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2010年12月の9件の記事

2010/12/31

神秘家の道<11>

<10>よりつづく
神秘家の道
「神秘家の道」 <11> 珠玉の質疑応答録
OSHO/スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p

 もし先にマインドのより高いレベル---超意識、集合超意識、宇宙超意識---に達していれば、人は大変な光を持つことになる。光そのものになる。そうなれば人は、無意識、集合無意識、宇宙無意識の外下界へ降りて行く事ができる。しかもどこに行こうと、闇は消える。人は七段階の全範囲---光に満ちた連続体になる。これが、私が言う光明を得るということだ。p58 Osho「未知なるものに魅せられて」

 いちど、とにかく通読してみようと思うのだが、すぐにどこかで引っかかってしまう。

 意識は、まったく別な方法で発見されねばならない。知性とは思考だ。ところが意識は、無思考の状態で---思考の片鱗すらも妨害になるような、完全な沈黙の中で発見されるものだ。
 そうした沈黙の中で、人は自分自身の存在を発見する。
 それは大空のように広大だ。
 それを知ることは、本当に価値ある何かを知るということだ。それを知らなければ、あらゆる知識はガラクタにすぎない。それは役に立ち、便利な知識ではあるかもしれないが、自分の存在を変容させることにはならない。充足、満足、光明をもたらすことはできない。あなたを、「自分は家に辿り着いた」と言える地点まで、連れて行ってはくれない。
Osho p30「思考は常に破壊的だ」

 ひっかかる、というよりは溜め息をついて、しばし本を閉じる、という状態だ。

 意識があり、アガータが、無意識、集合無意識、宇宙無意識に連なる象徴としてあるのなら、「彼」は、超意識、集合超意識、宇宙超意識への掛け橋となろう。アガータをいくらこづき回しても、超意識へのステップにはならない。そこにとどまるだけだ。もし、アガータに光を当てようとするなら、「彼」のほうに、超意識のほうに、エネルギーを向けるべきだ。そこには方法論として瞑想がある。

 そもそも「彼」という場合、なぜに「カッコ」つきであるのだろうか。それは、本来語りえないものへのネーミングであり、そもそも名付けられるべきでもないものであるのだ。だからこそ「彼」と表現される。敢えていうなら、アーガタに対応する形でのタターガタ、であっていいのだろうが、それでは、なにも言ったことにはならない。

 かつて、アガータとタターガタの関連について、某SNSにおいて指摘されたことがあった。すでに4年前のことだが、あの時は、まだその繋がりを漠としたものとしてとらえていた。もちろん今でもそうなのだが、たとえば夢枕獏の作品のように、それは当然のごとく、一本の道として表現してしまうことは、とりあえず可能ではあると思う。

 脳が問題ではない。脳とは機械に過ぎないからだ。問題はマインドという脳の中味だ。脳とは入れ物に過ぎず、各々の生涯で人は新しい入れ物を手に入れる。その古い中味が移行して、人の意識を取り込む層となる。
 
 だから、人は新しい始まりを手に入れるというとき、私が言うのは脳のことだ。マインドではない。だが英語では、その二つ言葉が同じ意味に使われている。過去生の中に入り始めれば、みんなはマインドの世界に入っていくことになる。それは膨大な世界であり、一つ一つの層が、一つの生涯を顕すことになるだろう。その層すべてを意識して通り抜けたとき、その時初めて人は、自分の意識の中心に行き着く。
Osho p156「彼方なるものへの憧れ」

 1986年と言う段階におけるOshoの、コンピュータへの言及も驚くべきことが多い。そしてそこから脳やマインド、意識への関連についての洞察も目をみはる。「彼」とは「彼方なるものへの憧れ」という言葉に置き換えておくことも可能であろう。

<12>へつづく

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2010/12/29

スターチャイルドの誕生

スターチャイルドの誕生―宇宙瞑想と変容のための詩的ガイド (Ten books)
「スターチャイルドの誕生」 ―宇宙瞑想と変容のための詩的ガイド
直居 あきら (著) 1994/08  コスモテンパブリケーション ペーパーバック: 318p
Vol.3 No.0211 ★★☆☆☆

 なにかの折りに、他の本と間違って落札してしまい、一度は手にとってみたものの、そのまま蔵書として我が本棚に眠っている一冊。「2001年宇宙の旅」つながりで、一度目を通しておくのも悪くないだろう。

