情報人類学の射程 フィールドから情報社会を読み解く
「情報人類学の射程」フィールドから情報社会を読み解く
奥野卓司 2009/08 岩波書店 単行本 303p
Vol.3 No.0169 ☆☆☆☆☆
奥野卓司関連一覧
「現代世相探検学」高田公理/他 1987/03 朝日新聞社
「パソコン少年のコスモロジー」 1990/06 筑摩書房
「世相観察・女と男の最前線」 梅棹忠夫「対談集」 梅棹忠夫 1991/09 講談社
「ポスト・コンピュータの世界」 21世紀のパソコンはどうなる? アサヒパソコン・ブックス 奥野卓司・他 1995/11 朝日新聞社
「ITSとは何か」 森地茂 /川嶋弘尚 / 奥野卓司 2000/10 岩波書店
「人間・動物・機械」 2002/01 角川書店
「大人にならずに成熟する法」 サントリー不易流行研究所 /白幡洋三郎 2003/04 中央公論新社
「市民のための『遺伝子問題』入門」奥野卓司 /ヒューマンルネッサンス研究所 2004/03 岩波書店
「日本発イット革命」アジアに広がるジャパン・クール 奥野卓司 2004/12 岩波書店
「文字化けした歴史を読み解く」 三宅善信 2006/01 文園社
「ジャパンクールと江戸文化」 2007/06 岩波書店
「情報人類学の射程」 フィールドから情報社会を読み解く 2009/08 岩波書店
著者の文章には最初40年前に触れている。だから、なんとなくお気に入りで、他人のような感じがしない。著書もひととおり目を通しているが、それなりに時代が反映していて、よくもまぁ、40年間書き続けてきたな、とも思う。
しかしまた、彼が学者の道を選んだのであれば、それは当然の仕事なのだから、当たり前と言えば当たり前なのかも。情報人類学。なるほど、言い得て妙だ。どのような学問なのか詳しくは知らないが、なんとなくイメージができる。情報--人類--学。情報というキーワードは20世紀の後半から21世紀への向けての最重要なものである。
「情報(産業)社会」を最初に提示した文化人類学者の梅棹忠夫も、後に「情報」の最初の定義を自ら否定して、「情報はエーテルのように、私たちの周りをあまねく取り巻いているもの」と言い換えているし、人類学者のグレゴリー・ベイトソンも「情報は量的概念ではないので、時間と空間でできる座標上に位置づけられない差異」としている。そしてボードリヤールも「情報は社会をベールのように包んでいる」としていて、今日の研究者の多くは、コミュニケーションをAからBへ情報が移動していくパイプのようには考えていない。p130「情報社会論の系譜」
著者の本にはアルビン・トフラーの「第三の波」がちょくちょく登場するところも、私がお気に入りとする理由の一つである。マクルーハンの「メディアはマッサージである」の名言もちょくちょく登場するところも好ましい。ただ、当ブログではマクルーハンは未登場である。そのうちまとめて読みたい。
マクルーハンはそれよりも強調したかったことは、「地球村の出現」が、国際政治のイデオロギーによる議論や、第三世界の人々による世界革命によってではなく、テレビという新しいメディアの力によって実現するということだった。p120同上
そう言えば、先日読んだ本に「Twitterville」という本があった。日本語タイトルは「ビジネス・ツイッター」になってしまったが、つまりツイッターがつなぐ人間関係をひとつの村に例えているわけである。マクルーハンの時代は「テレビ」であっただろうが、インターネットという単語を通り越して、いまや「ツイッター村」が出現している、ということになる(のだろうか)。
「第三の社会」における人間関係は、すでに述べたように、かつての血縁、地縁のような強い絆帯で結ばれた関係ではなく、お互いの関心や共通の趣味や情報で結ばれた「情縁」的な関係だった。そして、これが血縁を中心とした「家庭」の人間関係にも反映される。つまり、血縁も「情縁」化していくわけである。p186「情報化による人間関係・家庭・社会の変容」
今日こんなことがあった。突然知らない若い人から電話があった、今から行っていいかという近くにいるから30分もかからないという。どうぞ、と言って、やがてやってきた青年の手にはAUのケータイが握られていた。
ケータイのインターネット検索機能とGPS機能を使い、近くの業種のリストをアップして、そのうちの一番上に弊社がリストアップされたらしい。もちろんお互い初顔合わせだが、実際には、彼の職場は近くにあり、ちょっと離れた郊外の彼の住所の近所には私の顧客が何件かある。いままでも知らないほどの距離ではなかったが、このままだったら、きっと摺れ違いの一生だっただろう。
地縁はあったのだが、繋がらなかった。「情縁」があったればこそ、今回繋がった。しかし、いつまでも固定的な関係ではあるまい。将来的には、また流動的になる関係だ。流動的ではあるが、今回こうして繋がったことのほうを強く認識しておくべきだろう。ことほど左様に、家庭環境、職場環境を通り越して、情報環境が作り出す「第三の社会」に私たちはすでに生きているのである。
この他、この本においてはアーミッシュの人々のことやジャパンクールなど、様々な局面が語られているが、よくよく考えてみれば、上記に列挙した著者の表現物のまとめ、という位置づけの本であった。パソコン少年のコスモロジーから、江戸時代のコンテンツビジネス・モデルまで、器用によくまとめあげたな、というイメージだ。
最後に残るイメージとして、彼は情報--人類--学、で良かったのだろうか、という思いが残る。「情報」はわかる、「人類」もわかる。だが、最後の「学」、これはこれでよかったのだろうか。彼は、「学問」の人だったのだろうか。あるいは、この人にひそかに寄せた期待というものは、もうちょっと違ったように思う。
体系的な「学」ではなくて、もうすこし外れたアートやコンシャスな方向に、彼の人生をまとめあげていくことも可能ではなかっただろうか。
そこでもう一つの宗教的要素として、道教の影響を考えなければならない。道教は儒教と異なり、現実主義的で自己肯定的な宗教である。台湾と韓国を比べてみた場合、台湾のほうがより道教的であると言える。というより、韓国の文化にはほとんど道教的要素がみられない。むしろ儒教のタテマエが道教のホンネをおしつぶしていると言っていい。
一方中国は、韓国よりはもちろん台湾よりも道教的であるが、道教の、たとえ神にそむくことをしても、それで得られた利益を神にお供えしてわびれば善行になるという自己肯定的、現実的な方向が行き過ぎて極度な利己主義に走ってしまう傾向がある。
これによって、産業は急激に活性化するが、それは一時的なもので、最終的には組織的な成果にはなりえず、マニアックス文化の建設的は芸術性、純粋性をそうしてしまい自滅する危険性は高い。したがって極度に道教的な台湾は、おもしろいことに、楽しいことを積極的に拡大していくというコンテンツ産業浮上の推進役を担う可能性は多いにある。p280「情報コンテンツの時代」
器用な彼はどこまでも器用にものごとをまとめあげる。そういう才能があるのだろう。しかし、本当は、私はもっと不器用な彼をみたい。彼個人の中の、本音と建前を右往左往する姿が見え隠れしているように思える。もし、彼の本音をズバリ、と出してしまえば、それは多分「学」には収まらないであろう。今後の著者の活動に期待したい。
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