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2010年9月の34件の記事

2010/09/30

見直し以前の「いる保険」「いらない保険」の常識 基本の知識118

見直し以前の「いる保険」「いらない保険」の常識
「見直し以前の『いる保険』『いらない保険』の常識」 
清水香 2010/07 講談社 単行本 156p
Vol.3 No.0156 ☆☆☆★★

 ホケンを、英語力、FP(会計・財務)力、IT力の中の一つの要素として考えることができるなら、ホケンを考えることも、まんざら新鮮味がないとは言えない。

 人の死や火災、交通事故の発生率はだいたいわかっています。1年間に1人が死亡する場合、100人の加入者から1万円を集め、死亡した人に100万円の保険金を支払う-----話を単純化すると、支払った保険料と保険金の間のお金の流れはこんなふうになるのです。p101「支払った保険料は自分のために積み立てられていない?」

 この本の中で語られているホケンは、生命保険。生保ときたら、まずは一家の大黒柱の死亡リスク。これを考えないことには生保の意味がない。ただ、おひとり様が増加している現代においては、「大黒柱の死亡リスク」は減って来ているのだから、まったく生保は考えなくてもよい、という結論にさえなる。

 集めた全員の保険料が、死亡した1人に渡されるわけだから、保険に入ることは「助け合いクラブに入る」みたいなものです。自分が死亡すれば、他人が支払った保険料から助けられ、逆に他人が死亡すれば、自分の分はその人を助けるために使われる。こういうしくみだから、保険は加入後すぐにでも保険金が受け取れるのです。p101同上

 そもそも、講とか結といった集合性のあった社会においては、この相互の助けあいがあった。地域のだれかが死亡すれば、他の人々が少しづつ持ちあって、その人を助ける。もちろん、自分が不幸にあえば、地域に人々に助けられる。お見舞いであろうと、お祝いであろうと、「地域力」があれば、本来ホケンなどいらないのである。

 逆にそもそもホケンとは、この相互の助け合いなのだから、そこにビジネスや金もうけを持ち込むことは邪道なのである。しかし、人間界には必ずや、全う以外のことをやる奴がでてくる。その「地域力」だって、悪用されてこなかった、とは言えない。

 基本的には、この本は生保については極めて妥当な、基本的な基本を説明した一冊と言えるだろう。ネット生保だの、アカウント型生保だのと、なんだかめんどくさそうになっているが、ものごとは実はシンプルなのだ。めんどうくさそうにしているのは、それはまやかしでしかない。上げ底、過剰包装でしかない。

 この本、図書館においてのホケンジャンルでは最新に属する。「基本の知識118」となっている通り、実にシンプルで、実にわかりやすい。この本、10年前に出版されても正しかっただろうし、10年後に出版されることになっても、ほとんど間違いではないだろう。

 つまりホケンのなかの生保は、実は非常にシンプルで、すでに完成された世界だと言える。ただ、それを活用しようとする人間の方がかなり変化している。ホケンをどうのこうのいう前に、人間のライフスタイルがどうなっていくのか、どうあるべきなのか、そこのところを見つめておかないと、ホケンに振り回されることになる。

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ビジネス書 大バカ事典

ビジネス書大バカ事典
「ビジネス書大バカ事典」 
勢古浩爾 2010/06 三五館 単行本 334p
Vol.3 No.0155 ☆☆☆★★

 森健の「『脳の本』数千冊の結論」に匹敵する、本。なんて表現すればいいのだろう。注目本でもなければ、トンデモ本でもない。もちろん傑作とは言い難いが、無視して納得、という本でもない。書き手そのものには信頼がおけるが、その対象となったターゲットはジャンク類がほとんど。その、無視しきれないジャンク類に突っ込んでいった蛮勇と、そのお茶目なセンスには、ある程度の共感を持つ、という程度であろうか。

 ここで取り上げられている「ビジネス書」とやらは、当ブログでいうところの範囲とはかなり違っているようだ。そもそも、ここに取り上げられた100冊は、一般の公共図書館の開架棚に並んでいるような雰囲気からはすこし外れている。あえて、このような「ハズレ」本を読んでみた、ということだろう。

 本書では、まともなビジネス書への言及はそれほど多くない。9章と付録でいくつか触れるだけである。メインの対象は、いうまでもなく、ビジネス書「もどき」作家たちが書いた「もどき本」のほうにある。p002

 この本に取り上げられている本の著者は、その名前を当ブログに転写するだけでも、はばかられる人物が何人もいる。転写することは可能だが、個人的には、その名前で当ブログが検索されてしまうことを避けたい。

 ビジネス書を1000冊読んだ男がいる。水野俊哉という人である。著書は、「ビジネス書は面白くて儲かる最高のツール」だと思い、2008年の1年間で1000冊を超えるビジネス書を読んだということである。「儲かる最高のツール」というのは、水野がそれを商売ネタにして儲けようとしたということなのだろう。別に悪いことではない。わたしのこの本だってそうなのだから。問題はどんな商品(本)を書くか、ということである。p021「なんでビジネス書を読むの?」

 年間に1000冊読むことはそう難しいことではないだろう。当ブログでさえ、年間約500冊をめくっている。もっとも何を読むかであり、それをどうするつもりなのか、は個人差がでてくるだろう。当ブログはいわゆる「ビジネス書」を好んで読んだ形跡はないし、そもそもそのジャンルを避けてきた嫌いがある。そして、どうかすると、当ブログの読書は、書評でもなければ、精読でもない。ただ、めくって、その時に自分の中に浮かんだことを、個人的にメモしているだけなので、「読んだ」本について、一行も書いていない時もある。

 かれの多くの本の表紙には本人の顔写真が載っていて、若き日の佐藤蛾次郎みたいな顔をしているが大丈夫か、とか、「頭の○○が○倍速くなる」なんてインチキくさいことをいっているが大丈夫なのか、という懸念はあるが、ともかく読んでみないことには始まらない。p068「恐るべき三人のつわもの」

 この人物の名前をここに記すほどの蛮勇は私にはない。なぜか知らないが、当ブログのコマーシャルにくっついていたりする。とにかくヘンである。私も「間違って」立ち読みしたことがある。ヘンだなぁ~と思いつつ、現在では、この「若き日の佐藤蛾次郎みたいな顔」を思い出すだけでエナジーがダウンする。

 よくわからない男が二人いる。名前を佐藤○人と小林○観という。知っている人のなかには”信者”のように入れ上げている人もいるようだが、知らない人はまったく知らない。p144「胡散くさい二人の導師」 「どこかヘンな二人」

 この周辺の名前も当ブログに記すのも、はばかられる。よく知らないし、よく知ろうともしない。ただこの辺の本をまことしやかに読んでいる知人たちの顔を思い出すと、なんだかなぁ、という思いに常に駆られる。

 これも勝間なりにがんばって書いたのはわかるが、結局「英語と会計とITは、年収を上げていくための最大必須スキルです」ということに尽きていて、それが直接「年収10倍アップ」に結びつく保証はまったくない。p195「その場しのぎの一姫二太郎」

 当ブログとしては、勝間については、あえてここでまた引っ張りだしてくる必要も感じないが、この英語と会計とIT、という取り合せが面白い。浅枝大志「ウェブ仮想社会『セカンドライフ』」の中でも、「英語力」「財務力」「ITスキル」が語られていた。これプラス「創造力」というあたりがSFならではの矜持だが、まぁ、結局、言うことはそれほどみんな変わるものでもない。

 なにをもってビジネス書というかはともかくとして、こうしてみると、むしろ新書本のほうが、真面目でためになる本が多いのではないだろうか。ほんとに「もどき本」が多いのはびっくりするが、当ブログはこの本の著者のように、100冊とか追っかける気は、今のところはない。

 ビジネス書「もどき」に拉致されないための「7つの習慣」

1)タイトルに騙されない

2)能書きに騙されない

3)著者の経歴に騙されない

4)何十万突破、に騙されない

5)活字(本)に騙されない

6)ブックレビューに騙されない

7)自分の価値観を持つ  p226

 まぁ、ここんところを抑えておけば、間違いはないだろう。当たり前のことであるが、たまにこの当たり前の道理が引っ込むから、無理が出張って来ることになる。

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「保険完全ガイド」保険辛口ランキング50

保険完全ガイド―保険辛口ランキング50 (100%ムックシリーズ)
「保険完全ガイド―保険辛口ランキング50」
100%ムックシリーズ 2010/9 晋遊舎 大型本: 97p
Vol.3 No.0154 ☆☆☆★★

 保険というキーワードでトラックバックが来た。いまいちピンとこない。いつもなら、他のジャンク・トラックバックといっしょにすぐ削除するのだが、今回はなんだか、反応がにぶい。そのページそのものはまともそう(よく調べてない)なせいもあるが、なぜに私はこのキーワードが気にくわないのか、すこし考えてみることにした。

 地域ネットワークの公共図書館を検索してみると、「保険」関連は数千冊でてくる。かつての「チベット」や「ネイティブ」などの比ではない。年間500冊程度の読書量でしかない当ブログでは、5年かかかるか10年かかるかわからない本が山積みになっている。

 そのうちのタイトルをいくつか拾ってみると、これがまちまちで、とてもとてもまともに「読書」することはできない。「保険」では、あまりに範囲が広すぎる。検索パソコンでさえ、「1000件を超えましたが、これ以上検索しますか?」とあきれ顔だ。

 本屋に行ってみると、これがまた、「保険」本がいろいろある。あ~、これ以上、読みたくない、という本が山ほどある。タイトル自体が吐き気を催させる。そんなに嫌いなら、近づかなければいいじゃないか、と思う。だが、なんだか、この数日の私は違った。

 「神智学大要」を読み進めるにあたって、「あちら」にあんまり引っ張っていかれたくない私は、同時並行で「コンドームの歴史」を読んだ。「こちら」になんとか足がかりを残しておきたかったのだろう。その試みは成功したようでもあり、失敗したようでもある。どちらの本もそれなりに面白かったのではあるが、ホントにタイムリーな「ベスト本」ではなかった。

 当ブログは現在「No Books No Blog」から「メタコンシャス--意識を意識する」へと、変遷していく過程にある。より物質性、より具体性を消去していこうとする過程にあるのである。しかるに、その道も必ずしも順調と言い難い。もちろんその方向に進んではいるのだが、なぜか足止めをする声が聞こえてくる。

 酒をやめようと思うと、やたらとスルメが食いたくなったり、ダイエットしようとすると、コーヒーに入れる砂糖が増える。なんぞ、マーフィーの法則とやらが働き始めるのかもしれない。メタコンシャスに突入しようとすると、より現実な、より下世話な「保険」が騒ぎだした。沈思黙考。これも悪くないか。避けようとしてもいずれでてくる。ここは、どんと対決してやろうではないか、(と一度は決断してみたが、本当は腰がそうとうに重い)。

 十数年前、子育て真っ盛りのころ、わが家の保険を洗い出してみた。当時、核家族4人の暮らしの中に存在した保険証券は30枚。ほう、と思いはしたが、ひとつひとつ洗い出してみると、まぁ、このくらいになるのかな、という当たり前の数字だった。

 まず、車の自賠責。この保険に無縁な人はいない。車を持っていなくても、被害者になれば、自分で被害者請求できる。そして当然、自動車保険。付帯率100%とは言わないまでも、任意保険に入っていない車に乗っている奴とは友人にはなれない。助手席に乗っていたりして、事故に遭えば、目も当てられない。

 マイホームを持ったばかりだったから、金融公庫の生命保険に強制的に加入させられた。もちろん、地震保険はともかくとして火災保険も入らせられる。しかも質権設定の上、万が一、事故にあった時は、金融機関が優先に取り分を取ってしまう。

 子供たちが成長していくと、将来的な学費などが心配になる。大体、子どもが中学、高校の頃は、どの家庭でも収支は赤字になる。そのためには、学資保険でいくらかでも準備しておく必要がある。子供は病気はしないまでも、けがはするので、傷害保険は必要だろうし、賠償責任保険も特約でつけておく必要がある。

 子供に自転車を買ってやれば、自転車屋で自転車保険に加入し、パソコンを買えば家電店でパソコン保険に入った(もっとも、これは純粋な「保険」ではないが)。運動会やイベントがあれば、その日限りのイベント保険があり、たまに海外旅行にでも行けば、旅行代理店は、旅費の一部として海外旅行保険をセットして勧めてくる。

 年齢も40を超えると、いろいろ同級生の訃報も聞こえる時代になった。ガン保険は必需品だし、安いよね。だったら、医療保険は大丈夫? 子供達だって、いつかは旅立っていくのだし、老後のために、個人年金保険を考えておく必要があるでしょう。公的介護保険だけではカバーできない部分は個人で介護保険を補強して、ましてや積立にでもしておく必要があるのではないですか。

 これに、健康保険やら国民年金やら日本版401Kやらを考えると、一家4人暮らしのなかに30枚の保険証券があることなど、当たり前なのであった。これを一律にまとめあげることなど、通常のシロートには無理。どうかすると、専門家でも徹底してやっている人は少ない。もともとやっても意味のないところがある。不確定要素が多すぎたり、ひとつひとつの強弱が一様ではないのだ。

 つまり、メインは昔からの三本柱だ。一つは、一家の大黒柱が倒れた場合の生命保険。これは基本的に定期でいい。子育てが終わって、住宅ローンが払い終わるまでに見合う保険金が、亭主が万が一倒れた時に入るようにしておけばいい。

 二つ目は、火災保険。最近、地震保険もクローズアップされているが、とにかく、なんらかの理由で住宅を失った場合、ローンだけが残る愚は避けたい。家財保険だの、その他の細かいリスクはあることはあるが、考えたらキリはない。

 三つめは、自動車保険。マイカーを持っていない人もいるし、もともと保険料を払うことを避けるためにマイカーを持たない人もいる。レンターカーの方が税金などを考えても安い、と言う人もいるが、マイカーが2台、3台あることを前提として家を建てているひともいる。

 まずはこの三つが満たされていれば、基本的には合格ラインだ。ここをカバーするには、ベーシックには月1万もあれば、なんとできるだろう。しかるに、通常、核家族4人暮らしなら、月3~5万以上の保険料を負担している。積立や強制など、一様ではないが、それなりに負担ではある。

 スマートフォンを一台増やすのに、負担は、月大体6000円。安いか高いかは個人差があるだろうが、決して、すぐ手が出せるものではない。来月から止めてしまおう、と簡単に考えられる金額ではない。新聞だって、月3000円を払いたくない人たちがたくさんいる。(NHKの負担だって、なんとかして逃れている人もいるらしい)。

 車だって、ハイブリットとか言っているが、燃費のカット分などそれほど大きくない。月8000円の人が、せいぜい月6000円になる程度のものだろう。せいぜい2000円のメリットのために、高額なハイブリット車を購入したりしている。(車は趣味性の高いものだから、誰がどんな車に乗ったとしても自由ではあるが)。

 さて、保険はどうだ。月3~5万。場合によっては、積立型や終身タイプだったりすると、年間100万円以上。一生涯にすれば数千万円を支払うわけだから、これに無関心でいなさい、という方が無理なのだ。なんとか、このジャングルを走破して、概要をつかんでおかないといけない。

 だが、その割には、全体をつかんでいる人など、ほとんどいない。つかめない、と言ってもいいほどだ。そんな思いが、書店の「保険」コーナーに足を運ばせ、百年一日のごとく、ほとんど同じような内容の「保険」本が、何冊も何冊も毎月毎月並び、五月雨式に、気まぐれな客が購入していくのである。

 はてさて、当ブログにおける「保険」シリーズ、どこまでつづくだろうか。すでに初回でバテぎみである。続かない可能性は50%。だけど、つづく可能性も50%。先日、店頭で目についた「保険ランキング50」を衝動買い。580円というお手軽価格がいいし、なんとなく、目新しそう。

 「本当に入って大丈夫? ネット保険完全ガイド」などのタイトルが目につく。ネクスティア生命、なんて会社名を始めて知ったが、これはもともとはSBIアクサ生命として2年前に始まったばかりだ。それなのに、さっさとSBIは手を引いて、現在の名前になった。アクサと、ソフトバンクインベストメント(SBI)の名前を聞いただけで、その会社の成り立ちが分かるが、その会社がネット生保に特化しているというのが、いやはや、という感じがする。風聞被害の加害者になりたくないので、コメントはしないが。

 片一方のライフネット生命は、元日本生命の社長が転身したとなっているが、こちらもよく調べてみないと何とも言えない。そもそも欧米で数割、アメリカで1割とされている保険通販も、日本ではほんの数パーセントで推移しており、このネット生保とやらがどれほど伸びていくのかは、未知数だ。

 そして、営業社員だろうが、代理店だろうが、ネット販売だろうが、それは販売の入り口のところであって、「保険」商品の、根幹の部分に大きな差はないはずなのである。ただ、人によってはその「差」の意味が違う。らくらくホンだってスマートフォンだって、ガラケーだって、基本、話ができればそれでいいはずなのだが、それではケータイ話はできない。一体全体、今の世の中、「保険」に何を求めているのだろうか。

 「入っちゃいけない!ダメ保険実名掲載」なんてところでは、いわゆる日本社のアカウント保険などがメッタ切りされているが、さもありなん、と思う。カタログや店頭で比較検討できない保険商品ではあるが、そもそも販売する段階において、比較販売が禁じられているのである。ましてや、この本の掲載記事をコピーして渡したりしたら、その販売員は首になる(だろう)。「専門家50人が決定!」とかいうものの、何を持って「専門家」というのやら。

 なかなか不透明なこの「ホケン」商品。携帯電話をケータイと言い慣わすようになったように、ちょっと幅広く、ちょっと新しめな意味も込めて、当ブログではホケンと、概括的に表現することにする。はてさて、どこまで続くのやら。

つづく・・・のかなぁ・・・・・。

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2010/09/29

日本のITコストはなぜ高いのか? 経済復活の突破口は保守契約の見直しにあり

日本のITコストはなぜ高いのか?
「日本のITコストはなぜ高いのか?」 経済復活の突破口は保守契約の見直しにあり
森和昭 2009/09 日経BP企画/日経BPマーケティン 単行本 207p
Vol.3 No.0153 ☆☆☆★★

 1940年生まれの70歳。その名も「日本サード・パーティ株式会社」の代表取締役というお人。なかなか元気がいいし、妥当性がありそうでもあり、自らの社員を鼓舞するためのPR本のようでもある。

 かつては国内の損害保険会社が市場を独占していたために、供給サイドの思惑で保険料が設定されていた時代がありました。その後、1996年から始まった金融ビッグバンに伴う規制緩和によって、海外損害保険会社が次々と参入し、年間の走行距離に応じた保険料の設定や、多種多様な無料付帯サービスの提供など、保険契約者が納得のいく、安価な保険商品を日本市場に提供し始めました。

 これにより必然的に、それまで無風状態だった日本の自動車保険市場にも競争原理が働くようになり、ユーザーに選らばれるための保険の開発と価格の適正化が進み、今日に見られるような健全な競争市場が確立したのです。p33

 この方、最初から最後まで、ITサポートのコストと損害保険を比較しながら、その違いを述べ、いかにITサポートのコストを下げるかに論旨を展開する。内部のことをよく知っている人だから語れる部分と、内部のことを知っているからこそ、言いくるめてしまうことができる部分がありそうで、なんだか眉唾の部分もある。

 そもそも日本の損害保険の状態が「健全な競争市場」になっている、という認識は正しいであろうか。当時30社以上あった損害保険会社は、合併につぐ合併により、10年後には結局はメガ損保三社に絞られてしまったではないか。つまり、競争するためには、それだけの食欲のある強者しか生き残れないのだ。

 一人はみんなのために、みんなは一人のために、というそもそもの相互扶助の思想に支えられていた損害保険は、一社一社さまざまな歴史を持っており、それぞれが個性的な歴史を持っていた。それを一緒くたにしてしまったのは、ある意味では金融ビックバンの悪弊なのである。