 地球の子供たちとしてのみなさまは、内なる霊の使命にしたがって、それぞれの新しい旅路に着くことになります。どのような道であれ、祝福された宇宙の旅です!
 何人かのお友達は、火の道、火の世界に入ります。地球の子供たちは、普通の地球の地球スピリットとしてのふつうの聖者さんと合体し、ともに宇宙の子供、宇宙のクリエイター、スターチャイルドになります。何人かのお友達は肉体の衣を脱ぎ捨てたのちに、新しい世界に向かいます。
p77「無限への旅・・・・真理の探究」

 著者は1941年生まれということだから、53才の時の作品。「神智学協会をへて」(裏表紙著者紹介)その後、独自の活動を展開していたらしい。

 コンテッサつねにともにあり、人生の苦しみのときに、祝福のエネルギーを送ってきました。しかし、私はそのよろこびがなんであるのか分からず、辛うじて、J・クリシュナムルティの「クリシュナムルティの神秘体験」という本で、似通った経験を知ったのでした。それでもそれは謎であったのです。p317「あとがき」

 「クリシュナムルティの神秘体験」は85年4月の発行だから、それ以前から、コンテッサという名前のチャネリングを受けていた、ということになるのだろうか。この本は、いわゆるチャネリング本の一冊ということになるが、発行された1994年という微妙なタイミングで、内容は、必ずしも「チャネリング」でしか受け取れないような内容でもないし、説得力にも欠ける。

 最近はどのような活動をしているのか知らないが、著者のブログもあるようだ。コスモテン・パブリケーションの高橋というひとには、80年代に、とある農場で出会ったことがある。寡黙な、かつ鋭い視線の人物、という以外に印象は残っていないが。

 本書においては、地球の子供たち、ふつうの聖者さん、スターチャイルド、の三つの概念と、いわゆる七つのチャクラについての概念を、多用する。独自の言葉使いや、オーソドックスな神智学的な言語体系を基礎とはしているが、多少は、当時のニューエイジ的な含みを持たせながら、いわゆるファストフード・スピリチュアルな一冊と言える。

 ハートは最大限の、無際限の愛で燃えています。
 光点に向かって、光の渦に向かって、ついにふつうの聖者さんたちは、自らを爆発させていくでしょう。そのとき、その破壊のなかに、そのエクスタシーのなかに、意志ではもはやとらえられないほど遠くに、スターチャイルドとしての誕生の雷鳴があるのです。
p276「スターチャイルドの誕生・・・・ノドのチャクラをゆるめる」

 安直な回答を得ることで、その旅は終息するのか、あるいは新たなる神秘の旅への出発となるのかは、受け取る側の裁量如何にかかわる問題であろう。本書における言葉は著者本人の言葉なのか、コンテッサからのメッセージなのかは判然としない部分が多いが、いずれにせよ、「意識」という言葉だけにこだわるなら、焦点はボケてしまっている。感性とかマインド、あるいは気づき、など、他の単語に置き換えられる部分がたくさんある。

 いずれにせよ、どの道であれ、イロハ、ABC、から始めなければならない。概念の摺り合わせをしているより、最初からピタっとハマったほうが早いのだが、なかなかそうばかりはいかない。本書において、瞑想や、神智学、チャクラ、意識、などのキーワードが出てくる。当ブログの当カテゴリにおける言葉使いとは、かなりの隔たりがあるが、こちらはこちらで、そういえば、その辺あたりをもう少し突っ込んでおこう、と再認識した次第であった。 

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2010/12/28

2001年宇宙の旅 決定版

2001年宇宙の旅
「2001年宇宙の旅」 決定版
アーサー・チャールズ・クラーク/伊藤典夫 1993/02 早川書房 330p V
ol.3 No.0209 ★★★★☆

 私は映画ファンでもなければ、小説読みでもない。どちらかと言えば、両方とも苦手だ。まぁ、一般的な話題についていける程度の予備知識は多少持ち合わせているが、ほとんどは、かなり大きな話題になってから、つけ足しに学んだ初歩的な知識がほとんどだ。

