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2010年10月の46件の記事

2010/10/31

ウェブを炎上させるイタい人たち 面妖なネット原理主義者の「いなし方」

ウェブを炎上させるイタい人たち
「ウェブを炎上させるイタい人たち」 面妖なネット原理主義者の「いなし方」
中川淳一郎 2010/02 宝島社新書 新書 255p
Vol.3 No.0199 ☆☆★★★

 炎上ねぇ。炎上ネタの本は、もう一巡してしまったのではないか。2010年になってもこのタイトルで引っ張るか。「ブログ炎上」2007/03、「ウェブ炎上」2007/10、などが流行ったのはすでに3年前のことである。ちょっと古いかなと思いつつ、著者の前著が「ウェブはバカと暇人のもの」であることを考えると、ちょっとめくってみようかな、と思わせる。

 思い起こせば、1990年代初め、ようやくネット社会が切り開かれようとしていた時、私が最初に繋いだのはワープロ通信だった。言ってみれば、今の小さなSNSのチャットみたいなものだが、いつもは文字作成しかしないワープロにモデムをつけると、電話線でピーヒョロロ~、という音とともに、黒い画面に白文字で、仲間達のバトルが展開始まったのだった。

A子 何言ってんのよ、んなこと私言うわけないじゃない。

B江 ふん、いつもその調子で逃げてばかりいる。

A子 キー、こんな通信やめてやる!

C夫 まぁまぁ・・・・・・

B江 Yちゃんは、こんなこと言っていた。

D男 Yちゃんが言ったのは、そういう意味で言ったのではないんじゃない。

A子 BもCもDもYも、な~~んにも分かってない、さいなら。

E美 ほへー~~

私  (無言・・・・・・・・・・・・)

 てな感じだった。せっかく、いろいろ機器を準備して、電話会社やプロバイダと契約して、あれこれ分からないまま必死になって繋いだワープロ通信の、第一声が、この仲間達の喧嘩(これはネット上でよくあるバトルという奴だと、あとから分かった)だった。

 まぁ、しかし、このバトルが私には面白かった。これをワープロ専用機のプリンターで印刷し、女房に見せつけて、どうだ、これからはこういう時代だ。月2万円の出費など、惜しくはないだろう、と自慢した。もちろん、女房は、あきれ顔で(無言・・・・・)だった。

 それから10年以上も経過したあとに、私はいきなり某大手SNSに勧誘された。単にネットワークというより、すでにそこは炎上していたのである。私は、ほとんど炎上の火消し役として呼ばれたのだった。SNSの意味も分からないまま登録し、使い始め、それほど日にちがたたないうちに、自分でもコミュニティを設定し、その炎上をもらいうけた。

 管理人としては、とても気が抜けない日々が続いたが、結局は、だんだん消火に成功し、一ヶ月後くらいにはなんとか通常に戻った。厖大なレスは、結局、管理人責任で後日になって全削除した。それが正しかったかどうかは、今のところわからない。しかし、私自身は、バトルも炎上も、嫌いじゃないんだな、と思った。しかも他人のことならね。

 私の目には「炎上とバトルはネットの華」と映った。もちろん、その話題の中心になることがあったとするなら、それは結構つらいので、私自身は、出来るだけ小さなうちにバトルも炎上ももみ消すことにしている。ブログに書くことも、自分にしか分からない隠語で書いて記録していることもしばしばある。

 本書は、インターネットを巡る世代間闘争の悲しい物語である。p22

 というセリフは、著者一流のウィットとアイロニーに満ちた台詞なので、「よし、受けて立とうじゃないか」と、いきり立つほどでもない。

 140文字で「今」をつぶやくことができるこのツールは、ネットの先端的ユーザーの中では熱狂をもって迎えられた。そして、次々と解説書が発刊された。

「ツイッター 140文字が世界を変える」

「Twitterの衝撃」

「Twitter革命」

「仕事で使える!『Twitter』超入門」

「Twitterマーケティング」

「Twitter社会論」

「夢をかなえるツイッター」 coming soon  p30

 これらの何冊かは読んだし、思えば、他にも結構読み込んでいる。

「『ツイッター』でビジネスが変わる!」

「ツイッターノミクス」

「ビジネス・ツイッター」

「ツイッター社会進化論」

「ツイッターで日本全国0円旅!」

「twitterが変える投資生活!」

「ツイッター『恋愛とマネー』」

「2010年ツイッターの旅」

「Twitterの本当の使い方」

「ツイッターマーケティング入門」

 スマートフォンでツイッター、というコンセプトの中、私にもその環境が出来上がったが、必ずしもモバイルツイッターとして活用したという実績はまだ上がっていない。しかし、ネット社会、IT進化のトレンドとして、もうこれ以上追っかけるのもそろそろいいのではないか、と思う。

 思えば、「読書マンダラ2006~10」によれば、当ブログには3つの柱があることになる。敢えて、これらに名前をつけるとすれば、こうなるだろう。

1)第三の波プロジェクト

2)Oshoの道

3)アガルタ探検隊

 この三本柱の最終的な融合が、当ブログの目的地であり、終了地点である。そう決めつけてみれば、ツイッターも必ずしも最終的な決定打でもなければ、この著者のような視点も必ずしも、第三の波プロジェクトの中枢をいくものでもない。

 1)、2)、3)のリストとも、現在のところ、暫定的な未完成な地図である。今後、これらをもう少し整理し、細くすることによって、さらなる統合を図ろうと思う。

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2010/10/30

インディ・ジョーンズ 最後の聖戦

インディ・ジョーンズ 最後の聖戦
「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」 
主演 ハリソン・フォード 監督 スティーヴン・スピルバーグ 製作総指揮 ジョージ・ルーカス エピソード25(1989年公開)
Vol.3 No.0198 ☆☆☆☆★

 インディー・ジョーンズ映画第三作。今回は父親役でショーン・コネリーが共演。公開日時が現代に近づいてくるだけ、リアリティは増してきている。ストーリー展開も勧善懲悪で、いかにも水戸黄門化している。今回の悪は、第一作「失われたアーク」と同じ、ナチス。ヒトラー本人も登場するという入れ込みぶり。

 ナチスに向かって立ち向かうのであれば、誰でも善になってしまいそうだが、ドイツの人々はこのようなフィクションをどのような目で見ているのだろう。その当時の行いがどうであろうと、例えば、旧日本軍が戯画化されて、フィクションの中であったとしても、悪に似せられていたら、私なら気分を害す。

 当ブログにおいても、いちど、ナチス関連を手当たりしだい目をとおしてみたいと思ったことがあるが、いまだに着手できないでいる。すでに結論がでた話であったとしても、自分なりに再確認してみる価値はある。しかし、全体を見通すにはあまりにも厖大すぎるだろう。

 イスラム勢力を、悪の枢軸と罵ったアメリカの大統領がいた。「エーボー」と吐き捨てるように言う時、共感する勢力は大喜びするだろうが、新たなる戦火を招く種を蒔いていることになる。自分に敵するものすべてが悪で、自分こそ善であるとすると、相互の対立はいつまでも消えない。

 プロレスや格闘技なら、ヒールならヒールとして愛されることがあるし、ベビーフェイスを凌駕するヒールもたくさんいる。しかし、史実ならともかくとして、B級娯楽作品の中で、たびたびナチスをフィクションの中に引っ張ってくるのはどうかな、と思う。 

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インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説

2008年06月06日発売インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説
「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」
監督 スティーヴン・スピルバーグ 製作総指揮 ジョージ・ルーカス 主演 ハリソン・フォード エピソード23(1984年公開)
Vol.3 No.0197 ☆☆☆★★

 インディ・ジョーンズ・シリーズ、映画としては第二作。今回は舞台はインド。どこまでもデフォルメとカリカチュアライズされたハリウッドの世界。基本的には、ポパイとオリーブとブルートのでてくるコミックの世界となんの変わりもない。「助けてーポパ~イ!」というオリーブの黄色い声に、ホウレンソウで立ちあがるポパイが、ブルーとからオリーブを助ける、というパターン。

 ここまで戯画化されれば、めちゃくちゃに描かれているインドの人々や、東洋の宗教性など、いちいち腹を立てているほうが大人げない、ということだろうか。すでにフォーセットの冒険譚などとは一線を画す、エンターテイメントありきのオチャラケ映画。

 今回は東洋人の少年がでてくるところが目新しいか。地下王国の炭鉱ではたらく少年達を助けるシーンなど、今回の南米チリにおける炭鉱事故での救出劇もさもや、と連想させる。公開された1984年という時代性を考えると、しかたないのか。あるいは1984年でさえ、この程度の目くらましで大衆は納得していたのか、疑問は残る。この映画を見て、あとに何が残るのだろう。

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レイダース/失われたアーク《聖櫃》

 【DVD】インディ・ジョーンズ レイダース 失われたアーク洋画
「レイダース 失われたアーク《聖櫃》  
製作総指揮:ジョージ・ルーカス 監督:スティーヴン・スピルバーグ 主演・ハリソン・フォード エピソード24(1981年公開) パラマウント映画
Vol.3 No.0196 ☆☆☆★★

 「ロスト・シティZ」のフォーセット大佐つながりで、映画「インディ・ジョーンズ」シリーズを見ることになった。いつかは大活用したいと思っていた公共図書館の視聴覚資料だが、ついつい書籍の方が主体となってしまう。あれだけたくさんあるのだから、集中的に、体系的に活用したら、きっと何かあるかも。

 余談だが、公共図書館の昔のビデオ資料などは、今後、どうなるのだろう。以前はLD(レザー・ディスクやらDVDの再生機が一般家庭に普及していなかったために、公共図書館で閲覧できるようにする必要があった。その後、視聴覚資料をめぐる環境は激変しており、今や、むしろ、ビデオテープを再生することができる機械を揃えている一般家庭の方が少なくなってきているのではないだろうか。

 それに、これからの音楽や映画の配信は、ネットを通じた電子状態のものが多くなり、公共図書館はそれを電磁的に補完し、利用者にはネットを通じて貸し出す、という時代が来るのだろうか。あるいは、このあたりの対策はもうとっくに、もっともっと先に行っているかもしれない。

 インディ・ジョーンズ・シリーズの映画(パラマウント・ピクチャーズ配給)は4作ある。

『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』エピソード24(1981年公開)

『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』エピソード23(1984年公開)

『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』エピソード25(1989年公開)

『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』エピソード26(2008年公開)

 失われたアークは、30年前の作品であるがゆえ、さすがに古びていて、特撮やハリウッド的表現がいかにも笑えてしまうところ満載だが、あの時代の「B級娯楽」作品としては、大ヒットする要素もたくさんある。

 監督陣も一流、ストーリー展開も早い。映画館で見て、ああ、面白かった、で終わるのであれば、それでいいのだろうが、ついつい、いや待てよ、という癖がでてくる。最近作は2008年だから、とにかく、4作続けて見て、それから総括的な感想を書くことにしよう。

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2010/10/29

ロスト・シティZ 探検史上、最大の謎を追え<2>

<1>よりつづく
ロスト・シティZ
「ロスト・シティZ」 探検史上、最大の謎を追え<2>
デイヴィッド・グラン/近藤隆文 2010/06 日本放送出版協会 単行本 p316
☆☆☆☆☆

 フォーセットの探検と、その探検の痕跡を追いかける、この本の著者デイヴィッド・グラン、この二つのストーリーが交互に展開される。この本が映画になる時、ブラット・ビッドはどっちの役を演じるのだろう。どっちもカッコいいが、ひょっとすると、これは一人二役、おいしいところはどっちもブラッド・ビッドが独り占めするのではないだろうか。

 ヴィクトリア朝に現れたなかでもきわめて型破りな人物がいた。ヘレナ・ペトローヴナ・ブラヴァッキー、通称ブラヴァッキー夫人だ。19世紀後半のその時期、霊能力者を自任するブラヴァッキーは、その後長く続くことになる宗教活動をまさに始めようとしていた。p49

 フォーセットの生きていた時代は、まさに探検・冒険の時代であり、それは外側にも、内側にも、目が向けられていた。ここにブラヴァッキーがでてくるのも、意外でもあるが、当然、という気もする。

 「ここだ」。僕はコンピュータの画面に映し出されたアマゾンの衛星写真を指して妻に言った。「ここが僕の行き先だ」
 その写真には、大河とその支流が容赦なく刻んだ地球の裂け目が写っていた。のちに僕はグーグル・アースを使ってその座標をさらにはっきりと妻に指し示すことができた。2005年の夏にベールを脱いだこのソフトウェアは、地球上のほぼどの地点でも、瞬時に数メートル手前まで迫って拡大表示してくれる。
p110

 そしてまた、本書の著者が生きている現代は、GPSや4輪駆動車、インターネットが縦横に活用できる時代である。この二つの時代のストーリーの同時進行が、新たなるリアリティを産む。

 年代記は古い教会や図書館のほこりにまみれた地下室に埋もれ、しかも世界中にちらばっていた。フォーセットはふだんの探検服からあらたまた服に着替え、そんな巻物を各地で探し求めた。(中略)こうして少しずつエル・ドラードの伝説をつなぎ合わせていった。p163

 フォーセットはエル・ドラードとは言わなかった。単に「Z」としか言わなかったのだ。失われた都市「Z」。当ブログの「アガルタ探検隊」の目的地には、当然、この「Z」も含まれている。

 かつてフォーセットがオカルトに興味をいだいていたのは、主に若者らしい反骨精神と科学的好奇心からくるもので、それが自身の属する社会の主流への反抗心と、先住民族の伝説や宗教への敬意につながった。p182

 現在、名古屋で開催されているCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)において、いわゆる先住民達が伝説やシャーマニズムの中で使用してきた植物や生物のなかから貴重な資源がみつかり、現在、薬品などに使われている。冒険や探検が生み出す成果は限りなく大きいが、それを現地で保存し言い伝えてきた住民達に対する敬意ももっと大きいものであってしかるべきだろう。

 フォーセットは大佐を自称したが、じつは大戦後に除隊したときは中佐だった。彼は会見に先立ち、英国陸軍省に階級の変更を承認するよう要請していた。(中略)「現地の役人を相手にする時は高官であることが重要なのです。」(中略)どちらも陸軍省から要請を却下されたが、フォーセットはかまわず階級を上げることにしたーー一歩も譲らない彼のことを、そのうち家族や友人をはじめほぼ誰もが”フォーセット大佐”としか呼ばなくなった。p191

 これもまたフォーセットの人と成りを伝える面白い逸話である。

 フォーセットは1991年の小説「インディ・ジョーンズ第七の魔力」にも登場している。これは1981年の大ヒット映画、「レイダース/失われたアーク<聖櫃>」の成功に乗じて書かれたシリーズ本の一作だ。入り組んだ筋のこの小説で、インディアナ・ジョーンズは、「私は考古学者だ、私立探偵ではない」と言いながらも、フォーセットの捜索に乗り出す。p243

 B級娯楽映画「インディ・ジョーンズ」全4作は図書館にビデオやDVDとして貸出可能になっている。借り出して見てみよう。

 信頼に足る統計値は存在しないものの、近年の推計によれば、こうした遠征による死者の数は100人をくだらない。p261

 命知らずの男たちを誘うものはなにか。

 1924年には、フォーセットの手記は、世界の終わりや、エデンの園めいた神話上の跡アランティス王国に関する熱に浮かされたような文章にあふれていた。Zは「あらゆる文明の揺りかご」にして、ブラヴァッキーが語った”白ロッジ”、すなわち高次の霊的存在の一団が宇宙の運命を方向づける場所の中心へと変貌したのだ。フォーセットは「アトランティスの時代」から存在する白ロッジを見つけ、超越を達成することを願っていたのだ。p287

 ここでの白ロッジとは、グレート・ホワイト・ブラザーフッドのことと考えていいだろう。

 出発を控えたパオロと僕に、ビジネスマンはこう警告した。「この世界で探しているかぎり、Zが見つかることはありません」p289

 ニコライ・レーリッヒ「シャンバラの道」のどこかに、似たような台詞がなかっただろうか。

 フォーセット物語の完成稿は、永遠に地平線の彼方にあるように思われた。それは単語とパラグラフで構築される神秘の首都、僕自身のZだった。p292

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2010/10/28

日本人がコンピュータを作った!

日本人がコンピュータを作った! (アスキー新書 154)
「日本人がコンピュータを作った! 」
遠藤 諭 (著) 2010/6 アスキー・メディアワークス 新書: 256p
Vol.3 No.0195 ☆☆☆☆☆

 この本のタイトルは意味深だ。日本人がコンピュータの<全部>を作ったかのようにも受け止めることもできるし、<あの>日本人で<さえ>コンピュータを作ったとも読みとれる。まぁ、どちらでもないだろう。ベタなタイトルにするなら「コンピュータを作った日本人」で収まるだろう。

 ただ、この本、2010年6月発行だが、実際は1996年に「計算機屋かく戦えり」として出版され、2005年に加筆されて新装版もでていたらしい。それをさらにビジネスマン向けに再編集して今回出版された、ということだが、それだけ人気の高い一冊ということになろう。

 コンピュータと言っても、いわゆるアメリカの軍事力の一環として、第二次大戦後に開発された伝説のエニアックの時代までさかのぼるのだから、とてつもない。インターネットも書類もない時代に、新聞記事の切り抜きを片手に、真空管をつないでコンピュータを作った日本人たちがいたのだ。敗戦後の、高度成長期をささえようとする若き日本人たちだ。

 ここに紹介されているのは10人のサムライたち。まさにサムライと呼ぶにふさわしい明治・大正生まれの男たちだ。最近日本においては科学畑でのノーベル賞受賞者が続出しているが、そのほとんどは、30年前以上の発見や活躍に贈られていることが多い。判断基準は不明だが、まさに、タイミングさえあえば、この本にでてくる人々は、彼らに匹敵するような人々だ。

 「日本は軍需産業を放棄しただけに、民から官へというテクノロジーの流れがアメリカなどよりも早く生まれたんですね。パソコンの普及も若年層へのテレビゲームの浸透がけん引力となったわけで、これが今後のトレンドです。こうした状況を念頭に置いたうえで技術の進むべき方向を検討し、民生技術をより高度な社会資本の整備に利用していくという姿勢が、今後いっそう重要になると思いますよ」p096喜安善市「コンピュータに日本の未来を託した熱血漢」

 そもそもコンピュータやインターネットは軍需産業の中から生れてきた、という背景がある。軍で開発されたものが民に払い下げられる、という流れだ。しかし、日本は、軍より民が先行した、という意見である。

 「戦争に負けて何とか日本を再建しなきゃいかんという意地のあった連中は消えてしまいました。あるいは、日本はもう一度つぶれなきゃいけないのかもしれませんね」p126和田弘「トランジスタと電子技術の重要性を説き続けた先駆者」

 発言されたタイミングは明確ではないものの、黒船来襲以来の明治維新、第二次世界大戦後の復興、そして、バブル経済崩壊後のこの長期低迷経済を見ていると、そろそろ本当に立ちあがらなくては、もう駄目だろう、という危機感がつのる。

 「コンピュータは”思想”なんです。私は、コンピュータを知ったとき、これはただの機械ではない、人間の頭を情報化社会型にしていく思想なんだと思いました。」p196平松守彦「電子立国日本の立役者となった若き通産官僚」

 今日のこの日本、この地球があるのは、先人たちの先見性ある業績があったゆえなのだと痛感する。

 「最近は、羊だとか牛の心臓を利用して、人工心臓にして、血液を流して、しまいには、体の中で動かすようになった。だんだん外でやる機械が人間の体に戻されはじめているんです。肝臓も、胃も、すべて体内に戻されてきた。何で脳の補助道具である計算機だけ頭に戻さないのか、疑問がわいてきませんか?」p218佐々木正「ロケット・佐々木と呼ばれた男」

 え!?  まさにレイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン誕生」や映画「マトリックス」を連想するような発言だ。この方、1915年(大正4年)生まれの日本人科学者。御健在であれば95歳の方である。

 とにかく、トフラーの「第三の波」などが登場する前の前に活躍した人々がオンパレードだ。この人々の活躍が、2010年の今日、新刊書として登場してくるところに、日本の今日の姿がある。

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2010/10/27

ウェブで学ぶ―オープンエデュケーションと知の革命

ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)
「ウェブで学ぶ」 ――オープンエデュケーションと知の革命 ――
梅田望夫 (著), 飯吉透 (著) 2010/9 筑摩書房 新書 272p
Vol.3 No.0194 ☆☆☆☆☆

梅田望夫関連リスト一覧

シリコンバレーは私をどう変えたか」2001/08紀伊国屋書店

「ウェブ進化論」2006/02筑摩書房

「ウェブ人間論」vs平野啓一郎 2006/12 新潮社

「フューチャリスト宣言」vs茂木健一郎 2007/5 筑摩書房

「ウェブ時代をゆく」2007/11 筑摩書房

「ウェブ時代5つの定理」2008/03 文藝春秋

「私塾のすすめ」vs斎藤孝 2008 ちくま新書、 未読 

「シリコンバレーから将棋を観る」2009/04 中央公論新社

「ウェブで学ぶ」vs飯吉透 2010/9 筑摩書房

 向井万起男が「週刊ブックレビュー」で紹介していたのは、「ロスト・シティZ」だけではない。この本もまたその一冊。梅田望夫ウェブ・シリーズの各論、今回のテーマは「教育」である。対談の相手は必ずしも「教育者」ではなさそうだが、教育を主テーマにした研究をしている人、というべきか。

 私も子供達の成長とともに小学校父親の会や、中学校PTA、高校甲子園出場支援、その後、自治体の教育委員会外部委員など、いわゆる教育の場に、主に「親」の立場で参加してきた。だから、教育に無関心ではない。しかし、ウェブに期待するものは、いわば教育の次のものだ。教育が学生と教師の関係なら、その次のステージは、求道者と師の関係である。

梅田 それが、飯吉さんのオープンエデュケーションの三分類における「コンテンツ」「テクノロジー」「ナレッジ」のうちの、テクノロジーとナレッジですね。そこについて詳しく具体的に教えてください。p189「学びと教えを分解する」

 ここに於いては当ブログにおける三分類と、「コンテナ」=「テクノロジー」、「コンテンツ」=「コンテンツ」、「コンシャスネス」=「ナレッジ」、と対応するものとする。コンテナ、コンテンツについては、大まかにこれでいいだろう。しかし、「コンシャスネス」と「ナレッジ」の間には大きな隔たりがあり、むしろ≠で結ばなければならない。

飯吉 ここで使っている「教育的な知識や経験」という意味での「ナレッジ」の定義は簡単ではないのですが、僕は、教えや学びのコミュニティ内でやりとりされる「教育的な知識の通貨」が「ナレッジ」であり、それがオープンにされたものが、「オープン・ナレッジ」だと考えています。p190

 先日読んだ「グーグル時代の情報整理術」は必ずしも即自的に役立つ本ではなかったが、あらためてドギッとしたのは、「整理術の原則」 の中の「6)知識は力ならず、知識の共有こそ力なり。」とあったこと。まさにこれこそ「オープン・ナレッジ」だ。しかし、知識や技術の伝達だけが教育ではない。いや、それでは本当の「教育」ではない。

飯森 「師」や「同志」というのは情報や刺激を与えてくれる「環境」であり、「師」や「同志」とどのように出会えるかということは、どのような学びのための環境」に自分を置くか、ということと密接に関係してくるのではないでしょうか。p193

 当ブログで言えば、「師」=マスター、「同志」=コミュニティ(あるいはコミューン)と置き換えることができるだろう。そして、そこにおいて伝えられるべきものは決してナレッジで終わってしまってはならない。そこからさらに、コンシャスへとジャンプするべきなのだ。オープンナレッジ論は、更にオープンコンシャス論へと進化していく必要がある。