 ましてや、「次々と参入した」とされる海外の損保会社などもともとチェリー・ピッキングで美味しいところ取りしただけで、全体を考えるような公共性の高いサービスを開発したことなどなかった。「多種多様な無料付帯サービス」など提供したことなどなく、もともとの保険料の中に含まれているのである。無料でなどであるはずがない。

 むしろ、いろいろ特約や差別化によって、市場の原理が混乱し、結局はコストが高まり、保険料は相対的に上昇しているはずである。それを圧縮するためにリストラをくりかえし、販売ルートをいじくりまわすことによって、顧客も混乱しはじめている。

 「年間の走行距離に応じた保険料の設定」など、むしろモラル・リスクを生みやすく、そもそもそれを性格に測定することなどできない。結局は、各社、その特約の名残りはあったとしても、単なるデコレーションのひとつにすぎない。

 つまりは、海外損保の参入など、牧場に飛び込んできたネズミ一匹に、牛たちが大騒ぎして、お互いに角を突き合わせて、パニックに陥ってしまっている状況によく似ている。あれだけあった特約も結局はシンプル化の方向に戻っているし、保険料の個別化とはいうものの、結局は「大数の原理」が保険料の基礎であれば、各社にそれほどの違いがあるわけはない。

 結局は、崩壊した損保会社などは、本業の失敗ではなく、慌てた上層部が、本業以外で儲けようとして投機筋に走り、つぶれたのだ。9.11で崩壊した日本の保険会社など、本業に専念していれば、何の問題もなかったのではないか。すくなくとも、金融ビックバンで、日本の損害保険におけるサードバーティ勢力は一掃されてしまった。

 しかし残念ながら、日本のIT保守市場には、欧米のIT保守市場のような健全な市場形成はありません。ある省庁では、国内大手ITメーカー6社によって、約100のシステムが分担されていて、各社とも他者のシステムへの競合参入を行わず、暗黙のうちに「既得権」として自社が導入したシステムを守り続け、当然のことながら運用・保守業務も競争にさらされることなく受託し続けていると言われています。先に挙げた自治体の例と同様に、必要以上に多額の運用・保守費が支払われている恐れもあるということです。p33

 本書は企業や公共団体、事業所におけるITコストについて書かれているわけなので、個人ユーザーの立場とは違うが、本当に公共団体のITコストをカットすることを考えるなら、オープンソースを活用したボランティア活動などを組み合わせたスタイルを推進するほうが妥当性があるように思う。本書は、結局は、大手サービス会社を渡り歩いたその道の猛者が、大手から飛び出してサードパーティな会社を立ち上げ、大手からから仕事を隙間産業的に奪い取ってこようとしているだけなのではないか、と、うがった見方をしてしまう。

 なぜ日本のITコストは高いのか、を理解するには、本書はすこしは役に立つ。なるほどそういう見方もあるのか、そうだったのか、とその道のプロに話しをうかがうことは大切なことだ。しかし、「コスト高」=悪、と決めつける姿勢は正しいだろうか。デフレ・マーケットは行き着くところまで行きついている。むしろインフレに市場を導こうとする案さえ真面目に検討されている。

 著者が絶賛した損害保険業界は、むしろこの何年かは保険料の値上げに向かっている。今の状況が続けば、まだまだ値上がりしていくだろう。それはリストラが不足しているとか、努力が足りないという問題ではない。むしろ健全に成長するには値上げさせるしかない、という状況に至っているのである。

 この本一冊においては、いわゆるITサポートコストについて書かれているのであり、その業界について詳しい著者のさまざまなリポートは興味深いことがたくさん書かれている。しかしながら、「経済復活の突破口は保守契約の見直しにあり」と、一点突破する姿勢には眉唾にならざるを得ない。それは自らの「サード・パーティ」勢力に仕事を運んでくることになるかもしれないが、全体のことを本当に考えた結果だとは私には思えない。

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2010/09/28

電子出版の構図 実体のない書物の行方

電子出版の構図
「電子出版の構図」 実体のない書物の行方
植村八潮  2010/07 印刷学会出版部 単行本 275p
Vol.3 No.0152 ☆☆☆★★

 当ブログにおいても「Kindle解体新書」とか「キンドルの衝撃 」へのアクセスは飛びぬけて多い。世は電子書籍とやらへの関心がピークに達しているようにも見える。アクセス数だけを稼ぐつもりなら、この話題をずっと引っ張っていくのは、極めて効率的であるようだ。

 ただ電子出版の歴史は、必ずしもこの数年、空から降ってきたようなテーマではない。すでに10年、20年の単位で歴史が続いており、しかも、必ずしも成功譚に満ち満ちているわけではない。ある意味では、思考錯誤の連続であったということもできる。

 この本は、株式会社印刷学会出版部が発行する「印刷雑誌」に1999年~2010年に連載された記事をまとめたものである。あまり聞かない名前の雑誌だが1918年(大正7年)創刊の90年以上の長い歴史を持つ業界誌ということになっている。

 せんだいメディアテークは市民図書館であるとともにギャラリーやスタジオなどを備えたメディア参加型施設である。伊藤豊雄設計で、チューブと呼ばれる鋼管がフロアを支えるデザイン志向の強いユニークな建物である。地階には針生(英一)さんらの働きで活版印刷機と鉛活字をそろえた「工場」がある。市民が参加できる活字組版のワークショップも開かれている。活字組版を知らない編集者も増えており、見学会のメインイベントとなった。p74「コンテンツとオンデマンド」

 編集、印刷、出版、となれば、実に長い長い歴史ストーリーが続いてくることになる。この数年、あるいは、この数カ月、一気に噴出したかのような電子出版の話題ではあるが、実は、長い長い物語の、ごく最近の目立った話題でしかない。

 キンドルだ、アイパッドだ、と、やたらと景気のよさそうなニュースにつられて、つい衝動買いしそうになるが、この本を読むと、少なくともこの10年間の出版を取り巻く状況が理解できるし、また、書籍にまつわるインターネットの世界、そして、現代人の嗜好性、あるいは、日本やアメリカを代表とする各国の出版が置かれている状況の違いが見えてくる。

 この本を読んでいると、はやる気持ちがだんだん鎮静化してきて、落ち着くのやら、意気消沈するのやら、ちょっと出鼻をくじかれるような気分になるが、やはり、ここは一歩退いて、よくよく状況を理解しておかなくてはならない。

 「電子出版元年」というように何度となく「元年」が繰り返されており、いつの間にか潮が引くようにブームは去っている。2010年における電子書籍ブームが既視感にとらわれるのは、まさに繰り返されてきた扇情的言説がまた聞こえているからである。冷静な状況判断をするためにも、この12年を振り返ることが少しでも役立てないか、それが本書を執筆順とした積極的な判断である。p270「あとがきにかえて」

 「電子出版」に対する関わり方はさまざまあろう。単に一読者でしかない人もおれば、出版会を長い間の住処として来た人もいる。IT産業の一分野としか見ないマーケッターもいるだろうし、自らの職場が奪われるかもしれないと危機感を持つ書店関係者もいることだろう。

 しかし、この本を読むと、「革命」だの「衝撃」だのとお祭り騒ぎのわりには、電子出版は地味で、難解で、簡単に解決できない問題をたくさん抱えていることが分かるだろう。長いスパンの中で、じっくり電子出版を見つめてきた人ならではの視点が、キラリと光る。

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2010/09/27

最近どうもついていけないという人のためのIT入門

最近どうもついていけないという人のためのIT入門
「最近どうもついていけないという人のためのIT入門」
牧野武文 2010/08 毎日コミュニケーションズ 新書 207p
Vol.3 No.0151 ☆☆☆☆★

 この本の程度の内容ならなんとかついていけそうだ。ここに掲げられた百数十のキーワードのうち、だいたい9割はなんとか理解できる。1割は分からない。分からなかったが、なるほど、このように説明されれば、ほぼ、その意味が分かる。

 さて、その内容を、例えば、わが家の奥さんに私が説明しようとすると、はて、どの程度伝えることができるだろう。自分では理解しているつもりになっているのと、他人に伝えることができるほどに理解している、ということにはかなりの違いがある。

 この本に書かれているキーワードも、分かっているつもりだったが、実は、このように易しく解説されてこそ、そうそう、そうだったよね、と再確認していることが多い。本当はよくわかっていない。最終的には、自分の目的にあった風にITが使えていれば、それでいいじゃないか、ということにはなる。だが、激変の中で、将来的に、どの方向に、どの選択肢を選んでいくか、となると、やはり将来を見据えた全体的なざっくりとした理解は進めておかなくてはならない。

 孫氏の主張の中心は、従来のアナログ電話回線を廃止してしまうことにあります。現在の電話回線の維持費は年間3900億円かかっており、今後10年で光ファイバーだけにしてしまえば、電話回線の3.9兆円の維持費に対して、光ファイバーでは2.5兆円ですむという考えです。p28

 わが家でも、最近完全に光に切り替えた。この10年ほどは、光とISDNが並列的に存在してきたので、無駄なロードがかかっていた。接続機器やサービス内容の進展にともなって、ようやく完全光化が完了したので、通信経費は半分となった。

 海外ではSIMフリーというのは一般的であるものの、アイフォーンのような高機能で人気のある機種では、事実上のSIMロックが行われるようになっています。海外においても高機能ケータイを購入するには、かなりの負担が必要になるので、日本が今まで行っていた「本体を0円で、通話料で回収する」というビジネスが採用されはじめているのです。p33

 ガラパゴスと揶揄されがちな国内ケータイではあるが、へぇ、なるほど、海外でもそういう動きがあるのか、と驚く。ITジャーナリストの今年8月発行の本であるから、そう間違ってもいまい。

 フェイスブックにアクセスするだけで、あなたの友人の近況が一覧できるのです。ミクシーとツイッターの両方を使っている人であれば、「ミクシーとツイッターのいいとこ取りをしている」と言えばピンとくるでしょう。p42

 ピンとはくるが、それらを峻別して活用できるかどうかは、そのサービスの向こうにどれだけの「友人」が存在しているかによる。ミクシーもツイッターも、ましてやフェイスブックも使っていない、わが家の奥さんなどに説明することはほぼ不可能であり、そもそも説明することが無駄である(かも・・・)。

 中には「どうもデジタル機器には才能がないようだ」と自分を責めている人もいらっしゃるかもしれません。でも、それはあなたが悪いのではなく、インターフェースが悪いのです。p94

 いまやキーボードとマウスがないければ、パソコンの仕事ができない状態だが、そもそもタッチタイピングも相当努力して習得した技術であった。いまだにタッチパネルはうまく使いこなせない私などは、マウスがなければ仕事にならない。だが、しかし、よく考えてみれば、マウスでできることはキーボードから操作できるのであった。慣れてしまった環境は当たり前と思ってしまっている自分が恐ろしい。

 たしかに、パソコンからマウスとキーボードを削除してディスプレイ画面からだけ入力するというスタイルは「新しすぎる」のだろうか。「先進」と思っていたが、むしろ、それが当たり前だったりするのかもしれない。最近、代替えしたわがガラケーも、パネルからタッチする作業が多いのだが、これはあまり慣れていない。そのために、わざわざ、フルキーボード付きのスタイルを選らんでいる。

 スマートフォンはインターネットにアクセスするのに携帯電話通信網を使ってパケット通信を行います。この通信量があまりに多くなりすぎて、世界中の携帯電話会社で頭の痛い問題になっているのです。設備を拡充しないで放置したら通信の遅延が起こったり、最悪の場合は通話もできなくなったりという事態になりかねません。p194

 一般ユーザーとして単純に感じていることは、実際には専門家の間においても大問題だったりするわけだ。「インターネットは誰のものか」に通じる大問題ではある。

 本来はSMSとMMSを使えば、携帯電話のメールは実に便利に使えます。ところが、日本ではインターネットメールが使えるiモードが早くから普及したために、SMSとMMSは携帯電話についているオマケ機能程度にしか利用されなくなってしまいました。p198

 技術は進歩しているようで、単純に直線的に進歩していないところが、悩ましいところだ。進化の過程で、ここが最先端、と安心していると、実は枝葉の端っこに追いやられていて、実は本流はまったく別なところに流れていた、なんてことが頻発する。

 国内ケータイがガラケーと揶揄される所以ではあるが、力関係が逆転していれば、ガラケーこそがグローバルIT進化の本流であった、なんてことは当然ありうる。まったくグローバル経済に対する日本経済の低迷がうらめしく思える。

 WiMAXは現在考えられている規格では、一つの基地局の電波が最大50kmまで届く可能性があります。すると、半径50km以内の人はアンテナを立てるだけでインターネットが使えるようになるので、一軒づつ回線を引くよりも安上がりです。p202

 この辺あたりはもう、「最近どうもついていけない」という一般ユーザーが考えるような内容ではないが、進化は進化として、そのような方向にあるのだ、というニュアンスだけはデリケートに感じていたい。

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2010/09/26

ユニオ・ミスティカ 神秘の合一

ユニオ・ミスティカ―神秘の合一
「ユニオ・ミスティカ」 神秘の合一
OSHO (著), スワミ・プレム・マニック (翻訳) 市民出版社 単行本: 474p
Vol.3 No.0150 ☆☆☆☆☆

 先日よりチラチラとこの本を読んでいる。例によって彼の本は一気には読めない。休み休み、忘れた頃にまた読み出す。どうかすると、以前読んだところに戻って読み始めている。それに気がつかない自分も自分だが、読み返してみると、なるほど、そういう意味であったか、と後で納得することも多くある。

 逆に、何度読んでも意味不明なところもある。そんな時は、翻訳が悪いのだろう、と他人のせいにする。あるいはここはOshoの勘違いだな、とひとまず片付けておく。時代が時代だ、1978年という時代性を考えて読まなければならないだろう、と、いろいろ自己解釈してみる。

 それにしても、Oshoの本は特徴的だ。一旦Oshoの世界に入ると、他の本が目に入らなくなる。あるいは、他の本を読んでいると、なかなかOshoの本に戻れない。一体なんでだろう、といつも思う。

 その一つの要因は、Oshoは「マスター稼業」をしているからだ。すべての彼のメッセージはその立場からのメッセージだ。芭蕉や山頭火のような一人旅して、そっと出てくるような小さな詩ではない。もちろん、どこかの有能な政治家のような雄弁な、大衆を圧倒するようなパワフルなメッセージでもない。しかし、それは、彼が「あなた」に語りかけるメッセージだ。

 覚者として、その意識へ至らんとする探究者へ向けた、誘いのメッセージだ。そのカテゴリで言ったら、まさに現代におけるピカイチの存在であると思う。まず、覚者として話す。話す相手は、その存在の手掛かりをつかもうとする「あなた」に対してだ。

 彼の本、彼の講話は、それ以上の意味はない。もし彼が覚者として自らの意識の状態にとどまろうとすれば、そもそも語りも講話も本も必要ないことになる。彼は、自らの沈黙をキープしつつも、あえて「あなた」へ語りかけることに全エネルギーを注ぐ。

 「あなた」と呼ばれた私は、もしその「マスター稼業」がうっとうしいなぁ、と思ったら、その本を閉じなければならない。ひたすら、彼の沈黙と、私の沈黙が、ひと連なりのものであることを確認できれば、それはそれでおしまいなのだ。当ブログが現在「No Books No Blog」カテゴリを進行中なのは、そこのところにポイントがある。

 合理性は、物質について知りたいのなら良いものだし、それで充分だ。しかし、あなたが意識について何かを知りたいのならば、全く無能なものとなる。合理性は丈を測ることはできる。しかし、意識は計測不可能だ。合理性は重さを量ることはできる。しかし、意識には重さはない。合理性は見ることができる。しかし、しかし、意識は見えない。

 合理性はその下部としての五感を持つ。しかし、意識はその五感の背後にある。あなたはそれに触れることはできない。嗅ぐことはできない。味わうことはできない。聴くことはできない。それを診ることはできない。

 それは外側に向かって聞いている感覚の五つの窓の背後にある。あなたは陽光を見ることはできる。しかし、自分の眼であなたの内側の光を見ることはできない。あなたは鳥が歌うのを聞くことはできる。しかし、あなた自身のハートが歌っているのを聞くことができない。p23「ハートの鏡を磨く」

 メタコンシャスと言い、意識を意識すると言う。次なるカテゴリ名はこれに決まりだ。だが、一旦、そのように当ブログの方向性を決めてしまった場合、その後、当ブログはどのように展開するのだろう。聞くこともなく、語ることもない世界へ。見ることもなければ、表現さえできないステージへ。まさに未知なる世界を超えて、不可知の世界へと足を踏み入れる。その準備はできているのだろうか。

つづく、だろう・・・。

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2010/09/25

ルポ現代のスピリチュアリズム<1>

ルポ現代のスピリチュアリズム
「ルポ現代のスピリチュアリズム」 <1>
織田淳太郎 2010/03 宝島社 新書 239p
No.0149 ☆☆☆☆★

 だいぶ涼しくなってきたので再開したウォーキングのついでに書店で立ち読み。十数年ぶりの知人と出会いびっくり。なんだか懐かしい気がしていたのだ。この本も、タイトルからすると、ちょっと最近の私なら敬遠したくなるようなタイトルだが、新書という手軽さもあってパラパラめくってみた。

 だが、いきなりOshoのことが引用してあったので、しばらく足を止めて読みふけった。著者は1957年生まれでスポーツ関係などの著書が多い。必ずしもスピリチュアル関連が専門ではなさそう。だが、ミニコミ時代の「存在の詩」からのOsho読者でもあるようだし、その出版社めるくまーる社関連についての記述があり、ほう、と思った。

 和田(禎男)氏は長年連れ添った家族との決別の意を固めた。終の住処としてベトナムに移住することを決めた2008年4月から池袋の外国語学校でベトナム語を習い始めた。当地での日本語教師の資格を取るためだった。「年金も多少入るし」。67才の和田氏は柔らかく笑った。p16

 私は会ったことはないが、関係者からは幾度となく話題としては聞いていた。その彼の近況としてこのような話題に触れるのは、なんだかとても懐かしい感じがした。この本、巻頭から巻末まで、要所要所でOshoが引用されており、関係者にとっては興味深い一冊ではあろう。

 もちろん、その他、いわゆる日本や世界の「スピリチュアリズム」についての著者の雑感がまとめられており、ひとつひとつのエピソードにそれほど関心がなければ、「ルポ」とは言え、おざなりな一冊と言える。

 むしろ、私なら、こういう他者といっしょの括りでまとめてほしくないな、という場面にも出会ったので、あちこちは飛ばし飛ばし読んだ(なんせ立ち読みだし)。ざっとこの3~40年の出来事を、ひと連なりに概観すれば、このような「現代」が見えてくるのか、とも思う。そのような視点を持っていない人には、なるほど、と、うなづける点も多くあろう。

 近くの図書館には入っているようなので、そのうち機会があれば、もういちど再読してみようと思う。

<2>につづく

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2010/09/24

Androidスマートフォン「超」ビジネス活用術 厳選アプリを使い倒す!クラウドを味方にする!

