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2010/10/02

ルポ現代のスピリチュアリズム<2>

<1>よりつづく

ルポ現代のスピリチュアリズム
「ルポ現代のスピリチュアリズム」 <2>
織田淳太郎 2010/03 宝島社 新書 239p
☆☆☆☆★

 先週ちらっと立ち読みしただけだったので、今日は図書館から借り出して、ざっと目を通した。この本に対する私の気持ちは複雑だ。一様ではない。最初は、久しぶりに書店にならんだ本にOshoの名前が散見されたので、その部分だけでも抜き書きして、何回かに渡って、私論をつけてみようかな、と思ったりもした。

 だけど、通読してみて、この場面でこのようなリンクでOshoを登場させていいのかな、と感じてみたり、最初の掴みから、最後の締めに至るまで、Oshoに重きを置いているところなど、著者独特のニュアンスがあるのであった。これは、何かに対しての意見の交換、というよりも、これはこのまま、受け取るしかないのだ、と考えが変わった。

 そもそも、店頭にならぶ新刊本なのだから、著者の意図があり、編集者や出版社の経営判断があり、読者も読者として、外在物としての本を受け取る。そのような作業でありながら、実は、この本は、著者の、著者による、著者のため、の本なのではないか。

 この本に触れられている内容について、その認識の仕方が、読者としての私と違うのは当然のことであり、むしろ似ている部分があったりすれば、それはむしろ愉快、というものであるが、違ったり、似通っていたりしても、結局は、それは何の意味もないのではないか。

 少なくとも、著者は、それら一連のものごとについて、著者の立場で、著者の人生の中で感じたものであり、それを客観的に証明したり主張したりする必要もないことなのである。読者としての私は、この本を書いた人は、そう見たのだし、そう感じたのだ、ということを尊重し、見守る、という姿勢にとどまるべきではないのか。

 そもそも、この本に書かれていることは、言葉として、本として、なにか外向けに表現されなくてはならないものとは限らない世界のことなのである。だから、そもそも本として存在していることに無理がある。何かが失われており、何かが余計に付随している。そもそも、表現されなかったこのような本が、他にも無数にあるのだ。

 むしろ、それが不完全であったり、過剰であり、偏向していたりしたとしても、それは著者やその対象となった世界にその非を求めるべきではない。むしろ問われるべきは、そのような本を読むようになった、自分自身のことであり、私は誰か、という点に戻ってくる。そして、私についての事ならば、敢えて、それは表現されることを待っているわけでもなく、表現しないことに非はない。もちろん、不完全な形で表現されたとしても、非はない。

 もしOshoについて関心がある人がいれば、このような本があるよ、ということをここに一言メモしておくこともいいだろう。こんなルポルタージュ(自身の体験談に近いが)があるよ、ということはメモして置く価値はある。そして、もし、同じような形で、連鎖する自己ルポが表現されるなら、それもまた、私は目を通してみたいと思う。

 そういう意味では、当ブログも一つの自己ルポだ。この本に対する直接の書評や感想は、どんな風に書いたとしても的を得たものとはならないように感じる。巻末に掲げられている「参考文献」の30数冊のうち、Oshoの本は6冊(6タイトル)。ひとつの切り口から、自らの心境を開示してくれた、という意味で、著者には素直にありがとう、と言いたい。

<3>につづく

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