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2010/09/02

ネット・バカ<1>インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット・バカ
「ネット・バカ」<1> インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G.カー/篠儀直子 2010/07 青土社 単行本 p359
No.0134☆☆☆☆★

 この四万年のあいだ、人間の脳の基本構造がほとんど変わっていないことはわかっている。遺伝子レヴェルでの進化は、少なくとも人間の時間意識で計測するかぎり、繊細なゆるやかさで進んできた。ところが一方、人間の思考方法と行動方法が、この数千年の間に原型をとどめないほど変化したことも分かっている。p75「精神の道具」

 コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス。これが当ブログの3C論だ。「ツイッターノミクス」を図書館の新刊コーナーで手にとったのは、ことしの5月中旬。当ブログは、読書した本についてメモすることが恒例となったが、当時は、読書も、ブログも休んでいた。意識的に休んで、瞑想していた。そして、コンシャスネスのほうに傾いた生活をしていた。

 そんな時、偶然見かけた「ツイッターノミクス」に、いつものように好奇心は駆られはしたが無視した。コンテナに傾いた読書は避けようとしていた。頑ななその姿勢は、村井純「インターネット新世代」を読んだ8月始めになって、大きく変わった。友人からの書込みがきっかけだった。

 避けてきたコンテナ論ではあったが、ここに来て、お休みしていた分まで積極的に手を伸ばして最近の事情を追っかけてみた。なるほど、これは大変なことが起きているぞ。スマートフォンやツイッターの情報を追っかけてみた。そして、今や、いっぱしのツイッター通のフリをし始めている。

 グーテンベルク自身は報われなかったものの、彼が発明した印刷機は、歴史上最も重要な発明のひとつとなる。フランシス・ベーコンは1620年、『ノヴム・オルガヌム』で次のように書いている。可動式活字による印刷は、少なくとも中世の基準からすれば驚くべきスピードで、「全世界の事物の外見と状況を変化」させたのであり、「その結果、これよりも大きな力と影響を人間に対して与えることは、どんな帝国にも、宗派にも、星座にもできなくなったように思われる」。p101「深まるページ」

 6年落ちのムーバ機を、最新のqwertyキー付きのガラパゴス・ケータイに変え、外部からツイッターに書き込む事を始めたばかりだ。フォロー数やフォロワー数は、数十からようやく数百になった程度だが、蛇の道はヘビというべきか、すでに数千から数万、時にはそれ以上のフォロー&フォロワー数を持っている個人が無数にいることを発見して、実に唖然としている。

 これらの人気サイトはすべて、ウェブの登場以前には想像できなかったものだ。その双方向性によってネットはいわば世界の公会堂となった。人々はフェイスブック、ツイッター、マイスペースなど、あらゆる種類のソーシャル(そしてときには反社会的)ネットワーク上に集い、チャットや噂話を楽しみ、議論をたたかわせ、何かを見せびらかしたり、ナンパしたりするのである。p124「最も一般的な性質を持つメディア」

 コンピュータは意識を持つのか、という命題については、これまで、公共図書館の開架棚にある関連本を数千冊めくってきたところで言えば、それは不可能だ、という結論になる。もうすこし寛容にいえば、コンピュータが意識を持つには、その前提として、コンピュータ自身が「身体」を獲得しなければならない、ということになる。

 意識を持った「人工知能」が誕生する前に、まずは生命体に限りなく近い「ロボット」を作る必要がある。しかし、その研究も現在のところ、全く見通しが立っていない。だからいくらネットワークが集中化し、より巨大化しても、人間をさしおいて、ネットワークコンピュータが「意識」を持つということはない。

 翻って言えることは、クラウドソーシングが語られるが、一個の身体を持つ「個人」としての「意識」しか存在し得ない、ということになる。人間の人間たる原点は、この身体にあり、この「私」こそが、意識=コンシャスネスなのである。

 「われわれと脳との関係に文化が変化を与えるとき、文化は異なる脳を作り出しているのだ」。そして彼は、われわれの脳が「頻繁」に使われる特定のプロセスを強化する」ことを指摘している。インターネットやグーグルの検索エンジンのような、オンライン、ツールのない生活を想像するのは、いまや困難だと認めながらも、「それらを頻繁に用いることで、神経学的に重大な結果が生じる」と彼(M・マーゼニック)は強調する。p170「ジャグラーの脳」