Androidスマートフォン「超」ビジネス活用術
「Androidスマートフォン『超』ビジネス活用術」 厳選アプリを使い倒す!クラウドを味方にする!
一条真人 2010/08 技術評論社 単行本 239p
Vol.3 No.0148 ☆☆☆☆★

 基本的にケータイに対する要求はどのようなものであろうか。(A)

1)良質な通話環境。

2)通話記録や電話帳機能などのメモ性。

3)とっさの記録としての、そこそこなデジカメ機能。

 基本的にはこの三点はまず欠かせないだろう。それに対して、いま流行りのスマートフォンとやらのコンセプトはさまざま規定されてはいるが、自分から見た場合、主な三点に絞るとすると、次のようになる。(B)

1)大画面のタッチパネルがインターフェイスの主となる。

2)フルプラウザでインターネットに接続できる。

3)さまざまな便利なアプリがそろっている。

 最近、6年落ちのムーバをフォーマ機に代えたのだが、その時の選択の主なポイントの三点は次のようになった。(C)

1)フルキーボードがついていて、入力がしやすい。

2)ワンセグが見れる。

3)安価な接続料金。

 さて、日本国内でドメステッィクに発展したとされるガラパゴス・ケータイ(ガラケー)と、グローバルに旋風が吹き始めたスマートフォン(スマフォ)の間には、大きな隔たりがある。私にはどっちの機能も必要なのだが、2010年の8月現在では、自分にとって両立するケータイ環境というものは、存在しなかった。

 この他、あれば便利というものもある。(D)

1) Iモード。

2)内蔵辞書。

3)オサイフケータイ(&カード支払機能)。

 あるいは、あれ、こんなものもあるの、というものもある。(E)

1)万歩計。

2)GPS機能。

3)音楽機能。

 その他、これは要らないでしょう、という機能もある。(F)

1)デカ盛りキャラクター機能。

2)拡大鏡。

3)手書きメモ。

 さて、これら(A)~(F)までの個人的な嗜好性をすべて満足させてくれるケータイというものは、2010/08現在存在しなかった。せいぜい、2台持ちでカバーするか、何かを我慢するしかなかった。いずれ登場するだろうが、それまでは待てない。

(A)は絶対条件で、(C)は機種替えに当たっての当然条件、と言える。(D)も使わないかもしれないが欲しい、というところ。(E)や(F)も、話題性を考えたら、それほど邪見にするほどでもない。

 さて、(B)だが、必ずしもスマフォの独壇場というわけではなく、ガラケーの最近の機種ならかなりカバーしていると言える。ただ、(C-3)格安な料金、というところになると、なかなか両立しなくなる。フルプラウザ環境を活用するかしないかでは、ざっと計算すると、月に6千円の接続料金の差がついてくる。

 インターネットを固定機種で使う場合、ほとんど6千円あれば、安定して追加使用料なしで活用することができる。しかも高速ブロードバンドで、何台ものパソコンをぶら下げることができる。これがケータイやモバイル状態となると、一気に状況が変化する。(G)

1)接続速度が遅い。

2)いちいち有料なアプリが多い。

3)接続するたびに課金される(定額制はあるが高額)。

 この(G)のマイナス要素を蹴散らして、(B)のスマフォ、あるいはスマフォ的環境を受け入れる積極的理由はどこにあるだろうか。ポイントは(B-3))さまざまな便利なアプリがそろっている、というあたりになるだろうが、なにか特別なカテゴリーキラーでも登場しないかぎり、なかなか受け入れ態勢をつくりにくい。

 個人的には機種替えしたばかりだから、あと2年は今の状態が続くのだが、2年後は間違いなくスマフォの時代がきているだろう。そして料金体系も大きく変化していることだろう。もちろん、今でも、月6000円の追加料金を受容できるならば、その環境はすぐにでも作れる。ただ、自分の費用対効果を考えた場合、スマフォをビジネス上で活用する、という時代はまだまだやっては来ていないようだ。

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2010/09/23

セラピストのためのストレスケア入門 セルフサポートコーチング法で毎日をいきいきと過ごそう!

ドクター奥田のセラピストのためのストレスケア入門
ドクター奥田の 「セラピストのためのストレスケア入門」セルフサポートコーチング法で毎日をいきいきと過ごそう! 
奥田弘美 BABジャパン 2009/04 単行本 215p Vol.3
Vol.3 No.0147 ☆☆☆☆★

 公的資格を持ち、実際にそのように自己認識をし、10年以上に渡って関わったクライエントを複数持っている限り、私もまたセラピストを自称することが可能であろう。それを「職業」と明記するかどうかは別なことだが。楽しいことをやっているのだから、自分を浄化する必要などない、と自負する「セラピスト」達もいるが、はてそれはどうかな、と思う。

 セラピストはストレスのたまる職業だ。そもそもセラピストを「職業」とすることに妥当性があるのかどうか、と思う。職業とするには、日々の暮らしを支える収入が必要となる。その役割の中でそれを十分得ようとすると、どこかに無理が来る。途中でほおり投げるか、ストレスのたまらないクライエントだけを相手にするか、それぞれに「技」があるに違いない。

 自分の固定的な場所を持たずに旅芸人のように地方巡業をするセラピストもいれば、膨大な参加費を要求して、あとは長時間、クライエントにかかわらない時間を確保するセラピストもいる。いずれにしても、うまくストレスから遠ざかっているようでもあるが、結局ストレスケアが不要な人間なんていない。

 さて「セラピストのためのストレスケア入門」。通常はこの手の本には手が伸びないのだが、そもそもこの本に目がいくということ自体、今日の私はかなり疲れているんじゃぁないだろうか。今日あたり、だいぶ寒くなった。夏バテがいまころになって表面化してきたのかもしれない。

 ドクター奥田は精神科医、医学博士。見かけより、この本は至って真面目。そして、とてもためになる。ふむふむなるほど。自分が元気な時はストレスを感じることも少ないし、セラピーの必要性も低くなる。でも、人間、元気な時ばかりではない。そんな時、この一冊は、セラピストじゃなくたって、絶対有効だ。理論に走っていないだけ、より実践的なノウハウが満載。

 「セルフサポートコーチング法で毎日をいきいき過ごそう!」。 ホント、そう思う。そうありたい。

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生命と偶有性 A Life and Contingency

生命と偶有性
「生命と偶有性」 A Life and Contingency
茂木健一郎 2010/08 新潮社 単行本 247p
Vol.3 No.0147

 新潮社の季刊誌「考える人」08冬~10春に連載されたコラムを加筆・訂正したもの。

 偶有性とは、こうなるであろうという規則性が常に探索されるということであり、また、その規則性が不断に破られるということでもある。まったくランダムでもなく、完全に規則的なものでもない。ランダムさと規則性が入り混じっている状態が、「偶有性」の領域である。p238「「偶有性は必ず我々を追いかける」

 名前と顔を売り、マスメディアに登場し続ければ、自然と収入が増加することには規則性が存在するだろう。収入が増加すれば、経理事務が煩雑化し、本人一人での会計事務ではオーバーフローすることにも、規則性があるだろう。

 しかし、そこから脱税行為が発生し、メディアでネガティブ報道されてしまう、というのはランダムな状態であった、ということもできるでだろう。まさに、このコラムが連載された期間というのは、著者本人にとってみれば「偶有性」に満ち満ちた期間であった、と言える。

 嫌味を言うのもほどほどにしておこう。「メタコンシャス--意識を意識する」を次なるカテゴリ名にしようとしている当ブログとして、現在のところ、マーケットに流れている本としては気になる本の最短距離にある一冊と言える。当代稀有な書き手による一般書。公共図書館の新刊コーナーに、ちょこんと並んでいるこの本は貴重である。

 日本人による一冊なのに、英語のタイトルもつけてある。Lifeと生命は同義語だろうが、英語と日本語では、ややニュアンスが異なる。Contingencyは、わがガラケー内蔵の英和辞典では、偶然性としか出てこない。これを偶然性と偶有性を使い分けるのはどうしてか、などと素朴な疑問も湧いてくるが、この辺は、書き手である茂木のセンスである、としか言いようがない。

 死を受け入れると同時に生その全体において抱きしめる。そこには、もはや個別化の原理は存在しない。変化は避けることができない。個体にとって、死はやがては必ず訪れる。しかし、この世の中に満ちている「偶有性」を正面から見据え、それを受け入れることで、私たちは「何も死ぬことはない。万物は、ただ変化する」という達観の境地に至る。p43「何も死ぬことはない」

 メタコンシャス、意識を意識するというテーマであるならば、古来よりさまざま伝統と秘教が伝えられており、それを敢えて現代のマーケットに追いかける必要はない。しかし、そのことについて、社会や人類はどのように捉えているのか、ということを知るには、やはり当代の流行作家の手にかなうものはない。思考や想念と、意識の間に、茂木はクオリアというものを挟む。

 「意識」には、私秘性がある。私が感じている「赤」の「クオリア」が、彼が感じている「赤」の「クオリア」と同じであるということを確認する方法はない。他人に意識があるということを、確実に検証する方法はない。しかし、私たちは、おそらくは他人にも自分と同じような意識があるだろうと考えている。p164「かくも長い孤独」

 クロリアとか偶有性というキーワードを多用することによって、現代人の思考や意識に何事かを啓発しようとする試みは、現在のところうまく行っているようでもある。

 スピノザが看破したように、偶有性とは、有限な立場に置かれた人間だけに適用され、神にあてはまらない概念である。そうして有限の立場で経験される性の浮き沈みが、やがてクオリアという形で結実する。p243「無私を得る道」

 一旦は、連載の形で雑誌に掲載され、ついで加筆訂正された上で一冊にまとめられた本である。時事問題から経済、文学、インターネットなど、さまざまな話題も取り込まれており、今日の新刊としては、とても面白い。しかし、扱っているテーマは、決して、読み捨てられて、忘れ去られてしまうような軽々しいものではない。

 もしこのようなテーマが、より多くの人の関心を捉えており、多くの人の手によって「加筆訂正」され、まるでWikipediaのようなクラウドソーシングによって、よりリアリティのある潮流が存在しているとすれば、当ブログとしては、もうすこしその辺のところをデリケートに追っかけてみたいと思う。

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2010/09/22

生きるチカラ 植島啓司

生きるチカラ
「生きるチカラ」 
植島啓司 2010/07 新書 集英社 221p
Vol.3 No.0146 ☆☆☆☆☆

 今年の夏は暑かった。今日は中秋の名月で、明日は秋分の日。あんなに暑い暑いと思っていた毎日だったが、しだいに朝晩は寒さも感じるようになり、毛布をかけて寝るようになった。やっぱり地球は自転しているのである。

 夏の暑い盛りに、布団に行くまでがおっくうでソファーで寝たり、そのままカーペットの上でごろ寝することが多かった。エアコンはつけてはいるのだが、それでも暑い。上着は脱ぎ捨てて上半身裸は当たり前で、どうかすると、素っ裸でカーペットの上に転がっている日が何日もあった。

 そんなある日、局部にピリッとした痛みを感じた。変だな、と見たら、なんと、先っちょのほうに小さなできものみたいなものができているではないか。あれ~、他に身の覚えのない自分としては、早めに泌尿科に行ってみてもらうことにした。

 するとやっぱり、内科的なものではなく、どうやらカーペットの上の雑菌をわが局部が拾ってしまった結果だったらしい。これからは、カーペットの上で素っ裸でごろ寝する時は、キチンとファブリーズする必要があるようだ(笑)。

 そんなこんなで、いざ涼しくなってみると、なんだか、夏に緊張していた体がだんだん溶け始めて、今頃になってすこしバテ気味になってきた。ちょっと脱力感。あんまり面倒な本も読みたくない。何冊かのハードカバー本は取り寄せたもののそのまま閉じてしまったものが何冊もある。

 そんな時、この本はちょうどいい。「生きるチカラ」。こんな名前の生命保険があったような気もするが、この本はどっかの回し者ではない。1947年生まれ、「聖地の想像力」、「世界遺産 神々の宿る『熊野』を歩く」などの著書のある宗教人類学者の手による一冊である。

 東京の一等地に住みたいとか、高級車を乗り回したいとか、最高級のワインが飲みたいとかいわない限り、年収なんか300万から500万もあれば十分ではないか。もちろん1000万くらいあればいうことなしだけど、必ずしも多ければいいというわけではない。p108「金持ちはみんな不幸?」

 この本、なんだかこの脱力感がいい。勝間和代的モチベーションでもなければ、香山リカ的いじけ節でもない。ちょうどニュートラルな脱力感が、ちょっと老子的な味わいを感じさせる。

 むしろ死があるからこそ老いは輝きをますのである。人生はうんざりするほど長い。終点に近くなればなるほど、人生は豊かさを増すことになる。なにより、老いのもっともすぐれた点は、その人が持っている能力をだれにも簡単に譲り渡せないということではないかと思う。

 どんなにすごい才能があっても、その人が死ねばすべてが無に帰するという潔さ。それこそ人間のもっともすぐれた特性の一つではないかと思われる。なるべく自分を世界の側に委ね、つまり、自分中心の世界観から逃れて、ゆったりと死を待つのもそんなに悪いものでもないだろう。p209「自分の身に起こることはすべていいことなのだ」

 この人、他の著書においてはどんなことを書いているのだろう。毎回毎回この調子でやられたのではうんざりしないこともないが、たまにこういう形でレイドバックされると、うん、これもありだな、と思う。

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2010/09/21

エコカー補助金 クライマックス

月刊 自家用車 2010年 09月号 [雑誌]
「月刊 自家用車 」 エコカー補助金 クライマックス
2010年 09月号 内外出版社 2010/7 月刊誌
Vol.3 No.0145 ☆☆☆★★

 好奇心に満ち満ちた当ブログである。もちろん車に興味がないわけではない。遠くは、徳大寺有恒の「間違いだらけのクルマ選び」を初めとして、「45歳からのクルマ選び」「メルセデス・ベンツに乗るということ」「力道山のロールスロイス」や、「白洲次郎の青春」のベントレーに想いを馳せたりした。

 加藤和彦のミニやロールスロイス、「週刊 ハーレーダビッドソン」「イージー・ライダー」「黄色いロールスロイス 」「ビートルズ御用達ロールス・ロイス」「ROLLS ROYCE PHANTOM II」「事故と心理」などなど、実に雑多な形で車と接してきた。

 「Automobile Quarterly」なども直接アメリカの出版社から取り寄せてみたり、最近では「新型インサイト 衝撃の低価格で新登場!」「ポータブルナビ」なんてところにも興味を持っていた。「高速道路はタダになる!」なんて本も読んだし、エコカー減税にも関心がなかったわけではないが、それが身近な話題になるとは思わなかった。

 ところが、先日、奥さんと二人で休日に出かけようとしたところ、なんとエンジンがかからない。この10年、調子のよかったマイカーなのに、なぜか10年目を経過したところで、いろいろなトラブルに巻き込まれるようになった。今回、遂にレッカー車に運ばれて、工場に入庫となってしまった。

 まだまだ乗る気ではいたのだが、車検も近付いていることだし、ここは代替えか。思い立ってみたところ、なんと、エコカー補助金が打ち切りというニュースが流れた。もともと、補助金など期待していなかったが、工場のセールスマンは、補助金分をメーカーがサービスしますよ、と言う。

 先日、なんの気なしに他の雑誌と一緒に購入していたこの本を読み始めた。そうそう、もうタイムリミットなのだ。ここはひとつ真面目に考えようか。いろいろ乗ってみたい車はあるが、いざ所有するとなると、車はなかなか負担の大きい家財である。

 結論から言えば、結局、セールスマンとメーカーの勧めにのっかって、今回のメリットを最大限生かすことになった。補助金だけじゃなく、減税という分も考えれば、ここでわがマイカーがエンコしてくれたのは、ちょうどタイミングが良かったかもしれない。現在交渉中。いずれわが家にもベーシック・ハイブリットが来ることになるのだろうか。

 飛び石連休で、読書にも最適な秋が来ているというのに、わが頭の中には、あれこれ車談義が飛び交っていて、読書に集中できない。あちこち、覗いてみたり、計算してみたり。10年に一度のイベントが急に湧いてきた。

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2010/09/20

デジタル教育は日本を滅ぼす 便利なことが人間を豊かにすることではない!

緊急提言!デジタル教育は日本を滅ぼす
緊急提言 「デジタル教育は日本を滅ぼす」 便利なことが人間を豊かにすることではない!
田原総一朗 2010/08 ポプラ社 単行本 203p
Vol.3 No.0144 ☆★★★★

 私もiPadを購入し使っている。これまでの携帯を持ったことのない人にも、おそらく既存の携帯電話よりはずっと使いやすいはずである。(中略)画面上に並んだアイコンを指で押すと、ヤフーやツイッターなどのサイトにつながり、画面がポンと広がる。p34「教育の現場からの警告、デジタル教育時代の危機」

 このジャーナリスト、あまりにも有名。この人が口を開けば、何を言おうとしているのか、大体はわかる。いや、これまで何十年も、この人は発言しつづけてきた。しょっちゅう、「緊急提言」をくりかえしてきたではないか。で、この人が発言することによって、なにかが良くなったり悪くなったりしたのだろうか。

 この人が提言しようとしていることは、他の人はまったく提言していないのだろうか。この人が提言すれば、何かが変わるのだろうか。他の人の発言より重いのだろうか。これまでの事態になってしまった要因において、この人は無関係なのだろうか。彼だけが無責任であることなどできるのだろうか。

 あるいは、ひとりのジャーナリストとして、この場面ではこう発言しておかなければ、アリバイ証明にならない、とばかり、とりあえず、自分の今の意見を発表しているだけなのであろうか。

 ここにおいて語られていることは、学校における教科書がデジタル化されて電子書籍化する、というあたりが中心のテーマであるようだが、それを契機として、すべての教育の問題を「デジタル教育」の原因にしようとしているようにさえ、感じられる。

 私は幼稚園に行かなかったし、高卒後もすぐには大学に行かなかった。できれば「義務教育」なんか最小でいいと思っている。ただ、学びの場はたくさんあったほうがいい。子供時代も、幼稚園に行かなくたって、遊びの場はたくさんあった。野や川、畑や池、大人たちもこどもたちもたくさんいた。牛も馬も、鶏もヤギも鳩もいた。果物も草木も、遊びの場はキリがなかった。

 高校入学式で、大学入試の説明があったことに、かなり反発を感じた。大学のための高校時代ではない、と反発に次ぐ反発をくりかえした。高校時代は高校時代として謳歌した。もっとも、この時代は69年~71年という黄金時代だったから、世の中すべてが遊びの場だったようなものだが。

 その後も自分で遊びの場を作ったし、もちろんカレッジにもユニバーシティにもスクールにも学んだ。今でもどうかすると、勉強している。子供たちの成長とともにPTA活動にも積極的に参加したから、大人になったあとも、一生懸命、学校に通った。子供達が卒業した後も、教育委員会の外部委員とやらもやったので、なかなか裏側も分かったりした。

 教育は大事だけれども、教育の現場もひどいもんだなぁ、という実感ももっている。教師もいい先生もいたが、トンデモないセンセイもいっぱいいたよ。結局、教育の場も、みんなでつくらないとなぁ。教師まかせでも駄目。地域も親も、子ども自身もみんなで楽しく学ばなくっちゃなぁ。

 地理とか歴史みたいな暗記ものは、デジタル機器を活用するのがいいのではないかな。英語や体育や音楽は実際にやらないといけないけど、あとは点数優先主義じゃなくて、それこそブレーンストーミングみたいな、グループワークも必要だろう。

 最近は教師が生徒を叱ると親たちが教育委員会に訴え、校長と教師が首を揃えて親に謝りに行くということが、しばしば起きている。教師たちは、親への配慮にエネルギーの大半を費やさなければならなくなっている。そのため、「教育再生会議」では親学が必要だと強調されていたp165「見直される教育改革---21世紀型新時代の教育へ」

 いろいろな意見はあるが、一ジャーナリストが、あれこれぶった切るだけでは、結局、ええかっこしいだけで、実効性はないのではないかな。現場は現場としてあり、それぞれの立場でできることなんて、それほど多くない。とにかく、自分でできることは自分でやる。人に任せられるところは、思い切って、信頼して任せる、という風土ができなければ、全体がうまく回らないなぁ。人の悪口言う文化を作ったのは、「ジャーナリスト」田原総一郎、あなたにも、すこし責任はあるよ。口だけうるさく言う文化作ったのは、あなたたちにも原因がある。

 チャットやツイッター、メールなどのデジタルなコミュニケーションの持つ限界性や問題点については、第1章で検証したとおりである。新しいコミュニケーションを十分に活用するには、人間が本来その文化の中で育ててきたフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションの延長線上にあることが重要なのだ。p188同上