 だが、それにしても、この映画を、いっぺんも通して見たことがない。映画館ではもちろんのこと、DVDを買って、自宅で見ていても、結局は同じことになる。大体は、起承転結の「転」のあたりで、私の意識は、眠りの世界へと誘いこまれる。ちょっとビールなどを飲みながら見ていたりすれば、テキメン、最後のエンディングまで目を覚ますことはない。

 あら、今日も、ぐっすりだったわね、と、毎回、家族に笑われる。それでもやっぱり見たい映画のトップであることに変わりはない。途中から見たり、半分だけみたり、繰り返し最後の部分だけを見たりする。だが2時間19分のこの映画が長すぎる、というだけが、その原因ではないだろう。

 それに比すると、小説が苦手な私は、クラークの小説は割りと簡単に読めたのである。そもそも、クラークの小説と、キューブリックの映画は同時進行で進み、結局は映画のほうが先に発表され、しかも、原作としての小説と、作品としての映画には、多少ならず様々な違いがある。違いがありながら、互いに矛盾し合わないところが、名作と言われる所以でもある。

 この小説が最後まで読ませるのは、主人公デビッド・ボーマンが「科学者」であるからであろう。どこまでもリアリティに富んでいる。いや、月面や月基地あたりまでならまぁ現実的ではあるが、木星や土星までの宇宙軌道となると、そのほとんどはイマジネーションだ。たしかに科学的に根拠づけされているようにも見えるが、それは決して科学ではない。

 にも関わらず、デビッド・ボーマンに感情移入できてしまうのは、彼がどこまでも理性的で、独断やイマジネーションの渦の中に巻き込まれていかず、常に懐疑的であろうとする態度があるからであろう。彼は科学者だ。詩人でもなければ、神秘家でもない。

 もう一方の主人公、HAL9000も魅力的だ。悪役にしたて上げられていようが、限界や誤謬があろうが、2010年の今、むやみにリアリティを持って感じることができる。それは確かに、宇宙船ディスカバリー号を管理する全脳的コンピュータではないにせよ、私たち21世紀の地球人たちが取り囲まれている世界は、すでに「宇宙の旅」に匹敵する異次元の世界へと旅立っているかのようでもある。

 目の前には、スターチャイルドに似合いのきらめく玩具、惑星・地球が、人びとをいっぱい乗せて浮かんでいた。
 手遅れになる前にもどったのだ。下の込み合った世界では、いまごろ警告灯がどのレーダー・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空を探していることだろう。---そして人間たちが考えるような歴史は終わりをつげるのだ。
p310「スター・チャイルド」

 映画のエンディングは神秘的でもあり、象徴的でもある。また、意味不明でもある。その意味を、原作と言われるこの小説に求めることも、一案ではあるだろう。しかし、それは一案であるにすぎない。もっと多くの解釈があっていいし、見る者により多くのインスピレーションを与える。

 最後には、脳さえ消えてゆくだろう。意識の着床する場として、脳は必須のものではない。そのことは電子知性の発達が証明している。精神と機械の対立は、やがて完全な共生という永遠の妥協で終わるかも知れない。

 だがそれが終局だろうか? 神秘主義に傾いた少数の生物学者は、さらにその先へと進んだ。多くの宗教にある信念を手がかりに、彼らは精神もいつかは物質の束縛を逃れるだろうと推測した。ロボット身体も、血と肉の身体と同様にたんなる踏み石であって、やがては人びとが遠いむかし”精霊”と呼んだものに至るのかもしれない。

そして、そのまた向こうに何かがあるとすれば、その名は神のほかにあるまい。p248「ET論」

 ひとつの真理への3つのアプローチがあり、一つは科学としての道であり、一つは芸術としての道であり、一つは神秘としての道だとすれば、この「2001年」は、サイエンス・フィクションの名の通り、科学のとしての道である、ということが可能であろう。しかしながら、フィクション、が示すように、芸術の道でもあるだろうし、また、探索する領域から考えれば、神秘の道、と言えないこともない。

 「上弦の月を喰べる獅子」もまた、宮沢賢治の小説のモチーフを借り、流行幻想小説家の作品であってみれば、芸術の道、ということもできるだろうが、螺旋にかかわる構造の考察や、心理学的仏教理解から考えると、科学的アプローチがないとは言えない。もちろん、言及しているのは、たくましい想像力を原動力としてはいるものの、神秘の世界である。