 トップシークレットはオープンシークレットだ。コンシャスはそもそもオープンなのだから、あえてそう表現する必要もないのだが、あえてここはオープンコンシャス、と明言しておこう。ネット社会、ウェブ社会はまだまだ進化の過程にある。その目標を見失ってはいけない。

飯森 大学の歴史を考えても、たとえばアメリカの最古の大学であるハーバード大学は、元来は聖職者養成のための教育機関として17世紀に設立されました。ハーバードという名前も、大学設立のために自らの蔵書と資金を遺産として寄贈したジョン・ハーバードという牧師の名前に由来していますし、大学の書いの校訓は、「キリストと教会のための真実」というもので、いずれにしても非常に宗教的な色彩が強い。p099「進化と発展の原動力」

 インターネットには、結局はグローバル・スピリチュアリティへと繋がるオープンコンシャスのコミューンと化す宿命がある。この本、オープンエデュケーションという現場の情報を得るには多少役には立つが、そこからさらに未来へと繋がる道は見えない。さらなるコンシャスへとジャンプするビジョンが足りない。

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2010/10/26

ロスト・シティZ 探検史上、最大の謎を追え<1>

ロスト・シティZ
「ロスト・シティZ」 探検史上、最大の謎を追え<1>
デイヴィッド・グラン/近藤隆文 2010/06 日本放送出版協会 単行本 p316
Vol.3 No.0193 ☆☆☆☆☆

 先日、NHK「週刊ブックレビュー」で紹介していた。日本人女性宇宙飛行士の向井千秋さんのおつれあいのご紹介。この本をブラッド・ビッドが映画化することが決定したという。ブラッド・ビッドが大好きな向井万起男さんは書店でカバーを見ただけですぐ購入したという。

 そうか、この本の主人公ハーシー・ハリソン・フォーセットをモデルにした映画が「インディー・ジョーンズ」だったのか。そのフォーセットの足跡を追ってさらに探検にでる、現代の冒険物語。当ブログとしては、「アガルタ探検隊」に連なる一冊。

 そう言えば、最近、ジャングルの奥地を探検するような、さも冒険家になったような体験をした。いやそれはかなり大げさだが、「パジャマを着たままパソコンの前に座る日常冒険家」にとっては、さもフォーセットがアマゾンの奥地を探検するに匹敵する体験だった。

 自宅から車で1時間ほどにある里山。とあるゴルフ場の、そのとなりのおよそ数万坪の土地。かつては高度成長期に別荘地として開発され、分譲のためにアスファルト道路が総延長数キロほど巡らされている。その土地にはいるには大きな入り口だけでも3か所。

 バブル時には10億の値がついたという土地も、その後の景気低迷で、別荘地として分譲されることもなく、幸か不幸か放置されることになった。いつか忘れられた土地となり、裁判所の競売物件になっても入札もなし。ほとんど捨て値となった頃、密かに最安値で落札した人がいる。

 その友人がこの何年もかけて密かにそこに小さな里山の自らの菜園を作って、ひとり楽しんでいる。ミツバチを飼い、山菜を獲り、畑を耕す。ティーピー・テントを建て、ログハウスを計画する。水は山水をパイプで引っ張り、アケビやシイタケの収穫の日々。

 しかし、そこには熊もイノシシも出没する。原自然との接点である。ひとりの菜園ではこの大きな山林は使いきれない。使っているのはほんの一部だ。一時はきれいに造成され、豪華なパンフレットも作られ、外国人向けにさえセールスされたという土地は、いつのまにか自然に帰り、あちらこちらの建造物も里山の雑木に包まれて見えることがない。

 友人は、中古で買ったナンバーなしのダンプカーで、その雑木を切り分け奥地に案内してくれた。ミツバチを狙った熊の凶行の痕跡、収穫直前のサツマイモ畑を荒らしたイノシシの足跡、蔦に絡まれて見えなくなった大型建設機械。その数十分間は、さも、アマゾンの奥地へと誘われたフォーセットもさぞやと思わせる体験だった。

 1925年1月のある寒い日、長身の著名な紳士がニュージャージー州ホーボケンの波止場を磯気、全長156メートルのリオデジャネイロ行き大洋航路汽船<ヴォーバン>号へと向かっていた。年齢は57歳、180センチをゆうに超える身長に、引きしまった長い腕。頭髪は薄くなりつつあり、口ひげには白いものがまじっていたが、休憩も食事もほとんどとらないまま何日も歩けるほど壮健だった。鼻がボクサーのように曲がったその風貌には、どこか獰猛なとkろがあった。(中略)彼こそはパーシー・ハリソン・フォーセット大佐、その名は世界中に轟いていた。p12「かならずもどる」

 私はいま、このフォーセットと同じ年齢に達している。体も意志も、知名度も、なにもない私であってみれば、アマゾンの奥地どころか、あのゴルフ場の脇の土地にさえ、容易に踏み入ることができないほど、軟弱化しているように思う。

 フォーセットをアマゾンの奥地へと導いたものは何だったのか。この小説は彼の痕跡を追って旅をする現代ジャーナリストの物語である。ブラッド・ビッドは、この話を映画化するとするなら、80年前の冒険家と現代のジャーナリストのどちらに扮するのだろう。

 私には友人のように、山林を切り開く力はない。しかし、なぜに彼はここに来るようになったのか、せめてそこのところを、もうすこし分かってみたい。そして、すでにジャングル化しているこの土地の、再活用はあるのか、ないのか。そして、そこに隠された「お宝」はあるのか。もういちどあの地に立ち、ナタを振るって、人の歩けるほどの道でも作ってみたい。

<2>につづく

 

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2010/10/25

第三の波 アルビン・トフラー

Photo
「第三の波」
アルビン・トフラー/著 徳山二郎/監修 鈴木健次・桜井元雄他/訳 1980/10 日本放送協会出版局 p642
Vol.3 No.0192 ☆☆☆☆☆

 「読書マンダラ2006~10」の11冊の中では、当ブログとしては未読のままの最後の一冊。どのタイミングかで読み込みたいと思ってきた。一連の奥野卓司などを読んでみれば、定番のようにこの本がでてくるし、当ブログのスタート地点においても「富の未来」をめくったりはした。

 トフラーの本は重厚な本が多いので、なかなか一気読みするということはできない。それでも、突いているポイントはハッキリしているので、その本が何をいおうとしているのかはすぐ分かる。当ブログのマンダラの中では「第三の波」→「それがぼくには楽しかったから」「ウェブ進化論」とくるわけだし、その「ウェブ進化論」ですら陳腐化するほど、その後の動きはモーレツなものがある。 

 この流れの元祖として、トフラーの「第三の波」を据えておくことはとても重要なことだと思う。私はこの本を発売とほぼ同時に80年10月の死のベッドで読んだ。余命半年と宣言されていたことはずっと後になって知ったことだが、あの時、もっと生きていよう、という未来に希望を持てたのは、この本が指し示す未来に夢を持ったことも、大きな一つの要因だった。

 エレクトロニック住宅とか、生産=消費者(プロシューマー)などが毎回取り上げられるので、見逃しがちだが、この本は「新しい精神体系」とか「人間性の未来」などを中心に据えている。当ブログでいえば、コンテナ→コンテンツ→コンシャスネスの動きを網羅した形で論が展開されているところに、秀抜な洞察力を感じる。

 第三の波の文明を健全で、民主的なものにするには、新しいエネルギーの供給源を開発したり、新しい技術を実用化するだけでは不十分である。共同体を復活しさえすればよい、というものでもない。人生に、構造と意味を与えなければならない。p527「新しい精神体系」

 そのために、やってみなければならないことがいくつかあり、それらはいずれも特に難しいことではない、とトフラーは言う。

 もっとも簡単で、しかも緊急性が高いものとして、まず一連の中核となるべき人生相談の専門家と、その助手をつとめる人間の育成をはじめるべきではないだろうか。イドとか、エゴとか、心理学の専門用語ばかり飛び出してくるような、研究室のもぐらのような人びとは、実はあまり必要ではない。むしろ、人生のこまごまとしたことを、いっしょになって相談にのってくれる、実践的な人が必要なのである。p538「人生相談と結社の効用」

 この本、あらためて再読する価値がある。決して時代遅れではない。マクルーハンとともに、いずれトフラーも再読するためのリストに載せておきたいと思う。

 ネット上で偶然に過去のテレビ番組の映像があったので、貼り付けておく。あとでゆっくり見よう。

つづく

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2010/10/24

グーグル時代の情報整理術

グーグル時代の情報整理術
「グーグル時代の情報整理術」 
ダグラス・C.メリル/ジェイムズ・A.マーティン 2009/12 早川書房 新書 366p
Vol.3 No.0191 ☆☆☆☆☆

 私の机の上は、まるで潮の満ち引きに、さも似ている。ある時は、さっぱりしていて、購入したばかりのような状態であってみたり、時には、まるで、台風が通過した翌日の海岸のような、ありとあらゆるものが散在したりする。

 よくよく考えてみると、確かに潮の満ち引きにさえ関連しているかもしれない。仕事はカレンダーに連動しているし、カレンダー、とくに陰暦などは海の満ち引きに連動しているのは確実なのだ。

 机のまわりについては、以前、リズ・ダベンポートの「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」が多いに役立った。今でも基本は彼女のコーチングが基本になっているが、当時、流行っていた「『捨てる!』技術」も後押しをしてくれた。

 あの時、まずは捨てる、ということで、かなりスッキリした。今考えてみると、二、三、捨てなければよかったな、というものもないわけではないが、あれからの経緯を考えても、どうせ残しておいても、使わなかったし、役には立たなかっただろうと思う。

 さて、「グーグル時代」である。グーグルの元・最高情報責任者である著者が、満を持しての登場、という感じではあるが、必ずしも、スッキリとまとまっているわけでもない。時代におけるIT、とくにクラウドと呼ばれるものの、最大限の活用法を展開している、というところだろう。

 さまざまな企業の責任のある立場を渡り歩いてきた著者だけに、ひとつひとつのレポートはなかなか興味深いものがある。とくにグーグルの会議風景の描写など、なるほど、と思わせる。

整理術の原則

1)脳の負担がなるべく少なくなるように、生活を組み立てよう。

2)なるべく早く、頭の中から情報を追いだそう。

3)”ながら作業”は一般的に効率を低下させる。

4)物語を使って覚えよう。

5)いつもそうしているからといって、そうしなければならないわけではない。

6)知識は力ならず、知識の共有こそ力なり。

7)思い込みの制約ではなく、現実的な制約をくぐり抜ける術を身に付けよう。

8)自分を決め付けるのではなく、自分自身に心から正直になろう。

9)制約を無視すべきケースを知ろう。

10)エンジンをかける前に、どこに向かっているのか、どうやって向かうのかを明確にしよう。

11)目的の達成方法に幅を持たせよう。

12)情報を整理するのではなく、検索しよう。

13)本当に記憶の必要な物事だけを記憶しよう。

14)大きなかたまりを、小さなかたまりに分けよう。

15)週一回、重要な情報を見直す時間を設けよう。

16)完璧な整理術などない。

17)あとで検索しやすいように、デジタル情報には関連キーワードを追加しよう。

18)文脈の変化を見越して、メモを取っておこう。

19)文脈の似た仕事をまとめて行なおう。

20)仕事とプライベートのバランスを取るのではなく、融合させよう。p332

 仕事や情報、と言っても、各人それぞれの立場持ち場で意味することが異なる。必ずしも、この整理術が必ず役立つとは言えないが、すくなくとも大きな仕事をまとめてきた人の体験からでた「てつがく」には耳を傾ける価値はある。

 それから、もうひとつ、思い切ったアドバイスをしてみたい。iPhoneを購入しよう。あるいは、グーグル・アンドロイド携帯。画面が大きく、インターネット接続が高速で、ウェブ・ブラウザーの使用感がコンピューターに近い携帯電話なら、何でもいい。そして、文書、連絡先、予定、メールなど、重要な情報をなるべくクラウドに保存するようにしよう。
 
 そうすれば、どこにいても、あなたにとって重要な膨大な情報にアクセスできる。必要になったら、検索すればいい。誰かと共同利用したいなら、共有すればいい。そうすれば、あわてることも、混乱することも、ストレスをためることもない。毎日の呼吸がすこしラクになるはずだ。
p275「文書とウェブ・コンテンツの整理」

 本書の重要ポイントのひとつはここにある。そして、本書と当ブログの接点もこのあたりに求めなければならない。とくにアンドロイド端末を使い始めた私としては、特に留意すべきところだ。スケジュール管理や共有などは、じつは、オンラインのPCの上では当たり前になっているのだが、これをモバイルの端末上で延長しよう、という環境は、当面は、かないそうにない。

 ただ、「外圧」が高まれば、当然のごとく、そのような環境ができてくるはずだ。考えてみれば、以前、紙ベースが当たり前だった業界が、いまやネットありきの業界に様変わりしている。今後、スマートフォンがなければ仕事にならない、という時代は、実は、すぐ目の前にきている感じがする。

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2010/10/23

Books I Have Loved<81>

<80>よりつづく 

Books_i_have_loved_2
Books I Have Loved <81> 
Osho 1985/07 Rajneesh Foundation Intional  247p ペーパーバック 言語 英語

 アンドロイド端末がやってきてからのこの数日、すっかりそちらの魅力に嵌ってしまい、なかなかブログのほうに戻ってこれない。マニュアルなど目を通さないまま、直感であちこちいじり始まってみると、あちこちに隠されたさまざまな機能を発見しては、宝探しのような興奮を味わう。

 なんと言ってもネットへの接続がスムーズかつシンプルなのがいい。シンプルな分だけ、何かの夾雑物や雑音が排除されているのではないかという懸念は残るが、今のところ、この絞り込みがなんともいい。それにいつもハードディスクが回っているので気をつけなくてはならない、という懸念がなくなった。使おうとすれば即時に使える、というのも凄い。

 一日に一冊はブログにアップしていこうというスケジュールは大きく影響を受け、現在のところ、締め切りの迫った(中には締め切りを越してしまったものもある)本を、何冊か図書館に読まずに返却してしまった。まぁ、あんまり「本」ばかりにのめり込むのも、本筋ではない。

 ところが不思議なもので、パソコンで検索している時には気がつかなかったコンテンツを、アンドロイド端末だと、ふと手元にあることに気がついたりする。この数カ月の当ブログにおけるコンテナ騒動(笑)も、ここにきて、ようやく一段落ということになりつつある。

 かと言って昔の路線に簡単に戻って来るのではなく、また別な形で前に進みそうな気配だ。このOshoの動画も違った環境だからこそ、出会ったに違いない。

 アンドロイド端末は、GmailやYoutubeとの相性がいいようだ。もっともGoogleの一連のサービスなのだから当然のことでもあるが、それでも、パソコンから解き放たれる感覚というものは、素晴らしい。パソコンが全くいらなくなる、ということはないだろうが、パソコンでなければできない、という作業を除いて、どんどんスマートフォン環境に移っていくことになるだろう。

 現在のところ、ダウンロードする作業にはだいぶ慣れたが、アップロードする作業はまだほとんど手つかずと言っていい。どこまでこの小さな端末からお手軽にアップできるかが判明するまではすこし時間がかかるだろうが、その確認作業の一つ一つが面白い。

<82>につづく

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2010/10/22

大増殖するAndroid携帯

Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2010年 10/20号 [雑誌]
「大増殖するAndroid携帯」 
Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2010年 10/20号 [雑誌] A4変
Vol.3 No.0190 ☆☆☆☆☆

 ついに私も2台持ちになってしまった。ガラケー+スマートフォン。アンドロイド端末、OSは1.6と古いが、いずれヴァージョンアップすることができるかもしれないとか。スマートフォンとはいいつつ、実は、自宅Wi-Fi専用で使う予定。

 先日、めぼしい本を求めて、図書館をうろうろしていたが、いまいちピンとこない。帰ろうかなと思って、雑誌コーナーにいくと、おお、と思うような最新号がいくつかあった。雑誌コーナーには殆ど行ったことがなく、ましてや雑誌は書店でみるもの、という認識が強かった。

 ところが、図書館の強みは、バックナンバーが揃っていることである。気になる特集などを見つけたら、かならず前後のバックナンバーで関連の記事があるようだ。弱みは、最新号があっても借りてこれないこと。そしてコピーは記事の半分しかできないこと。著作権のこともあるし、これはいたしかたない。

 ところで、通常はあんまりニューズウイークなんて読まないのだが、このタイトルにはまいった。なるほど、「大増殖するAndroid携帯」か。たしかに大増殖に違いない、我が家にも一匹入り込んできたのだから。そうして、ひょっとすると、もう一匹くるかも知れない、という段階なのである。

 この号の特集記事はそれほど長くない。8ページほどだ。ましてやイラストやグラフや写真があるので、実質的な記事はかなり短い。だが、かなり衝撃的だ。そもそも、日本においては、iPhoneが注目を浴びているけれど、アメリカなどでは、いまやアンドロイドが優勢だそうである。

 そもそも、アップルとグーグルの、企業の哲学がまっこう勝負しているようなところがある。一時期のベータVSVHS、マックVSウィンドウズ、ネットスケープVSインターネットエクスプローラーのような、熱気を帯びた勝負が、ケータイの世界で展開されいるようだ。

 いずれが勝つのか、かなりな見ものだが、とくにこの記事は、テレビを呑込む形でのグーグルの戦略に光をあてている。我が家のテレビはいまだに真空管のアナログで、アンテナだけは地デジに変えたが、いずれ、テレビを買い替えるのだったら、やっぱりこちらのテレビが出そろってくるのを待つかな、とさえ思い始めた。

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2010/10/21

電子書籍入門 読み方、買い方はこう変わる!

【送料290円 2900円以上で送料無料】【平日即日発送】ダイヤモンド社/週刊ダイヤモンド 2010年10月16日発売号
「電子書籍入門」 読み方、買い方はこう変わる!
「週刊ダイヤモンド」 2010年10月16日発売号
Vol.3 No.0187 ☆☆☆☆☆

 約70ページ弱に渡る特集記事。これから出そろってくるだろうタブレット端末の紹介や、その選び方、活用の仕方、そして、出版界をとりまく環境を、カラフルな、いわゆる雑誌風な取り組みでまとめてある。

 いや、コンテンツもないわけではない。すでに09年度で574億円の市場がある。そのうち全体の4分の3を占めるのは、ケータイ向けの電子コミックである。
 もっとも本誌読者にはなじみは薄かろう。その中心は「ボーイズラブ」と呼ばれる若い男性の同性愛を題材にした成年女性向けコミックなどだ。書店でおおっぴらに買いづらい本が、電子書籍として密かに売れていたのだ。
p33「夢のある読書体験が新たな読者を生む」

 ふむふむ、ボーイズラブとな・・? 若い男性の同性愛を題材にしたコミックを成年女性が読む。にわかにはお父さんには理解できない世界だが、この傾向は、どうやら、日米の読書文化に通じるものがあるようだ。電子書籍は、実は、この辺あたりからブレークするのかも。

 シャープは家電メーカーのイメージが強いが、じつは10年も前から電子書籍ビジネスを手がけてきた「先駆者」だ。12月、「ガラパゴス」をスタートさせる。片山社長にその戦略を聞いた。p40「第2弾では映像配信も視野に『ガラパゴス』は進化し続ける」

 名前だけなら、「ガラパゴス」で決まりだな。もしこのシャープの新しい電子書籍プロジェクトが成功したら、年末の「今年のなんとか大賞」のひとつぐらいは確実に獲得するだろう。電子書籍端末選びで、もし各社製品、一線横並びなら、この名前が最後の決め手になるのでないか(笑)。ガラパゴス、頑張れ!

 いまや、個人で電子書籍を作るのは決して難しくない。電子書籍端末に対応する文書フォーマットで原稿を流し込んだり、ワープロソフトで書いた原稿を、PDFなどのかたちで、書籍風のレイアウトで表示すれば、それはすなわち電子書籍である。p88「本を書いて自己実現したいなら知っておくべき自費出版の原則」

 突発的にスタートしてしまった当ブログだが、テーマが散漫であり、フォーマットもなにもあるものではない。しかし、この辺で、自分は一体何を言いたいのかと、ひとまとめしたい気分になる時がある。そう言う時に、電子書籍フォーマットとしてまとめておくのも面白いかもしれない。そういう側面から見て行くと、買うだけではなく、表現の側に回ることができるなら、電子書籍の意味が違ってくる可能性がある。

 雑誌は雑誌であり、内容はまるでゴッタ煮だ。しかも、今後これに類する記事はどんどん増えることだろう。なにはともあれ、にぎやかになることはいいことだ。 

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2010/10/20

わかるWi-Fi   無線LAN規格の統一ブランドー「仕組み」と「使い方」 

わかるWi-Fi
「わかるWi-Fi」 無線LAN規格の統一ブランドー「仕組み」と「使い方」
勝田有一朗 2010/09 工学社 I/O books 単行本 183p
Vol.3 No.0189 ☆☆☆☆★

 Wi-Fi、ってなんじゃい。最初は「ウィーフィー」って読んでいたけど、実は「ワイファイ」と読むらしい。どうやら店頭で見る限り「無線」に関係あるらしいが、ケータイの電波とか、家庭内のいままでのnやらaやらという規格と、どう違うんだろう。こまかいことはいいか。繋がればいいんだし。だけど気になるWi-Fi。

 「Wi-Fi」は、言わば無線LAN全体に与えられたブランド名です。無線LANは、その規格名としてIEEE802.11a/b/g/nなどと呼ばれていますが、規格名そのままではとっつきにくく覚えられにくいものです。
 そこで、無線LANを広く覚えてもらうためのマーケティングの一環としての意味も「Wi-Fi」という言葉にはこめられています。
p11「Wi-Fiのすべて」

 なるほど、表紙にでているこのマークのことだな。

Wifi  

●「無線LAN」 ≠ 「Wi-Fi」
 IEEE802.11無線LANと「Wi-Fi」は、同一のものとして扱われていることがありますが、両者の意味は異なるため混同していはいけません。

 「Wi-Fi」は、あくまでも「Wi-Fi Alliance」の認証試験をクリアした機器に付与される無線LANのブランド名であり、無線LAN機器の中には認証を受けていない「Wi-Fi」非対応の製品も存在します。

 ・・・・とは言っても、現在店頭に並んでいるほとんどの無線LAN機器は「Wi-Fi」機器だといっても過言ではないため、”無線LAN機器は「Wi-Fi」機器である”という考えは、あながち間違ってはいないでしょう。p13「Wi-Fiとは」

 なんか、グレーゾーンな表現だなぁ。まあ、いいか。一時期は「LAN」というだけでもカッコよかったのに、それに「無線」が混じり、ついに「無線LAN」という単語もごく当たり前の日常用語になってしまった。わかったようなわからないような、でも、それでもいいだろう。ここにきて、無線LANとWi-Fiがほぼ同義語ならば、ちょっとは分かったふりして「ワイファイ」って言い回っていたほうが、新し目でなかなかスマートな感じ。

 先日、当ブログの編集日記にこんなことを書いておいた。

 光電話のルーターが代替えになったので、他の無線LANカードもチェックしていたら、なかなかつながらない。
メーカーに問い合わせたところ、11a規格の中のさらに細かいj52という規格があるらしく、その古いタイプだと、新しいルーターにつながらないらしい。
なんと、せっかく当時一枚1万円以上で購入したカードが3枚もあるのに、廃棄処分となる。
思えば、この機種も8年前のものだった。
このカードが発売されたころは多分パソコンにも触っていなかっただろう、低血圧ぎみのヘルプデスクの女性に、おべっかを使いながら、教えてもらうのも、大変だ。
こちらは、なるだけ血圧が上がらないように、ゆっくり深呼吸をくりかえしながら、平常心で質問する。
涙ぐましい努力は今日もつづく。
「編集日記」 9月30日

 11aでもさらに細かい規格があるなんてことは、店頭の販売員だっておしえてくれないだろう。ドシロートがそんなこと分かるわけがない。つながらない、という事実があって初めて調べてみようという気になるだけだ。まぁ、しかし、ほとんど無線LANと同義だとするなら、今後はわかったふりしてワイファイを連発してやろう。

