ネット・バカ<2>インターネットがわたしたちの脳にしていること
「ネット・バカ」<2>インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G.カー/篠儀直子 2010/07 青土社 単行本 p359
★★★★★
手当たり次第、いろいろやってはみたが、極私的読書ブログとしての読書対象は、新書本が一番フィットしているようだ。分量といい、テーマの絞り方といい、話題性といい、扱うにはちょうどいい。それに比して、アメリカのハードカバー本は、テーマとしては深くて意義深いのだが、読み込み、絞り込むまでに時間がかかる。
この本も、タイトルがタイトルだけに関心を呼びそうなのだが、はっきり言って本筋のテーマにたどり着くまで時間がかかりすぎる。そしてなお、本当に主張すべきことが、はっきりと明瞭に語られているのか、どうか、定かではない。書き手としても、本当にそのテーマをつかんでいるのか、はっきりとそのことを主張しようとしているのか。
英語の原書のタイトルから、日本語のタイトルへ翻訳される時に、このタイトルはないだろうと、かなり違和感があった。だが、パラパラめくってみて、すこし放っておいてみると、実は、やっぱりこの日本語タイトルがぴったりとその本筋を表現しているのではないか、と思うようになった。むしろ、このタイトルで、テーマを絞り込んだ形で、日本語の新書本としてでていれば、大ヒットするかもしれない。いや、すでにそんな本、あるのかも。
マイスペースやフェイスブック、ツイッターといったSNSの隆盛により、近年、加速は最大限に達している。これらを提供する企業は、その何百万もの会員に対し、「リアルタイム・アップデート」、すなわち、ツイッターのスローガンの言うところの「いまどうしてる?」に関する短い情報の、途切れることのない「流れ(ストリーム)」をもたらしている。p219「グーグルという教会」
この本は人気本だ。私の後ろにウエイティングリストが溜まり始めた。次の読者のために早く返却してやろうと思う。そして、もうすこし経ったら、再読してみよう。今回も二読してみると、インターネットを語る前半よりも、脳やあるいは意識ついて語る後半のほうに、深い洞察がいくつも隠されている。留意して読み進める必要を感じる。
「わたし(ラリー・ペイジ)の理論では、人間のプログラミング、つまりDNAは、およそ600メガバイトに圧縮されています。だから現代のOSより小さいわけです。リナックスやウィンドウズよりも。・・・・・定義上これには、脳の起動も含まれます。だから、人間のプログラム・アルゴリズムはおそらくそれほど複雑ではありません。(知性というのは)おそらくむしろ、全体の計算に関わるものなのです」。
デジタル・コンピュータが時計や泉、工場機械に取って代わって、脳の構造や活動を説明するメタファーになってからもうずいぶんになる。脳を説明するのにコンピュータ用語を使うのは当たり前になっているため、自分あ隠喩的にしゃべっていることにも気づかないぐらいだ。p237「グーグルという教会」
当ブログは「意識をめぐる読書ブログ」と銘打っている。いや、しかし、それは後付けであって、最初からそれを追っかけたわけではない。ふと気付いた時、自分のやっていることはそうであろう、とキャッチフレーズにしただけである。
さて、それでは現在の自分は一体なにをしてるのだろう、と考えてみる。キーワードは「意識」であり「コンシャス」であることは変わりはないようだ。そして、いろいろ造語的に遊んでみると、現在は、「意識コンシャス」という姿勢になっているのではないか、と思う。
健康や美容に意識を向けるエステやファッションがボディ・コンシャス(ボディコン)と呼ばれ、石油販売会社の地球環境保護運動がアース・コンシャスと名付けられ、足元コンシャスや喉仏コンシャスなどと、さまざまな造語が繰り返されている。
それにちなんで、当ブログが今やっていることをネーミングしてみれば、意識を意識する、あるいはコンシャスネスにコンシャス、という同義反復的な活動領域に突入しているようである。つまりここは「意識コンシャス」とでも名付けておかなくてはならない精神状態のように思うのである。次のカテゴリ名はこれにしようと思う。ということは現在のカテゴリは、そちらに向かって、方向性を与えられたということになる。
「ワイアード」誌のライター、クライブ・トンプソンはネットのことを、かつて内側のメモリーが果たしていた役割を引き継ぐ「外付けの脳」とみなしている。「何ごとについても、覚えようとすることはもうあきらめてしまった。オンラインであっという間に情報を検索できるのだから」と彼は言い、「データをシリコンに預ければ、われわれは自分の灰白質を自由にし、ブレイストーミングや瞑想など、もっと「人間らしい」作業に従事させられると提唱する。p250「サーチ、メモリー」
このあたりに当ブログが意識コンシャスと名付けようとしている姿勢、指向性が隠れている。この部分をもっと外側にプッシュする必要がある。
1940年代に心理学者カール・ロジャーズが開発したテクニックを使う、この流派のサイコセラピストは、患者と会話する際、世界に関する知識をまったく持っていないかのように装う。ほとんどの場合彼らは、陳腐でオープンエンドな質問やコメントのかたちに変えて、患者の発言をオウム返しにする。その無知がポーズにすぎないことを知っているので、患者は「あらゆる種類の背景となる知、洞察、理論的思考能力」を、セラピストの属性として自由に想定できる。p279「わたしに似た物」
すでにインターネット上でおきていることは一部のオタク的イノベーターやアーリー・アダプターが狂奔していることだけではなくなってきている。すでに、アーリー・マジョリティやレイト・マジョリティを巻き込み始め、いまやラガードですら、そのことに無関心ではいられなくなっている。いまや、物事は、分散的ではなく、統合的になりつつある。しかも、スーパー統合的、とでもいうべき事態が到来しつつある。
1950年代、マルティン・ハイデガーは次のように述べた。前方に立ちはだかる「テクノロジー革命の波」は、「人間を非常に魅惑し、魅了し、惑わせ、欺くものであるので、いつの日か、計算的思考だけが唯一の思考方法として、受け入れられ、実践されるようになるかもしれない」。「瞑想的思考」に従事する能力を、ハイデガーは人間性のまさに本質と見なしているのだが、脇目のふらぬ進歩の犠牲に、これはなってしまうかもしれないと彼は言う。p305「わたしに似た物」
このような文脈でハイデガーを再読していく必要もあるだろうが、当ブログ的センスでいえば「瞑想的思考」という言葉はありえない。「瞑想」とは「思考」のない状態を言うのであって、「思考」によって「瞑想」にたどりつくことはない。瞑想という言葉も手垢のついた言葉になってきた。当ブログは暫定的に、自らの姿勢のことを、まずは「意識コンシャス」というネーミングにしておく。いずれこの本を再読することもあるだろう。しかも精読が必要かも・・・・・・。
「テクノロジーの狂乱」は、「あらゆる場に定着する」恐れがあるとハイデガーは述べる。
われわれはいまや、この定着の最終段階に至ろうとしているのかもしれない。狂乱を、魂のなかへと迎え入れようとしているのだ。p305「わたしに似た物」
この語がこの本の結句である。そして、この認識は、当ブログの、新たなる出発地点となるであろう。
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