 かたやOsho「神秘家の道」もまた、その名のとおり、ミステリー・スクールに関わるステートメントではあるが、実在するひとりの地球人として存在が語るリアリティ溢れる科学が語られる。時には芸術的表現を借りようとも、それは実存する世界の神秘についてなのである。

 赤んぼうは泣きやんだ。もうひとりぼっちではないと気づいたからだ。
 何もない宙に、ほのかに光る角ばった形がうっすらと現れた。それは透きとおった縦長の厚板となって実体化すると、不透明になり、青白いミルクのような冷光にみたされた。その表面や内部では、かたちの定かではないまぼろしがじらすように動いている。まぼろしは光と影の縞となってかたまり、つぎにはスポークだけの車輪がいくつもからんだような模様をつくると、ゆっくりと回りだした。その動きにあわせて、脈打つような振動が部屋中にみちている。
p305「変貌」

 映画では、スター・チャイルドは誕生しなかった。まだ羊水の中だった。空に浮かんだ巨大な羊水の中でスター・チャイルドは夢見ていた。小説では、誕生し、産声を上げ、泣きやみ、気づく。この差異は差異として、両作品を複眼的に見る者に、さらなるインスピレーションを与えはするものの、論理的矛盾とはならず、むしろ、神秘の中に溶け去る。

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2010/12/25

上弦の月を食べる獅子<2> 

<1>よりつづく 

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「上弦の月を喰べる獅子」 <2>
夢枕 獏 1989/08 早川書房 単行本 572p
★★★★★ 

 そろりと、「メタコンシャス 意識を意識する」カテゴリが始まっている。らせん構造の、一段ステップアップする地点に存在する一冊。

「これもまた、アーガタよ。おまえや、わたしと同じにな---」
 アシタが言った。
「アーガタ?」
「来るものよ」
「-----」
「わたしと同じように、意志によってこの地にやってきたものたちの、なれの果てだ」
「え?」
「彼らは、瞑想(ヨーガ)により、また薬により、この地まで実体を持たずにたどりつき、この地より帰れなくなってしまったものたちなのだ」
「現世の肉体が死んでしまったということですか」
「そういうものもいる。”その如くに来りしもの”---つまり如来(タターガタ)になれずに、この地にしがみついているものたちだ」
「なんですって?」
「おまえに教えておいてやろう。この世界にあるものは、全て、アーガタか、過去においてアーガタであったものたちばかりなのだよ」
「----」
  p234「六の螺旋」

 当ブログの裏テーマである「アガータ:『彼』以降やって来る人々」におけるアガータと、夢枕獏におけるアーガタとは、象徴するものとしては同一のものであり、一般にアガルタと表記される現象と同一のものとして見なすことも可能である。しかしここに表現されているアーガタはあくまでも夢枕獏の世界であり、彼の理解を出ない。そして、なおかつ、この世界を表現するものも少ない。ゆえに、その世界を探求するうえで、数少ない重要な手がかりの一つとなる。

「アーガタよ。およそアーガタは、すべて、問うものだ。あらゆるアーガタは、答えを探している問である。だがアーガタよ、正しい答えが欲しいなら、正しく問うことである。何故なら、正しい問いの中には、答えが含まれているからである。真に正しい問は、答そのものですらあるのだ---」 p257「七の螺旋」

 巽孝之は、この小説の中に、クラーク+キューブリックの「2001年宇宙の旅」の理解と展開の果ての一つの結実点を見る。

 70年代末に着想された夢枕獏の「上弦の月」もまた、81年の原形質的長編「幻獣変化」を経由し、86年から<SFマガジン>に断片的に連載されて---著者の言葉を借りれば「十年の旅」を経て---ようやく89年に完成したが、はたしてそれは宮沢賢治を主人公に、仏教哲学に根ざす螺旋状時空間によって欧米SF的超進化論へ挑戦するという、日本SF随一の困難な峰を征服した作品に仕上がった。巽孝之「『2001年宇宙の旅』講義」p130

 今回、この小説を通読してみて、はて、これがSFというジャンルで語られていいのだろうか、と違和感を感じないないこともない。伝記バイオレンスとやらのジャンルの書き手とみられる作家における一作品であるが、位置づけはなかなか微妙な工夫が必要だ。