 その他、本書においては、細かい内容が書いてあるが、技術者でもなければ、今現在、困っているわけでもないから、この辺は静かにスルーしておく。公衆無線LANについて、とか、「Wi-Fi」を搭載する製品ついてなど、紹介もたくさんある。

●IS01(au)
 「IS01」(シャープ製)は、5インチの大型タッチパネル・ディスプレイを搭載するauのスマートフォンです。
 本体は折りたたみ型となっており、蓋を開くと5インチの大型ディスプレイ、フル・キーボードがお目見えします。
 いわゆる重量級のスマートフォンで、携帯電話というよりもパソコンに近い使用スタイルが似合います。

 搭載OSは「Android OS 1.6」で、Android端末としては初の「セカイカメラ」や、Android版EZナビウォーク「au one ナビウォーク」を利用することができます。
 また、アップデートにより音楽コンテンツ「LISMO!」のAndroid版や、EZwebのEメールが「IS01」から利用可能になるとしており、日本独自の”ガラパゴス携帯”文化とスマートフォンが融合した1台と言えるでしょう。

 「Wi-Fi」は「IEEE802.11b/g」対応で、最大54Mbpsでの通信が可能です。p107「『Wi-Fi』を搭載する製品」

 スマートフォンや、スーパー・ガラケーは、今、盛んに製品のラインナップの調整が急がれている。次から次と新製品がでてくるので、気にはなるが、まだまだ、これ!と言ったお気に入りはない。その中でも、このIS01は一部のマニアに人気があるようだ。端境期にはいろいろな使いかたがあるものだと思う。

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2010/10/19

フューチャリスト宣言<3>

<2>より続く

フューチャリスト宣言
「フューチャリスト宣言」 <3>
梅田望夫/茂木健一郎 2007/05 筑摩書房 新書 213p
☆☆☆☆☆

 またまたこの本を手にしてしまった。開架棚にこの本の背表紙をみつけて、何だかまだ読み切っていない感じがした。3年前は立ち読み、2年前は何かの合間にそそくさとめくっただけ。そして、必ずしも良いコメントを残して来なかったんではないか、という、ちょっとした後ろめたさがあった。

 今回、さらに時間が経過した現在、この本を読んでみると、ようやくこの本を読む準備ができたのではないか、と思う。3年前の彼らが、3年後の私に語りかけている、という感じだ。ネット社会のドッグイヤーの展開は早い。言葉遣いや流行りの技術はどんどん陳腐化しているので、少しづつ時代がかり始めたところがないでもない。しかし、視点はこれでいいのだろうし、むしろ、コンテナに走りすぎた分、コンシャスに路線を引きもどしてくれる、という意味では、この本は貴重である。

茂木 ネットに関しては、僕はユーザーに徹する。そのかわり、僕は一介のフューチャリストになりたいと思います。
梅田 僕も同じです。
p125「フューチャリスト同盟だ!」

 ネット社会の紹介者のような立場の人たちではあるが、必ずしもネット開発の技術者たちではない。あくまでも、一介のユーザーとして、人間としてネットに対峙しているところが、親しみやすいところでもあり、見逃しやすい貴重な視点でもある。

茂木 ネットが人間の脳に対して、なんでそんなに相転移的にはたらくのか、ということについて考えていくと、一つのビジョンが見えてくる。それはわれわれの脳自体が、まさにウィズダム・オブ・クラウズだということです。p163「ネットの側に賭ける」

 ここでのクラウズとは、当然、「群衆」達としてのクラウズだ。2010年、クラウドと言えば、ひたすら「雲」を表わすキーワードになっている。そして、ひところよりは、親しみのある、実態の意味のある言葉になりつつある。

梅田 アップルのiPhone(電話とネットとiPodの機能をあわせもつ携帯端末)の発表(2007年1月10j日)のときの、向こうでの興奮ぶりは凄かったですよ。たまたまそのときシリコンバレーで若い漣ちゅうと一緒にいたのですが、iPhoneの発表の情報がネットで流れてくると、ワーッという感じで盛り上がりました。p135 同上

 私なんぞは、iPhone4になって、ようやく今頃になって、ふむふむなるほど、と言っている段階だから、少なくとも3年半以上は、遅れていることになる。開発に着手した段階から考えれば、もっともっと遅れているだろう。逆算してみれば、すでに、3、4年後のプロジェクトがすでに始まっているはずだ。そのあたりに向けてのアンテナを立てておくことも必要なのだろう。

茂木 おそらく意識とか認知過程の本質が、我々の代で解けるということはないと思うんですよ。僕は97年に「脳とクロリア」という本を出して、もう10年くらいこの問題を考えているんですが、考えれば考えるほど、意識の問題をいま最終的に解くということは不可能だと思えてくる。p115「フューチャリスト同盟だ」

 一連の茂木健一郎の中でも、特に「意識とはなにか」に的を絞って読書を進めようとしているが、著者の中においても結論がでているわけでもなく、その見通しも立っているわけではないのだ。ただ、この辺に戻って、もうすこし読書を進めることができればいいと思う。

梅田 本も雑誌もどちらもデジタル化されていないから、その内容について語るとき、ネットに書き写す手間は変わらないから、その点で差異はない。どちらかがコピー&ペーストできるから、ということではない。でも新聞・雑誌の記事は、ネットで書く対象にならない。p148「ネットの側に賭ける」

 2010年では、新聞も雑誌も「デジタル化されていない」とは言えない時代になって来ている。押し寄せる「電子書籍化」の波で、軒並みデジタル化が進んでいる。しかし、ブログなどで書き込みの対象になるのは「本」が圧倒的に多いという。

梅田 ただ、、僕がいま面白いと思っているのは、ネットだけではなくて、「本」と「ネット」を結びつけることなんです。茂木さんのブログへのアクセスが1万2000とおっしゃっていましたが、僕のブログが8000くらい。特別な話題になるようなことを書いた時は別ですが、そのくらいで安定。p147同上

 確かにネット上の情報で物事を間に合わせようとすればできないことはないが、もっと深めようとした場合、「本」は不可欠なようそになる。どうしても2次的、3次的な情報になり、しかもタイミングもずれたりする場合も多くあるが、しかし、拙速を顧みないトップ志願の部分を除いてみれば、「本」は重要なたたき台となる。

 3年、4年と、やや遅れて走る長距離ランナーではあるが、当ブログは当ブログなりに、マイペースで「意識をめぐる読書ブログ」という存在意義を確かめつつ、今日もまたシコシコ(古い!)未来に向かって疾走するのであった。

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2010/10/18

ルポ現代のスピリチュアリズム<3>

<2>よりつづく

ルポ現代のスピリチュアリズム
「ルポ現代のスピリチュアリズム」 <3>
織田淳太郎 2010/03 宝島社 新書 239p
☆☆☆☆★

 先日ざっと目を通して返却したはずなのに、また配本されてきた。他の図書館へのリクエストだったので、多分、何らかのスタッフの手違いで二重に登録されてしまっていたのだろう。まぁ、しかし、それは「もう一度読みなさい」という天の配剤かもしれない。この本をもう一度読みなおすとしたら、ポイントは結構ある。

1)めるくまーる社の和田禎男・前社長のライフストーリーを追っかけてみる。日本の「精神世界」に多くの本を配本してきた有数の出版社の物語。

2)「超能力少年」清田益章のライフストーリー。その能力の真偽も含めて、再検証してみる。

3)多くの「スピリチュアル」な本の邦訳に携わってきた山川紘矢・亜希子夫妻のライフストーリー。現代においての「スピリチュアル」とはどういうことなのか、あらためて問い直してみる。

4)「星の教団」解散宣言に至ったクリシュナムルティのそれまでの人生と、それ以降のライフストーリー。19世紀~20世紀~21世紀と流れる「神智学」をとらえ直す。

5)各章に散在するOshoの言葉を玩味し、あらためてその出典などを読みなおしてみる。Oshoがどのように「現代」とともに生きてあるのか、直視する。

 その他、繋がりをみつけようとすれば、もっといろいろ見つけることができる。しかし、この本自体が散漫な風景描写に流れていることが多いので、突っ込んで行っても、はてさて、その後のイメージが湧いてこない。

 1)和田氏はOshoの理解者ではあったかもしれないが、サニヤシンとなった人ではなかった。彼が手がけた本によって、日本においてはOshoに触れた人も多い。しかし、彼は有名人でもなければ、個人的なプライバシーを他者に無遠慮に語られることは望んでいないだろう。むしろ、いずれ、ご本人の自伝的な書物として出版されてきたら、むしろ、その時にこそ多いに語られるべき内容だと思う。

 2)清田氏においては、むしろ語られすぎて、いびつな印象が残ってしまっているので、本書において、すこしでも訂正されたのはよかったのではないか。当ブログにおいては、いわゆる超能力的な本は扱っていない。語るだけの準備はない。しかし、そのような現象はない、と断言する根拠もない。いつかはもっと、この分野をおおっぴらに語られる時がくるのだろうか。

 3)山川夫妻が関わった本は、あまり好きな分野ではない。しかし、そのおびただしい量の仕事をまったく無視して読書を続けることはできなかった。当ブログでは何冊も読んだ。どこまでも残っていた違和感だったが、この本を読むことによって、すこし心が和らいだ部分もある。ここまで来ると、あとはもっと絞り込みが必要だろうと思う。

 4)クリシュナムルティについては、当ブログも遅ればせながら追っかけを始めている。ひとつのベースとなる話題としては不可欠とも言える。ただ、惜しむらくは彼を「現代」に問うことができないところだ。あるいは、当ブログはあの流れを「現代」に問う方向を探しあぐねている、と言ってもいい。それを探しにいく旅は、いずれ再開されるべきだろう。

 5)Oshoは当ブログの主テーマだ。しかしながら、こちらも歩みは順調ではない。個的な探求というよりは、ネットワークや仲間達とあることの重要性をことあるごとに感じる。この本に引用されているOshoは、ごくごく一部であり、むしろこのような形でピックアップできる立場がうらやましい、と思ったりする(笑)。

 その他、本当はこの手の本が大好き。今後も各人、各方面から、この手の本がどんどんでてきてほしいな、と思う。

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2010/10/17

読書の腕前

読書の腕前
「読書の腕前」
岡崎武志 2007/03 光文社 新書 294p
Vol.3 No.0188 ☆☆☆☆☆

 私も何度も覚えがあるが、泣く泣く手放すことになった本を、勇気を絞って古本屋のカウンターに差しだして、「ああ、うちはいま、こういうのいらなぁ」と断られるときの大きな脱力感と深い屈辱感は、たしかに捨ててくればよかったと思わせるに十分である。p118「年に三千冊増えて行く本との闘い」

 一度私も「ブ」でこの屈辱を味わったから、もう二度とあの店には行かない、と決めた。段ボールの中から数冊だけ出して、一冊10円として、30円、とか言われて記憶がある。安いのは構わない。しかたない。しかし、持ち帰れ、とは一体何事か。

 そう思ってから、いずれ手元を離れそうな本はすべて図書館からの借り出して間に合わせることにした。著者のように年に3000冊も蔵書が増えていくということではなくても、年30冊でも結構な圧迫になる。情報源として切り取るのか、じっくり長時間味わうのか、それぞれの読書の嗜好性があるが、私は存在としての「ブ」(某大手古書チェーン店のこと)はあまり好きではない。

 さて、そうしてみると、電子書籍も別な側面から意味あるものに思えてもくるし、出版する側にも回ることができるという可能性もでてきた。そこで、例えば、当ブログを一冊の本にまとめるとしたら、どうなるのだろうと思った。当ブログの読書の対象となるのは、お手軽な新書本が一番適しているようだ。そこで、過去の4年間を一冊の新書位の量にまとめるのはどうだろう。

 ちなみに光文社新書のこの一冊は、一頁に14行あり、一行に40字入っている。そして、全体で約300頁なわけだが、新書としてはちょっと厚すぎる。この半分程度がちょうどお手頃な感じがする。実際、この本、前半と後半では、多少の温度差があり、二冊に分冊してもいいような内容だ。

 してみると、仮に2200冊強の本をめくってきた当ブログの本のタイトルを、仮に一行に一冊の本のタイトルを箇条書きにしていくとなると、なんとそれだけで160頁を費やすことになるのである。呆れてしまった。これでは、当ブログの読んだ本を全部まとめて新書本の量一冊分に収めることなど、できる訳がない。そこで、敢えて、当ブログにおける根幹となる10冊を絞りだしてみようと思ったら、次のようになった。

1)「私が愛した本」

2)「ウェブ進化論」

3)「チベット密教」

4)「禅宣言」

5)「第三の波」

6)「シャンバラ 勇者の道」

7)「存在の詩」

8)「それがぼくには楽しかったから」

9)「謎の地底王国アガルタ」

10)「和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界」

次)「もし僕らが生き続けるなら」

 もし、これらをマンダラ的表記をすれば、こうなるだろう。

     「読書マンダラ2006~10」

200610_3

 もっとも、「第三の波」は当ブログとしては未読であるし、「それがぼくには楽しかったから」も、単独の本としてはメモしていない。「謎の地底王国アガルタ」も、表紙がいまいちお気に入りではない。ましてや古い本ばっかりが並んでおり、これらのほとんどは当ブログ<1.0>の楽天ブログで読んだものばかりだ。そして唯一<2.0>になってから読んだ「もし僕らが生き続けるなら」は、なんと自分の読書としてはもっと古い部分に属す40年前の本である。

 だがしかし、絞り込むとすれば、やはりこのような形になるのであろう。そして、さらに絞り込むとすれば、上のリストの上位3冊、「私が愛した本」、「ウェブ進化論」、「チベット密教」ということになる。そして、もうこれ以上、絞り込んでは意味はない。個人史的には、「もし僕らが生き続けるなら」→→→「禅宣言」への旅、ということになるだろう。

 読書に腕前なんてあるのかどうか知らない。誰と、何と、比較しようと言うのか。まぁ、敢えてこの4年半の当ブログの読書をまとめればこうなる、ということで、読書に引きずられた部分もあり、読書を引きずった部分もある。読書至上主義者でもなければ、もともと読書を趣味にしてきたわけではない。ただ、「本」的に外側に表現するとなると、現在はこのように現れてくるだろう、ということだ。

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2010/10/16

イスラーム神秘主義聖者列伝

イスラーム神秘主義聖者列伝
「イスラーム神秘主義聖者列伝」
ファリード・ゥッディーン・アッタール/藤井守男 1998/06 国書刊行会 単行本 392p
Vol.3 No.0186 ☆☆☆☆☆

 この本を紹介してもらったのは4か月ほど前のことだった。いずれ読もうとリクエストカードを書いておいたところ、それからまもなく、当ブログの流れが激変して、カードを出さないまま手元に保存しておいた。しかし、なんとかあの地点まで戻ろうと思って、図書館に提出したのが、ひと月前のこと。

 図書館ネットワークから配本されてきて、ようやく手にとって読めるようになったのに、なかなか、この本をじっくり読みこむほどの体制が出来上がらない。他の話題が盛り上がりっぱなしで、こちらに向かって風が吹いてこない。そんなこんなで2週間が過ぎた。他の図書館から転送してもらったものは延長できないので、返却しなければならない。

 そんなことで、いずれ再読、捲土重来を期して、せめてタイトルだけでもアップしておこう。ラビア伝、ジュナイド伝、アル・ハッラージ・マンスール伝が載っている。

つづく

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2010/10/15

かたじけなさに涙こぼるる 祈り白洲正子が見た日本人の信心

かたじけなさに涙こぼるる
「かたじけなさに涙こぼるる」祈り白洲正子が見た日本人の信心
白洲信哉 2010/10 世界文化社 単行本 205p
Vol.3 No.0185 ☆☆☆☆☆

 

 この本には白州次郎は出てこない。当然のことながら、白州正子のほうがメインだ。白州次郎は、車=ベントレー繋がりで、一気に白州一家の関連書籍に目を通した。正子より次郎のほうが親近感があったが、正子となると、その奥に見えてくる風景はまるで違ってくる。そもそも次郎と正子は、一体、なぜに繋がっているんじゃ、と言うほど、極端に繋がりが絶妙だ。

 

 では、細川護煕--白州信哉--白州正子、つながりとなるとどうだろう。元首相、元公設秘書、となると、やっぱり吉田茂の懐刀と言われた白州次郎繋がりのほうがイメージしやすいが、「不東庵」でのやきもの--小林秀雄の孫、となると、「西行」の正子の系譜繋がりとなるのだろう。この本は、後者の繋がりの系譜を追いながら、日本の原風景を追う。

 

 「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の歌を引き、「西行は、天台、真言、修験道、賀茂、住吉、伊勢、熊野など、雑多な宗教の世界を遍歴したが、『かたじけなさに涙こぼるる』ことだけが主体で、相手の何たるかを問わなかった」と記している。これはまさに、祖母の信心の本質でもあったのである。p177「信心の本質 西行」

 

 確かに、信哉の文章も、正子の足跡も素敵だが、この本においては、ほとんど半分以上を占めている野呂希一のカラー写真の数々が、かなりのインパクトを持っている。独自の世界へと読む者を引きずり込む。アーティストたちにとっては失礼な表現になるかもしれないが、以前読んだ山本卓蔵「惑星、熊野」などの、写真に切り取られた大自然の風景へとの繋がりが広がっていく。

 

 巡礼を果たしたのは1964年、54歳。僕が生れる一年前のことで、冒頭の文章は84歳のときに顧みて書いたものだ。「それから後、私はよそ見をしないようになった」と結んでいる。「五十にして天命を知る」ということだったのか。生涯を通じ、「歩くことが私だった」というのも、無我夢中の経験の蓄積から生れた言葉なのだと思う。p83「神仏巡礼 西国巡礼 第一・青岸渡寺~第九番・興福寺南円寺」

 

 1964年の日本は、東京オリンピックに湧きたっていた。その世間に背を向けるように54歳の正子は日本の風景を求める旅にでる。「それから後、私はよそ見をしないようになった」との言葉が、なぜか初々しい。この時、小学5年生だった私にとっては、この時代こそが、よそ見の始まりだった。

 

 欧米をはじめとする先進諸国の多くは、イスラム教、カトリックにプロテスタントと一神教である。そこには個人的な経験とか、多様な価値観は存在しない。アラーやキリストという絶対神を崇拝し、「何事」かは明確で揺るぎないものである。西洋の履歴書には、リリジョンという欄があり、ホテルに必ず聖書があることに、僕はいつも違和感を覚える。p196信哉「かたじけなさに涙こぼるる」

 

 信哉のいわんとすることは分からないでもないが、これもまた紋切り型で、切り捨て御免、すぎるだろう。現在読みかけた「イスラーム神秘主義聖者列伝」などをめくっていると、「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という心境は、日本人だろうが、イスラムの人々であろうが、あるいは月を目指した宇宙飛行士だろうが、同じく地球人として持ちうる心境でなかろうか、と思う。

 

 いくつもののリンク、いくつものパラレルワールド、いくつもの人生の繋がりの中で、この本は出来上がっている。このような風景を借景することができる白州信哉という書き手は、偉大な遺産を相続したものだと思う。そして、日本に生まれた誰もが、このような遺産を相続しているのだ、と思うと、心が広がり、心がおちつく。 

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2010/10/14

グーグル携帯〈Android〉最強活用術

 仕事の帰りに、街の大きな書店のパソコンコーナーで立ち読み、ならぬ座り読み。結構いろいろでてるなぁ。これってやっぱりブームなんだな。スマートフォンとはいうものの、今日はパラパラとアンドロイド端末についてのガイド本に絞ってめくってみた。

グーグル携帯〈Android〉最強活用術
「グーグル携帯〈Android〉最強活用術」 
中山真敬 2010/07 朝日新聞出版 単行本 221p
Vol.3 No.0179 ☆☆☆☆☆

 アンドロイド全体を知るなら、まずはこれがいいかな。7月発行なので、情報はすでに一部陳腐化しているが、この数週間、急にスマートフォン問題に目覚めた当ブログが直面した問題意識をほとんどクローズアップしてくれている。ガラケーとの比較で、スマートフォンのその特性を浮き彫りにする。

Android HT-03A入門ガイド
「Android HT-03A入門ガイド」
佐野 正弘 (著) 2009/10 翔泳社 2009/10 単行本 176p
Vol.3 No.0180 ☆☆☆★★

 
この本は、この6冊の中では一番古い。去年の10月だ。だからこのHT-03Aもすでに製造は終了している。全編カラーで、使い方がいろいろ書いてあるが、ほんと、一年前の入門書、という感じがする。懇切丁寧にガイドしてあるが、一年後の現在、一般的なアンドロイドの認識もだいぶ深まっているかもね。それに、こういうガイドを読まなくても、直感的に使用方法が分かるのがスマートフォン、というもののようにも思うのだが・・・。

HTC Desire究極マニュアル+
「HTC Desire究極マニュアル+」Androidスマートフォンの最高峰
米田聡 2010/08 ソシム 単行本 241p
Vol.3 No.0181☆☆☆☆★

 そのHT-03Aが進化したのがこのHTC Desireなのかな?(知ったかぶりをするもんではないw) 最新のAndroid OS 2.1が入っている。日本ではiPhoneで湧きたっているが、世界的にはアンドロイドのほうが急増しているとのこと。けっこうまともなマニュアルっぽい。今のところどの端末がベストなのかは、私のようなど素人には分からない。通信環境、販売方向、友人たちの評判など、どの端末も使えるなら、全部使ってみたい。

Androidスマートフォン「超」ビジネス活用術
「Androidスマートフォン「超」ビジネス活用術」
「厳選アプリを使い倒す!クラウドを味方にする!デジタル仕事術」
一条真人 2010/08 技術評論社 単行本 239p
Vol.3 No.0182☆☆☆☆★

 全ページにカラー写真が入っていて、なんともカラフル。表紙にはIS10らしきイラストも書いてあるが、全体的にXperiaとHTC Desireを中心に書いてある。ただ、ここに書いてあるのを読んでいるだけなら、スマートフォンを使ったことにならないし、本体を持っているのなら、本など読まなくても直感的に使い方もわかるのではないだろうか。きれいな本だけど・・・・。

Androidアプリ事典512
「Androidアプリ事典512」
アンドロイダー 2010/09 インプレスジャパン/インプレスコミュニケ 単行本 334p
Vol.3 No.0183☆☆☆☆★

 「図書館検索Beta」とか「Libraroid 図書館予約」なんていう便利そうなアプリもある。「青空文庫ビューアー」とか、この本には何百と紹介されているが、これだけでも使いきれないのに、全部で何十万とアプリが開発されているそうだ。ひとつひとつの開発会社の分け前は少なくなるのではないだろうか。それとも、それだけみんないっぱいアプリを買いまくるのだろうか。「万歩計いらずウィーキングアプリ ステップダイアリートライアル」なんてのもある。

 

Androidアプリビジネス活用術
「Androidアプリビジネス活用術」 これだけは入れておきたい
オクトバ/memn0ck 2010/07 アスキー・メディアワークス 単行本 223p
Vol.3 No.0184 ☆☆☆☆★

 アンドロイドでは、アプリの開発環境が、Widows/Mac/Linuxにそれぞれ無料で用意されている(p9)とのことである。開発環境をマック環境しか提供せず、開発用のマック本体まで売りまくってやろう、とするアップル社あたりとは、その方向性に鮮やかな違いがある。かつての電化製品やソフト開発の歴史を彷彿とさせる。HT-03A、Xperia、HTC Disire、IS01、LYNX、などなど、アンドロイドの端末たち。これから、まだまだ、どんどん出てきそうだ。

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2010/10/13

『タブレット革命』  iPad登場でわかった“板型PC”の破壊力<1>

タブレット革命
「タブレット革命」iPad登場でわかった“板型PC”の破壊力<1>
松村太郎 2010/09 アスキー・メディアワークス単行本 191p
Vol.3 No.0178 ☆☆☆☆☆

