ニューロ・ウォーズ 脳が操作される世界
「ニューロ・ウォーズ」 脳が操作される世界
ザック・リンチ/杉本詠美 2010/07 イースト・プレス 単行本 391p
Vol.3 No.0142 ☆☆☆★★
原題は「The Neuro Revolution : How Brain Science is Changing Our World」だ。なんともはや、どうしてみんなこんなにレヴォリューションやら革命ばっかりがお好きなのだろう。正直言って辟易する。それが本当に革命に値するのなら、そんなに毎日起こるはずもなく、毎日起こるとすれば、それは単なる日常でしかないはずだ。新しいことの発見や価値転換が本当に起こっているのなら、それは確かに注目に値することではあるのだが、もっと新しい表現が必要なのではないか。
と、そう翻訳者が思ったかどうかは知らないが、この本「ニューロ革命」とはならなかった。「ニューロ・ウォーズ」である。戦争ですか。この本、必ずしも争奪戦とか研究競争の意味だけではなく、戦争そのものにその「ニューロ革命」とやらが利用される可能性も指摘しているので、「ニューロ・ウォーズ」も当たらずも遠からずである。しかし、それにしても「戦争」か。
ところで、「ニューロ」ってなんだっけ。文脈から読み解けば、それには神経という日本語が割り振られている。人体内にある細胞や臓器をつなぐ命令系統のネットワークのことであろうか。しかも、ここで語られているのは、特に脳の中にある仕組みについてのことのようである。
もうこの分野についていえば、一般の通常の地球人たちが自らの体験や自宅で追試できるような範囲を逸脱している。ある異常な体験や、特別な実験室や補助金を受ける立場の人間だけが知り得る内容となり、私たちは、そのことについては、彼らのレポートを待つしかないような立場に追いやられてしまう。
そのような特権的な研究成果について、ひとつひとつ細かに聞いたとしても、リアリティを持って理解もできなければ、その成果を実生活にどう活用すればいいのかもわからない。すでに、この分野の研究は、人道を逸脱しているのではないか、と密かに危惧する。モンスター・サイエンスの直前まで到達しているのではないか。
今からあなたがたは第4の変革を知ることになる。
私たちは今、過去3回の変革のどれよりも劇的な変化をもたらすであろう大波が頭をもたげているのを感じている。それが、目前に迫った「ニューロ社会」だ。このあとのページでえ、あなたがたはその始まりを示す事実と出会うことになる。この波が私たちに、「自分を取り巻く世界」と「自分の内なる世界」というふたつの広大な領域をコントロールする想像もしなかった力をもたらすことが、だんだんとわかってくるだろう。p27「現代社会から『ニューロ社会』へ」
著者は、まるでアルビン・トフラーの「第三の波」に喩えるように、「農耕社会の時代」、「蒸気機関の時代」、「情報社会の時代」の次の第4の変革として「ニューロ社会の時代」を設定する。
たしかにこれらの変革は、ひとりの人間では手に負えないことだらけだった。農業基盤の確立によって人類は定住するようになり富を蓄えることも可能になった。産業革命によって、都市に集中して人々は暮らすことができるようになったし、大量生産の技術を手に入れることができるようになった。
これらは多くの人の手によって作られてきたことではあるが、しかし、種を蒔いたり、刈り取ったりすることは、一人の人間の作業としてみれば、それほど身体から乖離した問題ではない。日々の生活としてそのような農耕生活があった。
蒸気機関にせよ、機械的工学であってみれば、たしかに技術を習得することは難しかろうが、眼で見て、音で確かめることができる世界であった。作ろうと思えば、初期的自動車くらいなら、一人の好奇心の強い青年にも、その原型を作ることができるであろう。
しかし、現代の私達が突入している「情報社会」はすでに、その多くがブラックボックス化している。このシステムを一人の人間が、自分の眼で見て、自分の耳で確かめて、自分の二本の手で作り上げる、ということはできない。それがビル・ゲイツであろうが、リーナス・トーバルスであろうが、あるいはグーグルの二人であろうが、アップルの誰であろうが、まず一人の人間としてはまったく対処できないところまで、高度に組み上がってしまっている。
技術はますますモンスター化し、一人ひとりの人間は、単なる端末としてのインターフェースを与えられ、いわば限られた範囲のわずかな選択肢の中で、あたかも大きな自由を与えられたかのごとく錯誤して、全体感を味わったりしている。しかし、それでいいのか、という反省は当然、各方面から沸き起こっている。
さて、この第三の波を十分検討しないまま、いきおい余って「第4の波」へと思いを馳せていくのは、さて、いかがなものであろうか。
