神秘家の道<11>
<10>よりつづく
「神秘家の道」 <11> 珠玉の質疑応答録
OSHO/スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p
もし先にマインドのより高いレベル---超意識、集合超意識、宇宙超意識---に達していれば、人は大変な光を持つことになる。光そのものになる。そうなれば人は、無意識、集合無意識、宇宙無意識の外下界へ降りて行く事ができる。しかもどこに行こうと、闇は消える。人は七段階の全範囲---光に満ちた連続体になる。これが、私が言う光明を得るということだ。p58 Osho「未知なるものに魅せられて」
いちど、とにかく通読してみようと思うのだが、すぐにどこかで引っかかってしまう。
意識は、まったく別な方法で発見されねばならない。知性とは思考だ。ところが意識は、無思考の状態で---思考の片鱗すらも妨害になるような、完全な沈黙の中で発見されるものだ。
そうした沈黙の中で、人は自分自身の存在を発見する。
それは大空のように広大だ。
それを知ることは、本当に価値ある何かを知るということだ。それを知らなければ、あらゆる知識はガラクタにすぎない。それは役に立ち、便利な知識ではあるかもしれないが、自分の存在を変容させることにはならない。充足、満足、光明をもたらすことはできない。あなたを、「自分は家に辿り着いた」と言える地点まで、連れて行ってはくれない。Osho p30「思考は常に破壊的だ」
ひっかかる、というよりは溜め息をついて、しばし本を閉じる、という状態だ。
意識があり、アガータが、無意識、集合無意識、宇宙無意識に連なる象徴としてあるのなら、「彼」は、超意識、集合超意識、宇宙超意識への掛け橋となろう。アガータをいくらこづき回しても、超意識へのステップにはならない。そこにとどまるだけだ。もし、アガータに光を当てようとするなら、「彼」のほうに、超意識のほうに、エネルギーを向けるべきだ。そこには方法論として瞑想がある。
そもそも「彼」という場合、なぜに「カッコ」つきであるのだろうか。それは、本来語りえないものへのネーミングであり、そもそも名付けられるべきでもないものであるのだ。だからこそ「彼」と表現される。敢えていうなら、アーガタに対応する形でのタターガタ、であっていいのだろうが、それでは、なにも言ったことにはならない。
かつて、アガータとタターガタの関連について、某SNSにおいて指摘されたことがあった。すでに4年前のことだが、あの時は、まだその繋がりを漠としたものとしてとらえていた。もちろん今でもそうなのだが、たとえば夢枕獏の作品のように、それは当然のごとく、一本の道として表現してしまうことは、とりあえず可能ではあると思う。
脳が問題ではない。脳とは機械に過ぎないからだ。問題はマインドという脳の中味だ。脳とは入れ物に過ぎず、各々の生涯で人は新しい入れ物を手に入れる。その古い中味が移行して、人の意識を取り込む層となる。
だから、人は新しい始まりを手に入れるというとき、私が言うのは脳のことだ。マインドではない。だが英語では、その二つ言葉が同じ意味に使われている。過去生の中に入り始めれば、みんなはマインドの世界に入っていくことになる。それは膨大な世界であり、一つ一つの層が、一つの生涯を顕すことになるだろう。その層すべてを意識して通り抜けたとき、その時初めて人は、自分の意識の中心に行き着く。Osho p156「彼方なるものへの憧れ」
1986年と言う段階におけるOshoの、コンピュータへの言及も驚くべきことが多い。そしてそこから脳やマインド、意識への関連についての洞察も目をみはる。「彼」とは「彼方なるものへの憧れ」という言葉に置き換えておくことも可能であろう。
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