 この本にも「革命」の文字が踊る。いままで革命の名前のつく本は何冊読んできただろう。「レボリューション」とか「かくめい」とか「進化論」とか、いろいろあったが、およそ数十冊はあったに違いない。全読書の約1%くらいだから、決して多いとは言えないだろうが、少なくはない。その内、「当ブログが読んだ”革命”関連リスト一覧」でも作ってやろう。

 全出版物の中ではこれほど多くはないのだろうが、一読書子としての私も、嫌いじゃないフレーズなのだろう。このような煽動的フレーズに挑発されやすいタイプなのかもしれない。ついつい読んでしまってから、「ふ~ん、これも革命なのかぁ」と、ちょっとがっかりすることも多い。

 しかしながら、この本が言わんとしていることは、たしかに「かくめい」に値するかもしれないぞ、と考え始めたりする。それは、アップルが「パソコン」を世に送り出した時、つまり、30年に一度くらいのサイクルの「かくめい」なのかもしれない。かの1980年前後の「かくめい」がなかったら、奥野卓司「パソコン少年のコスモロジー 」などもなかったことになる。

 ましてや、一年半前の「仕事ができる人はなぜレッツノートを使っているのか?」なんていう世界もぶっ飛びかねない可能性を秘めている。この本「タブレット革命」とはいうものの、iPad礼賛の一冊である。しかも、それを仕事や教育に使おうというのだから、先取りと言えば、これほど先取りなことはない。「iPad vs.キンドル」ではなく「iPad vs レッツノート」と考えたら、その対比は一層鮮やかになるのではないか。

 電気を消して布団に入った後、紙だと読めないがケータイだとバックライトがあるから読める、と言います。この意見にはさすがに納得せざるを得ません。ディスプレイより紙の方が読みやすいという概念は、世代によっては過去のモノになりつつあり、大学生になればやむを得ず本や新聞を読む機会があるとは言え、それまでは文字を読む経験はもっぱらケータイやスマートフォンのちいさな画面ばかり、という人が増えているのです。p5「はじめに」

 これでは、キンドルは布団の中で暗闇では読めないので、劣勢となる。筆者は1980年生れの30歳。いかにもデジタルネイティブの世代なのだが、さらにその下の世代のモバイルネイティブの世代について、もはや呆れている様子だ。

 ジョブスは興味深い言葉を使っています。フラッシュが「マウスとキーボードの時代」のものであり続ける一方、iPhoneやiPadは「タッチインターフェイスを備えるモバイルデバイスの時代」の製品であるから、フラッシュはいらない、という主張でした。p18「iPadとは何か?タブレットは何か?」

 Adobe Flashとは、どういうものかは正確には知らないが、ここでの絞り込みにも、そうとうなジョブスの「哲学」や「思想」を感じざるを得ない。

 このように、パソコンの画面の広さと、スマートフォンの何も気にせず、すぐに使えるといういいとこ取りをしているのが、iPadのサファリを使ったウェブブラウジング体験なのです。p35「Google時代の最終兵器、SNS時代の申し子」

 サファリは我がパソコンにもいつの間にかインストールされていて、ちょっと使ってみるのだが、必ずしも使い勝手がいいとは言えない。もっとも正確にインストールされているかという問題もあり、また、タッチパネルとあいまったiPad形式ではないので、何も言えない。

 それぞれタブレット型の端末が世の中で当たり前のように普及することが予測できます。そうなったとき、我々のコンピューターがある日常がどのように変化していくのでしょうか。p51「180度のコミュニケーション」

 たしかにパソコンがなかった時代にはもう戻れない。そして、趣味も仕事もパソコンなしには成立しない21世紀ではあるが、仕事のレベルで言えば、パソコンがメインとなった仕事、いわゆる「仕事ができる人はなぜレッツノートを使っているのか?」レベルの「仕事」が、今後、「タブレット型」に移行していく可能性は少なくない。現場の隅々まで行きわたるには、それなりの時間(3~10年)位かかるだろうが、キーボード&マウスはどんどん消えていく可能性は少なくない。

 タブレットはスマートフォンとノートパソコンの間に位置するコンピュータではありますが、決して、既存のパソコンの延長線上にある、ととらえる必要はありません。同じことが、ビジネスソフトの世界でも起きており、タッチパネル向けに再設計されたアプリは、今まで難しいと敬遠してきた人たちにとっても、広い間口となる可能性を持っているのです。p111「クラウドを操るノマドワーク」

 思えば、白州次郎が英国に留学中にオイリーボーイ(油だらけの車いじり好き)と呼ばれながらベントレーを疾走していた時代に比較したら、私たち一般のドライバーは、車の存在をかなり透明なものに感じるようになっている。パソコンもタブレット化することによって、情報端末を趣味で使おうと、仕事で使おうと、もっと身近で広汎なものになっていくのだろう。ブラックボックス化したり、デバイスが安価になっただけではなく、インタフェースがどんどん簡略化されていく必要がある。

 遊びや仕事に限らず、教育へのiPadの活用法を考えているところは、著者がK大のインターネット・キャンパスで育ったことや、一部、若い人々に向けて講師をしていることに関連があるだろう。

 このタブレット型PC、一個の機械があればいいと言うものでもなく、一部の先進人種が使用していればいいというものではない。インフラがあって、さまざまなアプリがあって、それの存在が当然のごとくであればこそ、グローバルな互いのコミュニケーションがとれるのである。たしかに、これは、あとから見た場合、やっぱり「かくめい」だったな、と誰もが認めるようになるのかも知れない。

<2>につづく

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2010/10/12

生命保険のウラ側

生命保険のウラ側
「生命保険のウラ側」
後田亨 2010/02 朝日新聞出版 新書 260p
Vol.3 No.0177 ☆☆☆☆★

 当ブログにおけるホケン追っかけも、着々と淡々と続けていくしかない。これも立ち読みだが、なるべく新鮮な本で、注目度の高い本となると、それほど多くない。しかもあったとしても、基本的なことが再録されていることが多く、いわば、かゆい所に手がとどくほどにこなれている本はすくない。

 かと言って、暴露本のようなものは、全体像が見えないばかりか、闇雲な疑心暗鬼を生みだすだけになり、不用意な無保険者を多く生み出してしまいかねない。痛し痒しである。そもそも、潤沢な資産に支えられている個人なり企業であってみれば、べつにホケンなど準備する必要などなく、リスクなど無視して、事故が発生した時に、手持ち資産で処理すればいいだけのことだから、いくらでもホケン無用論は言える。

 逆に、潤沢な資産など及びがつかない、という立場からこそ、互いに助け合いの心情からホケンが生み出されたのであり、自分が補償される、というより、その立場に遭遇した人をみんなで救おうというポリシーこそが大事なのである。しかるに、自分はいらないからホケンに加入しない、というのは、本当はホケンを理解していないばかりか、相互補助の精神に欠けている、と非難されてもおかしくはない。

 地域有縁社会が成立していた時代には、義理や結いとかで互いに助け合いの社会を作っていた。冠婚葬祭の場合の「相場」は互いに「出資」していたものの「回収」であったあろうし、病気見舞いだって、つまりは互いの「医療保険」の役割を果たしていたはずである。

 ただ、これだけ「無縁」社会が拡大し、病気入院情報だって、プライバシーや個人情報保護のもとで秘匿される時代になると、「相互扶助」という考えかたやシステムがなかなか成立しなくなる。一部のクローズド社会以外には、もはや現代社会では存在しないと言ってもいいかもしれない。

 そこで、いわゆるホケンの制度そのものの重要性が語られ、また担うべき機能も増加していると言える。ここで問題なのは、そのホケン機能を維持するのが「会社」や「団体」であるということだ。「相互会社」であろうが、「ホールディングス」であろうが、利に聡い。そもそも利に無頓着だった団体ホケンなどが、どんどん破綻していっている。

 そもそもが、もっとおだやかで、ほのぼのとしていたはずのホケンの世界が、いまや利を生みださなければならない状況に追い込まれている。だから、いたずらにリスクを過大評価し、ホケン加入を煽らざるを得ない、という状況も生まれてきている。

 ホケンは、大数の法則で、ごく一部のアクチャリーが計算した数字が根拠になって、ひとりひとりが支払う保険料の基礎が決定されている。だが、実際には、被保険者が抱えるリスクよりさらに、企業や団体、株主などへの配当などの利益分も上乗せされているので、本来被保険者が負担すべき金額より、多くなってしまっていることになる。

 賭けごとは、大体において胴元が儲かるようになっているのであり、ひとりひとりのギャンブラーの勝ち負けは予想はできない。ことほど左様に、ホケンによって救われる人も多くいるが、かけっぱなしで、なんの「利益」もなかった、という人がでてきて当たり前である。そもそもホケンとはそういうものである。しかしながら「胴元」であるホケン会社や団体は、自分自身については、そうあってはならない、と思っている。

 ホケン会社がつぶれそうなので、ホケン料を値上げします、という可笑しなことになる。ましてや、被保険者のリスクの変動がホケン料に反映されるのではなく、被保険者から預かったホケン料の投資に失敗した、という例が続出している。グローバル金融の中で、実際はかなりキリモミ状態になっている、というのが本音のところではないのか。

 この本は、とくに生命保険に限っているわけだが、生命保険の終身部分などのように、長期に多額の資金を運用せざるを得ないシステムの場合、おうおうにして「ウラ側」があることは、容易に想像がつく。しかし、その実態を、一被保険者として個人が追っかけることができるかどうかは、ほとんど不可能であろう。

 このような生命保険会社に長く勤めたあとに、自由な立場になった人からの「ウラ側」情報は貴重である、と言える。だがしかし、結局は、独立して代理店や販売店を経営している立場の人、となれば、当然、自分の立場が危うくなるような情報を外に出すはずがない。

 「ウラ側」とはいうものの、それを一つの看板として、「売らんかな」というスタイルを取っている場合もあるので、個人的には要注意だと思う。所詮は、自己責任ですよ、と言われて、泣き寝入りするのは被保険者個人個人になってしまわないように、どの立場にあろうとも、高邁なホケンの思想を忘れることなく、将来的にも、正常かつ有効にホケン機能が社会の中で存在していくことを望む。

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ツイッター社会進化論 1万人市場調査で読み解く

ツイッター社会進化論
「ツイッター社会進化論」1万人市場調査で読み解く
金正則 2010/10 朝日新聞出版 新書 208p
Vol.3 No.0176 ☆☆☆☆★

 買い物ついでに上の階の書店で立ち読み。いろいろあるなぁ、図書館新刊本コーナーには及びもつかない。当然のことだが、新刊書の山である。ひとつひとつ読み始めたらキリがない。図書館や新刊本コーナー、という絞り込みがあってこそ、なんとなくホッとするところもある。

 多分この本もいずれは図書館にはいるだろうけれど、立ち読みしたくなった。タイトルとしては津田大介「Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流」と対をなすもので、津田がドックレースの逃げウサギ的立場を買ったとすれば、金正則は、その追っかけカメラの立場を取ったということだろう。

 金正則はブームとしてのたまごっちやバーチャル・ゲームのセカンドライフを思い起こす。たまごっちの誕生は1996年。たしかにあの時代性の中で、なんでこのゲームがあれほどのパニックを産んだかは定かではないが、販売したメーカーは逆に大損害を被った、という皮肉がある。つまりマーケティングの失敗。

 セカンドライフにしたところで、そのサービスは維持されているが、あの「ビジネスモデル」に「参入」した「企業」などのなかには、おおいに当てがはずれたところが多いだろう。ある地方自治体などは、公式の無料の講習会まで開いて、自前のブースもセカンドライフの中に確保した。だが、所詮、ホームページの物産展以上のものではなく、訪問しても、販売員さえいないという閑散としたものだった。

 たまごっちの場合は、そのたまご風のウォッチそのものがアイコンとなったわけだが、パソコンや「育てる」というソフト面が、一般化するパンデミック現象として起きたのであろう。思えば、あのインベーダーゲーム流行も、社会が積極的にコンピュータ社会を受け入れた瞬間であった、といえるだろう。

 セカンドライフは、そのバーチャルゲームをすることができる高機能パソコンがアイコンとしてあったのだが、世の中は、そこまで高機能なパソコンの流行を望まなかった。結果としては、セカンドライフはカテゴリーキラーに成り切れなかった。

 さて、ツイッターは、もう誰でも持っているパソコンやケータイで、簡単にできるわけで、あらたなアイコンは必要ないようにも思うのだが、ここにきて、スマートフォンなどとの絡みでよく取り上げられているようだ。ツイッターをしたいがためにスマートフォンにする、というのは、聞き分けのない親を説得する高校生レベルの手口だが、それでも、社会はその手口を容認している。

 電子書籍とiPadやキンドルもどこか、これらの関係に似ている。青空文庫などは別にパソコンで十分活用できるのに、あえてキンドルやiPadを話題にする傾向がある。モノも動かないと経済も復興しないのだし、そもそも、常に買い替え需要があるわけだから、新規の商品が登場してくることは歓迎すべきだろう。

 この本は、1954年生れ(だったかな)のマーケッターが、細かいデータを元にするどく各レベルで切り込んでいるので、なかなか興味深い。ブームとしてのツイッターに浮かれてばかりいると、落とし穴があるよ、と警告している。ちょっと早すぎるソーカツであるようにも思うが、アクセルとブレーキは、安全運転には必要だろう。それにレスポンスのいいハンドルと。

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2010/10/11

行列のできる保険ショップがはじめて書いた 世界一やさしい保険の本 あなたにピッタリ!保険選びの決定版

行列のできる保険ショップがはじめて書いた世界一やさしい保険の本
行列のできる保険ショップがはじめて書いた
「世界一やさしい保険の本」 あなたにピッタリ!保険選びの決定版
保険相談センター  2010/09 東洋経済新報社 単行本 215p
Vol.3 No.0175 ☆☆☆☆★

 確かに、スーパー等に併設された保険ショップの存在意義はある。そもそも対面販売が義務付けられているような難しい契約ごとであり、ネット販売や通信販売などは、どこかニッチな隙間を狙っているだけだと思う。

 この本における保険はあくまで生命保険についてだが、まずは、これだけの説明があれば、そこそこの生保の知識は身についたことになるだろう。逆に言えば、どの本を読んでも、ここまでは分かるのであって、それほど大きな違いはない。

 さて、じゃぁ、実際に、どれほどの負担になるのか、ということになると、各社まちまちで、パソコンソフトが普及した現代ではあるが、各社のソフトを全部そろえて一気に比較する、ということはなかなかできないであろう。

 そもそも、保険は比較販売を禁じられている面もあり、ネットでの一括見積もりのようなものもあるだろうが、すべて同じ条件で計算する、ということは不可能だろう。ましてや、物販ではなく、長期にわたる契約ごとであり、その契約主体である保険会社の信用度やサービスなども十分に検討されなければならない。

 そもそもこの「世界一」などという表現は、保険販売では禁じられているはずである。この保険相談センターとは、いかなる存在なのかはあまり調べていないが、コンサルタント料で成り立っているわけではなく、保険販売のフィーで成立しているビジネスモデルであるとすれば、この本では商品名や会社名がでていなかったとしても、「世界一」という表現はまずい。消費者に入らぬ誤解を生む。

 ホケンはホケンでも、これは生命保険に限っているわけだし、当然、日本国内だけに限っている。そして基本的な部分だけに限っているわけだから、説明はこれはこれで間違いないだろう。ただ、いくつあるか知らない保険相談センターだが、均質な質の高い対面相談を受けることができるかどうかは、疑わしいところがある。

 FP(ファイナンシャルプランナー)に相談できる、と言うのが売りのようだが、これは必ずしも公的資格ばかりではない。社内資格もあり、紛らわしい資格名もある。厚労省などが認定しているFP資格所持者は、予想するところ、実際に保険販売に従事する職員の5%にも満たないだろう(未確認)。日本FP協会やその他の団体もいくつかのグレードの資格を認定しているが、あまりそのような肩書にも惑わされてはいけない。

 もちろん、どの業界も同じで、資格を持っているから正義の味方である、とは限らない。○暴集団や、悪徳サラ金のために働く弁護士がいるごとく、FPを語って、いらぬ世界へとご招待してくれる人々もいない、とは限らない(念の為)。

 あとは個的な相談で、こちら側の個人情報の開示も必要だし、見直されるべき現況を伝えなければいけない。これらのデータを相手に渡さなければならないのはしかたないとしても、そこからの相談は、本来であれば、別に保険ショップばかりではなく、すべてのホケン契約において実行されなけばならない基本ではあるだろう。

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貴重書デジタルアーカイブの実践技法 HUMIプロジェクトの実例に学ぶ

貴重書デジタルアーカイブの実践技法
「貴重書デジタルアーカイブの実践技法」 HUMIプロジェクトの実例に学ぶ
樫村雅章 2010/04 慶応義塾大学出版会 単行本 272p
Vol.3 No.0174 ☆☆☆☆★

 出版されたばかりの新刊本をギロチンにかけてバラバラにして30分ほどでスキャナで読ませて電子書籍化するというのもデジタルアーカイブの一つだろうが、こちらは「貴重書」の冠がつく。この本で中心になるのは、世界に48冊しかないとされるグーテンベルグ聖書の1冊。

1987年10月22日
クリスティー(Christie's)の競売で、日本の丸善が落札。落札価格は490万ドル。手数料を含めると539万ドル(7億8,000万円に相当)で、印刷本の落札価格としては当時の世界最高記録を更新した。

1996年春 
慶應義塾大学が丸善より購入。
某ページより借用

 本自体には値段が書かれていなかったが、相当に高値であることは間違いない。丸善が落札した時は、日本はバブル経済の真っただ中にあった。さらに丸善から慶大に転売された時はどの程度の価格がついていたのだろうか。

 いずれにせよ、これだけの「貴重本」をデジタルアーカイブ化するというのだから、いっぺんにギロチンにかけて、スキャナーで読み込ませてキンドルで読む、というお手軽コースは取れない。自炊できないのである。だが一体、どこのコックさんに頼めばいいのか。

 この本では、プロジェクトを立ち上げ、アーカイブ化するに当たっての検討と、使われた機器類が、豊富な画像で紹介されている。国会図書館のアーカイブも数年前からマイクロフィルムなどからデジタル化されているということだ。

 小さなレベルでいえば、当ブログなどもミニマムなデジタルアーカイブであると言えないこともない。ほとんどの書籍の画像はネット上で流通しているが、95年以前の本だと表紙の画像がないものが多い。そのような時は、自前のスキャナーを使ったり、デジカメで撮影したりして、アップしているものも相当数ある。

 例えば「西蔵仏教宗義研究」なども貴重だと思うが、ネット上では画像情報はなかった。「如是経 一名 光炎菩薩大獅子吼経 序品 つあらとうすとら」も貴重な存在ではあろう。私の処に来た時でさえ、背表紙などが朽ちかけていた。図書館ネットワークで私のところにやってきてはくれたが、本来、所蔵館で門外不出としてデジタルアーカイブ公開すべき一冊に属しているのではないだろうか。

 ある意味では「曼荼羅グラフィックス」なども、「貴重書」デジタルアーカイブスの一種であろう。その他、このようなプロジェクトの意義は今後ますます高まるであろうが、さらにこれらのアーカイブスがどのように公開されていくのかを、一般読者である私たちは注意深くおっかけていく必要がありそうだ。

 書物のデジタル化をとりまく環境も、変化を加速させていった。質より量の傾向がさらに強くなり、Googleブック検索のようなとてつもない規模のデジタル化が実現されるようになった。国会図書館でも、蔵書の大規模デジタル化に100億円以上の予算が充てられている。またAmazon社のKindle2の売れ行きが示すように、電子書籍も身近なものとなり、別の意味での本のデジタル化も加速しているようだ。p259「あとがき」

 7億円とか100億円とか、景気がいいのか悪いのか分からないような単位のお話も飛び出してくるが、無料ブログサービスに、地域公共図書館利用、を徹底している当ブログとしては、そもそもフリーなアーカイブスを目指そうとすると、どうしても「質より量」と揶揄されることになる。

 しかし、そもそも、書籍は、月を指し示す指であったとするならば、どんなに黄金の指を作ったところで、月を見逃すこともあるのだ、と反論しておくことにする。大事なのは、「貴重書」なのか。そこに指し示された「真理」なのか。量より質、と言った場合、「貴重書」は高品質である、と断言できるのか。

 真理は100億円積まれても、見逃される可能性もあるのだ、と、ちょっと突っ張っておく。

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ダダ漏れ民主主義 メディア強者になる!<2>

<1>よりつづく

ダダ漏れ民主主義 メディア強者になる!
「ダダ漏れ民主主義」<2> メディア強者になる! 
日垣 隆 (著) 2010/5 講談社 単行本(ソフトカバー): 256p
☆☆☆☆★

 いつもは行かない地域図書館に、ちょっと時間が空いたので、数時間滞在することになってしまった。いつでもこの図書館はネットで閲覧できるので身近なところだと思っていたのだが、いざ実際に足を運んでみると、見たことも聞いたこともないような本が堂々と並んでいる。しかも、これこそ読みたかった、という本がズラリとあった。

 その中に、この本もあった。一回読んだからもういいなぁ、と思いつつ、なんだか未消化なまま、もう一回だけ再読してみてもいいかな、という気持ちが残っていた。この本を読んだのは2カ月あまり前。不思議なタイトルと、ショッキングピンクのタイトル文字に釣られて読んだのが運のつきだった。

 思えば、この本から、当ブログは、それまでひた走りに走っていた「コンシャス論」路線から大きく外れることになったw。この本をめくった時、分からないことがたくさんあった。iPadやらiPhoneやらキンドルやらツイッターやら、WiFIiやら、なにがなにやらかなりめちゃくちゃじゃん、と思った記憶がある。そもそも、ダダ漏れ、ってなんじゃい。

 そして、今回も明確な定義を見つけることはできなかったものの、著者のいうダダ漏れの意味をそれとなく理解できた。そして、小道具としてでてくるIT関連用語はほとんど意味が通じるようになった。この2カ月間、私も必死になって学んだのである。

 再読してみて、かなり細かいところまでわかるようになった。ツイッターも登録したし、スマフォにもiPadにも触ってみた。さっそく自宅の無線LANも再調整。まぁ、本書におけるIT話題にはなんとなくついていけるようになった。

 さて、それでは私の生活は大きく変わったかというと、それほどでもない。相変わらずの生活である。ツイッターは登録したものの、それなりの使い方であり、フォーマ機は来たものの、それはそこ、通話機能がやはり一番必要だ。フルキーボードで長いケータイ・メールは打てるようになったし、寝床でワンセグなんてズボラなこともできるようになった。

 だからなんじゃい、という気持ちと、だいぶ変わったな、という気持ちがないまぜになる。いずれにしても、私は、この本を読む前の路線に戻りたい。いわゆるコンシャス論路線にもどるには、はてさて、どうすればいいか。

 この人の本、IT関連もそうとうに散発的に書きこまれているけれど、文学や出版についても、実はいろいろ書きこまれている。とくに、IT関連が乱舞する前半部分とは打って違って、後半は、なにやら文学臭が漂ってくる。

 えい、毒食わば皿まで。この本、コンシャス路線にもどるための起爆剤として、もういちど、三読に挑戦してやろうか。

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2010/10/10

ブックビジネス2.0 ウェブ時代の新しい本の生態系

ブックビジネス2.0
「ブックビジネス2.0」 ウェブ時代の新しい本の生態系
岡本真/仲俣暁生/他 2010/07 実業之日本社 単行本 238p
Vol.3 No.0173

 ちょっと甘い気もするが、この本レインボー評価としておく。何故、甘いか、というと、この本、全体をスラスラ読むことができて、あまりひっかからないところが、少し気になる。「ブックビジネス」というタイトルからして、ちょっと構えた姿勢で読み始めたのが、良かったか、悪かったか。とにかく、意表を突かれて、うん、我が意を得たり、と共感する部分が多くあった。