 子供たちの小学校時代から父親の会やら、町内会との付き合いにかなりの時間を費やしてきた立場としては、テレビのキャスターから「フェイス・トウ・フェイス」が必要だ、なんて説教されても、なんとも説得力がない。もし、田原さん、本当にあなたがそう思うなら、まず隗より始めなくてはならない。マスメディアや媒体を使うのやめて、せいぜいあなたの周囲の200人程度の人間関係をもっと充実させるべきなのだ。多くの人にメディアを使って働きかけるべきではない。

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2010/09/19

facebook フェイスブック 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男

facebook
「facebook」 フェイスブック 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男
ベン・メズリック (著), 夏目 大 (翻訳) 2010/04 青志社 368p
Vol.3 No.0144 ☆★★★★

 2010年3月、インターネット上で象徴的な出来事が起きた。
 アメリカのインターネット調査会社ヒットワイズによると、3月第2週のアメリカ国内のウェブサイト訪問者数で、世界最大のSNSの「Facebook」が、ネット検索最大手のGoogleを抜き去り、初めて首位に立ったのだ。
p2「まえがき」

 昨日、世界最大のSNSとやらへの招待状が来た。いや、今回が初めてではない。もうこれ以上SNSは増やさないと決めてだいぶ経つので、今回もパスするつもりではあったが、紹介者が素敵な女性だったので、ついフラフラと登録してしまった(いや、別に、前回は、同年配の男性からの招待だったからパスした、というのは最大の理由ではなかったのだが。タジタジ・・・・)。

 さっそく図書館にいくと、この本が目につく。この春に出版されたばかりで、まだ新刊に属する本なのに、一般の開架棚に寂しく並んでいた。せめて新刊本コーナーにでも並べてくれればいいのに。でも、やっぱりこの手の本は人気ないかも。

 まず、日本においてはガラパゴス化した某大手SNSが一人勝ちの状態で、いくらアメリカ産の世界最大のSNSと言われても、一般的には、だからFacebookに行こう、という気にはなかなかなれない。日本産SNSのブームはすでに過ぎ去り、弱小SNSは次々と撤退している。淘汰の時代なのである。

 さらには、「ビル・ゲイツに迫る」などという表現をされても、はてさて、ビル・ゲイツって誰だっけ、などという今どきの人たちだっているかも知れないぜ。富豪に収まったネット成金は、すでに伝説と化していて、ネットの端末にすがるひとりひとりにとっては、ゲイツはもう話題性としては薄いかもしれない。

 さらにだ。アメリカにおける、ウェブサイトの訪問者数のカウントなど、一般ネットワーカーにとっては、あんまり意味がないのではないか。そこに広告をぶら下げるために、常にチェックして一喜一憂しているマーケッター達の他に、それほど話題になることでもないのではないか。

 ましてやだ。ルーティンマシンを幾つか作って、訪問者数を稼ぐことなど、ちょっとしたハッカーならすぐプログラミングできたりしちゃうかもしれないぞ。だから、そんなこと、一般の、ましてや日本のネットワーカーにはあんまし、関係ないのじゃ。

 この本、その主人公たるマーク・ザッカーバーグについての青春ドラマみたいな作りになっている。「まえがき」で注意書きがしてあるとは言え、何処までが信憑性のある話なのか、よく分からない。ドキュメンタリー風でもあり、歴史小説風でもあり、作り話風でもある。どれでもいいのだが、この「小説」から、今日的問題意識を拾おうとすると、なかなか難しい。

 そもそも「世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男」というサブタイトルが示しているように、どこかピンとがずれているのではないかな。SNSにぶら下がるネットワークの、ひとりひとりの個人にとっては、せいぜい100~200人程度のつながりがベストなのであり、何億人と繋がることなど、ホントウは意味がない。むしろ、小さなクローズド・ネットワークのほうがいい場合だってあるのだ。

 さらに、SNSを富豪になるためのビジネス・チャンスととらえてしまうこと自体、一般のネットワーカーの第一義から外れてはいまいか。ゲイツに迫ろうが、上場しようが、成功しようが、あるいは破産しようが、撤退しようが、どこか、一般のSNSユーザーからすれば、ちょっとピンとがずれている感じがする。

 と、今日のところはメモしておく。

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2010/09/18

脳科学は何を変えるか? What Happnes after Brain Science 

脳科学は何を変えるか?
「脳科学は何を変えるか?」 まだ見ぬ未来像の全貌
信原 幸弘 (著), エクスナレッジ (著) 2010/01 エクスナレッジ 単行本: 384p
Vol.3 No.0143 ☆☆☆☆★

 この本、なかなか素敵だが、その成り立ちがイマイチよくわからない。What Happnes after Brain Science。脳科学の後に何が起こるのか。日本語本なのに英語のサブタイトルを持つ。共著「脳神経倫理学の展望」のある信原幸弘が編集人となり、出版社のエクスナレッジ社の企画力で成り立った一冊なのか。

 10人ほどの執筆陣のそれぞれの対談と、単独のエッセイによって成り立つ。脳神経倫理学。なるほど、この辺の語感に安定的なバランスを感じる。突出した脳科学でもなく、ネガティブすぎる守旧的な頑迷さでもない。そもそも「脳」も難しいが、「神経」も「倫理」も扱いが難しい。よく見てみれば、編集の信原が1954年生れなので、同世代的な視点が安心感を与えてくれるのか。

内藤(礼) 私たちの身体は、世界の外に出ることはできない。「身体」も「行動」も、すごく限定されている。だけど「意識」だけは、自由だと思う。自分ができないことでも、意識のなかではできるでしょう?p015「茂木健一郎 * 内藤礼」

 この本、モノクロームの写真(川村麻純)が多く挟まれており、全体が、すっきりした、「人間」臭さがある。「脳」臭さはすくない。転記すべき部分は多くがあるが、それでは切りがない。意識コンシャスな当ブログとして、2・3の目についた「意識」にまつわる断片をメモしておくことで、次につなげる窓口を作っておくことにしておく。

茂木 おそらく、意識のなによりも大きな機能的意義っていうのは、「死ぬのが怖いから死なない」ってことだと思うんだよ。意識と自己保存能力って、ものすごく結びついているじゃない。p064「茂木健一郎 * 池上高志」

 ガザニガ「脳のなかの倫理」の一節を思い出す。

 脳というものは、実体のある物理的な空間のどこかで恐ろしい危険に出くわす可能性があるかといった、生物が生きていくのに必要な情報を覚えているのに適している。p171ガザニガ「脳には正確な自伝が書けない」

下條(信輔) 数百年万単位で、社会集団のサイズと相関して、人類の大脳新皮質が進化していったといわれています。そして、現代人の大脳新皮質の大きさは、およそ100人とか、200人の社会集団に適切な大きさを持っているといわれています。p104「タナカノリユキ * 下條信輔」

 常に当ブログが体感してきたネットワーキングの原寸大はやはりこの100~200人程度にあるのであろう。これがもっとも現代の「人間らしい」サイズだ。もちろん、遠い過去とか、遠い未来において同一である必要はない。そして、さらには「死」においては、頭数も必要もなく、「私」もなくなる。

(成之) 我々医者は、現実主義です。「意識障害」というのがありますが、「意識」というのは、医学では「外からの刺激にどう反応するか」という定義で考えます。ところが哲学でいう「意識」というのは、いいかえると「心」とか、必ずしも刺激がなくてもあって、自己存在を認識しているもの、というような意味で使われますね。外からの刺激に反応しない「意識」を医療の現場でどう評価するかというと、方法が分からないわけです。p167「林成之 * 森岡正博」

 医療の現場も、このような表現が正しいかどうかわからないが、かなり「モンスター化」しているのではないか。生命が粗末にされることはあってはならないが、極端な生命維持装置によって身体を存続させる技術などが突出して発達している。それに比して、いかに生き、いかに「死」ぬか、このところの「技術(哲学と言ってもいいのだろうが)」について、現代人はバランス良く発達させきれないでいる。

斎藤(環) 紙媒体でいえば、「紙に印刷された文字にこだわる」というフェティシズムが、逆に脳や欲望を賦活しているという部分があるんじゃないでしょうか。一冊の本を最初から最後まで読むという読破、すなわち所有の喜びは、こういうフェティシズムと関係がありそうです。

 キンドルなどの電子本にしても、いまは紙媒体の本を模倣しつつ機能的に補完しているという前提があるからみんな読むのであって、すべて電子本になってしまったら同じように読むかというと、かなり違ってくるでしょう。情報インターフェイスとしての身体性をどう考えるかというところですね。p215「斎藤環 * 池谷裕二」

 この辺などは、後付け理論だろうが、自分の感覚を後押ししてくれる言い方ではある。

酒井(邦嘉) 「メタ」というのはもともとギリシャ語で、「メタ~」とはそのものに関して1段階層の高いものをさして使われます。「メタデータ」とは、「データに関するデータ」のことで、そのデータがいつどこでどのようにして得られたか、というデータを意味します。また、鉛筆やハサミなどの日常的に使うさまざまな道具は、人間が別の道具を使ってメタ的に作った物です。さらに哲学的には、「私が考える」ということをメタ的に考えることもできますね。p308「『言語』人間らしさの本質とは?」

 なるほど。当ブログで、意識コンシャスと暫定的に表現している営為(あるいは状態)のことを、メタ意識、と表現できるわけだ。意識を意識する。コンシャスネスにコンシャスな状態。

高橋(英彦) 社会脳研究というものがこれまで扱ってきたものは、感情、情動、意思決定などですが、最後に残っているのに「意識」の問題があります。この研究は、なかなか進んでいません。「意識」という言葉自体が漠然としたもので、いろんな意味で使用されていると同時に、そもそも意識とは何かという哲学的、形而上的な問いまで遡らないといけない状態です。

 ですから意識の問題を脳科学的に取り上げるというのはチャレンジングなことであり、一筋縄ではいきません。そこは意識の問題を脳科学の登場する以前から、扱ってきた哲学の英知があるわけですから、哲学の研究者と共同でアプローチしていくことは大切です。ただ、私はもう1つ、精神医学や臨床神経科学側のアプローチも有効と考えています。p358「『感情』『自由意志』の所在---それは、すべて脳のせい?」

 この本、そもそもがオムニバス形式なので、あちこちバラバラと転記してしまったが、まぁ、こういう読まれ方も、まんざら間違った方法ではないだろう。転記するとすれば、すべてを転記する必要のあるような本だ。ヒントに満ち満ちている。しかしながら、それは現在の脳科学というものが、いわゆる物理学で言えばガリレオ以前のような状態にあり、脳神経科学におけるケプラーの法則のようなものがまだ出てきていないのだ、ということを確認しておければ、それでとりあえず、いいのではないか。 

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2010/09/17

ニューロ・ウォーズ 脳が操作される世界 

ニューロ・ウォーズ
「ニューロ・ウォーズ」 脳が操作される世界
ザック・リンチ/杉本詠美 2010/07 イースト・プレス 単行本 391p
Vol.3 No.0142 ☆☆☆★★

 原題は「The Neuro Revolution : How Brain Science is Changing Our World」だ。なんともはや、どうしてみんなこんなにレヴォリューションやら革命ばっかりがお好きなのだろう。正直言って辟易する。それが本当に革命に値するのなら、そんなに毎日起こるはずもなく、毎日起こるとすれば、それは単なる日常でしかないはずだ。新しいことの発見や価値転換が本当に起こっているのなら、それは確かに注目に値することではあるのだが、もっと新しい表現が必要なのではないか。

 と、そう翻訳者が思ったかどうかは知らないが、この本「ニューロ革命」とはならなかった。「ニューロ・ウォーズ」である。戦争ですか。この本、必ずしも争奪戦とか研究競争の意味だけではなく、戦争そのものにその「ニューロ革命」とやらが利用される可能性も指摘しているので、「ニューロ・ウォーズ」も当たらずも遠からずである。しかし、それにしても「戦争」か。

 ところで、「ニューロ」ってなんだっけ。文脈から読み解けば、それには神経という日本語が割り振られている。人体内にある細胞や臓器をつなぐ命令系統のネットワークのことであろうか。しかも、ここで語られているのは、特に脳の中にある仕組みについてのことのようである。

 もうこの分野についていえば、一般の通常の地球人たちが自らの体験や自宅で追試できるような範囲を逸脱している。ある異常な体験や、特別な実験室や補助金を受ける立場の人間だけが知り得る内容となり、私たちは、そのことについては、彼らのレポートを待つしかないような立場に追いやられてしまう。

 そのような特権的な研究成果について、ひとつひとつ細かに聞いたとしても、リアリティを持って理解もできなければ、その成果を実生活にどう活用すればいいのかもわからない。すでに、この分野の研究は、人道を逸脱しているのではないか、と密かに危惧する。モンスター・サイエンスの直前まで到達しているのではないか。

 今からあなたがたは第4の変革を知ることになる。
 私たちは今、過去3回の変革のどれよりも劇的な変化をもたらすであろう大波が頭をもたげているのを感じている。それが、目前に迫った「ニューロ社会」だ。このあとのページでえ、あなたがたはその始まりを示す事実と出会うことになる。この波が私たちに、「自分を取り巻く世界」と「自分の内なる世界」というふたつの広大な領域をコントロールする想像もしなかった力をもたらすことが、だんだんとわかってくるだろう。
p27「現代社会から『ニューロ社会』へ」

 著者は、まるでアルビン・トフラーの「第三の波」に喩えるように、「農耕社会の時代」、「蒸気機関の時代」、「情報社会の時代」の次の第4の変革として「ニューロ社会の時代」を設定する。

 たしかにこれらの変革は、ひとりの人間では手に負えないことだらけだった。農業基盤の確立によって人類は定住するようになり富を蓄えることも可能になった。産業革命によって、都市に集中して人々は暮らすことができるようになったし、大量生産の技術を手に入れることができるようになった。 

 これらは多くの人の手によって作られてきたことではあるが、しかし、種を蒔いたり、刈り取ったりすることは、一人の人間の作業としてみれば、それほど身体から乖離した問題ではない。日々の生活としてそのような農耕生活があった。

 蒸気機関にせよ、機械的工学であってみれば、たしかに技術を習得することは難しかろうが、眼で見て、音で確かめることができる世界であった。作ろうと思えば、初期的自動車くらいなら、一人の好奇心の強い青年にも、その原型を作ることができるであろう。

 しかし、現代の私達が突入している「情報社会」はすでに、その多くがブラックボックス化している。このシステムを一人の人間が、自分の眼で見て、自分の耳で確かめて、自分の二本の手で作り上げる、ということはできない。それがビル・ゲイツであろうが、リーナス・トーバルスであろうが、あるいはグーグルの二人であろうが、アップルの誰であろうが、まず一人の人間としてはまったく対処できないところまで、高度に組み上がってしまっている。

 技術はますますモンスター化し、一人ひとりの人間は、単なる端末としてのインターフェースを与えられ、いわば限られた範囲のわずかな選択肢の中で、あたかも大きな自由を与えられたかのごとく錯誤して、全体感を味わったりしている。しかし、それでいいのか、という反省は当然、各方面から沸き起こっている。

 さて、この第三の波を十分検討しないまま、いきおい余って「第4の波」へと思いを馳せていくのは、さて、いかがなものであろうか。

 もっと先の未来には、脳とコンピュータをつなぐシステムも登場するだろう。個々の人間がデータの流れを解析する能力を広げ、収益を高める意思決定を促進するのである。これらの新技術はそれを利用する人々に新しい活動の場を生み出すだろう。こうした正真正銘の大発見が、金融産業をはじめ、世界中の知識ベースの競争産業で、コスト構造を変え、生産性を向上させる。ニューロテクノロジーは、経営の常識を根本から変えることになるだろう。p36同上

 この部分あたりは、北半球の極東に住む初老の一人の人間として、極めて強い違和感を持つ。私自身の寿命はあと何年あるか知らないし、私の生きている間にこのような時代が来るかどうか分からない。だが、少なくとも、私自身はそのような社会には積極的に関わることはないだろう。もっと、原寸大の、自らの「人間らしい」普通の生活を好んでいるはずだ。

 最近、急に浮上したかに見える「消えた高齢者」の問題などは、第2の変革から第3の変革を経るなかで、負の部分として見落とされてきた部分である。「誰もが幸せになる」という幻想の中で、本当に幸せになった人間はどれほどいると言うのか。そもそも「幸せ」とは何か。森健ではないが、「インターネットは『僕ら』を幸せにしたか?」という重いテーマを時にはふりかえり、検証しながら進まなくてはならない。

 脳科学は宗教と人間精神の関係も解明する。宗教や信仰を神経生理学的に研究する神経神学者の中には、最終的には神の存在さえ科学的に証明できるはずだと考えている人もいる。p37

 単なる物書きなら、なんとでも言える。誰かが言った、誰かが証明した、という問題ではない。対峙するのは、一人の人間と「神」なのだ。誰かが科学的に「神」を証明したからと言って、個人個人にとって、なんの利益があろう。

 意識---とりわけ意識と無限の存在とのつながりは、常に、人類が解明することができない神秘をはらんでいる。しかし、意識はたしかに脳の中にあり、今では意識の活動中にその画像を撮影することもできる。p244「ニューロ神学」

 この部分は高らかにブーイングされてしかるべき部分であろう。意識は脳の中にあるとどうして断言できるのか。撮影されたものが意識であると、どうして極言できるのか。

 こうした疑問に取り組んでいる神経神学者の中には、最終的には神の存在を証明できるのではないかと期待している人たちもいれば、逆に、無神論を科学的に立証できることを期待している人たちもいる。p247同上

 このような表現は実に曖昧で、情緒的で決して「科学的」ではない。この本に限らず、類書や関連本を読み進めて行けば、ありとあらゆる言説にぶち当たることになるが、神秘は神秘のまま残る、と見ているのが、現在の当ブログの視点である。

 瞑想をおこなっている修禅者と修道女の脳画像を見ると、この種の宗教活動をおこなっているときの脳内の状態は、異言を体験している人とはかなりパターンが異なることが分かった。p255同上

 そもそも瞑想を脳波や画像で観察しても、本当のところは意味がないのだ。それは自らのものとして「体験」されなければならない。

 何年かすれば、黙想や祈りに年月を費やさなくても、こうした装置を使って神秘的な境地に至ることが一般的になるかもしれない。p270「瞑想は体内制御盤の初期設定値を調整する」

 一部のいわゆる科学者やサイエンス・ライターがどんなに上手に表現したとしても、この辺の詭弁には騙されてはいけない。

 グローバルなレベルでは、神経神学が世界中の宗教の霊的、神秘的体験や宗教体験について研究を重ねた結果、公正や共感といった道徳的な本能や直感は人類に共通したものだということが明らかになるだろう。私たちが歩いていく未来は宗教的な対立がますます激化するだろうが、人類をひとつに結ぶこの糸が発見され、希望の灯として広まっていくはずだ。今後、ニューロテクノロジーは、信仰や霊的な存在、それぞれの文化が築き上げてきた世界に対する人々の見方を大きく変え、世界の多くの宗教に伝えられるある側面に真っ向から挑戦していくだろう。p277「ニューロ神学」

 巻頭で日本語版監修者の石浦章一が言っているp4ように、この本に取り上げられている内容は「Nature」誌や「Science」誌に取りあげられ、研究者の間で話題になっていることが多いであろう。しかし、そのような傍証を使っての「憶測」にこそ十分に気をつけなければならない。

 ニューロテクノロジーの普及によって、新しい形の人間社会が生まれる。それが、ポスト産業、ポスト情報のニューロ社会だ。ニューロ社会の大きな特徴は、都市化され、複雑に絡み合った社会での暮らしを楽にするというだけでなく、とびきりすばらしいものにしてくれる可能性をもったさまざまなツールだ。p374「『脳のプライバシー』は守られるのか」

 もうここまでくれば、深夜テレビの通販宣伝か、ネットワーク販売の催眠商法となんら変わるところはない。世紀末ばかりか、世紀初めにも、このようなデマゴーグが跋扈するから、十分留意して、浮足立たずに、日々生活していく必要がある。

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2010/09/16

ツイッターで日本全国0円旅!

