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2010/10/03

私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか 地下鉄サリン事件から15年目の告白

私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか
「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか」 地下鉄サリン事件から15年目の告白
松本聡香 2010/04 徳間書店 単行本 241p
Vol.3 No.0162 ☆☆★★★

 数か月前にタイトルだけ見てブッキングしておいたものだが、40人ほどの順番待ちがめぐって、私の番になったらしい。このタイミングでこの本を読むのもどうかと思うが、私の後ろで待っている人々を考えると、さっさと目を通して次の人に渡すべきだろう。

 著者は、松本智津夫の4女2男のうちの4女。1988年生れ、1995年の段階では6歳だった。事件については中学生になってからくわしく知るようになったという。現在21歳。家出をしたり、リストカットやネットカフェ暮らしのあとに、この本を書いたとは言え、あまりに早い段階における「自伝」と言える。

 当然、興味深々で彼女の「告白」を聞く人もいるだろう。なにかのデータとして突き合わせるために、貴重な資料と成り得るかも知れない。しかし、問われているもの、問われるべきものと、問われなくてもよいもの、問われてはならないもの、はもっと峻別されていいだろう。

 例えば、彼女たちには異母姉弟たち15人が存在するという。犯罪の当事者たちはひとつひとつ問われなくてはならないだろうが、その周辺にいた「問われざるべき」人々も多くいる。問われるべきでもなく、語られるべきでないもの、が多くある。

 当ブログにおいては、かの事件について要所要所を当時以降の書籍を追っかけるかたちでメモしてきた。今後も、気づいた段階で、すこしづつそれを繰り返していくことになろう。しかし、この作業を開始したのは、事件後10年を経過してからだった。そうそう簡単に終結するような案件でもない。そしてまた、自分の立場からはあまりに無関係なものにはタッチすまいと思っている。あるいは、容易にはタッチできない。

 しかるに、自分としては無視できない、直視すべきである、と思えた部分については、もうすこし執着力をもって追いかけていくしかないだろうと思う。例えば「なぜ生まれたのか」などという質問は、どの立場、どの環境に生まれたとしても、人間誰もが一様にもつ人生最大の謎なので、ある人物のその立ち場に生まれたからと言って、必ずしもその人物が、なにか特別であるわけではない。あるいは誰もが特別なのであり、誰もが公平に普通なのである。

 著者は一時、江川詔子氏を頼り、後見人になってもらい、生活を依存した時期があったようだ。必ずしも長期には至らなかったが、それらにまつわる「プライベート」な話を一方的に公表するのは、あまり品のいい話ではないと思う。

 巻末には、事件に関わった何人かの写真入りで、その人物たちに対する彼女の感想が述べられているが、なにかの資料づくりをするような人とか、人間の心理について、小説でも書いてやろう、とでもする人以外にとっては、こちらもあまりほめられた作業ではないと思う。

 一体において、事件当時6歳、現在でも21歳の一女性に、事件の意味や、全体で何が起こったのかを知るように期待するほうが無理であろう。彼女の人生はこれからだ。まだまだ、彼女だけしか体験できない苦悶の日々もあるであろうし、彼女ゆえに開かれる道もあることだろう。その長い人生の中で、その体験が、彼女の内で、今後どのように変化していくのかは、彼女自身が体験し続ければいいことなのだと、私は思う。

 2010年3月20日。巻末の「おわりに」はこの日に書かれている。あれから、15年が経過したのか。実は、事件は、彼女が生れる前から始まっていた。そして、他の多くの人のなかでも、まだまだ終わっていないドラマが続いている。

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