 ひっかからない本というのも善し悪しで、喧嘩しつつ、最後まで取っ組み合いをしながら最後まで気になる本が、結局自分にとっての良書だったりする。逆に、そうそう、そうなんだよねぇ、と面白い本が、いつの間にかすっかり忘れてどこかに行ったりする。だから、本の評価はすこし時間をかけてみないとわからない。

 それでもこの本をレインボー評価とするのは、結局、当ブログであちこちウロウロしているけど、結局、あんたはん、何をいいたいんでおまっしゃろ、と言われてしまった場合、手っ取り早く、そうですなぁ、最近は、こんな本がよく私の言い分を言ってくれてます、と、言える一冊、と言えるからではないだろうか。

 まず、図書館を大事にしている。もちろん本を大事にしている。そして、新しいデバイスについても積極的に取り組んでいる。そして、「ツィッター社会論」の津田大介や、「iPad vs.キンドル」でも意見を述べていた国会図書館館長の長尾真なども一筆を献上しているところが、とてもよい。

 電子書籍やウィキペディアやグーグルについてもバランスよく把握している。問題意識はかなり共有できる。その解決策(?)についてはよく分からない。どうあるのが解決なのか、よく分からない。しかし、このような問題意識の結果、時間と、空間と、そのビーイングのなかで、起こってくることが、リアルという真実なのであろう。と、なんとなく納得できるような信頼感を持つことができる。

 国立国会図書館では全国の主要な図書館と協力してこれらの図書館のOPAC情報を集め総合目録データベースを作っている。これにアクセスすれば国会図書館にはないがどこの図書館にはあるということがわかり、その図書館のシステムに飛んでゆけるようにすることができる。そしてその図書館で目的とする資料の内容がディジタル化されていて外部に出せる場合には、それを電子的に取り出せる。このようなことを効率よく行うためには、書誌データ形式の標準化、MARC(機会可読目録)の統一などが大切となる。p138 長尾真「ディジタル時代の本・読者・図書館」

 ここにおける本・読者・図書館、という三位一体が私には妥当のように思う。本がなくなることはないだろうし、図書館がなくなることもない。本を読む人がなくなることもないだろう。ここに図書館が入っていることが、なんだかとてもうれしい。私は、ネットで入手できる情報、というものだけでは納得できないだろう。図書館、という機能がとても大事だと思う。とくに、最近、ネット社会に対応しようとする図書館は一昔前のものとはまったく違う機能を持ち始めているように思う。

 この本、ブックビジネス、というタイトルを持ってはいるが、いわゆる銭金の金もうけとしてのビジネスではなく、趣味としての書籍、でもなく、現実社会の中でキチンと機能していく書籍、という意味で、ブックビジネスと名付けているのだろう。「ウェブ時代の新しい本の生態系」というサブタイトルこそ本当の本書のタイトルだと思う。

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ワンセグ入門 An introduction to 1 Segment Broadcasting by ISDB-T

ワンセグ入門
「ワンセグ入門」 An introduction to 1 Segment Broadcasting by ISDB-T
隅倉正隆 2006/09 インプレスR&D/インプレスコミュニケ 単行本 163p
Vol.3 No.0172 ☆☆☆☆★

 ワンセグ、ワンセグと、なんだか分かっていないのに分かった気になっているワンセグだが、いざ図書館で検索してみると、率直に教えてくれている本は少ない。そもそもケータイやポータブルナビでテレビが見れることだろう、と意味は簡単にわかるのだが、じゃぁ、どうしてそうなったのか、などなど、実はよく分かっていないことが多い。

 最近6年落ちのムーバ機を代替えする段階で、スマートフォンに移行できなかった理由の一つは、ワンセグがついていないものがほとんどだった、ということがある。そもそも元のムーバ機にはワンセグなどついていなかったのだし、そんなにワンセグが魅力あるのであれば、今手元にあるポータブルナビを使えばいいじゃん、とは思うのだが、やっぱりケータイでテレビ、という魅力は捨てがたい。

 iPhoneやiPadでは、ワンセグやオサイフケータイ機能がついていないというのがネックの大きなマイナス要因になっていたが、まもなく発売になるAUのIS03をはじめてとして、キチンとワンセグをつけたスマートフォンが勢ぞろいしつつある。やっぱり日本人のケータイとしてはワンセグは不可欠要素だ。

 普段はそんなにテレビを見ていないつもりなのだが、NHKの視聴料を払っている分くらいは活用しているようだ。ニュースや地震速報はどうしても必要になる。世界遺産とか、報道番組も意欲的なものもいろいろある。そうして、テレビくらいは、いつでも見れるようにしておきたい。

 そう思って、ワンセグ・ケータイと数か月暮らしてみて感じるところ、やっぱり便利だな、と率直に思う。何気ない細切れの時間にちょっとワンセグを見てみると、意外な番組をやっている。とくに深夜に目が覚めたとき、寝付かれずにちょっとワンセグにスイッチを入れると、アーカイブスとかやっていて、普段は全然気にとめていなかった貴重な映像に出会えたりする。

 細切れになってはしまうが、ツイッターだって、その細切れ性がまた受けているわけだし、細切れワンセグも悪くない。部屋を暗くしたまま、手のひらの画像を見ていると、大画面でみる高画質なテレビなどとは違った、不思議な世界がそこにあることに気がつく。

 IT率国を目ざす日本は、e-Japan戦略、u-Japan戦略および2006年度(平成18年度)からのIT改革戦略のもとに、世界でも最先端のブロードバンド大国になりました。(中略)
 そして、地上デジタル放送の開始と同時期にサービス開始を予定されていたケータイ向け地上デジタル・テレビ放送「ワンセグ」は、2006年4月1日から、東名阪の民放21社とNHKが29都道府県にて本放送が開始されました。各携帯事業者からはワンセグ対応のケータイ製品も順次発表されています。
piii「まえがき」

 もうすでに4年前に始まっているサービスである。いまさら何を寝ぼけたことを言っているのか、と笑われそうだが、仕方ない。いままで、それほど魅力的ではないだろうと思っていたこともあったし、地デジとの絡みもよく分からない関係だなぁ、と思っていた。

 ワンセグは、この地上デジタル放送の1チャンネル分の周波数帯域を13のセグメントに分けて放送に利用するという、日本独自の放送方式で実現したサービスです。(中略)
 この13個のセグメントのうち、12個のセグメントを一般家庭に固定受信端末(テレビ)向けに利用し、残りの1セグメントをケータイ(携帯電話や携帯端末)向けのテレビ放送として利用しています。
p3「ワンセグとは何か?」

 1セグメントの略がワンセグであることはなんとなく知っていたが、地デジとこのような関係にあるとは知らなかった。「テレビが言えない地デジの正体」を読んだりすると、地デジも問題なしとはしないが、このような政策のもとで進められてきていることに、あらためて目を大きく開かせられる。

 ガラパゴスと揶揄される日本のケータイであるが、外国において、このようにワンセグが見れる地域はどれほど増えているのだろうか。日本のケータイが外国に進出できないのは、世界のワンセグ状況がとうまくマッチできていないからかも知れない。オサイフケータイについてだって、各国の交通網や流通ルートはどこまで開発されているのだろう。

 よくわからなかったが、本書においてはデジタル・ラジオというものも紹介されている。諸外国の地上デジタルとはやはりシステムが違っているようだ。4年前の調査ではあるがユーザーのニーズなども紹介されており、概ね、良好に対応してきたのではないだろうか。ワンセグ、結構地味なイメージがあるが、でも、結構これって、重宝だな、と現在の私は素直に思う。

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iPad vs.キンドル 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏<1>

iPad vs.キンドル
「iPad vs.キンドル」日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏<1>
西田宗千佳 2010/03 エンターブレイン単行本 238p
Vol.3 No.0171 ☆☆☆☆★

 当ブログの現在進行中のカテゴリは「No Books No Blog」であった。「意識をめぐる読書ブログ」を標榜するのであれば、現在読みかけているOsho「ユニオ・ミスティカ」とか「イスラーム神秘主義聖者列伝」などが主なる読書テーマとなり、やがてはスーフィーの「本」のようなプロセスをたどるのが一つのモデルであるように思える。しかし、道筋は、そう平坦で一方向に定まったようには見えない。

 いくつか前のカテゴリで「クラウド・コンピューティング」を始めながら、物事がブラックボックス化するのと、やたらとコンテナ論に終始するのを嫌い、途中から「クラウド・ソーシング」とその名前を変えてみたものの、なかなか目標とするコンシャス論へと向かわないので、昨年後半あたりから、どんどんコンテナ論や一部のコンテンツ論を切り捨ててきた。

 しかし、この夏あたりから、切り捨ててきたつもりのコンテナ論が一気に復活した。抑圧してきた分、大きな逆襲にあっていると言っていい。クラウド・コンピューティングの意味も、だんだんとその姿が実体を現し、以前のような獏とした違和感を感じなくなってきたのも事実である。

 結論から言えば、このコンテナ論の結末として、当ブログの「No Books No Blog」というテーマは結局、スマートフォンやキンドルで情報を得て、ツイッターにつぶやく、という姿に結実した、と言っても、決して笑い話ではない。実際、そうしてみても面白いのだろうと思う。しかし、それはやっぱり笑い話なのだろう。

 次なるテーマを「メタコンシャス--意識を意識する」と定めている限り、コンテナ論から、コンテンツ論に移り、絶妙な方向転換を図っていく必要がある。コンテナ論はまだまだ続きそうだ。だって、一度首を突っ込むとめちゃくちゃ面白いし、面白い状況が進行している。ひとつアイディアを頂いて自分の生活に取り入れると、自分の生活そのものが大きく方向転換する。コンテナ論の魅力ではある。

 しかし、この辺で静かにコンシャス論に移動していかなければならない。そして、メタコンシャスそのものは表現されないものの、そちらに向かって方向性を求めているコンテンツを、静かに、微妙に、デリケートに嗅ぎ取っていく必要がある。

 「実際のところ、売り上げの中心はアダルト。それも女性向けが大きい。統計を見てみると、10代から30代の女性が購入し、購入時間も深夜が最も多い。これは予想だが、店頭で購入しづらいので、携帯電話が利用されているのでは」p194「日本はどう「eBook」の波に乗るのか

 これは日本の状況だが、「ルポ電子書籍大国アメリカ」にもアメリカの状況が書いてあった。アメリカにおいては、もともとシリーズ化したペーパーバックのロマンス本などがあり、すぐに読み捨てられたり、破って読む部分だけが切り取られたりするという。しかも、ほとんど類型化していて表紙もそれと一発で分かってしまう。そのために、電子書籍なら他の人に分かりにくいという。

 もともとインターネットも、アダルトページがその発展に寄与したところがあった。ビデオだって、その手のソフトが流通したればこそ無理してビデオレコーダーを買った人々がいたはずである。日米において、電子書籍の拡大においても同じ現象があるのかもしれない。しかも、今度は文章でありながら、その担い手の多くは女性である、というと、これはなかなか面白い現象ではある。

 iPadは「小説的」というよりも「雑誌」的だ。キンドルやソニーリーダーが「鞄に入っている文庫本」だとすれば、iPadは「ソファー横のマガジンラックの中の雑誌」に似ている。どちらも薄い板型のコンピュータであるが、その目指すところは相当に異なっているのである。p92「キンドルのライバル、ソニーとアップル」

 なるほど言い得て妙である。

 iPadは明確に「リビングでの利用」を念頭に置いている。もちろん持ち運んで使うこともできるし、カフェなどで使うにも困らない大きさだろう。だが携帯電話のように電車内で使うには少々大柄だし重い。「新聞や雑誌のように軽く持てないと」と思いたくなるが、考え方を「リビング向け」に変えると、このサイズも納得できる。p99「アップルの狙いはリビング」だった」

 リビング向けとなると、納得もできるが、他のノートも含めて競合ガジェットはもっと増えていくのではないだろうか。すきま的、瞬間的芸にせよ、例えばAUのIS01の8円運用などで、自宅無線LANを使ったリビングユースなどががぜん魅力的に見えてくる。

 この本、各方面の各人の思惑がリポートされていて、なかなか興味深い一冊である。単に電子書籍というだけでなく、インターネットや、本そのもの歴史、そしてそれぞれのお国柄など、今後の地球人文化にとっての一つの象徴が、今、電子書籍というシンボルの中で、多くのことがクロスしていることがよくわかる。

<2>につづく

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ルポ電子書籍大国アメリカ

ルポ電子書籍大国アメリカ
「ルポ電子書籍大国アメリカ」
大原ケイ 2010/09 アスキー・メディアワークス 新書 191p
Vol.3 No.0170 ☆☆☆☆★

 タイトルからして新聞消滅大国アメリカ」とセットになっている一冊と言ってもいいのではないだろうか。「☆☆☆大国アメリカ」というタイトルは最近のハヤリでもあるようだが、ほとんどは単なる絶賛ではなく、鋭い皮肉であることが多い。「ルポ電子書籍大国アメリカ」というタイトルも、決して、アメリカ文化を絶賛しているわけではなく、批評的な視点から落ち着いてアメリカの電子書籍の状況を見つめている。

 帰国子女のなれのはて、ということだから、女性なのだろうか。いや、子女とは男子も含まれているはずだから、男性なのかもしれない。いずれにせよ、この本全体的に漂うユニセックスな感覚が心地好い。NY在住出版エージェントという肩書が、何ともカッコイイやら、妖しいやら。すくなくとも、日本における電子出版状況を語る、浮足だったセンセーショナルな論調はこの本にはない。

 日本においては、iPhoneやアイパッドがらみで黒船来襲のごとく語られ過ぎている向きもあるが、アメリカの電子出版の状況はもうすこし必然的な、当然の帰結的な現象としてあるようだ。例えばキンドルで読まれている日刊新聞などは、そもそも地方紙そのものがどんどん姿を消しており、また宅配システムの質が低く、電子出版に移行せざるを得ない状況がある。一般的な出版においても、そもそもの本の成り立ちが違うようだ。再販制度や、ペーパーバック本の扱われかたなど、日米の出版の在り方には、少なくない違いがある。

 個人的に私は現在のところ、ネットからリクエストした本を図書館まで自転車で受け取りに行って、自宅のソファーで寝っころがって読むというスタイルが一番いい。まず経済的に負担が少ないことと、紙媒体という慣れ親しんだ手触りに、別に飽きているわけではないからだ。もちろん新刊がすぐ読めないとか、気にいった本でも手元に保存できない、という欠点はある。

 そんな時は当然身銭を切って書店で購入するわけだが、保管するスペースの問題もあり、出来るだけ少ない冊数にしたい。だから、敢えて新しいガジェットまで揃えて電子書籍のお世話になりたいとは、正直思わない。必要な時は、ノートパソコンで読めれば十分じゃないか。他に読むものはいっぱいあるし。こういう保守的な態度は、経済効果も生まないし、文化や科学の進化に貢献しないのかもしれないが・・・。

 アメリカ国内でのアマゾンのサービスやビジネスモデルをつぶさに観察していると、日本での活動はまだ「様子見」の状態だと察せられる。(中略)アマゾン側も、きちんとQCに目を光らせていなかったりと、本国のサービスや対応には及ばない、ワンランク下のクオリティで商売をしているように思えてならない。p078「アマゾンの本当の力」

 日本における電子図書が、すでに歴史があるのに、いまだ「元年」と言われる理由がこの辺にあるだろう。まだ海のものとも山のものとも判明できないところがある。

 この業界でまことしやかなに信じられている数字に、全くなんのマーケッティングもしないで本を出した場合、売れる部数は500冊だ、といわれている。これを多いと思うか少ないと感じるか、はたまた本当なのか知る由もないが、仮に1冊10ドル、印税率10%のペーバーバックだとしたら、500部捌けて著者の手元に入るのは500ドル。p104「電子書籍で70%のおいしい印税生活が実現するのか?」

 単なる読み手としてだけでなく、サービスの提供側、あるいは本の書き手にさえなる可能性があるわけだから、それぞれの立場でソロバンをはじいている姿が見えてくる。

 日本政府が日本のアニメ・マンガ文化を「クール・ジャパン」というスローガンの下で輸出を奨励している。
 だが、メイド・イン・ジャパンの自動車と違って、こちらはただ「ものづくり」に専念していれば受け入れられる類の輸出ではない。世界に向かって、エッチなものも含有していこそのマンガ・アニメ文化なのだと胸を張って言う勇気があるかどうかが、今後問われることになるだろう。
p126「アップルが電子書籍にもたらした功罪」

 この本、最終脱稿が8月20日だ。日米の最新事情が見えてくる。

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2010/10/09

情報人類学の射程 フィールドから情報社会を読み解く

情報人類学の射程
「情報人類学の射程」フィールドから情報社会を読み解く
奥野卓司 2009/08 岩波書店 単行本 303p
Vol.3 No.0169 ☆☆☆☆☆

奥野卓司関連一覧

「現代世相探検学」高田公理/他 1987/03 朝日新聞社

「パソコン少年のコスモロジー」 1990/06 筑摩書房

「世相観察・女と男の最前線」 梅棹忠夫「対談集」 梅棹忠夫 1991/09 講談社

「ポスト・コンピュータの世界」 21世紀のパソコンはどうなる? アサヒパソコン・ブックス 奥野卓司・他 1995/11 朝日新聞社

「ITSとは何か」 森地茂 /川嶋弘尚 / 奥野卓司 2000/10 岩波書店

「人間・動物・機械」 2002/01 角川書店

「大人にならずに成熟する法」 サントリー不易流行研究所 /白幡洋三郎 2003/04 中央公論新社

「市民のための『遺伝子問題』入門」奥野卓司 /ヒューマンルネッサンス研究所 2004/03 岩波書店

「日本発イット革命」アジアに広がるジャパン・クール 奥野卓司 2004/12 岩波書店

「文字化けした歴史を読み解く」 三宅善信 2006/01 文園社

「ジャパンクールと江戸文化」 2007/06 岩波書店

「情報人類学の射程」 フィールドから情報社会を読み解く 2009/08 岩波書店

 著者の文章には最初40年前に触れている。だから、なんとなくお気に入りで、他人のような感じがしない。著書もひととおり目を通しているが、それなりに時代が反映していて、よくもまぁ、40年間書き続けてきたな、とも思う。

 しかしまた、彼が学者の道を選んだのであれば、それは当然の仕事なのだから、当たり前と言えば当たり前なのかも。情報人類学。なるほど、言い得て妙だ。どのような学問なのか詳しくは知らないが、なんとなくイメージができる。情報--人類--学。情報というキーワードは20世紀の後半から21世紀への向けての最重要なものである。

 「情報(産業)社会」を最初に提示した文化人類学者の梅棹忠夫も、後に「情報」の最初の定義を自ら否定して、「情報はエーテルのように、私たちの周りをあまねく取り巻いているもの」と言い換えているし、人類学者のグレゴリー・ベイトソンも「情報は量的概念ではないので、時間と空間でできる座標上に位置づけられない差異」としている。そしてボードリヤールも「情報は社会をベールのように包んでいる」としていて、今日の研究者の多くは、コミュニケーションをAからBへ情報が移動していくパイプのようには考えていない。p130「情報社会論の系譜」

 著者の本にはアルビン・トフラーの「第三の波」がちょくちょく登場するところも、私がお気に入りとする理由の一つである。マクルーハンの「メディアはマッサージである」の名言もちょくちょく登場するところも好ましい。ただ、当ブログではマクルーハンは未登場である。そのうちまとめて読みたい。

 マクルーハンはそれよりも強調したかったことは、「地球村の出現」が、国際政治のイデオロギーによる議論や、第三世界の人々による世界革命によってではなく、テレビという新しいメディアの力によって実現するということだった。p120同上

 そう言えば、先日読んだ本に「Twitterville」という本があった。日本語タイトルは「ビジネス・ツイッター」になってしまったが、つまりツイッターがつなぐ人間関係をひとつの村に例えているわけである。マクルーハンの時代は「テレビ」であっただろうが、インターネットという単語を通り越して、いまや「ツイッター村」が出現している、ということになる(のだろうか)。

 「第三の社会」における人間関係は、すでに述べたように、かつての血縁、地縁のような強い絆帯で結ばれた関係ではなく、お互いの関心や共通の趣味や情報で結ばれた「情縁」的な関係だった。そして、これが血縁を中心とした「家庭」の人間関係にも反映される。つまり、血縁も「情縁」化していくわけである。p186「情報化による人間関係・家庭・社会の変容」

 今日こんなことがあった。突然知らない若い人から電話があった、今から行っていいかという近くにいるから30分もかからないという。どうぞ、と言って、やがてやってきた青年の手にはAUのケータイが握られていた。

 ケータイのインターネット検索機能とGPS機能を使い、近くの業種のリストをアップして、そのうちの一番上に弊社がリストアップされたらしい。もちろんお互い初顔合わせだが、実際には、彼の職場は近くにあり、ちょっと離れた郊外の彼の住所の近所には私の顧客が何件かある。いままでも知らないほどの距離ではなかったが、このままだったら、きっと摺れ違いの一生だっただろう。

 地縁はあったのだが、繋がらなかった。「情縁」があったればこそ、今回繋がった。しかし、いつまでも固定的な関係ではあるまい。将来的には、また流動的になる関係だ。流動的ではあるが、今回こうして繋がったことのほうを強く認識しておくべきだろう。ことほど左様に、家庭環境、職場環境を通り越して、情報環境が作り出す「第三の社会」に私たちはすでに生きているのである。

 この他、この本においてはアーミッシュの人々のことやジャパンクールなど、様々な局面が語られているが、よくよく考えてみれば、上記に列挙した著者の表現物のまとめ、という位置づけの本であった。パソコン少年のコスモロジーから、江戸時代のコンテンツビジネス・モデルまで、器用によくまとめあげたな、というイメージだ。

 最後に残るイメージとして、彼は情報--人類--学、で良かったのだろうか、という思いが残る。「情報」はわかる、「人類」もわかる。だが、最後の「学」、これはこれでよかったのだろうか。彼は、「学問」の人だったのだろうか。あるいは、この人にひそかに寄せた期待というものは、もうちょっと違ったように思う。

 体系的な「学」ではなくて、もうすこし外れたアートやコンシャスな方向に、彼の人生をまとめあげていくことも可能ではなかっただろうか。

 そこでもう一つの宗教的要素として、道教の影響を考えなければならない。道教は儒教と異なり、現実主義的で自己肯定的な宗教である。台湾と韓国を比べてみた場合、台湾のほうがより道教的であると言える。というより、韓国の文化にはほとんど道教的要素がみられない。むしろ儒教のタテマエが道教のホンネをおしつぶしていると言っていい。

 一方中国は、韓国よりはもちろん台湾よりも道教的であるが、道教の、たとえ神にそむくことをしても、それで得られた利益を神にお供えしてわびれば善行になるという自己肯定的、現実的な方向が行き過ぎて極度な利己主義に走ってしまう傾向がある。

 これによって、産業は急激に活性化するが、それは一時的なもので、最終的には組織的な成果にはなりえず、マニアックス文化の建設的は芸術性、純粋性をそうしてしまい自滅する危険性は高い。したがって極度に道教的な台湾は、おもしろいことに、楽しいことを積極的に拡大していくというコンテンツ産業浮上の推進役を担う可能性は多いにある。p280「情報コンテンツの時代」

 器用な彼はどこまでも器用にものごとをまとめあげる。そういう才能があるのだろう。しかし、本当は、私はもっと不器用な彼をみたい。彼個人の中の、本音と建前を右往左往する姿が見え隠れしているように思える。もし、彼の本音をズバリ、と出してしまえば、それは多分「学」には収まらないであろう。今後の著者の活動に期待したい。