ツイッターで日本全国0円旅!
「ツイッターで日本全国0円旅!」 
土井雪江 2010/05 武田ランダムハウスジャパン 単行本 223p
Vol.3 No.0141 ☆☆★★★

 まぁそんな訳である日、この旅のことを私が通っているデジタルハリウッド大学の杉山知之学長に相談してみました。(中略)
 「危ないから止めなさい」と最初は止められました(汗)。でも私は決めていたので、「大丈夫です」の一点張り。そのうち学長も私が何を言っても聞かないので、結局「それじゃぁ」と、ツイッターの利用を勧めてくれました。「旅に出たら近くにいる人しか助けに行けない。ツイッターのつぶやきがライフラインになるかも」と。
 そのことを聞いて今流行りのツイッターやブログを絡めて情報を常にオープンにして旅をすると少しは安全だし、面白い旅になるんじゃないかという結論に至りました。
p014「旅の計画から準備まで」

 1991年生まれの19歳。しかも女性です。これで「危ないから止めなさい」と言わない「大人」はおかしい。通常ならやらない。しかし、すでに夏休みを利用して一人で東南アジアにバックパッカーで旅をしていた彼女は、この計画を実行に移す。しかもツイッターやらブログやらユーストリームなどを絡めているというところが、2010年らしい。そしてまた、デジハリの杉山知之にあこがれる女性ではある。

 杉山知之率いるデジタル・ハリウッドは、浅枝大志を初めとするセカンドライフ・プロジェクトチームが突出したかと思えば、いま一つ鳴かず飛ばずだなぁ、と嘆息していたら、なんとこんな元気な学生を抱えていたんだ、とびっくり。何度も企画書を練り直すあたり、いかにも現代の学生で、しかもこのような本にもなるくらいだから、それこそ稀有なプランナーの素質十分。しかしまぁ、旅はしてみなければわからない。

 思えば、私も18歳の時に「80日間ヒッチハイク日本一周」の旅に出たことがある。当時のことは当時発行していたミニコミ「時空間」に記録として残っているが、それ以外はあちこちにバラバラにメモしているので、まとまったものはない。その後、日本を3周するほどヒッチハイクは繰り返したから、その旅の面白さは分かっているが、その「危ない」部分も十分に知っている。私が体験したのは40年前のことだが、それでもやっぱり私も19歳の女性のこの計画を聞いたら、「危ないから止めなさい」の一点張りだろう。しかもツイッターの活用なんてアドバイスさえできない。

 結局は彼女はこのプロジェクトを決行するわけだが、本当に本音を言っておけば、旅行記としては、それほど面白いものではない。なんせ19歳の処女作に当たるであろう一冊である。必ずしも読み応えがある、とは言い難い。ただただ企画の面白さとその勢いで出来上がった一冊である。

 しかし、旅はするもので、本で読むものではない。この女性が体験したことは一生、身に残る。すごいことをしたものだと思う。彼女はその体験を、協力してくれた人たちに対する報告の意味を込めて本にまとめたが、実際はこの本にまとめ切れなかった体験のほうがはるかに大きいはずだと、推測する。

 今回の旅を反対しながらも、陰で応援してくれた親に感謝です。私が言い出したら聞かない性格だからあえて途中から何も言わなかったんでしょうが(最初もちろん反対されました(笑))、無事に帰って来れるのか、毎日とても心配してくれてたと思います。
 いつも話が急で、心配かけてごめんなさい。いつもありがとう。
 私はこれからも、自分が思う道を突き進んでいこうと思います!
p223「おわりに」

 52日間の旅はとてつもない旅だった。他の人には決して分からない体験がいっぱい詰まったものだった。この人、3月生まれだが、誕生日は9日なので魚座生まれだ。おなじ3月生まれでも牡羊座的な強さの「ひとり旅」ではなく、魚座的な「人つながり」旅であったこともまた特徴的だ。なるほど、ツイッターね。現代的ではある。血液型O型。なるほどね。

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2010/09/15

脳のなかの倫理 脳倫理学序説

脳のなかの倫理
「脳のなかの倫理」 脳倫理学序説
マイケル・S.ガザニガ/梶山あゆみ 2006/02 紀伊国屋書店 単行本 262p
Vol.3 No.0141 ☆☆☆☆★

 この記事、当ブログ<2.0>としては1000個目。「人間らしさとはなにか?」のガザニガが2005年に出した本。ガザニガとは、なんとも一度聞いたら忘れられないような名前だ。小ブッシュ政権下における「大統領生命倫理評議会」のメンバーの一員として活動し、その流れの中で出来た一冊。

 小ブッシュといい、倫理といい、なんだか「保守的」な香りがほんのり漂ってくるが、どうも年齢とともに自分も「保守化」しているのか、気がついてみれば、混沌としたエネルギッシュな開放系よりも、なんとなくまとまりのいい落ち着いた閉鎖系へと指向性が向いていたりするので、自分なりにドギっとする。

 生まれてくる時点で、子供の脳は大人の脳とだいたい同じ姿になっている。だが、発達はまだまだ終わらない。大脳皮質は何年もかけて複雑さを増していき、シナプスの形成は一生続く。p26「胚が意識を持つまで」

 ゴーギャンの画題ではないが、「私はどこから来たのか、私は誰か、私はどこへ行くのか」は、人類永遠の課題だ。

 ふだん私たちが意識の話をするとき、たいていは「認識」の意味でこの言葉を使っている。つまり、ほとんどの人は意識を心理学的な意味で捉えているわけだ。知覚力を備えた生物として、自らの行為が自分と他者にどのような影響をもたらすかを認識している状態を指すのだと。

 しかし、脳神経学者はこの種の言葉を医学的な意味で用いるので、日常会話で使われる場合とは異なる。医学的に言うと、「意識」とは覚醒していて注意力のある状態を指す。昏睡に陥った人は意識を失っている。

 アルツハイマー病の末期患者には意識がない。生まれたばかりの赤ん坊には意識がある。母親が部屋に入ってくれば気づくからだ。もっとも、脳機能の発達の度合いにかんしては、新生児より昏睡している患者のほうが上であろうが。p58「意識の終焉はいつか」

 脳にまつわる解剖学的かつ顕微鏡的な生物学にはついていけないが、意識コンシャスな当ブログとしては、意識という単語がでてくると、急に文字行を追う速度が落ちる。

 新しい情報を学んで覚えるのも、それを正確に思い出すのも、どうしてこれほど難しいのだろうか。ひとつには、私たちの脳が、現代社会で覚えなければならないようなことを覚えるのに向いていないからである。(中略)

 脳というものは、実体のある物理的な空間のどこかで恐ろしい危険に出くわす可能性があるかといった、生物が生きていくのに必要な情報を覚えているのに適している。p171「脳には正確な自伝が書けない」

 最先端の脳科学の実際的な成果を踏まえながら、論はさらに広がる。

 かつて学者たちはこういう説を唱えていた。「合理的な視点から世界の理解が進めば、宗教という、人間の文化に残る最後の忌々しき非合理的な領域の影響は、必然的に低下するはずである」。ところが、科学と理性が支配する現代にあっても、宗教は死に絶えるどころではない。p209「宗教の正体」

 科学的言説、あるいはこの本においても、その成果の報告に段においては、言いきっている部分ではなかなか小気味いい言説が続く。しかしながら、円周率を3.14どころか、3と言いきってしまうような割り切りの良さで、それこそ「割り切れない」部分がどんどん山積みになってしまうような状況には、ぞっとする。まるで、空に向けて架けられたバベルの塔にさえ見えてくる。

 つねに進歩を続ける人間の知識は、地球上のひとりひとりが真実として受け入れている事柄のなかにいやがおうでも入り込んでくる。(中略)だが、物質的な利益の陰には、心の面におけるもうひとつの現実がある。現代の知識は、数十億の人々が信じているいろいろな宗教の教えと真っ向うから衝突するのが避けられない。俗な言い方をすれば、サンタクロースがいないことをまだ誰も子供に教えていないのである。p222「人類共通の倫理に向けて」

 それがいくら滑稽に見えたとしても、やはり科学的な歩みを止めることはできないし、まったく方向性を失っていると絶望するべきでもない。

 世界について、また人間の経験の本質について、私たちが信じていることは実際には偏っている。また、私たちが拠り所にしてきたものは過去に作られた物語である。ある一面では、誰もがそれを知っている。しかしながら、人間は何かを、何らかの自然の秩序を信じたがる生き物だ。その秩序をどのように特徴づけるべきかを考える手助けをすることが、現代科学の務めである。p240「人類共通の倫理に向けて」

 この部分がこの本の結論である。本書の原文タイトルは「The Ethical Brain」。「エチカ」とくるとスピノザを思い出す。「倫理」と言えば、これまた、当ブログとしてはなかなか使いにくい言葉ではある。しかし、決して使い切れない言葉でもない。しかしそれらをすべて「脳」のなかに求めようとすれば、それは受け入れることはできない。

 卑近な例でいえば、クラウド・コンピューティングの端末として私たちのパソコンがあるように、私たち人間は、ひょっとすると、雲の上と繋がっている存在である、と仮定することができるかもしれない。小宇宙と大宇宙、アートマンとブラフマン、などの喩えもある。意識コンシャスな当ブログの旅は果てのない旅路だ。だが、混沌とした世界に向けて失速してしまっているわけではない。まだ、光の在りかを尋ねる旅は続いている。

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2010/09/14

人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線

人間らしさとはなにか?
「人間らしさとはなにか?」人間のユニークさを明かす科学の最前線
マイケル・S.ガザニガ/柴田裕之 2010/03 インターシフト/合同出版 単行本 605p
Vol.3 No.0140 ☆☆☆☆☆

 HUMAN:The Science Behined What Makes Us Unique・・・・・・・。英語原書のタイトルはほとんど日本語のタイトルに反映されているだろう。「人間らしさ」とはなにか、は、「人間」とは何か、と、どう違うのだろう。Humanと人間は同義でいいのだろうか。そもそもこの本を書いた「科学者」とは、脳科学者なのか、コンピュータ技術者なのか、最前線とは、どういうことか・・・・・。などなど、考え始めれば切りはない。

 1939年生まれ、現在70歳のカリフォルニア大学サンタバーバラ校の心理学教授が書いた本、となれば、それなりにイメージが湧いてくる。この本、600ページを超える大冊で、確かに膨大な「科学の最前線」の成果が網羅されている。

 しかし、かいつまんで考えれば、数十年を大学の最先端の知的空間で過ごした老教授の結論と、この数年、ブログ機能を持て余して、図書館から借りてきた本の読書記録をつけてきた当ブログのあてずっぽうなとりあえずの結論の間に、それほどの大きな乖離があるわけではない。

 コンピュータが十分賢くなれば、つまり人間より賢くなれば、自分で自分の体を設計できるようになるだろうと彼(レイ・カーツワイル)は考えている。一方、人間のような知能とそれに寄与するもののいっさいは、人間の体なしには存在しえないと考える人たちもいる。p502「肉体など必要か?」

 カーツワイルの名は当ブログにおいては久しぶりの登場だ。「スピリチュアル・マシーン コンピュータに魂が宿るとき」「ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき は3年ほど前にひと連なりのシンギュラリティ論議の中で読んだ。

 箱入りの脳が、人間のような知能を持つことはけっしてないのだ。これまで見てきたように、情動やシュミレーションは私たちの思考に影響を与えるし、またそうした入力がなければ私たちはまったく別の動物になってしまうだろう。p502「肉体など必要か?」

 この身体を一つの人間の基準とするなら、話は早い。よけいなところまで手を伸ばす必要はない。所詮人たるもの、成人すれば1~2メートルの身長があり、生命を維持したとしても、せいぜい100年を超えるのはまれだ(もっとも戸籍上は200歳を超えるひともいるらしいがw)。とすれば、この身体を基準として、「人間とはなにか」、「人間らしいとはなにか」を考えればいいのではないか。

 億年とか、光年などという概念は、通常の肉体をもつ人間に、ホントウに必要だろうか。目に見えない超ミクロの世界とか、宇宙の全体図のような超マクロの世界の探究など、ホントウに有効なのだろうか。

 じつのところ、人間は自分の能力を理解するための足がかりを、ようやく得ようとしているにすぎない。集まってくる情報をすべて取り込む能力が私たちにあるかどうかは疑わしい。人間は他の動物とあまり違わないと見る人たちのほうが正しいのかもしれない。

 私たちはほかの動物とまったく同じように、自分の生物的限界を持っている。だから彼らの下す最低の評価を上回る能力などないのかもしれない。だが、それを上回れる自分を望み、想像する能力は注目に値する。今以上の自分を望む種などほかにない。ひょっとすると、人間はその望みをかなえられるかもしれない。p549「あとがき」

 当ブログは「小説嫌い」を標榜しているわけだが、その習癖を支持してくれる意見を見つけることもできる。 

 この世界でうまく生きていくためには、正確な情報が必要だ。それに生存がかかっている。一般に、人はフィクションよりもノンフィクションを好んで読むべきだが、実際には、ドキュメンタリーよりもフィクションや映画を観たがる。歴史書よりも歴史小説を好む。しかし、本当に正確な情報がほしい場合には、ダニエル・スティールの小説ではなく百科事典をひもとく。p312「芸術の本能」

 この本、「第8章 意識はどのように生まれるか?」を最初に読んでしまった。この本は、この章を抜きにしては語れないし、この章をどこを抜き書きするかとなると、なかなか難しい。全体が面白い。再読するチャンスがあるとすれば、まずはここからまたスタートすることになるだろう。

 意識にまつわる謎の一つは、どのようにして知覚や情報が非意識の深みから意識へと入ってくるかだ。「門番」がいて、一部の情報だけを通すのだろうか。どんな情報が通るのを許されるのか。どんなプロセスが意識を支えているのか。その後何が起きるのか。新しい考えはどのようにして生まれるのか。どんなプロセスが意識を支えているのか。すべての動物には同等の意識があるのか、それとも意識には程度の差があるのか。私たちの意識はユニークなのか。意識の問題は、神経科学者たちの研究の研究目標、いわば伝説の聖杯のようなものだ。p395「意識はどのように生まれるのか?」

 この本、全体的に網羅していはいるが、決して暫定的な仮説や極論に拘泥しているわけではない。全体的な科学の今日的な在り方のなかで、当ブログの「意識コンシャス」な嗜好性を真に満たしてくれる部分は多くはないが、その姿勢はきわめて信頼のおけるスタンスを保持している。 

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2010/09/13

「いきるためのメディア」 知覚・環境・社会の改編に向けて 渡邊淳司/ドミニク・チェン・他

いきるためのメディア
「いきるためのメディア」 知覚・環境・社会の改編に向けて
渡邊淳司/田中浩也 ・他  2010/08 春秋社 単行本 306p
Vol.3 No.0139 ★★★★☆

 若き知的論者たちのコラボレーションによる一冊。ほとんどが1970年代の生まれで、30歳台。いわゆるネット社会における、もっとも利用層の多い年代の、もっとも先鋭的な部分による意欲的な論文集だ。それぞれが多義に渡る論を展開しているので、決してまとまりがいいとは言えないが、光るものが随所に多くある。

 有史より、個々人の認知限界から生じるさまざまな問題---自然現象の不可知、社会の崩壊などの解決不可能な事象---を回収し、個人を世界と接続し秩序をつくるための機構として「宗教」が機能してきた。「宗教(religion)」という言葉は、ラテン語源に由れば、「re-ligio」=「再接続」を意味する。それは多様な人間からなる集団を共通の物語のもとで統治するという実際的な定義であると同時に、個々の人間が「わたしがわたしとして存在する理由」、言い換えれば自己同一性を担保する物語装置として作動するものとして理解できる。p295ドミニク・チェン「コミュニケーションとしての統治と時間軸の設計」

 このドミニク・チェンとは誰だっただろう。どこかで聞いたような気もするが、自分のブログにはまだ記録していなかったようだ。1981年生まれの29歳。若き精鋭が、広く学習してまとめた、という感じがする。

 「宗教のない世界」というフレーズはジョン・レノンの樂曲「Imagine」で世界的に知れ渡った。それは宗教が人類史を象徴する大半の紛争の理由として利用されてきた経緯を表しているが、それゆえに共同体を統治するための再=接続装置は「宗教」とは別の概念、別の呼称をもって更新される必要性があるものとしてとらえることもできる。p298ドミニク・チェン「同上」

 チェンは巻末で推薦書籍の一冊として中沢新一「森のバロック」を挙げている。当ブログの中沢追っかけは実に貧弱で、途中で放り投げてしまっているので、「森のバロック」を始め多くの近刊を含め未読である。難解かつ癖のある中沢本を、若き先鋭たちは実際に、どのように「いきるためのメディア」として読み解いているのだろうか。興味あるところである。

 この本が、現代の仏教関連の良書を量産している春秋社からでていることも興味深い。ここに書かれているのは、いわゆるメディア論であり、インターネットやウェブ、IT関連、そして先端科学についてなのであるが、きわめて人間科学にするどくアプローチする編集方針が貫かれている。

 やや学校のテキスト臭があって、一般の娯楽本としての楽しみは少ないが、どこか湧きたつような衝動感に突き動かされる。これは、なんだろう。若き知的衝動、とでも言ったらいいのだろうか。決して熟成した老成した丸みのあるものではない。

 全体がひとつの円だとするならば、ここにまとめられているのは、ほんのその円周のとぎれとぎれの破線でしかない。しかも角度で言えば360度のうちの10度くらいしかカバーしていないのではないだろうか。だが、それでもなお、そのわずかな部分を持ってして、全体をイメージさせるという優れた拡張性がある。フラクタルというのだろうか、ホログラムというのだろうか。若さゆえの「生命力」がさらなるイメージをかきたてる。

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2010/09/12

ネット王子とケータイ姫<2>

<1>よりつづく

ネット王子とケータイ姫
「ネット王子とケータイ姫」 <2>悲劇を防ぐための知恵
中公新書ラクレ香山リカ/森健 中央公論新社 2004/11 新書 190p
☆★★★★

 すでに6年前の本である。一連の「勝間和代X香山リカ 公開ガチンコ90分」とか、森健の「脳にいい本だけを読みなさい!」 をめくっていて、そう言えば、この二人の共著があったなぁ、と思い出した。再読したみたところで、新たなる発見というものがあるわけではない。すくなくとも、6年前とはこういう時代であったのだな、という確認作業ということになる。

 最近6年間愛用(笑)してきたケータイ・ムーバ機をフォーマ機に変更した。最新のスマートフォンとは言い難いが、スマートフォンもどきの最新ガラケーだ。これがなかなかよい。6年前それ以前は、カメラ機能もなかったし、imodeも使えなかった。この6年間、時代はずいぶん変わった。ケータイも社会も世界もだいぶ変わった。

 森健には「インターネットは『僕ら』を幸せにしたか?」がある。5年前ならこの問いの存在にも妥当性があったが、すでにインターネットは避けて通れないメインストリートになってしまった今、このような質問でお茶を濁していることはできない。インターネットを通して地球人たちは幸せにならなければならない、というところまで時代は進んできている。避けてはもう通れないし、失敗は許されないのだ。

 6年間と言う年月は、インターネット関連の技術を変えただけではなく、人間を変えた。少なくとも0歳児は6歳児になったし、小学生は高校生、高校生は社会の第一戦で活躍する年齢になっている。団塊の世代も6年前なら働き盛りだったが、いまでは退職して、悠々自適の生活を送っているかもしれない。

 この本のテーマになっている、小学生や中学生、高校生たちは、当時から6年が経過して、はてさて、どうなっているのだろう。まさに「デジタルネイティブ」たちがどんどん地上に浮上してきている。そして、時代は次第にそちらが大勢をしめていくようになる。「ネット王子とケータイ姫」なんて揶揄することで、物事が回避できる時代ではなくなっている。

 ここは、積極的にネットやデジタル社会に取り組む姿勢が必要となる。そして、それを乗り越えていくのは、単なる保守的な自己保全を狙うのでもなく、旧態依然とした教育論を振り回すのでもなく、反動的な倫理観を盾にネット社会を切り刻むような方法でもない。

