生命と偶有性 A Life and Contingency
「生命と偶有性」 A Life and Contingency
茂木健一郎 2010/08 新潮社 単行本 247p
Vol.3 No.0147★★★★★
新潮社の季刊誌「考える人」08冬~10春に連載されたコラムを加筆・訂正したもの。
偶有性とは、こうなるであろうという規則性が常に探索されるということであり、また、その規則性が不断に破られるということでもある。まったくランダムでもなく、完全に規則的なものでもない。ランダムさと規則性が入り混じっている状態が、「偶有性」の領域である。p238「「偶有性は必ず我々を追いかける」
名前と顔を売り、マスメディアに登場し続ければ、自然と収入が増加することには規則性が存在するだろう。収入が増加すれば、経理事務が煩雑化し、本人一人での会計事務ではオーバーフローすることにも、規則性があるだろう。
しかし、そこから脱税行為が発生し、メディアでネガティブ報道されてしまう、というのはランダムな状態であった、ということもできるでだろう。まさに、このコラムが連載された期間というのは、著者本人にとってみれば「偶有性」に満ち満ちた期間であった、と言える。
嫌味を言うのもほどほどにしておこう。「メタコンシャス--意識を意識する」を次なるカテゴリ名にしようとしている当ブログとして、現在のところ、マーケットに流れている本としては気になる本の最短距離にある一冊と言える。当代稀有な書き手による一般書。公共図書館の新刊コーナーに、ちょこんと並んでいるこの本は貴重である。
日本人による一冊なのに、英語のタイトルもつけてある。Lifeと生命は同義語だろうが、英語と日本語では、ややニュアンスが異なる。Contingencyは、わがガラケー内蔵の英和辞典では、偶然性としか出てこない。これを偶然性と偶有性を使い分けるのはどうしてか、などと素朴な疑問も湧いてくるが、この辺は、書き手である茂木のセンスである、としか言いようがない。
死を受け入れると同時に生その全体において抱きしめる。そこには、もはや個別化の原理は存在しない。変化は避けることができない。個体にとって、死はやがては必ず訪れる。しかし、この世の中に満ちている「偶有性」を正面から見据え、それを受け入れることで、私たちは「何も死ぬことはない。万物は、ただ変化する」という達観の境地に至る。p43「何も死ぬことはない」
メタコンシャス、意識を意識するというテーマであるならば、古来よりさまざま伝統と秘教が伝えられており、それを敢えて現代のマーケットに追いかける必要はない。しかし、そのことについて、社会や人類はどのように捉えているのか、ということを知るには、やはり当代の流行作家の手にかなうものはない。思考や想念と、意識の間に、茂木はクオリアというものを挟む。
「意識」には、私秘性がある。私が感じている「赤」の「クオリア」が、彼が感じている「赤」の「クオリア」と同じであるということを確認する方法はない。他人に意識があるということを、確実に検証する方法はない。しかし、私たちは、おそらくは他人にも自分と同じような意識があるだろうと考えている。p164「かくも長い孤独」
クロリアとか偶有性というキーワードを多用することによって、現代人の思考や意識に何事かを啓発しようとする試みは、現在のところうまく行っているようでもある。
スピノザが看破したように、偶有性とは、有限な立場に置かれた人間だけに適用され、神にあてはまらない概念である。そうして有限の立場で経験される性の浮き沈みが、やがてクオリアという形で結実する。p243「無私を得る道」
一旦は、連載の形で雑誌に掲載され、ついで加筆訂正された上で一冊にまとめられた本である。時事問題から経済、文学、インターネットなど、さまざまな話題も取り込まれており、今日の新刊としては、とても面白い。しかし、扱っているテーマは、決して、読み捨てられて、忘れ去られてしまうような軽々しいものではない。
もしこのようなテーマが、より多くの人の関心を捉えており、多くの人の手によって「加筆訂正」され、まるでWikipediaのようなクラウドソーシングによって、よりリアリティのある潮流が存在しているとすれば、当ブログとしては、もうすこしその辺のところをデリケートに追っかけてみたいと思う。
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