「アーガタよ。聴きなさい。およそこの世のあらゆる力の根本は、螺旋力である。生命という力の根本も螺旋力である。火という力の根本もまた螺旋力である。動くという力の根本もまた螺旋力である。光という力の根本もまた螺旋力である。重力という力の根本ものまた螺旋力である。アーガタよ。およそ、この世に存在する力で、螺旋力でないものはないのだ。この世に存在する力の全ては、螺旋力がそれぞれに、形をかえたものなのである---」p455「十の螺旋」

 この小説の中には、宮沢賢治の世界が色濃く反映されている。半分、いやそれ以上が、賢治ワールドに依拠している。あるいは、夢枕自身、「月に呼ばれて海より如来る」や、パロディ「上段の突きを食らう猪獅子」を書いており、他の作品との関連の中からこの一冊を見直す必要があろう。

 クラーク「2001年宇宙の旅」にしても、「2010年」、「2061年」、「3001年」などの続編のなかから逆照射される必要がある。キューブリックにしても、「時計じかけのオレンジ」、「ロリータ」などのとのなかから見直されなければならない。もちろんOshoのミステリースクール・シリーズの再読も必要だ。

 しかし、一つのカテゴリの終結点と、新しいカテゴリの始点において、あまりに拡散した混沌をイメージするのはやめておこう。ここで留意すべきはアーガタ=アガータ=アガルタ、であり、あるいはタターガタ、という対置されているシンボルである。それは如来という漢字に置き換えられてもいるが、当ブログワードとしては「彼」が対応する。

「つまり、双人よ、因果よ、おまえより以前に、これまで何人のアーガタが、この場所を訪れたかと問うこともまた、無意味なのである。まだ誰も、ここは訪れていないとも言えるし、すでに無数のアーガタが訪れたとも言えるからである---」p531「十の螺旋」

 ここに止まり、今にいる。アーガタ=アガータでいることでこそ、表現され得る世界がある。タターガタ=「彼」に至る道程でありながら、いま、ここに、立つ、ひとりの地球人であることこそが、当ブログの原点である。

<3>につづく

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2010/12/23

神秘家の道<10>

<9>よりつづく
神秘家の道
「神秘家の道」 <10> 珠玉の質疑応答録
OSHO/スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p

 それはより少ない知識と、より多くの愛だ。それはより少ない言葉と、より多くの沈黙だ。
 それで、あなたが感動し続けているなら、言葉に煩わされることはない。それは少しも役に立たない。その仕事は終わっている。それはあなたのハートを揺り動かした。それはあなたを燃え上がらせた。それはもう必要ではない。

 あなたが私の言葉を覚えていようとするなら・・・・私は何百万語もの言葉を話したので、それを全部覚えているのはほとんど不可能だ。それに目的は、あなたに教義、哲学を与えることでは決してなく、ビジョンを与えることだ・・・・そしてビジョンは全く異なるものだ。それがあなたのハートを開くなら、それがあなたの知性を浄化するなら、それは望む以上だ。

 言葉を覚えていて、ほかに何も自分に起こらない人々は不幸だ。彼らは、オウム、学者、専門家になるだろうが、決してサニヤシンにはならない。サニヤシンであることは、ユニークなことだ。ハートは、未知なるものへの憧れ、全体への愛、言葉にできない歌で燃えている。サニヤシン自身が、神聖なる聖典だ----言葉を覚えているからではなく、言葉を通して変容するからだ。彼は生まれ変わる。OSHO p884

<11>につづく

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2010/12/21

2010年下半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2010年上半期よりつづく

2010年下半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10 

(それぞれの本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの本の感想に飛びます)

第1位
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「つながり」 社会的ネットワークの驚くべき力 
ニコラス・A・クリスタキス (著), ジェイムズ・H・ファウラー (著), 鬼澤 忍 (翻訳) 2010/7 講談社 単行本: 408p
 

第2位
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ニーチェ入門」 悦ばしき哲学
Kawade道の手帖 2010/06 河出書房新社 単行本 207p 

第3位
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「ブックビジネス2.0 」 ウェブ時代の新しい本の生態系
岡本真/仲俣暁生/他 2010/07 実業之日本社 単行本 238p  

第4位
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「OSHO The Luminous Rebel」 Life Story of a Maverick MysticVasant Joshi (著) 2010/05 出版社 Wisdom Tree ペーパーバック: 268p  言語 英語