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2010/09/11

ツイッターノミクス<2>

<1>からつづく


「ツイッターノミクス」 <2>
タラ・ハント/村井章子 2010/03 文藝春秋 単行本 288p 
☆☆☆☆★

 この本を偶然、図書館の新刊コーナーで見かけた今年の5月と違って、今回この本を手にしたのはだいぶ意識的にである。5月の段階ではツイッターとは何か知らなかったし、むしろうるさいと思っていた。できれば触りたくないのだが、騒々しいので、ツイッターとやらを知ってやろう、という野次馬根性があった。

 だが、この本は「ツイッターノミクス」という思わせぶりなタイトルであるのにも関わらず、話題がツイッターに集中しておらず、こちらの「好意」を袖にされたようで、あまり気分のいい読書体験ではなかったのであった。

 しかし、それは二重に勘違いが起きたための悲劇であったのだ。ひとつは、この本を日本に紹介しようとする場合に、このようなタイトルにしてしまったこと。そして、そのツイッターとやらに、批判的に接しようとした当ブログが、この本にツイッターとやらの「具体性」を求め過ぎて、失望してしまったこと。

 実は、この本は、そのように紹介されるべき本でもなかったし、そのように読まれるべき本でもなかったのである。もう少し落ち着いて読めば、この本はとても面白い一冊だったのだ。ひょんなきっかけでツイッターとやらのIDを取得して、私もすこしつぶやいてみた。これがそれなりに(なんて言うと怒られるかな)面白い。

 現在のところ200個くらいのつぶやきをアップしたけれど、こんなもんでいいんだろうか、と思う。なんかいろいろありそうだぞ。そこんとこ、今はすこし研究中。少なくとも、当ブログとツイッターは連携をし始めている。ここに書いたことをツイッターでつぶやくと、そこからリンクしてこちらにやってきてくれる人たちも増えてきた。古くからの友人たちも、アップするとすぐに「なう」な感覚で飛んできてくれる。だいぶ違ってきた。

 ウッフィーとは、信頼、評判、尊敬、影響力、人脈、好意などなどの積み重ねの中から生まれるものである。ウッフィーを増やすのに資本金や規模は関係ない。ホームワーカーも、小さなお店の店主も、アーティストも、NPOも、ソーシャル・ネットワークを使ってウッフィーを増やし、ビジネスを広げている。p38「ウッフィーって何?」

 この本のテーマはここでウッフィーという名前で語られているものについてなのだ。はからずも勝間和代が「無形文化資産」と呼ぼうとしていたものにちかい。しかし、タラ・ハントの「ウッフィー」はもっとデリケートなもので、勝間がいうところの「フォロー数」や「フォロアー数」の数字的な集合体のことではない。

 そしてそれは、かつて梅田望夫が言っていた、ネット上に小さな単位のアフェリエイトを集める仕掛けを作ってすくい取るようなメカニズムでもない。むしろ、一般社会における人間関係の「徳」ともいうべきものだ。もっとも度が過ぎれば「悪徳」となるだろうし、人はそれを奢らず、静かに「陰徳」として秘匿すべきものですらある。あるいは、もともと計量化なんてできるものではない。

 旧来のマーケティング手法、グループセグメントは、ウェブではうまく働かない。ただ一人の顧客を思い描いて、商品を設計し、語りかける。するとうまくいくのだ。p111「ただ一人の顧客を想定する」

 当ブログのスタート地点では、14歳の少年少女に働きかけるようなつもりで書き始めた。それは、14歳だった自分を思い出そうとする行為だったり、いずれ14歳になるであろうまだ生れぬ未来の少年へ向けたものだったりした。しかし、それは必ずしもうまくいかず、結局は、ネット上のひとりつぶやき、モノローグになってしまっている、と反省する。

 ネット上でただ一人、と言われるとこれはなかなか難しい。友人の誰か、というと、すでにほとんどが50歳を超えた老境に入りつつある連中ばかりだし、自分も含め、ネット上における平均値やスイートスポットを直撃しているとはとても思えない。

 ネット上の人口のピークは30歳前後だと思うが、最近は後ろに5歳ほどずれていると言われる。そう言った意味において、この本の著者タラ・ハントは1973年生まれの30代半ばである。しかも、どうやら女性だ(笑)。初読の時は、そんなこともどうでもよくて、ツイッターの部分だけを読もうとして失敗したのだった(爆)。

 ネット上の30代半ばの女性に働きかけるような想定は、極めて的を得ているものであるようでもある。つまり、この本はネット上の象徴的「ただ一人」の顧客の動きを、著者の動きから類推していく、という形になっているのだ。

 ちょっと前に、近くのデパートの隣の売り場が大きく拡大された。ターゲットは、30代の子連れ女性であるという。オープンニングに出かけてみたが、すでに子育てが終わった初老の男が座るスペースもなく、どこか疎外感さえ感じられる。この頃よく郊外に出店しているアウトレット・モールとやらも、その賑やかさに反して、どうも落ち着かない。居場所がないのだ。

 まぁ、それはそれでいいのだ。シルバー予備軍はシルバー・マーケットで遊んでいればいいのだが、はてさて、ネット上で遊ぶには、それではすこし自分の活動エリアを狭め過ぎている感じがする。まずは、もうすこし視野を広く取りたい。

 SNSやツイッターにしても、メインターゲットを30代の女性、としている節もある。この辺、某巨大掲示板とは、いささか趣を異にするだろう。各ブログにおいては、当ブログをはじめとして、それこそまちまちであろう。

 失敗するのではないかと不安になったとき、私はTwitterを使う。「こんなこと始めたけど、うまくいくかなあ」ってつぶやいてみるのだ。初めての本(この本である)を書くことになったときも、そうだった。p198「無秩序をあえて歓迎する」

 タラ・ハントは文章から類推するに、きわめて素敵な女性だ。私は若い時からカウンセリング繋がりで30代の女性ともけっこう知り合ってきたし、長じて子育て時代には、いわゆるPTA活動も積極的に行った。だから、30代の女性のいろいろな面を知っている。そして、いろんな女性がいることも、知らざるを得なかったw。

 そうした中で、もしタラ・ハントのような女性がいたら、とてもホッとしただろう。多分この女性は、次第にリーダー的立場を与えられ、決して権力的ではなく、全体をみんなの力を借りながらまとめていく、天性の才能を発揮するに違いない。

1)固定観念にとらわれない

2)オープンにする

3)まちがいを認める

4)成功の定義を見直す

5)目標を設定する

6)達成度を測る指標を決める

7)質的な指標を探す

8)指標偏重に気をつける

9)外に目を向ける

10)仕切ってはいけない

11)そして辛抱強く  p207~218

 ここに掲げられたものはなにもネット上だけのものではない。むしろ「健全」なコミュニティづくりにおいては当たり前のことである。ある意味では、ここで語られているSNSやブログやツイッターは、井戸端会議のようなものだ。井戸端だけで社会は成立しないし、井戸だけ掘ったところで井戸端会議も成立しない。

 前回、私はこの本の中に、井戸の掘り方を求めてしまった。それではいけない。ここに書かれているのは井戸端会議の運営のしかただが、著者は、地域や社会的な広がりがあってこその井戸端であることを、キチンと理解している。そしてまた、「有用」な井戸端会議の運営の仕方を知っており、ささやかながら、その輪を広げようとしている。

 ウッフィーつまり信頼や評判を勝ち得るには、コミュニティとの関わり方で量より質が大事になってくる。もちろん数字的なことがどうでもいいわけではないが、それが最優先目標ではなくなるということだ。私自身は、コミュニティの「健全性」重視している。健全であるとは、やや抽象的な言い方になるが、質的・量的な指標がともに好ましい方向に向かっていることを意味する。p211「成功の定義を見直す」 

 この辺の感覚、「勝間和代X香山リカ・公開ガチンコ90分」あたりで、あられもない姿で金網デスマッチ・ショーに出場している選手たちには、すこし見習ってもらいたいものだと思う。

 著者のタラ・ハントが核となる概念として用いているのが「ウッフィー」だ。
 「マジック・キングダムで落ちぶれて」という小説のなかにある仮想の通貨。それは、他人に対して善行をおこなうことで蓄積されていく。そしてその世界では、すべての決済は「ウッフィー」でおこなわれる。
p276津田大介「解説 日本のツイッターノミクス」

 津田は「Twitter社会論」を描いているし、「家電批評」のスマートフォンについての鼎談でも発言していた。あるいは、先日はNHKテレビ「クローズアップ現代」のツイッター特集でもゲストで出演していた。

 ツイッター個体として見ると、見えないことがたくさんある。しかし、避けざるを得ない地球人たちの今日的ライフスタイルとしてのネット社会の中で、あらためてツイッターを見ると、それこそグーグル検索を超える新しい視点が見えてくる。そしてそれを「そう」育てようとしている人たちがいる、ということも分かってきた。それはツイッターそのものを生みだした人たちであり、それをそう活用している人(一部ではあるが)たちである。

 「“つぶやき”は社会を変えるか?」。ストレートにイエスとは言えない。しかし、育て方、育ち方によっては、イエスと言える。すくなくとも、今の段階では、ノーと言いたくない。

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2010/09/10

触発する図書館<2>空間が創造力を育てる

<1>よりつづく

触発する図書館―空間が創造力を育てる
「触発する図書館」 <2> 空間が創造力を育てる
大串 夏身 (著), 高野 洋平 (著), 高木 万貴子 (著), 鳴海 雅人 (著) 2010/04 青弓社 単行本: 141p
☆☆☆☆☆

 この本なんとなく気になって、また手に取ってしまった。アップルiPhoneやiPadなどのスマートフォンの進化、アマゾンKindleなどの電子書籍の台頭、Googleブックスの更なる野望、そして、ツイッターをはじめとするインターネット上の情報の在り方の変化。これらの動きのまで、旧態の図書館は、まるで風前の灯か、とさえ思える。

 しかし、普段から地域の公共図書館には多大な恩恵を受けている当ブログとしては、はて、本当にそうなのか、と疑問符を打ってみる。たしかに、自分がいままで持っていた図書館のイメージというものは、決してアップデイトなものではなかった。まさに旧態依然としたものだった。

 しかしながら、21世紀になって以来、あるいは、当ブログが自らを読書ブログなのだ、と自己規定して以来のこの4~5年の間に、よ~く目を開いて見てみると、いわゆる公共図書館は、ものすごい変貌を遂げつつある。蔵書ネット検索、取り寄せサービス、返却システムの合理化やコンファレンス・サービスの向上。現在の私の生活は図書館なくしては成り立たないほど、便利に活用させてもらっている。

 このような変貌は、決して偶然や漠然とした事態がもたらしたものではない。そのように変えようとしてワークを続けてきた人々がいるのである。意欲的に、意識的に、図書館は変わりつつある。

 この低成長の時代にあって、地域の超近代的建築物はパチンコ屋と葬儀会館だけかと思っていたら、なんと、よくよく見えば、地域の図書館もなかなか素敵だぞ。これは国内ばかりか、世界にさえ誇れるすごい建築物であったりする。

 蔵書はいままでのものに順次追加されているのだろうが、ディスプレーの仕方や紹介の仕方、あるいは組み合わせの在り方などで、こちらの知的渇望を、じわりじわりと刺激してくる。「本」の進化より、「図書館」の進化のほうが風雲急を告げていて、これがなかなか目を離せない。

 この本、タイトルで損をしているのではないか。「図書館」という単語自体が、旧態依然とした雰囲気を持っている。「空間が創造力を育てる」というサブタイトルも決して上手とは言えない。なにかもっと、流行りの言葉を入れて、もっともっと刺激的なセールス・プロモーションをすべきだ。すくなくとも、まさに内容はそのようなものなのだから。

 図書館員が図書館のなかだけにとどまっているのではなく、街の利用者のもとへ出かけていくことも必要です。p085「利用者のもとへ、街に飛び出せ」

 この本は一般向けでもあるが、意識的に図書館員向けにも書かれている。図書館の司書やスタッフが、さらにこの本のような意識変革を遂げたら、そして、ネットと連動し始めたら、これは、本当に大変なことになる。世界のかくめいは図書館から発火する、と言っても過言ではない。

 本棚と呼ばれる書架が並んでいる図書館の姿はもう見られなくなります。p099「情報メディアの進化に追随する空間」

 悪く言えば、情報社会の変化に対応する図書館側から見れば、現在の状況は断末魔の悲鳴を挙げている状況にさえ近い。保守層から見れば、このような変化は受け入れがたいものとさえ思えるだろう。しかし、図書館は、もっともっと進化する。進化せざるをえない。そして、その時、「図書館」というネーミングさえ、変わってしまうだろう。たとえば、公共コンテンツ・センター、などという風に。

 たとえ閉架にある本でも、利用者との出会いが生まれるような仕組みが必要です。p108「地下で眠る財産」

 当ブログは、一般開架棚にある本を中心に読み進めているが、時にはやっぱり深追いしたくなるテーマがある。その場合、図書館蔵書ネット検索は実に便利だ。なんだ、こんな本が、こんなに前から、しかも手短にあったではないか、と、大助かりだったことが再々ある。閉架も、これからどんどん活用したい。

 図書館にも、さまざまな指標で評価し、トータルな格付けがあっていいと考えます。p128「地球のことを真剣に考えはじめた図書館」

 これは本当だ。地域の図書館が使いにくかったのは、駐車場の問題だった。都市の中心部にあるために、地下の駐車場が、立体駐車場になっており、常にスタッフが2~3人いるのは有難いが、車の出し入れに、どうかすると10分もかかったりする場合がある。本の出し入れだけで、わずか数十秒で済む作業のために、この有料駐車場を使う必要があることには大いにためらいがあった。最近は、自転車やウォーキングでいくことにしているが、利用する私(たち)も、真剣に考えなければならないことがたくさんある。

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2010/09/09

ネット・バカ<2>インターネットがわたしたちの脳にしていること

<1>よりつづく 

ネット・バカ
「ネット・バカ」<2>インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G.カー/篠儀直子 2010/07 青土社 単行本 p359

 手当たり次第、いろいろやってはみたが、極私的読書ブログとしての読書対象は、新書本が一番フィットしているようだ。分量といい、テーマの絞り方といい、話題性といい、扱うにはちょうどいい。それに比して、アメリカのハードカバー本は、テーマとしては深くて意義深いのだが、読み込み、絞り込むまでに時間がかかる。

 この本も、タイトルがタイトルだけに関心を呼びそうなのだが、はっきり言って本筋のテーマにたどり着くまで時間がかかりすぎる。そしてなお、本当に主張すべきことが、はっきりと明瞭に語られているのか、どうか、定かではない。書き手としても、本当にそのテーマをつかんでいるのか、はっきりとそのことを主張しようとしているのか。

 英語の原書のタイトルから、日本語のタイトルへ翻訳される時に、このタイトルはないだろうと、かなり違和感があった。だが、パラパラめくってみて、すこし放っておいてみると、実は、やっぱりこの日本語タイトルがぴったりとその本筋を表現しているのではないか、と思うようになった。むしろ、このタイトルで、テーマを絞り込んだ形で、日本語の新書本としてでていれば、大ヒットするかもしれない。いや、すでにそんな本、あるのかも。

 マイスペースやフェイスブック、ツイッターといったSNSの隆盛により、近年、加速は最大限に達している。これらを提供する企業は、その何百万もの会員に対し、「リアルタイム・アップデート」、すなわち、ツイッターのスローガンの言うところの「いまどうしてる?」に関する短い情報の、途切れることのない「流れ(ストリーム)」をもたらしている。p219「グーグルという教会」

 この本は人気本だ。私の後ろにウエイティングリストが溜まり始めた。次の読者のために早く返却してやろうと思う。そして、もうすこし経ったら、再読してみよう。今回も二読してみると、インターネットを語る前半よりも、脳やあるいは意識ついて語る後半のほうに、深い洞察がいくつも隠されている。留意して読み進める必要を感じる。

 「わたし(ラリー・ペイジ)の理論では、人間のプログラミング、つまりDNAは、およそ600メガバイトに圧縮されています。だから現代のOSより小さいわけです。リナックスやウィンドウズよりも。・・・・・定義上これには、脳の起動も含まれます。だから、人間のプログラム・アルゴリズムはおそらくそれほど複雑ではありません。(知性というのは)おそらくむしろ、全体の計算に関わるものなのです」。

 デジタル・コンピュータが時計や泉、工場機械に取って代わって、脳の構造や活動を説明するメタファーになってからもうずいぶんになる。脳を説明するのにコンピュータ用語を使うのは当たり前になっているため、自分あ隠喩的にしゃべっていることにも気づかないぐらいだ。p237「グーグルという教会」

 当ブログは「意識をめぐる読書ブログ」と銘打っている。いや、しかし、それは後付けであって、最初からそれを追っかけたわけではない。ふと気付いた時、自分のやっていることはそうであろう、とキャッチフレーズにしただけである。

 さて、それでは現在の自分は一体なにをしてるのだろう、と考えてみる。キーワードは「意識」であり「コンシャス」であることは変わりはないようだ。そして、いろいろ造語的に遊んでみると、現在は、「意識コンシャス」という姿勢になっているのではないか、と思う。

 健康や美容に意識を向けるエステやファッションがボディ・コンシャス(ボディコン)と呼ばれ、石油販売会社の地球環境保護運動がアース・コンシャスと名付けられ、足元コンシャスや喉仏コンシャスなどと、さまざまな造語が繰り返されている。

 それにちなんで、当ブログが今やっていることをネーミングしてみれば、意識を意識する、あるいはコンシャスネスにコンシャス、という同義反復的な活動領域に突入しているようである。つまりここは「意識コンシャス」とでも名付けておかなくてはならない精神状態のように思うのである。次のカテゴリ名はこれにしようと思う。ということは現在のカテゴリは、そちらに向かって、方向性を与えられたということになる。

 「ワイアード」誌のライター、クライブ・トンプソンはネットのことを、かつて内側のメモリーが果たしていた役割を引き継ぐ「外付けの脳」とみなしている。「何ごとについても、覚えようとすることはもうあきらめてしまった。オンラインであっという間に情報を検索できるのだから」と彼は言い、「データをシリコンに預ければ、われわれは自分の灰白質を自由にし、ブレイストーミングや瞑想など、もっと「人間らしい」作業に従事させられると提唱する。p250「サーチ、メモリー」

 このあたりに当ブログが意識コンシャスと名付けようとしている姿勢、指向性が隠れている。この部分をもっと外側にプッシュする必要がある。

 1940年代に心理学者カール・ロジャーズが開発したテクニックを使う、この流派のサイコセラピストは、患者と会話する際、世界に関する知識をまったく持っていないかのように装う。ほとんどの場合彼らは、陳腐でオープンエンドな質問やコメントのかたちに変えて、患者の発言をオウム返しにする。その無知がポーズにすぎないことを知っているので、患者は「あらゆる種類の背景となる知、洞察、理論的思考能力」を、セラピストの属性として自由に想定できる。p279「わたしに似た物」

 すでにインターネット上でおきていることは一部のオタク的イノベーターやアーリー・アダプターが狂奔していることだけではなくなってきている。すでに、アーリー・マジョリティやレイト・マジョリティを巻き込み始め、いまやラガードですら、そのことに無関心ではいられなくなっている。いまや、物事は、分散的ではなく、統合的になりつつある。しかも、スーパー統合的、とでもいうべき事態が到来しつつある。

 1950年代、マルティン・ハイデガーは次のように述べた。前方に立ちはだかる「テクノロジー革命の波」は、「人間を非常に魅惑し、魅了し、惑わせ、欺くものであるので、いつの日か、計算的思考だけが唯一の思考方法として、受け入れられ、実践されるようになるかもしれない」。「瞑想的思考」に従事する能力を、ハイデガーは人間性のまさに本質と見なしているのだが、脇目のふらぬ進歩の犠牲に、これはなってしまうかもしれないと彼は言う。p305「わたしに似た物」

