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2010/12/28

2001年宇宙の旅 決定版

2001年宇宙の旅
「2001年宇宙の旅」 決定版
アーサー・チャールズ・クラーク/伊藤典夫 1993/02 早川書房 330p V
ol.3 No.0209 ★★★★☆

 私は映画ファンでもなければ、小説読みでもない。どちらかと言えば、両方とも苦手だ。まぁ、一般的な話題についていける程度の予備知識は多少持ち合わせているが、ほとんどは、かなり大きな話題になってから、つけ足しに学んだ初歩的な知識がほとんどだ。

 だが、それにしても、この映画を、いっぺんも通して見たことがない。映画館ではもちろんのこと、DVDを買って、自宅で見ていても、結局は同じことになる。大体は、起承転結の「転」のあたりで、私の意識は、眠りの世界へと誘いこまれる。ちょっとビールなどを飲みながら見ていたりすれば、テキメン、最後のエンディングまで目を覚ますことはない。

 あら、今日も、ぐっすりだったわね、と、毎回、家族に笑われる。それでもやっぱり見たい映画のトップであることに変わりはない。途中から見たり、半分だけみたり、繰り返し最後の部分だけを見たりする。だが2時間19分のこの映画が長すぎる、というだけが、その原因ではないだろう。

 それに比すると、小説が苦手な私は、クラークの小説は割りと簡単に読めたのである。そもそも、クラークの小説と、キューブリックの映画は同時進行で進み、結局は映画のほうが先に発表され、しかも、原作としての小説と、作品としての映画には、多少ならず様々な違いがある。違いがありながら、互いに矛盾し合わないところが、名作と言われる所以でもある。

 この小説が最後まで読ませるのは、主人公デビッド・ボーマンが「科学者」であるからであろう。どこまでもリアリティに富んでいる。いや、月面や月基地あたりまでならまぁ現実的ではあるが、木星や土星までの宇宙軌道となると、そのほとんどはイマジネーションだ。たしかに科学的に根拠づけされているようにも見えるが、それは決して科学ではない。

 にも関わらず、デビッド・ボーマンに感情移入できてしまうのは、彼がどこまでも理性的で、独断やイマジネーションの渦の中に巻き込まれていかず、常に懐疑的であろうとする態度があるからであろう。彼は科学者だ。詩人でもなければ、神秘家でもない。

 もう一方の主人公、HAL9000も魅力的だ。悪役にしたて上げられていようが、限界や誤謬があろうが、2010年の今、むやみにリアリティを持って感じることができる。それは確かに、宇宙船ディスカバリー号を管理する全脳的コンピュータではないにせよ、私たち21世紀の地球人たちが取り囲まれている世界は、すでに「宇宙の旅」に匹敵する異次元の世界へと旅立っているかのようでもある。

 目の前には、スターチャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が、人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。
 手遅れになる前にもどったのだ。下の込み合った世界では、いまごろ警告灯がどのレーダー・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空を探していることだろう。---そして人間たちが考えるような歴史は終わりをつげるのだ。
p310「スター・チャイルド」

 映画のエンディングは神秘的でもあり、象徴的でもある。また、意味不明でもある。その意味を、原作と言われるこの小説に求めることも、一案ではあるだろう。しかし、それは一案であるにすぎない。もっと多くの解釈があっていいし、見る者により多くのインスピレーションを与える。

 最後には、脳さえ消えてゆくだろう。意識の着床する場として、脳は必須のものではない。そのことは電子知性の発達が証明している。精神と機械の対立は、やがて完全な共生という永遠の妥協で終わるかも知れない。

 だがそれが終局だろうか? 神秘主義に傾いた少数の生物学者は、さらにその先へと進んだ。多くの宗教にある信念を手がかりに、彼らは精神もいつかは物質の束縛を逃れるだろうと推測した。ロボット身体も、血と肉の身体と同様にたんなる踏み石であって、やがては人びとが遠いむかし”精霊”と呼んだものに至るのかもしれない。

そして、そのまた向こうに何かがあるとすれば、その名は神のほかにあるまい。p248「ET論」

 ひとつの真理への3つのアプローチがあり、一つは科学としての道であり、一つは芸術としての道であり、一つは神秘としての道だとすれば、この「2001年」は、サイエンス・フィクションの名の通り、科学のとしての道である、ということが可能であろう。しかしながら、フィクション、が示すように、芸術の道でもあるだろうし、また、探索する領域から考えれば、神秘の道、と言えないこともない。

 「上弦の月を喰べる獅子」もまた、宮沢賢治の小説のモチーフを借り、流行幻想小説家の作品であってみれば、芸術の道、ということもできるだろうが、螺旋にかかわる構造の考察や、心理学的仏教理解から考えると、科学的アプローチがないとは言えない。もちろん、言及しているのは、たくましい想像力を原動力としてはいるものの、神秘の世界である。

 かたやOsho「神秘家の道」もまた、その名のとおり、ミステリー・スクールに関わるステートメントではあるが、実在するひとりの地球人として存在が語るリアリティ溢れる科学が語られる。時には芸術的表現を借りようとも、それは実存する世界の神秘についてなのである。

 赤んぼうは泣きやんだ。もうひとりぼっちではないと気づいたからだ。
 何もない宙に、ほのかに光る角ばった形がうっすらと現れた。それは透きとおった縦長の厚板となって実体化すると、不透明になり、青白いミルクのような冷光にみたされた。その表面や内部では、かたちの定かではないまぼろしがじらすように動いている。まぼろしは光と影の縞となってかたまり、つぎにはスポークだけの車輪がいくつもからんだような模様をつくると、ゆっくりと回りだした。その動きにあわせて、脈打つような振動が部屋中にみちている。
p305「変貌」

 映画では、スター・チャイルドは誕生しなかった。まだ羊水の中だった。空に浮かんだ巨大な羊水の中でスター・チャイルドは夢見ていた。小説では、誕生し、産声を上げ、泣きやみ、気づく。この差異は差異として、両作品を複眼的に見る者に、さらなるインスピレーションを与えはするものの、論理的矛盾とはならず、むしろ、神秘の中に溶け去る。

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