ユニオ・ミスティカ 神秘の合一
「ユニオ・ミスティカ」 神秘の合一
OSHO (著), スワミ・プレム・マニック (翻訳) 市民出版社 単行本: 474p
Vol.3 No.0150 ☆☆☆☆☆
先日よりチラチラとこの本を読んでいる。例によって彼の本は一気には読めない。休み休み、忘れた頃にまた読み出す。どうかすると、以前読んだところに戻って読み始めている。それに気がつかない自分も自分だが、読み返してみると、なるほど、そういう意味であったか、と後で納得することも多くある。
逆に、何度読んでも意味不明なところもある。そんな時は、翻訳が悪いのだろう、と他人のせいにする。あるいはここはOshoの勘違いだな、とひとまず片付けておく。時代が時代だ、1978年という時代性を考えて読まなければならないだろう、と、いろいろ自己解釈してみる。
それにしても、Oshoの本は特徴的だ。一旦Oshoの世界に入ると、他の本が目に入らなくなる。あるいは、他の本を読んでいると、なかなかOshoの本に戻れない。一体なんでだろう、といつも思う。
その一つの要因は、Oshoは「マスター稼業」をしているからだ。すべての彼のメッセージはその立場からのメッセージだ。芭蕉や山頭火のような一人旅して、そっと出てくるような小さな詩ではない。もちろん、どこかの有能な政治家のような雄弁な、大衆を圧倒するようなパワフルなメッセージでもない。しかし、それは、彼が「あなた」に語りかけるメッセージだ。
覚者として、その意識へ至らんとする探究者へ向けた、誘いのメッセージだ。そのカテゴリで言ったら、まさに現代におけるピカイチの存在であると思う。まず、覚者として話す。話す相手は、その存在の手掛かりをつかもうとする「あなた」に対してだ。
彼の本、彼の講話は、それ以上の意味はない。もし彼が覚者として自らの意識の状態にとどまろうとすれば、そもそも語りも講話も本も必要ないことになる。彼は、自らの沈黙をキープしつつも、あえて「あなた」へ語りかけることに全エネルギーを注ぐ。
「あなた」と呼ばれた私は、もしその「マスター稼業」がうっとうしいなぁ、と思ったら、その本を閉じなければならない。ひたすら、彼の沈黙と、私の沈黙が、ひと連なりのものであることを確認できれば、それはそれでおしまいなのだ。当ブログが現在「No Books No Blog」カテゴリを進行中なのは、そこのところにポイントがある。
合理性は、物質について知りたいのなら良いものだし、それで充分だ。しかし、あなたが意識について何かを知りたいのならば、全く無能なものとなる。合理性は丈を測ることはできる。しかし、意識は計測不可能だ。合理性は重さを量ることはできる。しかし、意識には重さはない。合理性は見ることができる。しかし、しかし、意識は見えない。
合理性はその下部としての五感を持つ。しかし、意識はその五感の背後にある。あなたはそれに触れることはできない。嗅ぐことはできない。味わうことはできない。聴くことはできない。それを診ることはできない。
それは外側に向かって聞いている感覚の五つの窓の背後にある。あなたは陽光を見ることはできる。しかし、自分の眼であなたの内側の光を見ることはできない。あなたは鳥が歌うのを聞くことはできる。しかし、あなた自身のハートが歌っているのを聞くことができない。p23「ハートの鏡を磨く」
メタコンシャスと言い、意識を意識すると言う。次なるカテゴリ名はこれに決まりだ。だが、一旦、そのように当ブログの方向性を決めてしまった場合、その後、当ブログはどのように展開するのだろう。聞くこともなく、語ることもない世界へ。見ることもなければ、表現さえできないステージへ。まさに未知なる世界を超えて、不可知の世界へと足を踏み入れる。その準備はできているのだろうか。
つづく、だろう・・・。
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