 このような文脈でハイデガーを再読していく必要もあるだろうが、当ブログ的センスでいえば「瞑想的思考」という言葉はありえない。「瞑想」とは「思考」のない状態を言うのであって、「思考」によって「瞑想」にたどりつくことはない。瞑想という言葉も手垢のついた言葉になってきた。当ブログは暫定的に、自らの姿勢のことを、まずは「意識コンシャス」というネーミングにしておく。いずれこの本を再読することもあるだろう。しかも精読が必要かも・・・・・・。

 「テクノロジーの狂乱」は、「あらゆる場に定着する」恐れがあるとハイデガーは述べる。
 われわれはいまや、この定着の最終段階に至ろうとしているのかもしれない。狂乱を、魂のなかへと迎え入れようとしているのだ。
p305「わたしに似た物」

 この語がこの本の結句である。そして、この認識は、当ブログの、新たなる出発地点となるであろう。

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2010/09/08

「脳の本」数千冊の結論 森健

脳にいい本だけを読みなさい!
「脳にいい本だけを読みなさい!」  「脳の本」数千冊の結論
森健 2010/02 光文社  単行本 255p
Vol.3 No.0138 ☆☆☆★★

 当ブログはある時点から、書く記事にタイトルをつけることをやめ、本のタイトルをそのま自分のブログのタイトルとしてきた。自分の創造性が不足しているせいもあるが、あとから検索するのに、自分で自分をググッてみる必要がでてきたあたりから、それはもう当たり前のこととなってきた。しかし・・・・・

 この本のタイトルをそのまま自分のブログの記事のタイトルにするのは、きわめて憚かられる。本のタイトルを単に転記しているだけだ、と多くの人は理解してくれるだろうが、それでも、こんな本を読んでいて、なお、ひょっとすると、少しは共感しているのではないか、と思われるのが、ちょっと恥ずかしい。

 いや、この「本」自体には共感するところが多い。むしろ、こういう視点で、よくも、こうして「脳の本」に切り込んでくれた、とすこしは感謝する。

 脳ブームで脚光を浴びた著者は複数いるが、現役の研究者であり、多くのヒット本を生みだしたことで世の中に少なからぬ影響を与えたといえば、次の3人を措いて語ることはできない。

 東京大学大学院薬学系研究科の池谷裕二准教授、東北大学加齢医学研究所の川島隆太教授、そしてソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャーの茂木健一郎氏。この3人が登場してから、「脳の本」は急速な広がりを見せることになった。078p

 池谷については、「進化しすぎた脳」「単純な脳、複雑な『私』」が面白かった。茂木については、ひととおり追っかけてみたが、「意識と何か」など、ごく一部を除いてはまったく面白くない。川島教授に至っては、まったく関心がない(食わず嫌いか?)し、今後の読書リストにも載っていない。その他、本書においては、T・H(特に名を秘す)についても触れている。

 自己啓発を主体とする「脳の本」を多数書いていることについては、そこは確信犯と言い切った。
 「実際、ビジネス啓発という分野の書籍は、読者にとって実用的に役に立ってなんぼのものなのね。だから、そこはビジネスとしての確信犯で書いている。僕の読者もそれはわかってくれていうrと思う」
 つまり、ビジネス啓発という分野の書籍だからこそ脳の働きの説明より、その働きから得られる効果のほうだけにフォーカスしているとのこと。それはビジネスだと。そうT・H氏は語っていた。
p118

 脳の本とか、いわゆるビジネス書、と一般に日本で言われている書籍群は、そのかなたに「意識=コンシャス」論をおくと、理解が早い本がたくさんある。あるいは、欧米のハード本などは、もろに「コンシャス」を扱っているのに、日本においては販売マーケッティング上の必要から「ビジネス」や「脳」などの、筋違いな形容の元で「売られている」本がたくさんある。

 日本の読者は、もうすこし「書き手」達を育てなければならないのではないか。いまのままでは、あまりにも読者が馬鹿にされている。そういった意味では本書の森健などは、今後の経緯によっては、大化けするサイエンスライターであると、私は期待している。

 「脳」はたやすく、新興宗教にも、スピリチュアルにも、オカルトにもなる。p190

 ああ、この辺までくると、ホントに微妙。目をそむけていたくなる。

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2010/09/07

Kindle Revolution キンドルの衝撃 メディアを変える

キンドルの衝撃
「キンドルの衝撃」 メディアを変える Kindle Revolution
石川幸憲 2010/01 毎日新聞社 単行本 185p
Vol.3 No.0137☆☆☆☆★

 「kindle解体新書」について書いた記事に対するアクセスが異常に多いことに、それこそ衝撃を受けている。これだけ、世間ではkindleに対する関心が高いのか、と改めて図書館リストを検索してみた。解体新書よりはすこし前の本だけど、こんな本も入っていた。ひょっとすると、これは、「iPadショック」(2010/05)なども関連付けて再読するべきなのかも、とさえ思った。

 キンドルは2010年に本当にブレークするだろうか。もしそうなれば、メディア業界にはどのようなインパクトがあるのだろうか。p4

 2007年、アメリカにおいてアマゾンがキンドルを発売して以来、それは爆発的な支持を受けているということである。アップルの発売したiPadを含め、各社がそれぞれに意欲的な電子書籍のシステムを発売し始めているが、そもそもパイオニアだったソニーや松下電器など日本のメーカーは03~04年頃に一度電子書籍端末を発売したが、全く売れなくて撤退した経緯がある。

 ペーパーレスの世界で新聞や雑誌は、個性を取り戻すことができるのだろうか。また神と電子書籍端末はどのように共存するのだろうか。p8

 キンドルは、白黒で、印刷物に近いディスプレイの表現能力があり、一度充電すれば、2週間は維持できるという。しかし、そこまでして電子書籍にたよらざるを得ないアメリカの事情も見えてくる。

 米国の郊外での新聞配達は大まかだ。「ドアステップ(玄関わき)まで配達」が宣伝文句だが、実際には配達員が車を降りずに車窓から投げるので歩道わきに着陸する。冬の寒い朝に新聞を取りに行くのは、誰もが嫌う日課になっている。p2

 活字文化、印刷文化は、今後どのように生き延びていくことができるのか。

 新聞の電子化に社運を賭けているニューヨーク・タイムズは、パソコン、スマートフォン、電子書籍端末のどれでもニュースが読めるように複数のプラットフォームを開発し、思考錯誤を繰り返している。p107「キンドル配信に力を入れる米国新聞社」

 技術の革新に沿って、旧メディアの危機感も必死なものがある。新聞社の生き残りには、3つの選択がある。

活字かインターネットか

 

1)活字の新聞に専念し、インターネットは無視する。

 

2)印刷版とデジタル版の併用。

 

3)デジタル版に専念する。p136

 しかし、米国の新聞社の状況はともかく、日本においては、とくに個人の一読者としての私の場合はどうなるだろう。

1)紙の新聞は購読しなくても、生活に影響がないことがすでに事実化している。

2)新聞をよみたければ、図書館行けばいいし、すぐ読みたければ、近くに何軒もあるコンビニに行けば、100~200円ですぐ購読できる。ネット上の情報であれば、各新聞社の複数を読むことができる。もっとも、こまかい地方ニュースやベタ記事は逃してしまう可能性はないでもない。

3)ネット上に掲載されていればそれで十分だ。もっとも有料版は、複数読むことができないので、無料版を複数購読することによって、ステレオ効果を狙うだろう。もっともネット上、となるなら、新聞社だけのニュースに異存することはなくなるだろう。

 キンドルという新しいメディアに注目することで、「ポスト危機」のシナリオが見えてきた。紙の新聞や雑誌がある日突然消えてしまうのではなく、紙もペーパーレスも、という「共存の時代」が近くに来ている。p183

 1950年生まれのジャーナリストにしてみれば、これまでの紙の媒体の活躍の場が失われてしまうのは、悲しいだろう。しかし、事態はそんなノスタルジアに支えられるような甘いものなのだろうか。ぺパーレスには、環境保護、という後ろ盾もある。膨大な印刷物を支えるために切り倒されている樹木が、環境汚染の悪循環のサイクルを後押ししていることも忘れてはならない。

 当ブログにとっては、電子書籍(端末)問題は、とってつけたような新しい問題だ。多分、この新しいメディアに対しても、ラガード(採用遅滞者)でしかないだろう。ただ、このような潮流が起こっているのだ、ということに対しては注意深くありたい。

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2010/09/06

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか  擬態するニッポンの小説 

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか
「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか」 擬態するニッポンの小説
市川真人 2010/07 幻冬舎 新書 310p
Vol.3 No.0136☆☆☆☆★

 村上春樹のファンでもなければ、小説読みでもない当ブログにも、やたらめったらと、村上春樹ワールド関連でのアクセスが多い。ほとんどはGoogleで検索してアクセスしてくる一見さんたちのなのだが、どうして、当グログがそこに引っ掛かってくるのか、わからない。

 そもそも、一度、村上春樹を読んでおかなくてはならないな、と今年のお正月に思い立って、関連の60冊を一気読みしたことが影響しているだろう、とは推測できる。だけど、それにしても、世の中にはたくさんの彼のファンがいることだろうし、私のブログなど、高位にランクされるはずはないのだが、どこからか検索して、アクセスしてやってくる。

 オープンに書いている限り、アクセスされるのは基本的に喜びなのだが、それでも、なんにも村上春樹について知らないのに、あれやこれや書いているのを見られるのが恥ずかしいと思う時がある。

 とくに、「1Q84」book3が発売になった直後は驚いた。検索ワード「牛川」で、どうやら検索リストの上位にランクされたらしい。2月に「新日本学術芸術振興会 専任理事 『牛河』」という記事を書いておいたら、4月にbook3が発売になったとたん、驚異的なアクセスが始まった(とは言っても、二桁の前半だが)。もともと閑散としている当ブログではあるが、関連記事へのアクセスを勘定にいれれば、まさに、まるで当ブログは村上春樹ファンクラブだったのか、と勘違いするほどの来訪者となった。最近はぐっと減ったとは言え、今でも、続いている。

 ノーベル賞との関連記事にもアクセスが来る。今回この本のタイトルをアップすれば、前回のようになるのだろうか、あるいは、すでに当ブログは忘れ去られてしまっているか、一つの実験ではある(笑)。

 芥川賞が村上春樹に与えられなかったのは、一義的には、村上春樹の携えるアメリカとの距離感が彼ら(審査員)にとって受けいれがたかったからであるけれど、つまるところそれは、彼らとアメリカ=父との関係の問題であり、村上春樹と「父」との距離の問題なのだ、と。

 もしも村上春樹が「父」を描くことができていたら、「父」になる姿になる姿を描けていたら、とっくにその賞は彼のものになっていたはずです。逆に言えば、それができなかった/しなかったところに、村上春樹の倫理があった、と言っていいでしょう。p97「芥川賞と『父の喪失』とニッポンの小説」

 村上作品は全作品、手にとっては見たとはいうものの、図書館にリクエストして届いたものから手短に読み続けただけだから、どれがその処女作であるか、候補作であったか、などということはあまり気にしないで読み進めてしまった。だから「風の詩を聴け」「1973年ピンボール」などの印象があまりない。やっぱり、「ノルウェイの森」とか「海辺のカフカ」、そして好き嫌いは別にして今回の「1Q84」シリーズなどはしっかり印象には残ったのだが。

 「Book3」でふたりは、第三者の存在によって結びつけられます。「牛河」という、「ねじまき鳥クロニクル」の第三部でも登場した中年男が今回は青豆を追う探偵役として、「Book1」「2」の天吾と青豆それぞれのパートで語られた、彼と彼女の過去と現在を追ってゆくのです。p248「『父親になる』ということ」

 村上春樹は自分の小説の理想のひとつとしてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を挙げる。解説本の中には「村上春樹とドストエフスキー」なんて本もある。そのテーマは、父親殺しだ。もし「カラマーゾフの兄弟」の続編があったとするなら、そのテーマは「神殺し」に繋がっていくはずだった、と予想する向きもある。それは、ニーチェの「ツアラトゥストラかく語りき」にも繋がってくる大問題だ。

 「疎遠」で「うまくいっていな」かったはずの、そしてそのひとについて「絶対に人にしゃべらない」はずだった、父親の残した記憶を、「もっとも大切なことのひとつ」だと彼が口にしたのは、2009年のはじめです。それは彼が「風の歌を聴け」をポストに投函してから30年後のことであり、「1Q84」が刊行される数カ月まえのことでした。p252

 芥川賞はともかくとして、現在の村上春樹はノーベル文学賞について、決して無関心ではないと言われる。多くの期待をよそに、はて、村上春樹はノーベル平和賞に値するかどうか、と疑問視する声もある。もし村上本人が、何らかの賞が欲しくて自らの芸術の方向を大きく曲げる、ということはない、とは思われるが、大きなテーマと、一作家の方向性が一致するとすれば、読者や多くの地球人の意識を巻き込む作品になっていく可能性はある。

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2010/09/05

グーグル・アマゾン化する社会<5>

<4>からつづく

グーグル・アマゾン化する社会
「グーグル・アマゾン化する社会」 <5>
森 健  2006/09 光文社 新書 253p
☆☆☆★★

 「クラウド化する世界」(2008/10)を再読しながら、そう言えば「フラット化する世界」(2006/05)とか、こちらの「グーグル・アマゾン化する社会」なんて本があったな、ということを思い出し、みたび読み直してみることになった。読み直してみればすでに4年前の本であり、それなりに時代背景を反映しているが、情報は古びている。

 しかし、一番注目していたのは、この「サイエンスライター」としての森の書きっぷりが必ずしも、梅田望夫的オプティミズムに陥らずに、一歩、視線を引いたところからインターネットやウェブを見つめている点だった。その姿勢は前著「インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?」(2005/09)という本のタイトルに如実に現れている。

 そして、その後、共著「サイバージャーナリズム論」(2007/07)の中でも、彼らしいスタンスを維持していたので、はて、この人は、この2010年において、どんな本を書いているのだろう、とググッてみた。その結果、最近刊は脳にいい本だけを読みなさい!― 『脳の本』千冊の結論」(2010/02)であることがわかった。なるほど、脳ですか。この本、アマゾンでなか見!検索できる。ちらちらと印象をつかんだので、あとは図書館から借りだして読んでみよう。

 当ブログでも、それこそ茂木健一郎池谷裕二をペラペラめくりながら、人並みに「脳」を追っかけてみようとした。しかし、その試みは必ずしも全うされていないし、達成感はまるでない。この分野に足を踏み入れていくと、ずぶずぶと腰まで浸かってしまいそうだ。幸い森健はこの「脳の本」数千冊の「結論」を出しているようだから、それに期待することにしよう。

 「クラウド化する世界」(2008/10)のニコラス・G・カーは、近刊「ネット・バカ」(2010/07)に「インターネットがわたしたちの脳にしていること」というサブタイトル(日本語版)をつけている。なるほど、時代は、インターネット→脳(あるいは意識)へと、次第にトレンドを強めつつあるかもしれない、と期待し始めた。そういった意味では、もうすこしカーの近著も慎重に再読しなくてはなるまい。

 コンテナ→コンテンツ→コンシャス(ネス)の中で、このコンシャスという言葉は、特に日本語としてどのように使われているだろう、と、ツイッターで検索してみた。すると、大体は、ボディ・コンシャスとアース・コンシャスという使われ方が多いようだ。ボディコンはすでに流行語化しており、ファッションや美容関係で、特に女性(あるいは女性マーケット)に好まれて使われているようだ。

 一方、アース・コンシャスは、なかなかいい感じの言葉づかいなので、広がりがあるかな、と思ったが、どこかの大手石油メーカーの環境ボランティア活動のキャンペーン名として使われているために、一般的な意味で、言葉の広がりはない。余談だが、このアース・コンシャス活動、近々、近くの海岸清掃活動を行うようだから、参加してみようかな。

 さて、他の使い方としては、なんにでもコンシャスをつける傾向もある。美顔コンシャス、恋愛コンシャス、アート・コンシャスや、そして足元コンシャスや、時には喉仏コンシャス、なんて言葉使いもでてくる。なんでもかんでもありで、フェチシズムの、足首フェチとか巨乳フェチなどのように、日本語化して使われてもいるのであろうか。当ブログとしては、「スピリチュアル・コンシャス」なんて言葉使いはどうなのだろう、と思ってみる。

 さて、最後は主題に戻ってみると、当ブログは、このところすっかり「グーグール・アマゾン化」したガラパゴス・ブログとなっていたのではないだろうか、と反省する。当ブログへのアクセスは、一部のSNS経由の身内を除けば、ほとんどがグーグル経由である。他の検索サイト経由もないではないが、グーグル経由が90%を占める。そして、読書ブログとして読んだ本にアマゾンへのリンクを張っておしまい、としておけば、なるほど、森健が指摘するグーグル・アマゾン化の「弊害」に当ブログも知らずして堕ちてしまっている可能性大である。

 幸いにして、最近は、他のサイトからの訪問者も多くなってきた。自分たちのブログやHPに当ブログへのリンクを貼り付けてくれている人も増えてきて、そこからのアクセスは常連化する可能性も高い。感謝に堪えない。とにかく当ブログは現在、10番目のカテゴリとして「No Books No Blog」を走らせている。なにか新しいステップアップが必要なのである。

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クラウド化する世界 <2>

<1>よりつづく

クラウド化する世界
「クラウド化する世界」 <2>ビジネスモデル構築の大転換
ニコラス・G.カー /村上彩 2008/10 翔泳社 単行本 313p  原書The Big Switch: Rewiring the World, From Edison to Google 2008/1

 この本、このタイトルゆえに読み、このタイトルゆえに、遠ざけた。そもそも原書のタイトルと大きく違っているのではないか。1年半前に読んだ時は、新しいモノ珍しさに、この本を手にし、すぐに、ちょっと違うんじゃないでしょうか、とすぐ手離した。

 そもそも、クラウド、と言われるもの、日本語においては、クラウド・コンピューティングとクラウド・ソーシングと、同じようにカタカナで表現されているが、片や雲(cloud)、片や群衆(crowd)と、まったく意味の違う言葉である。おなじクラウドでも、私なら「クラウド・ソーシング」のほうが面白そう、と、最初からこちらの「クラウド化する世界」のほうは、努めて忘れるようにしてきた。

 しかし、最近になって、はてさて、それは正しかっただろうか、と思い始め、この本をもういちど手にしてみようと思った。前回の感想はすでに前回書いているが、あまりに流行語「クラウド」(雲)を強調したタイトルに反感を持ったものだった。そして、今回思った。結局、この本のタイトルとしては、これはこれでよかったのではないか。

 いまや、コンピュータが現代ビジネスの大黒柱であることは当然と思われているが、コンピュータが開発された当初は、その有用性は疑問視されていた。1940年代に最初の本格的な商業用コンピュータであるユニパックが作られたとき、コンピュータがビジネス用途で将来有望であると考える人はほとんどいなかった。p056「ひとつの機械」

 巨大なコンピュータは、劇的なイノベーションによりパソコンとなり、さらにインターネットと時代になって、さらに新たな時代に突入した。

 コンピューティングの経済は変化し、今後の発展を導くのは、新しい経済である。パソコン時代は、新たな時代に未知を譲りつつある---それがユーティリティの時代なのだ。p073「デジタル時代のからくり装置」

 巨大コンピュータ時代には、その流れから大きく疎外感を持っていた多くの一般大衆は、パソコンの登場によって、その技術をまのあたりに見ることができた。であるがゆえに、私などは、「パソコン」という形態に執着し始めているところもあるようだ。

 今日利用可能なユーティリティコンピューティングの最も先端的なバージョンにおいては、ユーティリティはパソコンに完全に取って代わっている。ファイルを保存することからアプリケーションを実行することまで、PCでできることはすべてコンピューティングネットワークを通じて提供されている。従来型のPCは時代遅れとなって、簡単なターミナル"シンクライアント"に置き換えられる。p097「さようなら、ミスター・ゲイツ」

