クラウド化する世界 <2>
「クラウド化する世界」 <2>ビジネスモデル構築の大転換
ニコラス・G.カー /村上彩 2008/10 翔泳社 単行本 313p 原書The Big Switch: Rewiring the World, From Edison to Google 2008/1
この本、このタイトルゆえに読み、このタイトルゆえに、遠ざけた。そもそも原書のタイトルと大きく違っているのではないか。1年半前に読んだ時は、新しいモノ珍しさに、この本を手にし、すぐに、ちょっと違うんじゃないでしょうか、とすぐ手離した。
そもそも、クラウド、と言われるもの、日本語においては、クラウド・コンピューティングとクラウド・ソーシングと、同じようにカタカナで表現されているが、片や雲(cloud)、片や群衆(crowd)と、まったく意味の違う言葉である。おなじクラウドでも、私なら「クラウド・ソーシング」のほうが面白そう、と、最初からこちらの「クラウド化する世界」のほうは、努めて忘れるようにしてきた。
しかし、最近になって、はてさて、それは正しかっただろうか、と思い始め、この本をもういちど手にしてみようと思った。前回の感想はすでに前回書いているが、あまりに流行語「クラウド」(雲)を強調したタイトルに反感を持ったものだった。そして、今回思った。結局、この本のタイトルとしては、これはこれでよかったのではないか。
いまや、コンピュータが現代ビジネスの大黒柱であることは当然と思われているが、コンピュータが開発された当初は、その有用性は疑問視されていた。1940年代に最初の本格的な商業用コンピュータであるユニパックが作られたとき、コンピュータがビジネス用途で将来有望であると考える人はほとんどいなかった。p056「ひとつの機械」
巨大なコンピュータは、劇的なイノベーションによりパソコンとなり、さらにインターネットと時代になって、さらに新たな時代に突入した。
コンピューティングの経済は変化し、今後の発展を導くのは、新しい経済である。パソコン時代は、新たな時代に未知を譲りつつある---それがユーティリティの時代なのだ。p073「デジタル時代のからくり装置」
巨大コンピュータ時代には、その流れから大きく疎外感を持っていた多くの一般大衆は、パソコンの登場によって、その技術をまのあたりに見ることができた。であるがゆえに、私などは、「パソコン」という形態に執着し始めているところもあるようだ。
今日利用可能なユーティリティコンピューティングの最も先端的なバージョンにおいては、ユーティリティはパソコンに完全に取って代わっている。ファイルを保存することからアプリケーションを実行することまで、PCでできることはすべてコンピューティングネットワークを通じて提供されている。従来型のPCは時代遅れとなって、簡単なターミナル"シンクライアント"に置き換えられる。p097「さようなら、ミスター・ゲイツ」
ポケットにはいるコンピュータと言われるスマートフォンなどは、たしかにパソコンがさらに集積化が進化してさらに小さくなった、と言うこともできるが、実際には、有線、無線のインターネット回線の常設が一般に広く提供されることによって、巨大コンピュータに連なる、端末化している、と言える。
グーグルの最高経営責任者であるエリック・シュミットは、サンがこの予言的なスローガンを打ち出したときに同社に勤めていたが、ワールドワイドコンピュータについては別の言い方をした。シュミットは「雲の中のコンピュータ」と言っている。シュミットが言いたいのは、今日の我々が体験しているコンピューティングはもはや特定の具体的な形状をとっていない、ということだ。
コンピューティングが行われているのは、インターネットで常に変動しているデータ、ソフトウェア、そしてデバイスの"雲"の中なのだ。携帯情報端末のブラックベリーや携帯電話、ゲーム機、その他ネットワーク化した便利な小道具は言うまでもなく、我々のパソコンは、雲の中の一個の分子、巨大なコンピューティングネットワークのノードの一つなのである。p234「ワールドワイドコンピュータ」
これが仮に実際的な現実であろうとも、すなおにすぐその現実を認めることは、私などには、すぐにはできない。
コンピューティングの雲が大きくなり、ユビキタス化するにつれて、我々はますます多くの知的情報を提供するようになる。GPS衛星と小型無線送信機を使用すれば、現実世界における我々の動きは綿密に追跡されるようになるだろう。それはちょうど、今日の我々のクリックが仮想世界で追跡されているのと同じことである。p264「雲の中にすむ」
私などは、ガラパゴス・ケータイのオサイフ携帯やGPS機能を使うことに馴染むことができずに、躊躇する。知らず知らずにこちらの行動が監視されているようで、窮屈な思いを持つ。
では、私たちの頭脳はどうなるのか。我々がインターネットの巨大な情報倉庫を、自分自身の記憶の延長あるいは代用品としてますます過大に依存するにつれて、我々の思考方法も変化するのだろうか。我々が自分自身を理解し、自分と世界との関係を理解する仕方は変化するのだろうか。我々がより多くの知的情報をウェブに投入するにつれて、我々個人もより知的になるのだろうか、あるいは知性を失うのだろうか。p271「iGod」
ここまでくれば、そのテーマは先日読んだ「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」と繋がってくる。そうそう、この「ネット・バカ」こそ、「クラウド化する世界」の著者による続編なのである。
エジソンの電球が登場する以前の生活を記憶している人々はわずかになってしまった。その人たちが亡くなれば、電球が登場する以前の昔の世界の記憶も失われてしまう。世紀の終わり頃には、コンピュータとインターネットが当たり前の世界の記憶に、同じことが起きるだろう。我々は、その記憶を持ち去る人々となるだろう。p279「エピローグ」
もうここなどは、クラウド(雲)化することが大前提で書かれている。実際に、グローバル世界はそちらの方向に大きく舵を切っている、ということは、誰もが認めざるを得ない。
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