ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する!
「ライフログのすすめ」 人生の「すべて」をデジタルに記録する!
ゴードン ベル (著), ジム ゲメル (著), Gordon Bell (原著), Jim Gemmell (原著), 飯泉 恵美子 (翻訳) 2010/01 早川書房 単行 392p
Vol.3 No.0093☆☆★★★
原題は「トータル・リコール」、完全記憶能力、と翻訳される。
記憶をなくしたくない。僕がほしいのは完全記憶能力だ。
大風呂敷を広げているのではない。技術の三本の流れ--記憶、保存、高度な検索--がすでにライフログ時代をスタートさせている。2020年までに、これらの技術の流れが合流し、トータルリコール技術が完成するのは確実だ。p47「来るべき世界」
いまから40年前近く、18歳でヒッチハイク80日間日本一周の旅に出た時は、叔父のドデカイカメラをバックパックに詰めていた。だが、旅の途中で使ったのは、24枚撮りのフィルム、ほんの数本。それでさえ、現像する金がなかったので、長い間フィルムのまま保存されていた。
23歳の時に、はじめてインドに行った時、20本ほどのフィルムとちょっと小型化した一眼レフを持っていった。でも結局、この時も、一年間の旅の割には、使ったフィルムはほんの数本だった。あまりにインドの風景に圧倒されて、カメラのレンズを通して記憶することなどアホらしい、と思った。全部自分の目でみて、自分の頭に記憶するんだ、と思った。
その後、子どもたちが生れて、はや20数年。この間の記録もたくさんあるが、一般家庭としてはやや少ないのではないだろうか。すくなくとも、ビディオカメラを担いで、運動会や発表会でカメラマンパパ化することはなかった。
もともとカメラマン・マインドがないのだろう。今でも、仕事上デジカメは手放せないが、実務上は小さなレンズのついた200万画素のケータイのカメラ機能で十分足りている。そして、数十枚撮影しても、不要になれば、即削除してしまう。
たしかに人生の全てが記憶されていれば、あの時の記録がもっと鮮明になるのに、という人生の中のいくつかのシーンはある。中学生時代に仲間と作った肉筆漫画誌(当然一冊しかない)を、仲間の母親がバックナンバー5冊とも、他の漫画本と一緒にチリガミ交換に出してしまったなんて、信じられない出来事だった。あれは戻ってきてほしい。
友人が、青春時代に大事にためていた作品ノートのごっそり入ったバッグを、電車の網棚に忘れてしまった。とうとう、戻ってこなかった、という話を聞いた時にも、がっくりきた。いずれ出版されるだろう、と期待していたのに、記録としては永遠に戻ってこなくなってしまった。
最近でも、愛用のノートPCにモーニングカップいっぱいのコーヒーをご馳走した時もめげた。ちょっと高めのPC本体の物理的損失だけでなく、中味のデータが使用不能になった。でも、こちらは、データのかなりの部分がクラウド化していたので復活可能だったし、そもそも、ぶっ壊れたはずのPCが、奇蹟的に半年後に復活したのだから、まずはめでたし。
ライフログを残すとは、デジタル化された物を無数に集めることだ。そして、その種類は多ければ多いほどよい。人は、人生を織りなす糸のすべてをたぐり寄せたいと思っている。休暇中に撮ったビデオ。あのスキー旅行で目にした雪景色。我が家で一番の毛布(つまりおばあちゃんの毛布)。高校時代につくった曲。バースデーカード。コンサートのチケット。あの大事な試合の、第3クォーターのここぞとう場面で父親が放った言葉。旅先の地図。レシピ。ほしいものリスト。パーティの招待客リスト。乾杯、称賛の言葉、そして赤ちゃんがはじめて口にした言葉。自分だけの大切な多い出の数々。p207「現世から来世へ」
人生の中では、記録したくないこと、思い出したくないこと、すっかり忘れてしまいたいこともたくさんある。それこそ人生をオールリセットしたい、と思う時だって、ないではない。人生そのものをデジタル化できる部分は多くなってはいるとは言うものの、全てがデジタル化できるわけではない。しかも、一部であるとは言っても、それを「無数」に集めることに、無批判的に賛成することはできない。
世界はすでに記録されることにあわせて変化しつつある。グーグルは、全方位カメラをルーフに搭載した車から路上の景色を撮影し、グーグルマップに加えた。p247「革命を生き抜け」
我が家などもまっさきにストリートビューされた。ほほう、と驚いたものだが、あれはあの瞬間の我が家でしかない。あの時の我が家の庭の風景は、いまではすっかり変わってしまっている。隣の家の洗濯ものだって、あれからずっと干しっぱなしになってしまっているではないか。記録、というより、一瞬の風景を固定化してしまう危険性が大きい。つまり虚像を生む。
馬に乗った人を轟音とともに追いぬいた最初の自動車のように、ライフログのある生活は現在の僕らにとって異質なものだろう。しかし、自動車と同じく、ライフログを拒絶したら、すばらしい利点をあきらめるとう代償を払うことになるだけだ。適応に大きく乗り遅れると、新しい技術の利用もうまくいかなくなる。p256「革命を生き抜け」
この辺はアーミッシュな人々を想定して言っているのだろうか。もちろん車がない世界なんて想定できない時代になっているが、車そのものも大きな変化を遂げている。すでに、轟音をたてる車も絶滅化しており、車のない生活を享受している人々も多くなっている。
未来の世代に自分の物語を伝えたいと思っているなら、デジタル版の墓や図書館のこともお忘れなく。p287「さぁ、はじめてみよう」
図書館のことは当ブログの主テーマであるが、デジタル版の墓は想定外だった。リアルな墓としては、近くのお寺の墓地に決めているが、なるほど、デジタル版の墓、ですか。もし予告なく長期間、当ブログが停止したら、その時は、ここを私のデジタル墓にしてもらおうかな。もっとも、余命何日か分かったら、ここで暗に告白していくしていくことにしよう。あるいは、本質的に、もうその準備をしつつある、ということになるのかな。
この本は、マイクロソフト社にかかわる人物たちが書いているので、へんなオプティミズムにみちた乾いた風が吹いている。乾いているだけでなく、ちょっと幼い感じもする。どうかすると、無機質な物質化の流れを感じる。コンテンツ→コンテナ→コンべアの、逆コースにさえ見える。ここからコンシャスネス論へと話の筋を訂正するのは、なかなか困難だ。
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