 ポケットにはいるコンピュータと言われるスマートフォンなどは、たしかにパソコンがさらに集積化が進化してさらに小さくなった、と言うこともできるが、実際には、有線、無線のインターネット回線の常設が一般に広く提供されることによって、巨大コンピュータに連なる、端末化している、と言える。

 グーグルの最高経営責任者であるエリック・シュミットは、サンがこの予言的なスローガンを打ち出したときに同社に勤めていたが、ワールドワイドコンピュータについては別の言い方をした。シュミットは「雲の中のコンピュータ」と言っている。シュミットが言いたいのは、今日の我々が体験しているコンピューティングはもはや特定の具体的な形状をとっていない、ということだ。

 コンピューティングが行われているのは、インターネットで常に変動しているデータ、ソフトウェア、そしてデバイスの"雲"の中なのだ。携帯情報端末のブラックベリーや携帯電話、ゲーム機、その他ネットワーク化した便利な小道具は言うまでもなく、我々のパソコンは、雲の中の一個の分子、巨大なコンピューティングネットワークのノードの一つなのである。p234「ワールドワイドコンピュータ」

 これが仮に実際的な現実であろうとも、すなおにすぐその現実を認めることは、私などには、すぐにはできない。

 コンピューティングの雲が大きくなり、ユビキタス化するにつれて、我々はますます多くの知的情報を提供するようになる。GPS衛星と小型無線送信機を使用すれば、現実世界における我々の動きは綿密に追跡されるようになるだろう。それはちょうど、今日の我々のクリックが仮想世界で追跡されているのと同じことである。p264「雲の中にすむ」

 私などは、ガラパゴス・ケータイのオサイフ携帯やGPS機能を使うことに馴染むことができずに、躊躇する。知らず知らずにこちらの行動が監視されているようで、窮屈な思いを持つ。

 では、私たちの頭脳はどうなるのか。我々がインターネットの巨大な情報倉庫を、自分自身の記憶の延長あるいは代用品としてますます過大に依存するにつれて、我々の思考方法も変化するのだろうか。我々が自分自身を理解し、自分と世界との関係を理解する仕方は変化するのだろうか。我々がより多くの知的情報をウェブに投入するにつれて、我々個人もより知的になるのだろうか、あるいは知性を失うのだろうか。p271「iGod」

 ここまでくれば、そのテーマは先日読んだ「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」と繋がってくる。そうそう、この「ネット・バカ」こそ、「クラウド化する世界」の著者による続編なのである。

 エジソンの電球が登場する以前の生活を記憶している人々はわずかになってしまった。その人たちが亡くなれば、電球が登場する以前の昔の世界の記憶も失われてしまう。世紀の終わり頃には、コンピュータとインターネットが当たり前の世界の記憶に、同じことが起きるだろう。我々は、その記憶を持ち去る人々となるだろう。p279「エピローグ」

 もうここなどは、クラウド(雲)化することが大前提で書かれている。実際に、グローバル世界はそちらの方向に大きく舵を切っている、ということは、誰もが認めざるを得ない。

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2010/09/04

Democracy with a Gun 「銃を持つ民主主義」<2>「アメリカという国」のなりたち

<1>よりつづく 

銃を持つ民主主義
「銃を持つ民主主義」 <2>「アメリカという国」のなりたち
松尾文夫 2004/03 小学館 単行本 415p
☆☆☆☆☆

 ジャーナリストと言えば、まず、むのたけじ、を思い出す「戦争絶滅へ、人間復活へ 93歳・ジャーナリストの発言」。壮絶な、生涯ジャーナリストを誓う存在からのラスト・メッセージである。そのむのたけじが、93歳にして、「朝日を辞めるべきではなかった」p69という発言するのを聞いて、胸打たれるところがある。

 ジャーナリストとして生きる松尾文雄もまた、「戦争絶滅へ、人間復活へ」というタイトルに異存はあるまい。こちらは1933年生まれ、77歳の方である。空襲を12歳で体験し、その後ジャーナリズムで活躍し、公職を辞してなお、ひとりのジャーナリストとして、戦争、および、アメリカという国を追う。著者には近刊「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」がある。

 (ルメイ将軍は)最初は1949年。当時アメリカが所有していた133個の原爆全部を、ソ連の70都市に投下、3ヵ月間で死者270万人、負傷者400万人と言う損害を与えて事実上「ソ連を殺す計画」を作成、トルーマン大統領に拒否される。p40

 これが「銃を持つ民主主義」国家アメリカの歴史である。友人setuは「インターネットは、反逆精神が、米国防総省を乗せて作ってるんですよね。」と書きこんできた。右手に核兵器を持ち、左手にインターネットを持つアメリカ、という国。

 チェロキー側が激しく反撃、イギリス軍に損害がでたこともあって、最期は非戦闘員を含めて約5000人のチェロキー族が殺害されたうえで、やっと講和条約が結ばれるという悲劇となる。p189

 アメリカという国があまりに膨大で多様性を含む国であることもあり、また、ジャーナリストとしての松尾が、生涯をかけた一冊としてまとめようするこの本にはあまりにも膨大な情報が含まれているので、読み手としても、通り一遍読んだだけでは、その概要をつかむだけで精一杯だ。

 イチロー、松井秀喜ら多くの日本人野球選手の大リーグでの活躍は、結果としてアメリカのこのマルチ人種パワーのうずに呑みこまれ、その一部となっているという側面を見失ってはいけない、というのが私の意見である。p237

 四方八方を海に囲まれた日本というガラパゴスに住んでいると、人種だけではなく、思想、政治の坩堝であるアメリカという国の実態を計り知れないことになる。

 「いつかはアメリカにも女性大統領が登場するだろう。ヒラリー・クリントン上院議員だという人も多い。私は忠実な民主党員だから、それも結構である。しかし、もし2004年にブッシュ大統領が再選されると、ライス特別補佐官は国務長官などの要職につくと思う。そうすると2008年以降、ライス女子には、ヒラリー女史と同じように上下両院議員か州知事で選挙の洗礼を受けるプロセスを経たあと、女性初、しかも黒人として初めての大統領に挑戦する可能性が生まれてくるのではないか。(後略)バレオ氏」p373

 この本は2003年12月に上梓されている。9.11の陰が色濃く残っているさなか、次なるステージは見えていなかった。ましてや2008年の大統領選挙でバラク・オバマが登場してくることなど、誰に予想できただろう。ヒラリー・クリントンをナンバー2の国務長官に据えたオバマ政権は、まさに、有色パワー、女性パワーの象徴となるのだから、まさに、アメリカという国のダイナミズムには計り知れないものがある。

 とにかくイラクへの自衛隊派遣は、こうした日本とアメリカとの関係を、根本から考えるチャンスとして、生かさなければならないのだ、と思う。そのためには、まず一度「アメリカという国」を、そしてその「銃を持つ民主主義」をとことんとらえ直さなければならないのだ、と思う。p390

 ここがこの本の結句である。そして、生涯をジャーナリズムに賭けてきたおひとりの日本人としての心境である。ここから2009年のオバマ大統領がヒロシマに献花する日」に繋がっていく。

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2010/09/03

Kindle解体新書 驚異の携帯端末活用法のすべて 

Kindle解体新書
「Kindle解体新書」 驚異の携帯端末活用法のすべて
スティーブン・ウィンドウォーカー/倉骨彰 日経BP社/日経BPマーケティン 2010/05 単行本 236p
Vol.3 No.0135☆☆☆☆★

 ツイッターのタイムラインを追っかけてみると、実に雑多なつぶやきが続いている。ひとつひとつを追っかけてみると、なかなか意味あるページやブログにつながったりする。フォローする人の選び方によって千差万別の顔を見せるツイッターではあるが、決して140文字では表現しつくされていないヴォリュームある文字列に遭遇したりする。

 キンドルは、アマゾン社が提供する電子書籍のハード&ソフトを含めた総称。日本語環境は整備されていないし、アップル社のiPadがでて、すこし影が薄くなった。それでも、さまざまな点で注目すべき点もある。電子書籍全般が注目されているが、アツモノに懲りてナマスを吹くタイプの当ブログとしては、はて、どうなのかな・・・?と疑心暗鬼。

 メモリー容量は、単純な書籍コンテンツだけなら過剰といえるほどあります。電子書籍の平均的なファイルサイズは1MB前後ですから、今のKindleでも軽く1000冊は入ります。iPadの容量をフルに使えば数万冊の本を溜め込める計算になります。また、無線LANによるネットワーク接続があれば、数百MB~数GBのファイルのダウンロードや、軽快なブラウズが可能です。p189「ユーザーフレンドリーなKindleの特徴」

 まず、1000冊の本を持ち歩く必要のある人間など、どれだけいるだろう。年間に一桁の冊数しか読まない人だっているだろうし、少なくとも一日に1000冊の本を必要とする人はまずいないだろう。はからずながら、当ブログは、過去4年ちょっとで読んだ本は二千冊超。これでも平均すれば、一日一冊以上は読んできた計算になる。決して超人的な多さではないが、平均値よりは多いと思われる。

 それに、私の場合は、すでに読書ブログとしてネットに書き続けてきたから、もし、あの本をもう一度読みたいと思ったら、外出先でもどこでも、ネットから自分の書きこみを読むことができる。気になるところはページ数を明記して転記しているし(誤字脱字がはなはだしいが)、その時読んだ時のストレートな感想がすでに書いてある。

 新刊本や未読のものがあれば、まず、近くの公共図書館のネットを検索する。超人気本以外はすぐに予約が取れるので、ネットでリクエストしておく。その図書館にない本は図書館ネットワークから取り寄せてくれる。入庫になれば、オンラインでわかるので、10分ほどかけて図書館に出向き、カウンターで受け取る。最大予約10冊までできる。

 最寄りの図書館にない時は、近隣の公共図書館、大学や学校(私の場合、2桁の学校図書館が利用可能)、そして最後は国会図書館の利用という手もある(これも取り寄せてくれる)。日本語でこの数十年内に出版されているものであるなら、ほとんど読むことができる。もちろん、無料で。

 青空文庫のお友達「青空キンドル」で日本文学も読み放題

 

 日本語のハイブリッドメインのコンテンツとしては「青空文庫」がよく知られています。プロジェクトグーテンベルクと同様、ボランティアの有志が著作権の切れた作品、あるいは著作権の放棄された作品をテキスト化して、データベースに収録し、Webサイトで公開しています。

 

 夏目漱石、芥川龍之介など、明治・大正・昭和初期の文豪の作品等が提供されています。テキストにはルビ(読み仮名)も埋め込まれています。もちろん無料でダウンロードできます。p50

 当ブログではまだ「青空文庫」に本格的にお世話にはなっていないが、もし、万が一、図書館が使えなくなったり、思い立ってネット完結のライフスタイルをしよう、なんて思い立った場合、私なら「青空文庫」だけで、数週間は持つ、と思う。(数か月は無理かもなぁ・・・)。こうしてみると、アマゾンのキンドルにしても、iPadにしても、電子書籍という可能性はあることは分かったが、まだまだ実用ではないのではないか。

 誰でもアマゾン社のKindle Storeで自分の本を商用販売できます。これは、個人、法人を問いません。誰でも、自分の著作物をAmazon.comのサーバーにアップロードし、希望小売価格を設定し、出版ビジネスを展開することができるのです。p201「個人出版に革命をもたらしたKindleのWeb環境」

 巨大掲示板が衰退傾向にあり、SNSが爛熟期を迎え、また新興のツイッターなどのコミュニケーションサービスが跋扈している今、ブログ人口は数十万人の積極的書き手となって、安定化傾向にあるようだ。この人々のなかには、出版願望の強い人たちも多いに違いない。キンドルで提供されている条件がどれだけ実際的なものかは分からないが、すくなくとも、詐欺まがいの「個人出版」ビジネスに引っ掛かり、数百万円の損失を抱えるよりは、夢のある話ではある。

 総じて思うこと。IT環境のなかでいかに「本」が重要な位置を占めているか、ということと、「本」が置かれている状況をITに置き換えることがいかに大変か、ということである。翻って考えてみると、現在の図書館ネットワークは実によく整備されていて、むしろ、現在、私達の利用に供されているこの環境があることに、大いに心から感謝しなければならない、ということである。図書館、そして司書やスタッフのみなさん、いつもありがとう。

 KindleやiPad、あるいは一連の電子書籍が、これから切り開いていく未来はあるだろうが、まだまだ未知の領域が多すぎるようだ。

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2010/09/02

ネット・バカ<1>インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット・バカ
「ネット・バカ」<1> インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G.カー/篠儀直子 2010/07 青土社 単行本 p359
No.0134☆☆☆☆★

 この四万年のあいだ、人間の脳の基本構造がほとんど変わっていないことはわかっている。遺伝子レヴェルでの進化は、少なくとも人間の時間意識で計測するかぎり、繊細なゆるやかさで進んできた。ところが一方、人間の思考方法と行動方法が、この数千年の間に原型をとどめないほど変化したことも分かっている。p75「精神の道具」

 コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス。これが当ブログの3C論だ。「ツイッターノミクス」を図書館の新刊コーナーで手にとったのは、ことしの5月中旬。当ブログは、読書した本についてメモすることが恒例となったが、当時は、読書も、ブログも休んでいた。意識的に休んで、瞑想していた。そして、コンシャスネスのほうに傾いた生活をしていた。

 そんな時、偶然見かけた「ツイッターノミクス」に、いつものように好奇心は駆られはしたが無視した。コンテナに傾いた読書は避けようとしていた。頑ななその姿勢は、村井純「インターネット新世代」を読んだ8月始めになって、大きく変わった。友人からの書込みがきっかけだった。

 避けてきたコンテナ論ではあったが、ここに来て、お休みしていた分まで積極的に手を伸ばして最近の事情を追っかけてみた。なるほど、これは大変なことが起きているぞ。スマートフォンやツイッターの情報を追っかけてみた。そして、今や、いっぱしのツイッター通のフリをし始めている。

 グーテンベルク自身は報われなかったものの、彼が発明した印刷機は、歴史上最も重要な発明のひとつとなる。フランシス・ベーコンは1620年、『ノヴム・オルガヌム』で次のように書いている。可動式活字による印刷は、少なくとも中世の基準からすれば驚くべきスピードで、「全世界の事物の外見と状況を変化」させたのであり、「その結果、これよりも大きな力と影響を人間に対して与えることは、どんな帝国にも、宗派にも、星座にもできなくなったように思われる」。p101「深まるページ」

 6年落ちのムーバ機を、最新のqwertyキー付きのガラパゴス・ケータイに変え、外部からツイッターに書き込む事を始めたばかりだ。フォロー数やフォロワー数は、数十からようやく数百になった程度だが、蛇の道はヘビというべきか、すでに数千から数万、時にはそれ以上のフォロー&フォロワー数を持っている個人が無数にいることを発見して、実に唖然としている。

 これらの人気サイトはすべて、ウェブの登場以前には想像できなかったものだ。その双方向性によってネットはいわば世界の公会堂となった。人々はフェイスブック、ツイッター、マイスペースなど、あらゆる種類のソーシャル(そしてときには反社会的)ネットワーク上に集い、チャットや噂話を楽しみ、議論をたたかわせ、何かを見せびらかしたり、ナンパしたりするのである。p124「最も一般的な性質を持つメディア」

 コンピュータは意識を持つのか、という命題については、これまで、公共図書館の開架棚にある関連本を数千冊めくってきたところで言えば、それは不可能だ、という結論になる。もうすこし寛容にいえば、コンピュータが意識を持つには、その前提として、コンピュータ自身が「身体」を獲得しなければならない、ということになる。

 意識を持った「人工知能」が誕生する前に、まずは生命体に限りなく近い「ロボット」を作る必要がある。しかし、その研究も現在のところ、全く見通しが立っていない。だからいくらネットワークが集中化し、より巨大化しても、人間をさしおいて、ネットワークコンピュータが「意識」を持つということはない。

 翻って言えることは、クラウドソーシングが語られるが、一個の身体を持つ「個人」としての「意識」しか存在し得ない、ということになる。人間の人間たる原点は、この身体にあり、この「私」こそが、意識=コンシャスネスなのである。

 「われわれと脳との関係に文化が変化を与えるとき、文化は異なる脳を作り出しているのだ」。そして彼は、われわれの脳が「頻繁」に使われる特定のプロセスを強化する」ことを指摘している。インターネットやグーグルの検索エンジンのような、オンライン、ツールのない生活を想像するのは、いまや困難だと認めながらも、「それらを頻繁に用いることで、神経学的に重大な結果が生じる」と彼(M・マーゼニック)は強調する。p170「ジャグラーの脳」

 冒頭で引用したように、人間の脳は、この4万年、基本的に変わっていないのだ。多少の外的刺激によって構造的に変化してしまうことなどは考えられない。それでも、その多様な機能性は、いままで決して考られることのなかった、多様な反応を示してくる可能性はある。

 この本はネットを糾弾し、ネット以前の世界へ戻ることを推奨する本ではないかとの性急な憶測が、タイトルだけを見た時点ではなされがちであるかもしれない。(中略)この変化は不可逆的なものであって、われわれはもうネット以前の世界へは絶対に戻れないのだとニコラス・カーは熟知しているし、また、本書のなかでも何度も述べられているように、彼自身の生活も、もはやネットなしでは絶対に立ち行かない状態になっている。p358「訳者あとがき」

 この本はネット上におけるコンテナ論を概観的に論じながら、また体験的にネット上のコンテンツを使い切りながら、なお、次なるコンシャスネス論へと足がかりをつけようとする一冊である。当ブログとしては、最新の状況を踏まえた上で、なお体験的な研究をとおして、人間としての存在に踏み込もうとする、この本の類書が続出してくることを望みたい。

 著者には前著「クラウド化する世界」がある。

<2>につづく

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2010/09/01

私たちの選択 アル・ゴア  温暖化を解決するための18章 <1>

私たちの選択
「私たちの選択」 温暖化を解決するための18章<1>
アル・ゴア/枝広淳子 2009/12 ランダムハウスジャパン 単行本 414p
Vol.3 No.0133☆☆★★★

 前作は「不都合な真実」。たしか、あれをきっかけにアル・ゴアは2007年ノーベル平和賞をもらったのだった。ところであの本って一体なんだったのだろう、と思う。悪口をいう人たちは、原発推進派的結論だ、とか言っていたようだが、どうだったのだろう。

 「大量の温室効果ガスという汚染物質を発生させずに電力を作るにはどうしたらよいか」を世界が議論している部屋の真ん中に、維持費ばかりが高くつく、放射能を帯びた厄介物がある---原子力である。

 「制御された核分裂を熱源として電気タービンを回す」という発想は、第二次世界大戦後の四半世紀、大いなる熱狂を巻き起こした。米国原子力委員会は1960年代の終わりに、「2000年には米国内で1000基を超える原子力発電所が稼働しているだろう」と予測した。しかし、これまでに建設された数は、そのわずか10分の1にすぎない。かつて低コストの電力を実質的に提供すると期待されていた原子力は、この30年間に、危機に瀕するエネルギー源となってきた。p150「原子力という選択肢」

 この原子力発電の項目だけを読んだとしても、なんとも微妙な表現がつづく。実際には何をいおうとしているのか。アップルコンピュータの取締役であり、グーグル社の上級顧問であり、また投資会社の創立者であり、会長でもある。その他、大学の客員教授であったり、NPOの会長であったりする。このような多忙な人が、この様な一冊の本をひとりで造ることができるだろうか。

 アル・ゴアという名前のもとに進められている多数のスタッフがかかわるプロジェクトがあるのだろうし、決してそれはボランティアの善意にだけ支えられた活動ではないだろう。このような綺麗な一冊を作るにもそうとうなエネルギーが必要となる。

 温暖化や環境問題について、たくさんの問題を指摘している。そして、図版やグラフ、から写真を多用して、分かりやすく、かと言って、かなり、硬軟取り合わせて、説明している。もっともだ、と思うこともあるが、本当に、この本のなかに解決策はあるだろうか、と疑問ににもなる。

<2>につづく

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