 冒頭で引用したように、人間の脳は、この4万年、基本的に変わっていないのだ。多少の外的刺激によって構造的に変化してしまうことなどは考えられない。それでも、その多様な機能性は、いままで決して考られることのなかった、多様な反応を示してくる可能性はある。

 この本はネットを糾弾し、ネット以前の世界へ戻ることを推奨する本ではないかとの性急な憶測が、タイトルだけを見た時点ではなされがちであるかもしれない。(中略)この変化は不可逆的なものであって、われわれはもうネット以前の世界へは絶対に戻れないのだとニコラス・カーは熟知しているし、また、本書のなかでも何度も述べられているように、彼自身の生活も、もはやネットなしでは絶対に立ち行かない状態になっている。p358「訳者あとがき」

 この本はネット上におけるコンテナ論を概観的に論じながら、また体験的にネット上のコンテンツを使い切りながら、なお、次なるコンシャスネス論へと足がかりをつけようとする一冊である。当ブログとしては、最新の状況を踏まえた上で、なお体験的な研究をとおして、人間としての存在に踏み込もうとする、この本の類書が続出してくることを望みたい。

 著者には前著「クラウド化する世界」がある。

<2>につづく

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40)No Books No Blogs」カテゴリの記事

コメント

☆setu
 日本語OSHOウィキ、なかなかカッコイイね。ここを編集しきれる人は少ないだろうけれど、ひとつひとつの情報については、多くの人の参加があれば、より正確で立体的なページができそうです。

 ウィキぺディアについて、また、いくつか本を借りてきて再読しつつある。いままでは、利用するもの、という感じが強かったけれど、参加するものとしてのウィキペディアを考えた場合、これはいままで思っていた以上に意義深いものとなりそうだ。 

 ニュースやネットワーキングについて、まだまだ自由で無限な領域が残されているな、と改めて気づかされる。

投稿: Bhavesh | 2010/09/13 03:07

ウィキペディア系では、 http://wikia.com/ が、同じソフトで百科事典ではないウィキペディアを自由に作れる場を提供してます。ウィキペディアの創始者が、ウィキペディアのために開発されたソフト:メディア・ウィキでやってます。

ウィキペディア財団がやってる他のサイトもあるけどね。
http://www.wikinews.org/
とか。

ツイッターをハブにして、ジャーナリズムや政治が回りそうだけど、このウィキニュースとの連携とかね、ないのかな?今のところ、無関係な様子。道具としては、いいんだけどね。

ウィキアに、日本語OSHOウィキを作ってみた。日本のOSHOを横に繋いでみてる。
http://ja.osho.wikia.com/

投稿: setu | 2010/09/12 15:30

☆setu
ウィキペディアの成功例も大きいです。そして物事は現在も進行しているわけで、今後どのような行き着き方をするのか、極めて興味深いところです。
ただ、もっというなら、「百科辞典」としてのウィキペディアから、さらに次なる意識コンシャス(って、当ブログの造語だが)の方向へ、どうシフトアップされていくだろう、というところに、さらに深い関心があります。
私も利用者としてID登録はしているのだけど、まだウィキぺディアに積極的に参加しているとは言えないところが、反省点ではあるけれど。

投稿: Bhavesh | 2010/09/11 17:23

一般向けの共同作業では、ウィキペディアかな?

これで、世界レベルのネットワークで、共同創造が起きた例かな?

既にこのインターネットを動かしているソフトウェア自体が、世界的な共同創造が起きた。そのためのインフラや道具は、90年代のはじめには十分に整っていた。

でも、それは敷居が高いので、ウェブ・ブラウザーで敷居が落ちて、WIKIができたことで、ウィキペディアが成功したわけだね。

ソフトウェア開発、百科事典開発が、成功したのは「見ている目の数が多ければ、自動的に補正されていく」ということが働いている。

その点で、見る目の数が増えて、参加者が増えるって言う点で、ツイッターが可能性がある。

少なくとも、一つのブールの中に、これだけ多くの参加者がいるっていう状況は、どんな風にも流れるね。さらに、ツイッターは外部へのデータや接続が公開されているので、仕組みがシンプルな分、大きな可能性があるんだよね。