もっと先の未来には、脳とコンピュータをつなぐシステムも登場するだろう。個々の人間がデータの流れを解析する能力を広げ、収益を高める意思決定を促進するのである。これらの新技術はそれを利用する人々に新しい活動の場を生み出すだろう。こうした正真正銘の大発見が、金融産業をはじめ、世界中の知識ベースの競争産業で、コスト構造を変え、生産性を向上させる。ニューロテクノロジーは、経営の常識を根本から変えることになるだろう。p36同上
この部分あたりは、北半球の極東に住む初老の一人の人間として、極めて強い違和感を持つ。私自身の寿命はあと何年あるか知らないし、私の生きている間にこのような時代が来るかどうか分からない。だが、少なくとも、私自身はそのような社会には積極的に関わることはないだろう。もっと、原寸大の、自らの「人間らしい」普通の生活を好んでいるはずだ。
最近、急に浮上したかに見える「消えた高齢者」の問題などは、第2の変革から第3の変革を経るなかで、負の部分として見落とされてきた部分である。「誰もが幸せになる」という幻想の中で、本当に幸せになった人間はどれほどいると言うのか。そもそも「幸せ」とは何か。森健ではないが、「インターネットは『僕ら』を幸せにしたか?」という重いテーマを時にはふりかえり、検証しながら進まなくてはならない。
脳科学は宗教と人間精神の関係も解明する。宗教や信仰を神経生理学的に研究する神経神学者の中には、最終的には神の存在さえ科学的に証明できるはずだと考えている人もいる。p37
単なる物書きなら、なんとでも言える。誰かが言った、誰かが証明した、という問題ではない。対峙するのは、一人の人間と「神」なのだ。誰かが科学的に「神」を証明したからと言って、個人個人にとって、なんの利益があろう。
意識---とりわけ意識と無限の存在とのつながりは、常に、人類が解明することができない神秘をはらんでいる。しかし、意識はたしかに脳の中にあり、今では意識の活動中にその画像を撮影することもできる。p244「ニューロ神学」
この部分は高らかにブーイングされてしかるべき部分であろう。意識は脳の中にあるとどうして断言できるのか。撮影されたものが意識であると、どうして極言できるのか。
こうした疑問に取り組んでいる神経神学者の中には、最終的には神の存在を証明できるのではないかと期待している人たちもいれば、逆に、無神論を科学的に立証できることを期待している人たちもいる。p247同上
このような表現は実に曖昧で、情緒的で決して「科学的」ではない。この本に限らず、類書や関連本を読み進めて行けば、ありとあらゆる言説にぶち当たることになるが、神秘は神秘のまま残る、と見ているのが、現在の当ブログの視点である。
瞑想をおこなっている修禅者と修道女の脳画像を見ると、この種の宗教活動をおこなっているときの脳内の状態は、異言を体験している人とはかなりパターンが異なることが分かった。p255同上
そもそも瞑想を脳波や画像で観察しても、本当のところは意味がないのだ。それは自らのものとして「体験」されなければならない。
何年かすれば、黙想や祈りに年月を費やさなくても、こうした装置を使って神秘的な境地に至ることが一般的になるかもしれない。p270「瞑想は体内制御盤の初期設定値を調整する」
一部のいわゆる科学者やサイエンス・ライターがどんなに上手に表現したとしても、この辺の詭弁には騙されてはいけない。
グローバルなレベルでは、神経神学が世界中の宗教の霊的、神秘的体験や宗教体験について研究を重ねた結果、公正や共感といった道徳的な本能や直感は人類に共通したものだということが明らかになるだろう。私たちが歩いていく未来は宗教的な対立がますます激化するだろうが、人類をひとつに結ぶこの糸が発見され、希望の灯として広まっていくはずだ。今後、ニューロテクノロジーは、信仰や霊的な存在、それぞれの文化が築き上げてきた世界に対する人々の見方を大きく変え、世界の多くの宗教に伝えられるある側面に真っ向から挑戦していくだろう。p277「ニューロ神学」
巻頭で日本語版監修者の石浦章一が言っているp4ように、この本に取り上げられている内容は「Nature」誌や「Science」誌に取りあげられ、研究者の間で話題になっていることが多いであろう。しかし、そのような傍証を使っての「憶測」にこそ十分に気をつけなければならない。
ニューロテクノロジーの普及によって、新しい形の人間社会が生まれる。それが、ポスト産業、ポスト情報のニューロ社会だ。ニューロ社会の大きな特徴は、都市化され、複雑に絡み合った社会での暮らしを楽にするというだけでなく、とびきりすばらしいものにしてくれる可能性をもったさまざまなツールだ。p374「『脳のプライバシー』は守られるのか」
もうここまでくれば、深夜テレビの通販宣伝か、ネットワーク販売の催眠商法となんら変わるところはない。世紀末ばかりか、世紀初めにも、このようなデマゴーグが跋扈するから、十分留意して、浮足立たずに、日々生活していく必要がある。
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