脳科学は何を変えるか? What Happnes after Brain Science
「脳科学は何を変えるか?」 まだ見ぬ未来像の全貌
信原 幸弘 (著), エクスナレッジ (著) 2010/01 エクスナレッジ 単行本: 384p
Vol.3 No.0143 ☆☆☆☆★
この本、なかなか素敵だが、その成り立ちがイマイチよくわからない。What Happnes after Brain Science。脳科学の後に何が起こるのか。日本語本なのに英語のサブタイトルを持つ。共著「脳神経倫理学の展望」のある信原幸弘が編集人となり、出版社のエクスナレッジ社の企画力で成り立った一冊なのか。
10人ほどの執筆陣のそれぞれの対談と、単独のエッセイによって成り立つ。脳神経倫理学。なるほど、この辺の語感に安定的なバランスを感じる。突出した脳科学でもなく、ネガティブすぎる守旧的な頑迷さでもない。そもそも「脳」も難しいが、「神経」も「倫理」も扱いが難しい。よく見てみれば、編集の信原が1954年生れなので、同世代的な視点が安心感を与えてくれるのか。
内藤(礼) 私たちの身体は、世界の外に出ることはできない。「身体」も「行動」も、すごく限定されている。だけど「意識」だけは、自由だと思う。自分ができないことでも、意識のなかではできるでしょう?p015「茂木健一郎 * 内藤礼」
この本、モノクロームの写真(川村麻純)が多く挟まれており、全体が、すっきりした、「人間」臭さがある。「脳」臭さはすくない。転記すべき部分は多くがあるが、それでは切りがない。意識コンシャスな当ブログとして、2・3の目についた「意識」にまつわる断片をメモしておくことで、次につなげる窓口を作っておくことにしておく。
茂木 おそらく、意識のなによりも大きな機能的意義っていうのは、「死ぬのが怖いから死なない」ってことだと思うんだよ。意識と自己保存能力って、ものすごく結びついているじゃない。p064「茂木健一郎 * 池上高志」
ガザニガ「脳のなかの倫理」の一節を思い出す。
脳というものは、実体のある物理的な空間のどこかで恐ろしい危険に出くわす可能性があるかといった、生物が生きていくのに必要な情報を覚えているのに適している。p171ガザニガ「脳には正確な自伝が書けない」
下條(信輔) 数百年万単位で、社会集団のサイズと相関して、人類の大脳新皮質が進化していったといわれています。そして、現代人の大脳新皮質の大きさは、およそ100人とか、200人の社会集団に適切な大きさを持っているといわれています。p104「タナカノリユキ * 下條信輔」
常に当ブログが体感してきたネットワーキングの原寸大はやはりこの100~200人程度にあるのであろう。これがもっとも現代の「人間らしい」サイズだ。もちろん、遠い過去とか、遠い未来において同一である必要はない。そして、さらには「死」においては、頭数も必要もなく、「私」もなくなる。
林(成之) 我々医者は、現実主義です。「意識障害」というのがありますが、「意識」というのは、医学では「外からの刺激にどう反応するか」という定義で考えます。ところが哲学でいう「意識」というのは、いいかえると「心」とか、必ずしも刺激がなくてもあって、自己存在を認識しているもの、というような意味で使われますね。外からの刺激に反応しない「意識」を医療の現場でどう評価するかというと、方法が分からないわけです。p167「林成之 * 森岡正博」
医療の現場も、このような表現が正しいかどうかわからないが、かなり「モンスター化」しているのではないか。生命が粗末にされることはあってはならないが、極端な生命維持装置によって身体を存続させる技術などが突出して発達している。それに比して、いかに生き、いかに「死」ぬか、このところの「技術(哲学と言ってもいいのだろうが)」について、現代人はバランス良く発達させきれないでいる。
斎藤(環) 紙媒体でいえば、「紙に印刷された文字にこだわる」というフェティシズムが、逆に脳や欲望を賦活しているという部分があるんじゃないでしょうか。一冊の本を最初から最後まで読むという読破、すなわち所有の喜びは、こういうフェティシズムと関係がありそうです。
キンドルなどの電子本にしても、いまは紙媒体の本を模倣しつつ機能的に補完しているという前提があるからみんな読むのであって、すべて電子本になってしまったら同じように読むかというと、かなり違ってくるでしょう。情報インターフェイスとしての身体性をどう考えるかというところですね。p215「斎藤環 * 池谷裕二」
この辺などは、後付け理論だろうが、自分の感覚を後押ししてくれる言い方ではある。
酒井(邦嘉) 「メタ」というのはもともとギリシャ語で、「メタ~」とはそのものに関して1段階層の高いものをさして使われます。「メタデータ」とは、「データに関するデータ」のことで、そのデータがいつどこでどのようにして得られたか、というデータを意味します。また、鉛筆やハサミなどの日常的に使うさまざまな道具は、人間が別の道具を使ってメタ的に作った物です。さらに哲学的には、「私が考える」ということをメタ的に考えることもできますね。p308「『言語』人間らしさの本質とは?」
なるほど。当ブログで、意識コンシャスと暫定的に表現している営為(あるいは状態)のことを、メタ意識、と表現できるわけだ。意識を意識する。コンシャスネスにコンシャスな状態。
高橋(英彦) 社会脳研究というものがこれまで扱ってきたものは、感情、情動、意思決定などですが、最後に残っているのに「意識」の問題があります。この研究は、なかなか進んでいません。「意識」という言葉自体が漠然としたもので、いろんな意味で使用されていると同時に、そもそも意識とは何かという哲学的、形而上的な問いまで遡らないといけない状態です。
ですから意識の問題を脳科学的に取り上げるというのはチャレンジングなことであり、一筋縄ではいきません。そこは意識の問題を脳科学の登場する以前から、扱ってきた哲学の英知があるわけですから、哲学の研究者と共同でアプローチしていくことは大切です。ただ、私はもう1つ、精神医学や臨床神経科学側のアプローチも有効と考えています。p358「『感情』『自由意志』の所在---それは、すべて脳のせい?」
この本、そもそもがオムニバス形式なので、あちこちバラバラと転記してしまったが、まぁ、こういう読まれ方も、まんざら間違った方法ではないだろう。転記するとすれば、すべてを転記する必要のあるような本だ。ヒントに満ち満ちている。しかしながら、それは現在の脳科学というものが、いわゆる物理学で言えばガリレオ以前のような状態にあり、脳神経科学におけるケプラーの法則のようなものがまだ出てきていないのだ、ということを確認しておければ、それでとりあえず、いいのではないか。
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