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2010/10/08

よくわかる保険業界 最新2版

よくわかる保険業界最新2版
「よくわかる保険業界」最新2版  最新〈業界の常識〉
満野龍太郎 2010/07 日本実業出版社 単行本 251p
Vol.3 No.0169 ☆☆☆★★

 「保険の常識118」を読んでこちらの「よくわかる保険業界」に目を通したら、ほとんどホケンについて基礎的な部分はわかったことになる。それでもいまいちアップデイトな雰囲気が伝わらないなら「生保・損保特集 2010」を読み、スポンサーに気をつかわないところの本音を知りたければ「保険辛口ランキング50」を読めばいい。これだけ身につければ、いっぱしのホケン通と言える。多少の議論ならすることができる。

 しかし、これだけでは「私のホケン」に辿り着いたことにはならない。これらホケン状況の中で、一体、私はどこに位置しているのか。

1)ホケンに加入しようとしている。

2)ホケン業界で働こうとしている。

3)ホケンを見直そうとしている。

4)ホケンを切り口にグローバル金融を論じたい。

5)ホケンから見える世界を社会学したい。

6)ホケンという商品から見える人間の本質を見極めたい。

7)自らホケン会社を興したい。

 その他、いろいろあるだろう。ここからの絞りこみが大変だ。まず、2)のホケン業界で働こうとしている人間なら、この「よくわかる保険業界」は必読だろう。特に新卒で保険会社の一般職や総合職を希望しているなら、基本中の基本ということになる。4年前の本だが、改訂されているので、中味は最新だ。

 だが、この本一冊ほどの知識は実際には、いらないだろう。セールスに誘われたり、代理店でもやろうとする人でも、むしろ、こんな本を読んだら、いやになるかもしれない。詳しすぎる。働くにしても、こんなに情報はいらないのだ。それに、概略過ぎて、部分的には他の情報で補完すべきところがいくつもある。

 1)これからホケンに入ろうとする人も、やはりこの本ではよくわからない。何をどうすればいいのか。ぜんぜん絞り込めたことにはならない。3)ホケンを見直そうとしているなら、もうすこし話は見えてくる。現在のホケンがどのようになっているのか、まず直視する必要がある。そして、自らの生活環境を見つめればいい。そうすれば、おのずと、どのような方向に見直せばいいか、すこしは見えてくる。

 7)のように、これから小さなホケン会社を興したり、共済のNPOでも作ろうとするなら、すでにプロ中のプロだから、もちろんこんな本だけではどうしようもない。裏の裏の裏まで知り尽くしていなければそんなことはできない。それに、すこしは山師的な要素だって必要になる。

 4)、5)、6)あたりは、どうやら当ブログにもフィットして来るように思えるが、本当は論じたからと言って、あんまり益はない。自らの「ホケン」の状況は何も変わったことにはならない。でも、理解することにはなるかも。いずれ、なんらかの行動が必要となる。

 だから、結論として言えば、個人情報やプライベートな状況をいくらマイナーなブログであろうとも、こと細かく書くことはできない。ましてや、読者と共有することで益することは少ない。ただ、そこに戻れるように、ホケン全体を論じることはできるのではないか。具体的な着地点を手探りしながらの、ホケン談義、これなら、当ブログでもできるのではないだろうか。

 ネット社会の年齢的な分布図のピークは30歳前後と思われる。ツイッターなどは後ろにずれて35歳あたりがピークだとか。電子書籍などの人気は、さらに後ろにずれて40歳前後と言われている。思えば、ホケンのニーズがもっとも高いのは40歳前後の家庭人たちである。当ブログで論じることが、必ずしも突拍子もない、わけでもなさそうである。

 書き手の私は、団塊世代の後輩ではあるが、すでに50台の後半。正直言うと、すでにホケンを見直したあとに、どんどん減らして、身軽になる必要がある世代だ。払わなくてはならないものは払わなくてはならない。しかし、要らないものは、この辺でバッサリ切り落としていく必要がある。

 年齢を重ねてきた以上、あるいは業務上、多少はホケンについて知りえたこともある。一般論としてはいくつか語ることができるが、しかし、具体的には、現在、ホケン業界がどうなっているのか、なんて、わかるところのほうが少ない。この辺で、「読書ブログ」並みに本を通じてホケンを知っておくことも悪くない。ただ、それが「意識をめぐる」というところに、どう繋がるのかは、未知数。あるいは、ほとんど期待できない。

 だから、

1)ホケンはいるの、いらないの?

2)ホケンは月々、ナンボ払えばフツーなの?

3)誰に聞けば(何を読んだら)、自分のホケンがわかるの?

 あたりを落とし所に、手探りを始めることにする。

 ここで、自分=私、とされるのはアラフォーの中小企業で働くか自営業。家庭人。子供あり、とする。だが、このモデルケースだけでは、当ブログの読者をカバーしきれないだろう。だから、ここを基本として、年齢や家庭環境、仕事環境などを差し引きしてみたいと思う。

 そういえば先日たまたま小耳にはさんだ話。先日、ここにも書いたが、実例(らしい)だが、詳しくはなにも知らないし、実際どうだったかもわからないので、匿名A家としておく。あのケースなど、一体どうなのだろう。気になるところではある。

1)夫44歳、妻36歳、子供6才。

2)夫が突然死。

3)生命保険、死亡保険金1000万円。

4)保険受取人、夫の両親。

 このケース、なんとなく実例として、あちこちにありそうではないか。

 夫44歳が突然の病死、あるいは事故や災害で亡くなるという可能性はごく少ないが本の数%の可能性はあるだろう。職業はなんだったのだろう。妻は働いているのだろうか。36歳で、今後、再婚(気を回しすぎ)などはあるのだろうか。子どもはまだ小学校につくかつかないか、くらいだ。そもそも死亡保険金1000万円は少なすぎたのではないか。受取人が両親とは、何とも不手際な。事故死、災害死なら、そちらからの補償もあるのだろうか。このケースの場合、

1)ホケンは入っておくべきだった。

2)リスクにあった保険料をもうすこし払っておくべきだった。

3)きちんと説明をする販売員に確認しておく必要があった、ということになろう。

 身につまされるような話でもあり、あまりに下世話な話でもあるが、すくなくともこの「よくわかる保険業界」一冊では解決できない。具体的になると、個々のケースはまちまちなので、かゆい所に手が届くような説明が欲しくなる。

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2010/10/07

頭がいい人の10倍パソコン術 できる人は「たった3秒」を有効に使う

頭がいい人の10倍パソコン術
「頭がいい人の10倍パソコン術」 できる人は「たった3秒」を有効に使う
中山真敬 2009/11 三笠書房 単行本 237p
Vol.3 No.0168 ☆☆☆★★

 最近やたらと自分の書く文字が下手になった。小学校に入った時以来、母親から、折れた釘のような字と非難されつづけた位だから、別に突然下手になったわけではないのだが、最近特にひどくなった。どうかすると、自分が書いた文字を自分で判読できない時がある。時には奥さんに手伝ってもらって「解読」しようとするのだが、奥さんだって、分かるわけがない。

 母親も、学校時代の成績はともかく、文字は綺麗だったし、父親も、地域で看板などが必要な時にはよく頼まれた、というほど、実にお手本のような字を書く人だった。兄弟も割と普通の字を書く。あ~、それなのに、それなのに。

 「あなたは筋がいいのだから、ゆっくり書けばいいのよ。曲げる処は曲げる。伸ばすところは伸ばしすぎない。止めるところは止める。落ち着いて、ゆっくり書きなさい」。そう言われ続けて幾星霜、結局、私は、母親の希望通りの字を書くことはできなかった。

 基本のところはともかくとして、最近とみに字を書くのが面倒臭く感じるようになったのは、明らかにキーボードでワープロを打つようになったからだ。速度的には、明らかにペンで書いているより早い。マインドの動きと同じほどの速度、とまでは言わないが、タッチタイピング速打ちソフトなどを使って、かなりのスピードで打てるようになった。だから、いつも頭の中でできた文章を文字化するには、タッチタイピングの速度が必要になるのである。

 しかるに、ペンでの文字書きは、なんともまどろっこしい。頭の中ではどんどん文章ができてしまっているのに、それを書き写す手の動きがついてこない。どうかすると、もんどり返って、ひっくり返ることになる。これではいけない、と反省はしてみるのだが、とにかく書き文字が下手になっていっているのは確実だ。

 だから、ホントウのことを言うと、もうこれ以上、入力速度が速くなることを期待してはいない。もう充分なのだ。しかるに、この本は、もっと速度をあげろ、という。なるほど、ひとつひとつのワザを工夫すると、さらに行けそうだな、と確信する。ワザの中心は、マウスで操作しているようなGUIでのポインティングを、ショートカットなどのキーボードから入力する方法がほとんどだ。

 なるほど悪くない。ひとつひとつは、智慧あるワザだ。しかし、本気になって習得しようとは思わない。これ以上早くするために、これだけの習慣を直すモチベーションがないのだ。むしろ、このパソコン入力というインターフェイスについて、考え込んでしまいそうになる。

 コマンド入力や、キーボードからの入力をさらに簡素化するために編み出されたのが、マウスだった。GUIのもっとも中心にあって、いまやパソコンライフには欠かせない存在となっている。しかしながら、パソコンの主流がノートパソコンになりつつあり、モバイル・コンピューティングも当たり前になってくると、このマウスという奴が、やたらとうっとしいう感じに思えてくる。

 たとえば最近のiPadなどではマウスは使わない。ソファーに寝っ転がってインターネットする、なんていう環境ではマウスは使えない。マウスを使わないことが、いまやトレンドとさえなっている感じがする。

 この本でのご教授は、マウスを挟んで、過去へと戻るような所業なのではないか。むしろ、時代は、ポスト・マウス、ポスト・キーボードという方向で、前に進んでいる。「早い」だけが問題なのではない。「簡単」なのが、むしろトレンドなのである。10倍速くなくていい。いまのままでいいから、もっと簡単に、もっとシンプルに、という流れなのではないのか。

 最近、台替えしたスマフォ風ガラケーには、フルキーボードがついている。数字キーも上に横一列並んでいる。もともとメインで使っているノートパソコンには数字テンキーがついていないので、同じような配列で普段は使っている。ガラケーでも割と早く打てるようである。

 ただ、親指二本ではタッチタイピングはできないので、いちいち文字盤を見るので速度は遅い。計測したことはないが、一部のレポートによれば、パソコンのキーボードで文字を入力するより、ケータイのフルキーボードで入力するのは4~5倍の時間がかかるようだ。しかし、それでも、私にとってはケータイのテンキーから日本語を入力するよりも数倍早く、そもそもストレスがたまらない。

 もとはジャーナリスト打ちなんて言って、人差し指二本でかなりの速度を出していた人々がいた。結局は、慣れなんじゃぁないだろうか。ケータイのテンキーだって、最初からこういうものだと思って使っている人々は、そうとうな早さで打っているように見える。

 この本は必ずしも入力の方法ばかりではなく、ソフトや環境の整え方にまで言及しているわけだが、今後のパソコンのありかたはどういうもののか。ヒューマン---マシン---インターフェイスはどのようにあるべきなのかを再考するに当たって、基本的な足下を確認させるような一冊と言える。

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iPhoneをつくった会社 ケータイ業界を揺るがすアップル社の企業文化

iPhoneをつくった会社
「iPhoneをつくった会社」 ケータイ業界を揺るがすアップル社の企業文化
大谷和利 2008/08 アスキー・メディアワークス 新書 191p
No.0167 ☆☆☆☆★

 この本も2年以上も前の本だ。この当時、私はiPhoneという単語さえ知らなかった。いや聞いてはいるのだろうが、完全に無視していたと言える。この前も書いたが、我が家の子供たちは1998年にiMacを買い与えたのに、使っていたのは中学生、高校生時代のみ。その後はすっかりWin派になってしまった。そのころ、私はLinuxなどにうつつを抜かしていたが、「i」ブランドにはとんと無頓着だった。

 しかし、私は大きな動きを見逃していたのかもしれない。子供のパソコンばかり気にしていたが、実はiMacからiPodへと移行していたのである。その後の「i」ブランドの移行にはまったく気にしていなかったが、最近、そのうちの一人は、どうやらすでに二台目としてiPhoneをオモチャにしているようだ。

 「iPhoneをつくった会社」というタイトルではあるが、実際は、そのCEOであるスティーブ・ジョブスが中心となるべき本ではあろう。良くも悪くもアップル社は彼の才能に頼るところが大きい。経営者としてはかなりユニークで、スタッフとして身近で働いていたら、あまりつきやすい「上司」とは言えなさそうだ。

 しかしまた、このような独断専行の秘密主義な経営者をかかえることができる会社、というところがまたアップル社の文化といえるのだろう。ひとつひとつ知っていくと、好ましく思う面と、これはちょっとなぁ、と思う面とある。もちろん当事者たちにも、どっちに転ぶかはかなり未知数であろう。だが、ジョブスあたりの力技が難解な状況を打開してきた、と言える。

 ざっと考えると、アップル社の哲学とはどのようなものだろうか。

1)OS、ハード、ソフト、サービス、一貫して自社ブランドを提供する。

2)直感的なユーザー・インターフェイスを重視する。

3)見切千両で、不要だと思った機能はバッサリと落とす。

 これに比較して、リナックスを考えてみるとするなら・・・

1)誰もが、どこにでも入れることができるOSをみんなで作る。

2)ユーザーがどんどん作りかえることができるようにする。

3)流通している機能は何でも取り込めるようにする。

 となるだろうか。

 うまい比較になるかどうかわからないがウィンドウズはどうだろう。

1)なんでも自分が1番だと思っている。

2)ユーザーは自分が提供するものを使うのが一番安全である。

3)新しい機能は、自分が使ってこそ、世界に流通する。

 こんな比較でいいだろうか。もしこの比較が妥当だとするならば、直感的に、私はリナックス派だと言える。Do It Yourself的で、いかにも私にぴったりと感じがする。しかしながら、リナックスは日曜大工とか庭いじりの世界とはちょっと違う世界だ。高い専門性や技術を持っている上でのDo It Yourselfなのである。結果的には、一般的な潮流に従って、ウィンドウズの下流に属するしかない、という実態である。

 その実態をよしとはしないが、なんともしがたい。そこに風穴を開けんとするMacのアップル社。この会社の哲学を私のライフスタイルが受け入れなかったのは、第一には、仕事でアップルが使えない、という点がある。友人の中でも、アートやクリエイティブルな業種の人々にはマック派が多いが、私の業種はそういうわけにはいかなかった。

 そして、第二には、よくも悪くも、一部のスター的な経営者が前面にでて何事かをしていく、という文化は、正直言って抵抗がある。投資ビジネスのように、自分の力をファンドマネージャーに預けて、大きくしてもらおうしているかのような、すこし安直な感じがする。損をしたらあいつのせいで、儲かったら、あいつを選んだ自分のセンスが良かったからだ、ということになる。

 こういう視点から、改めててアップル社がつくったiPhoneというケータイを見てみると、なかなか興味深いものがある。そして、この例え話にあうように、リナックスを多用するグーグルがケータイOSとしてアンドロイド、マイクロソフトがウィンドウズフォンOSを造っているのも面白い。もっとも、すべてはすでにブラックボックス化しているので、いちユーザーのド素人でしかない私などには中味をいじることなどできない。

 さて、自分がパソコンなりケータイになりに求めるものとは何だろう。

1)基本的な機能が安定的に、長期に使えること。

2)イニシャルコスト、ランニングコスト、ともに安価で、高品質で使えること。

3)先進性、話題性、一般性、など、不確定要素がそれなりに含まれていること。

 自分でこうして見てみると、いつの間にかだいぶ保守化しているなぁ、と思う。3)は、矛盾している部分がある。60点合格主義の自分としては、60%の機能が満たされていれば、あとは曖昧でも(失格でも)よいとする傾向がある。そもそも1)における「基本」とは何かだがだ、ライフスタイルより前にビジネスシーンが来るだろう。つまり、仕事で仕方なく使うけど、遊びにも使いたいな、というあたりか。

 そもそもパソコン文化に比べれば、ケータイ文化をバカにしていた嫌いがある。若者向けだ、パソコンのモノマネだ、矮化されたいびつなものだ、というイメージがあった。それが故に、通話範囲が広く、200万画素デジカメがついているムーバ機で6年も頑張ってきたのであった。「基本」的には、これで十分なのである。ついていたオサイフ機能など一回も使っていなかった。

 だが、ここに来て、iPhoneを初めとするスマートフォン「騒動」は、必ずしも新しいケータイではない、ということを知らされることになった。これは新しい「パソコン」かもしれないのである。そして、この夏過ぎになってようやく目が覚めたわけだが、こうして2年以上も前を本を読んで感心しているがごとく、実は、意欲的な企業による、深謀遠慮なる戦略があったことをまざまざと知ることになる。

 iPhone向けのアプリケーションを作るための「iPhone SDK」と呼ばれるソフトウェア開発キットは、マックOSX向けのものしか用意されないのだ。つまり、現在、ウィンドウズプラットフォームをメイン環境として利用している企業ユーザーが、iPhoneを便利なスマートフォンとして大量導入した場合、社内向けのアプリケーションを自社で開発するにはマックが不可欠になる。

 すると企業は、現場に導入するにはウィンドウズに比べてコストがかかると思っていたマックが実はそうでもないこと、UNIXベースのマックOSXがウィンドウズXPやビスタよりもトラブルが少なく、ウィルス対策も楽であること、アップル純正のブートキャンプや他社製の仮想化ソフトを利用すれば、1台でマックOSXとウィンドウズの両方を利用できることなどを実感するようになる。p116

 スケールも、業種も、仕事への関わり方もまったく違う。しかし、決断したり、責任を取ったり、あるいは、新しいものを作り上げるという想像力において、確かに「iPhoneをつくった会社」に学ぶべき点は多くある。そうか、この本はすでに2年以上前にでた本だったのか。あらためてケータイ音痴な自分に気がついた。

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仕事ができる人はなぜレッツノートを使っているのか?

仕事ができる人はなぜレッツノートを使っているのか?
「仕事ができる人はなぜレッツノートを使っているのか?」
山田祥平 2009/01 朝日新聞出版 単行本 214p
No.0166 ☆☆☆☆★

 ちょっと気恥しくなるようなタイトルの本だが、中味はまぁまぁ真面目。レッツノートを長いこと使っている著者が、自らを「仕事ができる人」と表現するわけだから、自画自賛的な厚顔ぶりが多少は露呈している。

 もちろん「仕事ができる」という場合の仕事の内容によるが、著者みたいにIT関連のニュースを記事にして生計を立てている立場なら、なるほどレッツノートは適していると思う。実際に、外回りの営業が多く、時には長期出張の可能性もあり、という人々がレッツノートを持っているのをよく見かける。

 ノートパソコンを買い替える時期にくると、かならずレッツノートはその候補の一つに挙がる。前回この機種にしなかったのは、そもそもノートでバーチャルゲーム・セカンドライフ(SL)をしたい、というのがコンセプトだったから。レッツノートでSLはちょっと似合わないと思ったし、機能面で他の機種に譲るところがあった。

 ノートパソコンとケータイが、ほぼ確実にその存在意義を固め、その間に入らんとするのが、ネットブックや、iPadやスマートPCなどのモバイルパネル。この本は2年前の本なので、その状況の変化をうまくとらえていないが、それでもたしかにパナソニックのレッツノートは、そのキャラクターから、決して無視はできない。

 レッツノートのよいところは、コンパクトでCDDなどをうまく収容していること。バッテリーの持ちがよく、筺体の強度がいいので、モバイル性に優れていること。デザインもアートしていないので、ビジネスシーンでもよく似合う、ということ。パナソニック、というブランドが、よくも悪くも、うまくかみ合わされている。

 逆にデメリットは、メリットの裏返しということにはなるが、すこし趣味性に欠けているところ。パナソニック、というイメージがどこまでも続くこと。出先で誰かのレッツノートとかぶると、なんだか気まずい事。それに、すこし値段がお高い。

 なんでも見切りは必要なので、自らがPCを使う目的がはっきりしているなら、ここはズバリとレッツノート、と決めてしまうことは可能であろう。もっとも、いろいろなシリーズがあるので、大きいものから小さなものまで、自分のライフスタイル、というよりビジネスシーンにあった機種を選べばいい。

 現在の個人のライフスタイルで言えば、パソコンとケータイの間に、もうひとつのガジェットを入れることはあまり賛成ではない。出来ればパソコンとケータイが合体してくれないか、とさえ思っているくらいだ。だから、そういう意味でいうと、iPadやkindleは必要なくて、スマートフォンがもっと機能化してくるとか、レッツノートがもっとモバイル性にあふれて、なお通話さえできるようになる、というのが本当は期待したいところ。

 もともとモバイル派の私は、デスクトップ型のパソコンは好みではなく、最初からノート派なのだが、最近は、セキュリティの面から、パソコンを持ち歩くことは推奨されなくなった。業務はかなりの場合、クラウド化しており、出先でもあまりパソコンを多用しないようになったのだ。

 現在手元には何台かのノート機があるが、一台最近ヘンな音がするようになった。ファンになにかゴミでも詰まったのだろうか、と思うが、HDDあたりの回転部分がなにかの変調をきたしている可能性もある。あるかもしれないサドンデスに控えて、次なる機種の選定もしておきたい。

 iPadやkindleでは私の仕事はできないが、かと言ってネットブックのように見切りをつけるのも、ちょっと怖すぎる。ここはレッツノートも強力な候補としてツバをつけておきたい。万が一、レッツノートを使おうとするなら、この本は再読の価値あり。

 この本に展開されているモバイル・コンピューティングはどのノートにも活用できる。たまたま著者がレッツノートの愛用者だった、というニュアンスが強いのだが、それでもやっぱり、ビジネスシーンでモバイル・コンピューティング、となれば、結局この本のような結論になる可能性は高い。

 著者の最近の心境も知りたいところだが、どうやらこの本が、単行本としては彼の最新刊のようである。

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2010/10/06

オバマ政権はアメリカをどのように変えたのか

オバマ政権はアメリカをどのように変えたのか
「オバマ政権はアメリカをどのように変えたのか」支持連合・政策成果・中間選挙
吉野孝/前嶋和弘 2010/07 東信堂 単行本 238p
No.0165 ☆☆☆☆★

 「保険」をキーワードにして地域公共図書館のネットワークを検索してみると、数千冊の本がヒットする。これらすべてに目を通すわけにはいかない。それに、せっかくこれだけある本だから、できるだけ最新の本を選択しようとすると、このような本も登場する、ということになる。

 そう言えば、オバマの当選直後の三大政策課題として、教育問題、医療保険問題、グリーン・ニューディール、などが掲げられていた。当時は「オバマは何を変えるか」が問われていたが、一年が経過してみれば、オバマは「何を変えたか」、が問われることになる。教育問題やグリーン・ニューディールとともに、医療保険問題をどのように変えることができたのか。

 この本の中で、大きく医療保険問題がテーマになっている部分は30ページほど。かつてのアメリカにおける医療保険問題の歴史が語られ、ましてやこの本がでたのは最近だとしても、取材されているのは今年2010年の3月あたりまでの状況なので、オバマの業績が大きく語られているわけではない。

 ましてや大統領という職務が地球最大の権力の集中した立場だとしても、一年間でそれほど大きな仕事ができるわけではない。画期的になにかが大きく変わったということではないが、共和党や、民間業界の反対をうけながら、先進国として希れな医療保険後進国アメリカの状況は、今後どのような変化を見せるか、興味深いところではある。

 断片的にもれ聞こえてきているところでは、一歩前に進んではいるが、いまだ道半ばというところであろう。公的医療保険問題は極めて重要で、しかも極めて大きな負担がかかるプロジェクトである。日本でも、ミスター年金の呼び声が高かった長妻厚労省大臣も、管直人政権下においては交代の憂き目を見ることになった。

