないので、次なるテーマは「意識についての140文字ジャーナル」とでもしようかな、と思っています(笑)。
現在はtadanoriyokoo と yokoonoをフォローするのが楽しい。二人ともartistのせいもあるが、横文字にするとyokooつながりになるのが面白い。tadanoriyokoono.
なにかかにかのとっかかりは、その気になれば見つかるでしょう。just for fun

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
  
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

投稿: Bhavesh | 2010/08/19 07:27

最終的に「自分が良いと評価するであろう情報にたどり着くこと」ができたら良いわけですよね。

必要な情報にたどり着くのに、100冊の本に触れて30冊を読んで、そのうちの5冊の本が良いと評価されて、読むべきだったのは5冊の本の20パーセントのページだったりする。

コンピュータがスキャンすることが可能なら、自分で目を通さずに、それらのページにたどり着くことがしやすくなる。

検索エンジンというのが何かというと、人々のページに対する評価を、キーワードの検索結果に反映するってことです。

誰でもが同じページに書き込むことが出来ると言う点で、良い情報がウィキペディアに収束してゆく可能性があります。異端な情報ですら、異端であるコメントと一緒にだったら、ウィキペディアに置くことができますよね。

ツイッターというのも、そういう情報の整理や選び出しをするのに働いています。

「良いツイート」や「良いリンクを含んだツイート」は、たくさんの人に何度もリツイートされて、たくさんの人の目に触れて、さらに同じ人に何度も目にされたりします。

ちなみに、 http://twitter.com/toptweets_ja には、その時点でたくさんの人にリツイートされているツイートを並べてくれています。

「再放送、増幅、拡散」の働きは、ツイッターの命のひとつです。これが、革命のひとつです。マスコミを越える可能性をインターネットに提供しました。

たぶん、ツイッターを作った時には予想だにしなかった働きだと思います。

投稿: setu | 2010/08/18 23:17

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