脳のなかの倫理 脳倫理学序説
「脳のなかの倫理」 脳倫理学序説
マイケル・S.ガザニガ/梶山あゆみ 2006/02 紀伊国屋書店 単行本 262p
Vol.3 No.0141 ☆☆☆☆★
この記事、当ブログ<2.0>としては1000個目。「人間らしさとはなにか?」のガザニガが2005年に出した本。ガザニガとは、なんとも一度聞いたら忘れられないような名前だ。小ブッシュ政権下における「大統領生命倫理評議会」のメンバーの一員として活動し、その流れの中で出来た一冊。
小ブッシュといい、倫理といい、なんだか「保守的」な香りがほんのり漂ってくるが、どうも年齢とともに自分も「保守化」しているのか、気がついてみれば、混沌としたエネルギッシュな開放系よりも、なんとなくまとまりのいい落ち着いた閉鎖系へと指向性が向いていたりするので、自分なりにドギっとする。
生まれてくる時点で、子供の脳は大人の脳とだいたい同じ姿になっている。だが、発達はまだまだ終わらない。大脳皮質は何年もかけて複雑さを増していき、シナプスの形成は一生続く。p26「胚が意識を持つまで」
ゴーギャンの画題ではないが、「私はどこから来たのか、私は誰か、私はどこへ行くのか」は、人類永遠の課題だ。
ふだん私たちが意識の話をするとき、たいていは「認識」の意味でこの言葉を使っている。つまり、ほとんどの人は意識を心理学的な意味で捉えているわけだ。知覚力を備えた生物として、自らの行為が自分と他者にどのような影響をもたらすかを認識している状態を指すのだと。
しかし、脳神経学者はこの種の言葉を医学的な意味で用いるので、日常会話で使われる場合とは異なる。医学的に言うと、「意識」とは覚醒していて注意力のある状態を指す。昏睡に陥った人は意識を失っている。
アルツハイマー病の末期患者には意識がない。生まれたばかりの赤ん坊には意識がある。母親が部屋に入ってくれば気づくからだ。もっとも、脳機能の発達の度合いにかんしては、新生児より昏睡している患者のほうが上であろうが。p58「意識の終焉はいつか」
脳にまつわる解剖学的かつ顕微鏡的な生物学にはついていけないが、意識コンシャスな当ブログとしては、意識という単語がでてくると、急に文字行を追う速度が落ちる。
新しい情報を学んで覚えるのも、それを正確に思い出すのも、どうしてこれほど難しいのだろうか。ひとつには、私たちの脳が、現代社会で覚えなければならないようなことを覚えるのに向いていないからである。(中略)
脳というものは、実体のある物理的な空間のどこかで恐ろしい危険に出くわす可能性があるかといった、生物が生きていくのに必要な情報を覚えているのに適している。p171「脳には正確な自伝が書けない」
最先端の脳科学の実際的な成果を踏まえながら、論はさらに広がる。
かつて学者たちはこういう説を唱えていた。「合理的な視点から世界の理解が進めば、宗教という、人間の文化に残る最後の忌々しき非合理的な領域の影響は、必然的に低下するはずである」。ところが、科学と理性が支配する現代にあっても、宗教は死に絶えるどころではない。p209「宗教の正体」
科学的言説、あるいはこの本においても、その成果の報告に段においては、言いきっている部分ではなかなか小気味いい言説が続く。しかしながら、円周率を3.14どころか、3と言いきってしまうような割り切りの良さで、それこそ「割り切れない」部分がどんどん山積みになってしまうような状況には、ぞっとする。まるで、空に向けて架けられたバベルの塔にさえ見えてくる。
つねに進歩を続ける人間の知識は、地球上のひとりひとりが真実として受け入れている事柄のなかにいやがおうでも入り込んでくる。(中略)だが、物質的な利益の陰には、心の面におけるもうひとつの現実がある。現代の知識は、数十億の人々が信じているいろいろな宗教の教えと真っ向うから衝突するのが避けられない。俗な言い方をすれば、サンタクロースがいないことをまだ誰も子供に教えていないのである。p222「人類共通の倫理に向けて」
それがいくら滑稽に見えたとしても、やはり科学的な歩みを止めることはできないし、まったく方向性を失っていると絶望するべきでもない。
世界について、また人間の経験の本質について、私たちが信じていることは実際には偏っている。また、私たちが拠り所にしてきたものは過去に作られた物語である。ある一面では、誰もがそれを知っている。しかしながら、人間は何かを、何らかの自然の秩序を信じたがる生き物だ。その秩序をどのように特徴づけるべきかを考える手助けをすることが、現代科学の務めである。p240「人類共通の倫理に向けて」
この部分がこの本の結論である。本書の原文タイトルは「The Ethical Brain」。「エチカ」とくるとスピノザを思い出す。「倫理」と言えば、これまた、当ブログとしてはなかなか使いにくい言葉ではある。しかし、決して使い切れない言葉でもない。しかしそれらをすべて「脳」のなかに求めようとすれば、それは受け入れることはできない。
卑近な例でいえば、クラウド・コンピューティングの端末として私たちのパソコンがあるように、私たち人間は、ひょっとすると、雲の上と繋がっている存在である、と仮定することができるかもしれない。小宇宙と大宇宙、アートマンとブラフマン、などの喩えもある。意識コンシャスな当ブログの旅は果てのない旅路だ。だが、混沌とした世界に向けて失速してしまっているわけではない。まだ、光の在りかを尋ねる旅は続いている。
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