 日本は、一般論的には公的医療保険はほぼ普及している国とされている。負担額がどれほどのものになるかとか、補償の範囲がどこまで及ぶかとか、あるいは医療の現場がどうなっているか、とか、難しい問題が山積みになっているとはいうものの、アメリカの医療難民が抱えている問題ほど大変ではなさそうである。それプラス個人医療ホケン問題は、別途、当ブログでも追っかけてみることにしよう。

 アメリカにおける公的医療保険は何兆ドルという巨大財源が必要とされるものであり、また医師会や薬剤業界、保険業界などが、複雑に利害関係をつくっている。中絶をカバーするか、国民の2割とされるワーキング・プアの保険難民状態を救うために、それだけの国家プロジェクトを組む必要があるか、など、さまざまな検討されるべき課題がある。

 それでもなお、クリントン時代にも実現できなかった医療保険の法制化に向けて、オバマ政権はさらに一歩前に歩み始めたようであり、今後もその推移に注目していたいと思う。日本においても民主党政権になって、さまざまな期待が寄せられるものの、ひとつひとつの政策課題は、遅々として未解決のままの残されているものも多いようだ。今後も、日米、そして中国、その他の地球人たちの蠢きが、まだまだ気になる当ブログではある。

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2010/10/05

自動車保険金は出ないのがフツー

自動車保険金は出ないのがフツー
「自動車保険金は出ないのがフツー」
加茂隆康 2010/07 新書 228p
No.0164 ☆☆★★★

 弁護士。 ホケン業界をかなり悪く語っていはいるが、ホケン・マーケットがあればこそ食えている、つまりギョーカイ人の一人に違いはない。一般人はこのようなタイトルにはギョッととして反応するが、実態を正確に反映したフェアな表現ではない。むしろ、第三者的なジャーナリステッィクな立場以外なら、ヒキョーな表現とも言える。

 これだけモータリゼーションが加速している社会である。一定程度の交通事故が起きることは、織り込み済みである。事故が起きないことに越したことはないが、実態として交通事故は多発している。死亡事故こそ減ってはいるが、小さな物損事故などは、限りない。

 その中で、ほとんどの自動車保険金は正当に払われているのであり、紛争になったり、弁護士に持ち込まれ、裁判になるような案件などは、ほんの0.001%ではなかろうか。すくなくとも、「フツー」ではない。

 近年、自動車保険には弁護士を依頼した場合の費用とか裁判費用の一部を負担する特約ができたので、月数百円の負担ならばと付帯する被保険者が増加している。だが、実際には弁護士を依頼したり、裁判になったりするケースはごくごく限られている。

 弁護士であれば、そのようなこじれたケースが持ち込まれるのであろうし、それを専門にやっていれば、自分の事務所のケースがたしかにそのような案件に満ち満ちているのは当たり前と言える。火葬場の職人が、この世は死人で満ち満ちている、と言っているようなものだ。

 このようなベンゴシの悪質な宣伝にも似た所業による本書などを読んで、一部、クレーマーやモンスター化する顧客がいる。でも、訳もわからず損保に立ち向かっても勿論恥をかくだけである。結局、この本を読んだ人は、弁護士を依頼するようになるだろうし、弁護士事務所は繁盛することになる。

 この本に書かれているケースは、非常にまれなケースが多い。しかも、さまざまな側面が略して書いてあるが、全体像を知ることができるなら、やはり裁判に持ち込まれざるをえないようなレアケースであるに違いない。すくなくともフツーなケースではない。

 そもそも、交通事故など、まったく同じ案件などひとつもないのだから、時間、空間、当事者の要素を考えれば、ひとつひとつゼロベースで対応していくしかない。分類や判例で、手っ取り早く解決しようとする気持ちも分からなではないが、複雑化し、ゴネてやろう、と待ち構えている連中も、少なくないことも忘れてはいけない。

 労災などでも、危険な作業での傷害事故は減っている。むしろ精神的苦痛に対する賠償が倍増していると言われる。交通事故も死亡例は激減しているが、必要以上の治療を請求する被保険者も多い。その心情にパラサイトしている整骨院なども決して少なくないのだ。

 この本の中では、ヘンなタイミングで新聞記事のコピーが挟まれている。かならずしも記事と本文には関連がないのだが、誤解を招くような形で引用されているところが多い。D損保、S損保、Z共済、アメリカ系のA損保など、本文には、実在する保険会社をイメージできるように記載されていたりするが、なるほど、あの会社なら、この対応はありうるだろう、と笑えてくる部分はある。ひとつひとつ、会社にも個性がある。

 弁護士は因果な商売だと思います。無理だと思われる要求でも、被害者の代理人を務める限り、顰蹙を買わない範囲で請求しなければなりません。損保側の代理人になれば、裁判で通らないと知りつつも、不払いの片棒をかつぐようなことをやらされます。p198「因果な商売」

 悪いことは言わないから、誇りに思えないような仕事なら、さっと止めるべきだ。仕方なくやっているなんて、へんてこなエクスキューズをだすべきではない。すくなくとも、なんと言おうと、このようなヘンテコな人物たちも、ホケン・ギョーカイでおいしく食べていることを忘れてはならない。

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生保・損保特集 2010 東洋経済

 ]
「生保・損保特集 2010年」
東洋経済新報社 2010/10 A4変
No.0164 ☆☆☆☆★

 当ブログにおけるホケン追っかけはどこまで行くだろうか。「保険完全ガイド―保険辛口ランキング50」 などを見ると、いろいろと新しい商品やニーズやらが登場しているようでもある。「見直し以前の『いる保険』『いらない保険』の常識」 あたりを読むと、基本的にホケンに求められているものは何にも変わっていないし、機能そのものは全く同じなのだ。だが、多くの顧客のライフスタイルが大きく変わっているのも事実である。

 前書二書が、会社側からの紐付きでない立場での意見だとすると、こちらの「生保・損保特集」は、売り手側からの見かたであり、毎年この時期に出る定番の一冊と言える。毎年のルーティン・ブックになっているので、毎年見ている立場にとっては新鮮味がないとも言えるし、小さな違いがむしろ新鮮に感じられるとも言える。

 今年の特集で、敢えて目新しいと言えば、ネット販売としてライフネット生命とイーデザイン損保のヘッドが対談しているあたりだろうか。イーデザイン損保は損保TN社が、NTTあたりと組んで立ち上げ、ネット販売に特化したもの。実態としてのシェアは0.1%にも満たないだろうが、大手損保には手をこまねいてネットを見ているだけではダメだ、という反省がある。

 生保のお得意だった職域という販売スタイルが、最近の職場のセキュリティの高さが災いして、なかなか若い世代のところに入っていけなくなったという。そして、若い層の所得が低下し、ホケンに支払う金額が減っている。その結果、ホケン難民という状態が生まれつつあるという。

 現代人であってみれば、0歳から100歳まで、ホケンと無縁で生きていくわけにはいかない。意識的に避けるにせよ、積極的に活用するにせよ、よくその内容を知らないといけない部分が多くある。ホケンのニーズが高い世代は40歳の家庭人をピークとして裾野を広げているが、もちろん、意識的にホケンを排除していくことも可能ではない。

 例えば、自衛隊や大手の運送会社などは任意の自動車ホケンには入っていない。もともと事故があったとしても、自分で支払う能力があれば、ホケンなどに入る必要はない。だから、財務が潤沢であればなにもホケンになど頼る必要がないのである。そもそも、生命と財産を守るとされているホケンではあるが、「守る」のは財務の面だけであって、顧客がイメージしているような「安全&安心」とはかなりズレている。

 生命保険なども、無縁社会を闊歩するおひとり様などは、死亡後に残すべき財産など考える必要がなければ、死亡保険金は入る必要がない。葬式費用ぐらいを現金で準備しておけば、煩わしい生保に入って、彼らに儲けられる必要などないのだ。

 ただ、それ以外の人々がそれらの人々につられてホケンに無頓着でいると大変なことになる。ごく最近の身の回りに起きたことだが、44歳の男性がなくなった。残されたのは36歳の奥さんと6歳の子供。男性は生命保険1000万に入っていたが、受取人は男性の両親になっていたという。どのような人間関係だったかは知らないが、両親は、妻と孫にその保険金を渡す気配はないという。

 これは、結婚した当時、あるいは適当な時期に受取人を妻にしておくべきだったのだが、意識的だったのでなかったのあれば、これは男性と妻の大失敗ということになる。払っているホケンの内容をよく調べていなかった。そこが悔やまれる。

 もっとも、残された家族にとって1000万では不足する可能性がある。妻が年金年齢になるまでの30年間、子供が成人する16年間の、生活費や学費を考えると、200*30+100*16という計算結果、数千万円が大きく不足するだろう。これはもうあとのまつりである。手持ちの財産を処分するか、公的支援をフル活用するしかない。

 こんな当たり前のことも、販売員や代理店が小まめにチェックしてあげていれば、決して起きない問題であったが、一般の顧客は、ほとんど気がつくことなく何年も何十年も過ごしてしまうことになる。信頼すべきコンサルタントやFPがもっと活躍すべきなのだ。

 ネット完結型のホケンが保険料のダウンを成功できたとして、きちんとしたコンサルができているのだろうか。一般のユーザーが理解できるほどに、キチンとした商品になっているだろうか。そもそも、経費を削減すれば50%に削減できるという保険料は、もともとそんなにいい加減なほど高額なものを取っているのだろうか。

 スマートフォンやiPadからホケンの契約をしたからと言って、ホケンが素晴らしい商品になっているとは限らない。それはたんに販売の店先が変わっただけであり、商品そのものはまた別な空間で作られている。しかし、本や食品や衣料にしても、販売方法が違っただけで、商品そのものにも変化が及んでいる。ネット販売になっただけで、ホケンは本当に中味を大きく変えるのか。

 単なる一生活人の読書ブログである当ブログにしてみれば、商品やマーケットについて深く言及する力などない。敢えて、本のレベルで、人々はホケンというキーワードで、どんな世界をめぐっているのかの、大雑把なアウトラインをなぞることができれば、まずは当ブログにおいては、まずまずは成果があったということになるだろう。 

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2010/10/04

iPhoneとiPadが、ちゃんと使えるようになる本

特選街 2010年 11月号 [雑誌]
「iPhoneとiPadが、ちゃんと使えるようになる本」 使っている人も欲しい人も必見!
特選街 2010年 11月号 マキノ出版 2010/10 B5 雑誌
Vol.3 No.0163 ☆☆☆☆★

 「特選街」9月号の「スマートフォン 比較テスト」は多いに役立った。ちょうどケータイの代替えの時期だったのだが、結局、最後の選択肢はスマフォ風ガラケーに落ち着いた。だが、それでおしまい、ということではなくて、ガラケー→フルブラウザ、か、ガラケー+iPhone、か、という新たなる選択肢を残してしまったことになる。

 そして、新しいガラケーもまだ説明書を見ないまま直感でどこまで使えるかをテスト中だ。結局、ネット接続への誘惑を常に直前で立ち切りながらのテストを続行している、ということになる。現在のネックは、接続料だ。かけホーダイダブルとかの基本料は払っているが、フルブラウザをちょっと使えば、すぐに+6000円が来そうで、なんだか納得がいかない。

 どうせ6000円プラスなら、iPhoneと二台持ち・・・なのかな、と漠然と思っていたが、いやいや、通話を期待しないなら、iPadのほうがいいだろう、という欲望が頭をもたげてくる。いまはスマフォ問題ではなく、iPhone vs iPad問題が急浮上している。むしろ、スマートpcやkindleとの比較を考えてみた場合、iPadのほうがより魅力的に見えてくる。

 さて、そうなってみると、今度は、かなり辛口の批評が必要になる。いざiPadを鵜の目鷹の目でみると、決して死角なしとはしない。「iPadのメリットとデメリット」p15あたりの記事が気になりだす。メリットについては、あちこちの提灯記事で十分納得している。実は関心あるのはデメリットのほうだ。

1)Flashに対応していない

2)重い

3)マルチタスクではないこと

4)USBポートがない

5)SDカードなどがない

6)パソコンでは簡単なことがiPadでは面倒

7)本体価格が高い

8)大きい、厚い

9)手で運びにくい

10)カメラを内蔵していない

 なるほど、いろいろあるじゃないか。2)、6)、8)、9)あたりはしょうがない、と思う。最初からそれは分かっているわけだし、iPhoneより大きいものを求めているわけだから、大きくて重くて厚いのはしかたない。7)は、何と比較するかが問題だが、ガラケーでフルブラウザを使うのと、実質的に同じ様な料金になるなら、必ずしも高価とは言えない。しかし、やっぱり料金体系は業界全体が高すぎることはまちがいない。

 さて、気になる機能だが、ちかぢかあると言われる11月のバージョンアップで、3)マルチタスクは問題解決しそうだ。残るは1)、4)、5)、10)ということになる。この辺はかなり微妙だぞ。あると思っていたものがなかったりすると、がっかりする。

 ただ、これらが満遍なくついているものがほしいなら、最初からiPadを選ばなければいいのだし、新しいパソコンを欲しいなら、ちゃんとしたパソコンを買えばいいのだ。ここは本当にiPadが欲しいのか、どうか、だろう。ここまでくると、やっぱり、メリットのほうもおさらいしておかなくてはならない。

1)ディスプレイが見やすい、美しい、大きい

2)画面のデザインやユーザーインターフェイスが美しい

3)筐体のデザインが美しい

4)バッテリーの持ち時間が長い

5)製品の設計思想が良い

6)さまざまなアプリを活用できる

7)ページをめくる際などの画面効果が美しい

8)マルチタッチが使いやすい、美しい

9)操作性が優れていて、誰でも使える

10)カバンに入れて持ち運びやすい

 となる。はて、それではiPadでなくてはならない理由とはなにか。1)、2)、3)、4)、5)、7)、8)、9)、10)、よくよく考えてみれば、極めて趣味性の高い部分だけがピックアップされている。あえていうなら、残るのは6)アプリの問題だけだ。4)のバッテリー問題も重要ではあるが、他の機種もわりと改善されているし、対応方法がある。

 つまり、iPadは、Flash、USB、SD、カメラなどの不足を、その数多いアプリ群でカバーできるか、ということになる。これは微妙な判定となる。そもそも、人は、そして私はiPadになにを期待するのか。

 私はマック派ではないが、一時マックを所有したことがある。1998年にiMacが登場した時、中学生の子供に買い与えたことがある。その筐体の美しさ、宣伝される量。話題性では、子供たちに大受けした。エントリー機種としては抜群だったと思う。

 ただ、フロッピーも外付けだったし、マウスもまん丸いデザイン性の高いものだった。この機種でマックは息を吹き返したのだし、その後の商品の展開をみると、iMacは優れた商品ではあったと思う。しかしながら、ほんとに機能性に富んだマシンとしてのパソコンと見た場合、決してほめられた面ばかりではなかった。

 結局、商品生命は短かったし、最初にマックを与えたものの、それ以降、わが家の子供達はマックを使わなくなった。高価であったり、選択肢がすくなかったり、友人たちとのネットワークで互換性が低かったせいもあろう。結局は、あの緑のiMacは私のものとなってしまった。

 その後、OSをバージョンアップしたり、リナックスを入れたりと、いろいろ遊んではみたが、結局、私もマック派に転向することはなかった。そう、あの時のことをを思い出す。Macはたしかに「製品の設計思想」に意欲的なものを感じはするが、そこに私のライフスタイルがマッチしているとは、必ずしも言い難い。

 iPad。なかなか魅力的な製品ではあるが、今は「特選街」でも眺めて思案中、としておこう。そう言えば、先日、訪問した団塊世代の不動産屋社長のデスクにカバーのついたiPadが転がっていた。早い物好きの社長ではあるが、結局は、社員やお客に向けてのおべんちゃらではないだろうか。身の回りのアクセサリーの一つとして置いているように感じた。そもそもパソコンも事務員に任せきりの彼のこと、電卓もケータイも最新だが、使っているのは、ほんの基本性能だけだ。

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2010/10/03

私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか 地下鉄サリン事件から15年目の告白

私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか
「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか」 地下鉄サリン事件から15年目の告白
松本聡香 2010/04 徳間書店 単行本 241p
Vol.3 No.0162 ☆☆★★★

 数か月前にタイトルだけ見てブッキングしておいたものだが、40人ほどの順番待ちがめぐって、私の番になったらしい。このタイミングでこの本を読むのもどうかと思うが、私の後ろで待っている人々を考えると、さっさと目を通して次の人に渡すべきだろう。

 著者は、松本智津夫の4女2男のうちの4女。1988年生れ、1995年の段階では6歳だった。事件については中学生になってからくわしく知るようになったという。現在21歳。家出をしたり、リストカットやネットカフェ暮らしのあとに、この本を書いたとは言え、あまりに早い段階における「自伝」と言える。

 当然、興味深々で彼女の「告白」を聞く人もいるだろう。なにかのデータとして突き合わせるために、貴重な資料と成り得るかも知れない。しかし、問われているもの、問われるべきものと、問われなくてもよいもの、問われてはならないもの、はもっと峻別されていいだろう。

 例えば、彼女たちには異母姉弟たち15人が存在するという。犯罪の当事者たちはひとつひとつ問われなくてはならないだろうが、その周辺にいた「問われざるべき」人々も多くいる。問われるべきでもなく、語られるべきでないもの、が多くある。

 当ブログにおいては、かの事件について要所要所を当時以降の書籍を追っかけるかたちでメモしてきた。今後も、気づいた段階で、すこしづつそれを繰り返していくことになろう。しかし、この作業を開始したのは、事件後10年を経過してからだった。そうそう簡単に終結するような案件でもない。そしてまた、自分の立場からはあまりに無関係なものにはタッチすまいと思っている。あるいは、容易にはタッチできない。

 しかるに、自分としては無視できない、直視すべきである、と思えた部分については、もうすこし執着力をもって追いかけていくしかないだろうと思う。例えば「なぜ生まれたのか」などという質問は、どの立場、どの環境に生まれたとしても、人間誰もが一様にもつ人生最大の謎なので、ある人物のその立ち場に生まれたからと言って、必ずしもその人物が、なにか特別であるわけではない。あるいは誰もが特別なのであり、誰もが公平に普通なのである。

 著者は一時、江川詔子氏を頼り、後見人になってもらい、生活を依存した時期があったようだ。必ずしも長期には至らなかったが、それらにまつわる「プライベート」な話を一方的に公表するのは、あまり品のいい話ではないと思う。

 巻末には、事件に関わった何人かの写真入りで、その人物たちに対する彼女の感想が述べられているが、なにかの資料づくりをするような人とか、人間の心理について、小説でも書いてやろう、とでもする人以外にとっては、こちらもあまりほめられた作業ではないと思う。

 一体において、事件当時6歳、現在でも21歳の一女性に、事件の意味や、全体で何が起こったのかを知るように期待するほうが無理であろう。彼女の人生はこれからだ。まだまだ、彼女だけしか体験できない苦悶の日々もあるであろうし、彼女ゆえに開かれる道もあることだろう。その長い人生の中で、その体験が、彼女の内で、今後どのように変化していくのかは、彼女自身が体験し続ければいいことなのだと、私は思う。

 2010年3月20日。巻末の「おわりに」はこの日に書かれている。あれから、15年が経過したのか。実は、事件は、彼女が生れる前から始まっていた。そして、他の多くの人のなかでも、まだまだ終わっていないドラマが続いている。

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デフレの正体 経済は「人口の波」で動く

【入荷予約】 デフレの正体
「 デフレの正体」 経済は「人口の波」で動く
藻谷浩介 2010/06 角川書店 新書 270p
Vol.3 No.0161 ☆☆☆☆★

 オーソドックスな直球を投げる正統派投手のようでもあり、ミラクルな変化球を連騰する個性派投手であるようでもある。どちらなのだろう。手法は、政府発表などの公的統計、とくに誰でもネットでダウンロードできる数字だけを重視する。テーマは日本経済のデフレ。銀行筋の仕事を担当するMBA資格者の言うことなら、とりあえず話は聞いてみようということで、過去3000回の講演をこなしたという。

 なんだか面倒くさそうなので、巻末を見ると、「おわりに---多様な個性のコンパクトシティたちと美しい田園が織りなす日本へ」という結論になっている。これは、基本的に賛成。あまりにモンスター化して巨大都市中心となった日本のありかたには賛成できない。せめて、20万人が棲む程度のコンパクトシティが連なる日本列島のほうが素晴らしいと思う。

 そう思ったのだが、著者は結論だけでなく、途中経過もキチンと読んでほしいという。結局、著者の言いたいのは、高齢化(化じゃなくて高齢)社会と、出生率の低下による若年層の現象、つまり15~64歳の現役世代の現象が、デフレの原因であるという。ましてや、そのデフレと景気の関係は、世間で言われているようなものではない、と主張する。

 巨大統計を使ったマクロ経済では納得できないものがある。個人的なライフスタイルを考えれば、我が家の出生率はとりあえず全国平均を上回っており、男性も女性も平等に補給したことになる。現状維持しただけで「増加」させることはできなかったが、まぁ、個人的には納得。ただ、周囲を見ると、親戚や友人たちの中には、やはり人口「減少」を追認している家庭がかなりある。

 高齢社会については、これは仕方ないことだが、できれば、生涯現役で、65歳以降も働くつもりだ。もともと健康であれば、昔も今も、生涯現役であることが理想であると思う。そして、実際はどうなるか分からないが、私たち夫婦は、自分達が万が一、植物化した場合、いたずらな延命には妥協的ではない、という結論に達している。つまり、「死」についての、前向きな人生観を持つべきだと考えている。

 住んでいる地域も巨大都市には住んではいない。業種的にも、多分、2万人都市でも棲息できるであろう。もっともそれはスタンドアローンで成り立つ仕事ではないし、いずれはマクロ経済に依拠しなければならないので、あまり大きなことは言えない。現在、海外移住は無理だが、もし仕事がネット完結型になるなら、将来的には世界中、居住の可能性は限りなく広がる。

 統計の読み方も、単なる前年比だけで読むべきではなく、もっと長期スパンで読むべきだ、というあたりは、当たり前のようでもあり、なぜ当たり前のことが出来ていないのか、と不思議に思ったりもする。世界的には人口は暴発中なのであり、地球環境問題の大きな要因でもある。むしろ、日本は、世界に向けて人口減少を提言すべきではないのか。

 それにしても思うこと。お釈迦さまは人口増加には殆ど協力的ではなかった。弟子筋も、生涯独身を通した人々が世紀を越えて多かっただろう。Oshoも結婚ばかりでなく、子育てにもあまり積極的な方向性は示さなかった。そもそも、家庭生活は、煩悩のかたまりなのか・・・?