「出版」というのは、マスコミで、「権威」がそこにいる。権威と言うのが本当の権威なのならいいのだけど、そこに「世論操作」をするために、権威が使われるという危険がある。

まずは、データが大量に流れるようになったら、必要かつ自分に信頼できるデータを得るためのフィルターというのは、放っておいても出来て行くでしょう。

「では、それをどうやって、フィルターするのがいいか?」

というのが、次の議論になるんです。

なにはともあれ、ネット生放送の、ニコ生、Uストリームは、ツイッター経由で、視聴者が集まってくる。まだ、ネット先端にいる人たちだけだけど、もっとツイッターの参加者が増えると、面白くなるだろう。

また、グーグルTVやら、アップルTVが出てくるけど、リビングルームのTVに本格的にネットがやってくるのか?と、これがちょっと楽しみ。

ウェブが、これだけ実用的になったのは、グーグルの検索技術が大きいよね。これが、ウェブの「フィルター機能」だね。グーグル以前のネットワークは、必要なページにたどり着くのが大変だったんよ。ゴミを沢山覗いてみる必要があった。

大企業のページを見つけるのですら、一発じゃなかったんだよ。w

何はともあれ、ニコ動で小沢首相代表が1時間以上もジャーナリストとやりとりする生放送があって、そこで、ネットの生放送がどれだけすごいかを体験した小沢さんが、数日後に、公式の小沢事務所アカウントをはじめて、ユーチューブに公式小沢チャンネルを作った。

早いね。ネット上で政治が動く時代がすぐにやってくる。ジャーナリズムは既に動き始めた。


ここで、ツイッターを

「文字列生放送」と呼んで見たくなった。

世界的な文字列生放送のネットワーク。

そうだ、他のウェブに比べて何がすごいって言うのは、ツイッターは生放送ってことなんだよね。

じゃ、また。ブログに持ち帰りますが、返信はここでいいですよ。

Love

投稿: setu | 2010/09/11 04:59

☆setu
この分野の話はとても興味深く、いろいろなインスピレーションや思いつきはある。そして、さまざまミステッィクたちがさまざまな表現をしてくれている。
当ブログでやろうとしていること、やれそうなことは、そこのところを、アップデイトな内容でしっかりと表現した説得力のある内容の「本」と出会うこと、と言えるかも知れない。
別に「本」でなくてもいいのだが、現在のところ、しっかりした書き手によって、印刷物として表現されたものが、一番信憑性があるように思える。
または、そのような状況が、どのように超えられていくのか(あるいはすでに越えられているのか)、というところを追っかけているのでしょうw。

投稿: Bhavesh | 2010/09/09 08:13

集合的意識がより効率的に情報を溜めたり、情報を交換したり、情報を複合したり、複数の意識が働く場を用意してくれるのが、この地球規模情報ネットワーク:インターネット。

中心はなく、個々の参加者が中心として振る舞う。

重要になるのは、より有効な情報を生み出す主体。個人や団体。

情報資本主義。

集合超意識というのは、すでにあって活動していて、僕等はその一部なんだけど、集合無意識が、超意識=創造的意識の働きを阻害している。

インターネットを、「個体意識」が使いこなすことによって、超意識:シンクロニシティが具現化しやすくなるんじゃないかな?創造性の爆発が地球に起きるんじゃ?

投稿: setu | 2010/09/09 06:29

集合的無意識 無意識 意識 超意識 集合的超意識・・・・・・
いくつかのテーゼが出され、いくつかの試論が展開されている。
ミステッィク達による提言もなされている。
科学者たち、表現者たち、神秘家たち、による統合的な「意識」にまつわるネットワークが本格的に稼働するには、まだいささかの時間が要するのか。
あるいは、すでに稼働しているのに、見失われているのか。
その辺を見極めることが、当面の当ブログのテーマ、ということになりそう。

投稿: Bhavesh | 2010/09/02 08:17

人間が意識を持っているのも不思議。人間は内側に複数の意識を持っていて、それらがある程度統合化されていて、ひとつに見えてと思っています。

そうすると、別の質問ができます。

コンピュータは、複数の人間の意識を統合化するか?

投稿: setu | 2010/09/02 00:21

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