 だいぶ前だがGDPを簡単に上げる方法があるという話を聞いた。自分のところの奥さん(自分自身でもいいのだが)が隣の家の炊事洗濯をして5万円をもらってくる。そして、隣の家の奥さんが(ご主人でもいいのだが)我が家にやってきて炊事洗濯をする。そして5万円を払う。これだと、お互いに財布の中身は同じである。そして、日本のGDPは10万円あがることになる、というのである。

 もっとも、これが日常化していて、隣の奥さんがスーパーでお惣菜を作っていて、その隣の奥さんが掃除会社で掃除をしている。自分のところの奥さんが介護サービスの仕事をしていたり、洗濯の仕事をしていたりしていたら、結局は、もともと通常の家庭で行われていることを、数量的に経済指標に移し替えているだけなのではないだろうか。いわゆる景気やGDPなどは、どっか数字マジック、ゲーム感覚の錯角の中で行われていることではないのか、という疑問は限りなく湧いてくる。

 デフレでもインフレでも、表現はどちらでもいいが、何でも値上げでギュウギュウいじめられた時代もあったが、その頃は給料も上がり続けた。貯蓄も増えたが、自分の欲しいものがどんどん値上がりしていくのは困ったものだった。

 デフレ時代においては、欲しかったものが、あ、こんな値段になっていると、ビックリすることの連続ということになったが、財布の中に金がない。いや、なくもないのだが、どんどんへそくりが減っていると、安い物さえ手がでなくなる。必要なものしか買わない。いや、その「必要」という意味さえ変化してきた。

 立って半畳、寝て一畳、人間生きていくのに、本当に必要なものなんて、実は限られているのだ。なければないで、なんとかなる。自分はビンボーだなぁ、と思いたくないけれど、質素でシンプルライフを実行しているのだ、と思うことができるなら、健康な基本的生活を実現することはそれほど難しいことではない。ましてや存続可能な地球環境のことを考えれば、地球人の基本的なライフスタイルはもっと変わってもいい。

 この本、なかなか示唆に富んだ面白い提言がいくつも含まれている。しかし、一番学ぶべきは、公的な資料をもっと活用しようということだ。そして、それは一長一短に身につくものではない。マクロ的な視点は必ずしも、一生活人としては必要ないことが多いが、ネットなどで限りなく資料が提示されているのであれば、マスメディアの情報などばかりをあてにするのではなく、自分で積極的にデータを取りにいく必要性があることを強く感じさせる。

 もっとも、いかようなデータであっても、鵜呑みにすることはできないし、データそのものが改竄されていたり、意図的に出されたり隠されたりしている可能性もあるので、長期的なスパンで使っていく必要がある。そしてまた、いかにデータに裏付けされていたとしても、一生活人としての直感や生の感覚は、大事に残しておくべきだということだ。

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2010/10/02

ルポ現代のスピリチュアリズム<2>

<1>よりつづく

ルポ現代のスピリチュアリズム
「ルポ現代のスピリチュアリズム」 <2>
織田淳太郎 2010/03 宝島社 新書 239p
☆☆☆☆★

 先週ちらっと立ち読みしただけだったので、今日は図書館から借り出して、ざっと目を通した。この本に対する私の気持ちは複雑だ。一様ではない。最初は、久しぶりに書店にならんだ本にOshoの名前が散見されたので、その部分だけでも抜き書きして、何回かに渡って、私論をつけてみようかな、と思ったりもした。

 だけど、通読してみて、この場面でこのようなリンクでOshoを登場させていいのかな、と感じてみたり、最初の掴みから、最後の締めに至るまで、Oshoに重きを置いているところなど、著者独特のニュアンスがあるのであった。これは、何かに対しての意見の交換、というよりも、これはこのまま、受け取るしかないのだ、と考えが変わった。

 そもそも、店頭にならぶ新刊本なのだから、著者の意図があり、編集者や出版社の経営判断があり、読者も読者として、外在物としての本を受け取る。そのような作業でありながら、実は、この本は、著者の、著者による、著者のため、の本なのではないか。

 この本に触れられている内容について、その認識の仕方が、読者としての私と違うのは当然のことであり、むしろ似ている部分があったりすれば、それはむしろ愉快、というものであるが、違ったり、似通っていたりしても、結局は、それは何の意味もないのではないか。

 少なくとも、著者は、それら一連のものごとについて、著者の立場で、著者の人生の中で感じたものであり、それを客観的に証明したり主張したりする必要もないことなのである。読者としての私は、この本を書いた人は、そう見たのだし、そう感じたのだ、ということを尊重し、見守る、という姿勢にとどまるべきではないのか。

 そもそも、この本に書かれていることは、言葉として、本として、なにか外向けに表現されなくてはならないものとは限らない世界のことなのである。だから、そもそも本として存在していることに無理がある。何かが失われており、何かが余計に付随している。そもそも、表現されなかったこのような本が、他にも無数にあるのだ。

 むしろ、それが不完全であったり、過剰であり、偏向していたりしたとしても、それは著者やその対象となった世界にその非を求めるべきではない。むしろ問われるべきは、そのような本を読むようになった、自分自身のことであり、私は誰か、という点に戻ってくる。そして、私についての事ならば、敢えて、それは表現されることを待っているわけでもなく、表現しないことに非はない。もちろん、不完全な形で表現されたとしても、非はない。

 もしOshoについて関心がある人がいれば、このような本があるよ、ということをここに一言メモしておくこともいいだろう。こんなルポルタージュ(自身の体験談に近いが)があるよ、ということはメモして置く価値はある。そして、もし、同じような形で、連鎖する自己ルポが表現されるなら、それもまた、私は目を通してみたいと思う。

 そういう意味では、当ブログも一つの自己ルポだ。この本に対する直接の書評や感想は、どんな風に書いたとしても的を得たものとはならないように感じる。巻末に掲げられている「参考文献」の30数冊のうち、Oshoの本は6冊(6タイトル)。ひとつの切り口から、自らの心境を開示してくれた、という意味で、著者には素直にありがとう、と言いたい。

<3>につづく

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新聞消滅大国アメリカ

新聞消滅大国アメリカ
「新聞消滅大国アメリカ」
鈴木伸元 2010/05 幻冬舎 新書 200p
Vol.3 No.0160 ☆☆☆☆★

 1996年に大学を卒業してNHKに就職した、まさにネット時代の頂点に立つ世代(多分30代中盤)のNHK職員が、アメリカに渡って取材し、当地の新聞状況を取材する。「ネット帝国主義と日本の敗北」やら「クラウド時代と〈クール革命〉」やらと、アメリカ文化に「やられて」しまった日本文化の零落を嘆く本が多い中、決して日本ばかりが「被害者」じゃないことを、思い出させる。

 日本では記者として入社し、名を成したものが昇進し、会社の経営を担うことになる。アメリカでは記者として仕事をしてきた人間が経営幹部になろうとすれば、名門のビジネススクールに通い、MBAを取得するなどしなければならない。p49「廃刊寸前サンフランシスコ・クロニクル」

 日本とアメリカのジャーナリズム、特に、もっとも歴史ある新聞発行の舞台裏は、かなり違ったものだ。広告収入に依存した体質、数多くの地方紙が存在するなど、アメリカの新聞を日本のそれと単純に比較することはできない。しかしながら、両国にとってインターネットの出現は大きな打撃であり、特にアメリカの地方紙を強打した。

 ル・モンドのような世界的な高級紙を擁するフランスでも、サルコジ大統領が新聞の救済に動き出すほど、新聞は衰退産業になっている。
 「18歳の若者に1年間、自ら選んだ新聞1紙を購読無料で配布する」
 2009年1月下旬。マスコミ関係者を前にサルコジは大胆な策を発表した。
p93「続々と消滅する新聞」

 かなり偏った政策に思えるが、日本だって「エコ減税」やら「高速無料化」など、自動車産業を救済するためのなりふりかわまわない政策が横行している。個人としてその恩恵を受けているのだし、それが自国ないしは世界の経済復興に益しているとするなら、敢えてその策に協力するしかない。自分がフランスの18歳なら、やっぱり喜んで新聞を読むだろうと思う。そして1年後にはやっぱり読まなくなるだろう。

 1968年の五月革命を機にジャン=ポール・サルトルが設立に動き、5年後に創刊した左翼の代表的新聞リベラシオンも、経営悪化に直面している。(略)
 資本主義へのアンチテーゼを掲げ創刊した新聞が、資本主義の権化とも言える金融一族ロスチャイルドに支援を仰ぐというのは、あまりに皮肉な結末である。
p95同上

 インターネットが登場したことによって、その時点ですでに近未来として予測されたことがたくさんあった。当然のことが起こりつつあるのだが、それが現実化していけば、ひとつひとつがあまりにも強烈な体験となる。

 グーグルは、一時、新聞社の買収に動くのではないか、と噂されたこともある。具体的な買収相手として、あのNYタイムズの名前があがったこともあった。(中略)
 グーグルが買収に踏み切らなかった理由は、検討は行ったが、どの新聞社も負債額が大きく、あまりにリスクが大きいということが一つ。だが、それ以上に大きな議論となったのは、「技術とコンテンツの垣根を越えてよいのか」という点だとフィナンシャル・タイムズは報じている。
p108「新聞に取って変わるメディアは何か」

 つまり、グーグルはコンテナ産業にとどまることを決意した、ということになるだろう。コンテナの在り方で、コンテンツ産業がめちゃくちゃに変化してしまった。グーグルが今後コンテンツ産業に変貌しないとは言えないが、とにかくコンテンツ産業が、今後の姿を、自らの網膜に結像できないでいるのは間違いない。

 これまではツイッターは無料のサービスしか提供していなかったが、これを機に企業の広告を手掛けるようになれば、新聞社の広告収入はさらに激減すると思われる。
 それと同時に、新聞社にとっては、ツイッターの普及に伴い、新聞が読まれる時間がさらに減るという危惧も大きいだろう。
p138同上

 そもそも、「真理」に到達する道として「ジャーナリズム」に対しては醒めた目でしか見ていないので、ジャーナリズムそのものがどんな形になってしまったとしても、個人的には残念だとも思わないし、やったー、とも思わない。それはそれまでのことなのだ。しかし、こと「真理」に至る道に到達する点において、ジャーナリズム自らが「目覚める」かどうかは、かなり関心を持って見続けたいとは思う。

 住民の意向を取り入れて活動してきたNPOが、指針とすべきコミュニティの空気を読みとれなくなっている。
 これまでアメリカでは地域ごとの地方紙が無数に存在し、コミュニティを支えてきた。
 新聞がなくなったことで、地方行政の権力を監視するという最大の機能が失われると同時に、アメリカ社会は、「コミュニティ崩壊」という聞きにもさらされている。
p149「新聞がなくなった街」

 アメリカと日本じゃ「街」のでき方が違うし、なんだかこの辺は浪花節的になっていて、情操に訴えかけられてしまうが、「コミュニティ崩壊」は、なにも新聞がなくなってしまうことだけに依存しているわけではあるまい。日本においてはすでに「無縁社会」が蔓延している。隣は何をする人ぞ。ごちゃごちゃ暮らしていても、すでに地域力は失われている。街でも、村でも。

 若い世代では、テレビも新聞も、パソコン(インターネット)や携帯電話には全く歯が立たないのだ。もちろん、パソコンや携帯電話は、単なる情報源となるだけではなく双方向のコミュニケーションのための手段でもあり、テレビや新聞とは単純に比較できない。それでもこの差は圧倒的だ。p187「日本の新聞はどうなるのか」

 事実は事実として受け入れていかなくてはならない。

 防水タイプの携帯電話がどうして続々と登場しているか知っているかと質問され、トイレに落としたりする人が多いから、と答えたら、一笑に付された。「いまの高校生は、お風呂の中でも携帯電話を手放さない」。
 10~20代にとって携帯電話は、24時間まさに四六時中、肌身離さず持っているものになっているのだ。
p187同上

 自分だって若い時、風呂に入りながら、新聞を読んだり読書したりした。防水ラジオや防水テレビだって、風呂場に持ち込んだ。残念ながら、今使っているガラケーは防水タイプではないので持ちこまないが、防水タイプだったら、たまには持ちこんで、のんびり風呂に浸かっていたい気分は分かる。

 ロシアが微増だが、それ以外の国については、大きく伸びていることがわかる。実は新聞が直面する激しい現実は、先進国に特有の問題なのだ。p196「あとがき」

 ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ。ここで取り上げられて比較されている国々のインターネット状況や、そこに至るプロセスを考えれば、この先進国特有の問題とは、当たり前の結果でもあるようだ。いずれ他の国もそうならざるを得ないだろう。

 新聞を取り巻く環境が厳しいというのはだいぶ前から言われている。この本はその状況を、とくにアメリカの新聞の状況を取材してまとめた一冊だ。ひとつひとつはセンセーショナルな切り口だが、総体的に見れば、それはそれで当然の歴史の帰結だ、と納得せざるを得ないことが多い。

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2010/10/01

クラウド時代と〈クール革命〉

クラウド時代と〈クール革命〉
「クラウド時代と〈クール革命〉」
角川歴彦/片方善治 2010/03 角川書店 新書 214p
Vol.3 No.0159 ☆☆★★★

 この人のお兄さんが華々しいニュースになったものだから、ついでにこの人も話題としていろいろ語られたが、さて、実態はどういうものかはよく分からない。いずれにせよ、日本におけるコンテンツ産業経営者一族の一角に、どっかりと存在観を示している人物であることは間違いないだろう。

 この本、日本や世界のIT進化の流れをこまかく俯瞰しているが、実は、それって本当?って思ってしまうところがいくつかある。例えばウィンドウズ95の発売を1996年にしたりしている。小さな違いだが、あの年の三大話として、阪神淡路大震災、麻原集団事件、そしてウィンドウズ95、として語られているわけだから、ここはしっかりと95年としなければならない。ましてや名前にさえ銘記されているわけだから。

 察するに、この人、KJ法かなにかを使って、ベタな情報を並べてパッチワークしたのではないだろうか。ひとつひとつはそれでいいのだが、そのつなぎ目が、時々おかしくなる。ましてや、その時代時代を、ひとりの同時代人として生きていたら、好き嫌いは必ずあるもので、すべてベタに横並びになどできるものではない。もしいたとしたら、そいつはほんとに起伏のないベタな奴、ということになる。

 片山善治・監修となっているが、この名前は、自分より年上の尊敬すべき人の名前を借りただけで、むしろ角川歴彦・監修が正しいのではないか。本自体は、彼の事務所のスタッフが、下ごしらえをして、多少のニュアンスを後から加えただけなのではないだろうか。だって、この本の8~90%は、誰が書いたって、こういう歴史になるじゃん、という、おざなりなもの。

 その勘繰りが図星なら、この本の読まれるべきは、最後の30ページほどの「提言」しかない。そして、そうなってしまうと、あとは岸博幸の「ネット帝国主義と日本の敗北 搾取されるカネと文化」と大差のない結論となってしまう。あえていうなら、こちらの本のほうが救いがあるとすれば<クール革命>を取り上げていることだろう。

 でも、そのクールの意味をアニメや日本的コンテンツに求めようとするあたり、本当は理解していないのではないか、という疑念が湧いてくる。いや、私とてよく分からないのだが、私は、このCoolのCを、ConsciousのCへと、強引に結び付けて考えてしまう。漫画やアニメやコミケの中にCoolnessを求めるなんて、実に限定的な矮小なものだ。それでは、最終的な人間理解を小さなものにしてしまう。

 この人も、もう一歩だ。いや、その一歩がかなり大きな隔たりを作っている。はっきり言えば分かっていない。あるいは、一読者としての私の希望を満たしてくれていない。分かっていないのか。あるいは、コンテンツ産業の一人のドンとして、限定的に表現することでしか、自分の出版社から本を出すことはできないのか。

 とにかく、この人は、兄貴ほどには「壊れて」いない。

 

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ネット帝国主義と日本の敗北 搾取されるカネと文化

ネット帝国主義と日本の敗北
「ネット帝国主義と日本の敗北」 搾取されるカネと文化
岸博幸 2010/01 幻冬舎 新書 211p
Vol.3 No.0158 ☆★★★★

 閉館間際に図書館に駆け込んで、背表紙をみただけで借りてきた何冊かの本の中の一冊。表紙を開けてみて、見返しにある著者紹介の写真を見て、ちょっとがっかり。ああ、この人の本なのか。

 この人の顔は、この数年、よくテレビで見るようになった。特徴的な風貌なので覚えやすいし、その口調も特徴的だ。すくなくとも、通産省の役人をやっていて、アメリカに5年間留学したことがあり、竹中平蔵の補佐官をやっていた、マックユーザー(p178)な彼の本は、最初の最初から、最後の最後まで「エクスキューズ」の連続だ。

 この人、それほど気にして見ていたことはないのだが、テレビに登場する度に、肩書がちがう。役人だったり、企業人だったり、知識人だったり、評論家だったりする。つまり、どんな立場でも、「なんでも」語ることができる「能力」があるということである。

 だから、今回、私はこんなことを語るけれど、こうこういう理由で、こう書いているけれど、そうそう、あなたがそういう疑問を持つのは当然のことで、それについて、私はこういう反論をすることができますよ、ということを延々とやる。つまり、面白くない。

 言葉の重み、ひとつひとつが軽いし、ウソ臭い。かつて、三船敏郎がテレビコマーシャルにでて、「男は黙ってサッポロビール」ってやったのを忘れたか。有言実行どころか、無言実行が日本男子の心意気なのだ(てか)。それなのに、この男、有言不実行。重ねる言葉がいちいち軽い。

 役人であってみれば、その時にやればよかったじゃないか。アメリカに行ったのなら、そのときに、自爆テロでもやればよかったのではないか。企業人になったのなら、その時に、莫大な利益でも挙げて、NPOにでも寄付すればよかったじゃないか。

 この本のでた2010年1月における彼の肩書はKO大学院教授+その他。もうなんでもいいよ。「ビジネス書『もどき』に拉致されないための『7つの習慣』」(「ビジネス書 大バカ事典」より)の教訓を忘れたか。

1)タイトルに騙されない

2)能書きに騙されない

3)著者の経歴に騙されない

 まさにこのジャンルにさえハマってしまうような人物ではないだろうか。いろいろ部分的には引用しないでもないが、所詮、それは彼にとっては三百代言の材料にすぎないので、出典としては、もっと堅実な人物の表現物を使ったほうがましだ。

 この本を読んで思ったこと、いくつかをメモ。

1)コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、において、一番、ビジネスと親和性のあるのはコンテナ産業だ。

2)コンテンツ産業は、文化やジャーナリズムも含まれているが、そもそもビジネスで割り切るには難しい分野が残る。

3)コンテンツをビジネス化するには、コンテナ化のほうに、下方に引っ張るしかない。

4)コンテンツはそもそも、ビジネスにならないことが多く、それをビジネスや職業とすること自体、どこか無理があるのだ。職業的芸術家、職業的ジャーナリスト、と言えば聞こえがいいが、ビジネス芸術家、ビジネスジャーナリストなど、どこか、最初からいかがわしい。

5)コンシャスネスは、ビジネスから最も遠い位置にある。そもそも、それを乗り越えているからこそコンシャスネスと言われるわけで、そこはさらにメタコンシャスへと自己昇華を果たすべく精進すべきなのだ。

6)コンテンツは下方に向かうこともできるが、コンシャスネスに向けて上昇することもできる。あるいは、コンシャスネスを失ったコンテンツなんて、屑だ。そんなもの、滅亡してしまえ。

7)コンシャスネスは、下方に向けて光り輝くことができる。コンテンツやコンテナは、コンシャスネスの光を追うべきだ。

 この本に私が張り付けた付箋は約80枚ほど。まったく意味のない本とは思わない。しかし、幻燈舎の本というコンテナ性、竹中平蔵子分の屁理屈というコンテンツ性から、さらなるコンシャスネスへと駆け上がる光が、この本にはない。批判や批評をすれば、さらなる形で、ヘラヘラと反論する著者のアホ面が連想されて、なんだか空しい。

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アップル、グーグル、マイクロソフト クラウド、携帯端末戦争のゆくえ

アップル、グーグル、マイクロソフト
「アップル、グーグル、マイクロソフト」 クラウド、携帯端末戦争のゆくえ
岡嶋裕史 2010/03 光文社 新書 181p
Vol.3 No.0157 ☆☆☆☆☆

 この人の本は「郵便と糸電話でわかるインターネットのしくみ」(2006/03)、「数式を使わないデータマイニング入門」(2006/05)、「構造化するウェブ」(2007/11)、「迷惑メールは誰が出す?」(2008/10)、なんて本を読んできた。真面目なお人柄は分かるのだが、正直言って、この方の本は、ドシロートの私にはいまいち面白くない。最新刊は「ポスト・モバイル」(未読)である。この人の名前だけでは、手にとって読もうという気にはなかなかなれない。

 こちらの本も図書館に入っていることは分かっていたが、いまいち手が伸びないでいた。図書館までウォーキングして、帰り道に大型書店に入って、ようやくパラパラと立ち読みした。それではあまりにも失礼なので、キチンと図書館から借りだして読んでみることにしたら、なんと、これがなかなかおもしろかった。

 この面白さは、IT業界、栄枯盛衰の虚実が入り混じっていて、本質的に基礎的な部分においては百年一日のごとくのホケン業界などとは、まるて違っていることによるだろう。そしてまた、著者の、視点、とくに冷静に客観的に、中立的に見ようとする視点と、やはりあくまでも日本人としての、ちょっと大人っぽい視点がなかなか好印象を持たせるところによるだろう。

 最初はそれが、デスクトップ・パソコンだと思われていました。それがいつしか本命はノート・パソコンだと囁かれるようになり、そして、私たちの生活がコンピュータを使ったサービスに依存する割合が大幅に高まり、いつでもそれを使いたいとなると、携行性にすぐれた携帯電話がその地位にふさわしいと脚光を浴びました。p8「まえがき」

 そして、それもスマートフォンやiPhone、ストレートPCへと雪崩を打つように流れている。筺体ばかりではなく、そのOSもアンドロイドやウインドウモバイル、kindle、などなどの新興勢力が跋扈し始めている。

 NTTドコモの副社長が、「ブラックベリーがあれば、パソコンは必要ない」と発言する時代である。ブラックベリーとは、欧米における代表的なスマートフォンで米国のオバマ大統領も愛用していると伝えられている。p86

 ブラックベリーとまではいかないまでも、最近、代替えしたスマフォ風ガラケーには、小さいフルキーボードがついている。私はこれが大のお気に入り。いままでケータイのテンキーで打っていたメールは時間がかかりすぎた。フルキーボードなら、タッチタイピングができないまでも、操作時間が圧倒的に短縮された。かなり慣れてきた。

 アンドロイド端末の売れ行きは、少なくとも日本市場では現在のところ期待された水準を下回っている。パソコンとは異なる利用者像を持つ携帯電話に合致しOSにどう仕上げていくのか、いかに魅力的なクラウドサービスを提供できるかが、今後のグーグルの課題だろう。p121

 たしかにアンドロイドも今回の選択肢のひとつではあったが、私のケータイとしては、今回は見送ることにした。掛け声ばかりで、実質的なサービスはまだフィットしたものになっていない。選択肢も少ない。ただ、今後はだんだん目移りするような機種がどんどんでてきそうな気配がある。

 後方集団に沈んだ企業が嵌る「クラウドかどうでないか」という議論など、彼らにとっては製品の価値に何ら寄与しない神学論争のようなものだろう。利用者は、目の届かない世界の裏側がどのように構成されているかを気にして、製品を購入するわけではない。p163

 この辺は、あまりに巨大な視点を持つことが当ブログの目的でもないが、あまりに歪化された小さなユーザー像に押し込められるのも窮屈である。原寸大の一人の地球人としての視点は大事だ。200人程度の直接的な人間関係を持つ、年収3~500万程度の地球人が、もし情報端末として選ぶとするなら、何を選ぶのか、その辺の基準を保っていく必要がある。

 日本の携帯電話市場はガラパゴスと呼ばれる。閉鎖的な環境の中で、奇形的進化を遂げ、世界とあまりにも違うと批判されてきた。しかし、旧ルールがそうであるならば、自らの手でルールを変えてしまえばいい。p178

 かなり無茶なことを言っているが、たしかに現在の日本の産業界には、このような元気な声が必要であることは間違いない。

 日本の携帯電話は、製品最終処理にこだわり、過剰品質で、一生かけても使いきれないほどの機能を持ち、結果的に高コストだと言われ続けてきた。だが、世界は今、携帯機器をクラウドの受け手にしようと躍起になって高機能化している。
 そうであれば、国内携帯は過剰品質でなく適性品質である。すでに日本は世界が求める水準にいるのだ。
p178

 たしかにスマフォにできなくてガラケーにできることはたくさんある。ワンセグやimodoなど、あるいは最近私が重宝しているのが、デフォルトでインストールされていた英和、和英、国語辞典である。30年前にインドを旅した時に使った小さな辞書をいまでもポケットに入れて使っていたのだが、最近は、ケータイで辞書を引くようになった。とくに英語のスペルの訂正には持ってこいである。

 う~ん、やっぱりこの分野、なかなか目が離せない。 

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