第5位
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「生命と偶有性」 
A Life and Contingency
茂木健一郎 2010/08 新潮社 単行本 247p
 

第6位
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「ロスト・シティZ」 探検史上、最大の謎を追え
デイヴィッド・グラン/近藤隆文 2010/06 日本放送出版協会 単行本 p316

第7位
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「アップル、グーグル、マイクロソフト」 クラウド、携帯端末戦争のゆくえ
岡嶋裕史 2010/03 光文社 新書 181p
 

第8位
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「いきるためのメディア」
 知覚・環境・社会の改編に向けて
渡邊淳司/田中浩也 ・他  2010/08 春秋社 単行本 306p

第9位
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「ネット・バカ」 インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G.カー/篠儀直子 2010/07 青土社 単行本 p359 

第10位
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「月面上の思索」The Way of the Explorer
エドガー・ミッチェル/前田樹子 2010/07 めるくまーる 単行本 413p  

次点
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「生きるチカラ」
植島啓司 2010/07 新書 集英社 221p

2011年上半期へつづく

 

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2010/12/20

神秘家の道<9>

<8>よりつづく 
神秘家の道
「神秘家の道」 <9> 珠玉の質疑応答録
OSHO/スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p

 ふと気づいて見れば、この本についての書込みは9回目となる。とてもそんな感じがしない。いや、まだ読み始めてもいない気さえしていた。そもそも、Oshoの本は、私にとってはどの本もそのようなイメージがある。特にこの本は、全体としては新しい部類の本だけに、その感がさらに強い。

 「No Books No Blogs」のカテゴリを締めるにあたって、この処、三冊の本に集約点を見いだしている。正確には、一枚のDVDと、一冊の小説と、一つの講話録だ。一枚目のDVDは「2001: A Space Odyssey」だ。アーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」シリーズの中の一冊というより、キューブリック監督の、この映画の方がより興味を引かれる。というのも、この映画において、当ブログとしての「第三の波プロジェクト」の集約点を象徴させようとしているからだ。

 二番目の小説とは、夢枕獏の「上弦の月を喰べる獅子」。この小説家がどのような存在で、どのような作品を書いてきたか、まったく知らない。しかし、巽孝之によれば、この小説は、アーサー・C・クラークの一連の作品に対する、日本SF界、あるいは東洋的仏教理解の、ひとつの止揚として書き上げられたものである、という。

 当ブログからすれば、この小説における「アーガタ」が注目ワードなのであり、「アガルタ探検隊」を象徴する一冊となって欲しい、という眼目がある。何れ、狭いコンセプトに収まりきれない流動性の高い作品群に対して、何かの集約点を見いだそうとするのは、なかなか困難なことではあるが、一枚の映画DVDと、一冊の大長編ファンタジーには、右と左のバランスのとれた対称性を見つけることも、不可能ではない。

 さて、この二つの作品に、コンテナ、コンテンツ、を象徴させ得るとしたら、残すコンシャスネスは、当ブログとしては、Oshoに託す以外に方策はない。数あるOsho講話録の中から、何を持って、その象徴たるべき一冊とすればいいのか。

 本来、この地点において、こだわりたいのは、86年8月、という時空間である。「2001: A Space Odyssey」はすでに60年代に発表されたものであるが、「2010年」として、80年代半ばには、新たな展開をはじめている。「上弦の月」もまた、70年代から構想されていたとは言うものの、SFマガジンにおいて連載が開始されたのは1986年。89年に完結し、単行本として、刊行された。

 86年8月のOshoとなれば、ボンベイにおける「The Last Testament, Vol 6」と「The Osho Upanishad」ということになる。英語本は持ってはいるが、ここはむしろ、Oshoミステリースクールの一環として、最近刊である邦訳「神秘家の道」に、その象徴を託すのが、順当のように思えてくる。 86年5月のウルグアイにおける講話録だが、インドへの帰還、ミステリーワークのスタートなど、込めてみたい意味合いは様々ある。

3_3 

 しかしまた、「神秘家の道」を、当ブログにおける一つの結線点における重要なポイントにしようとすると、実は、これもまた大変なことなのである。拡散しようとするエネルギーと、多義性の中で、溺れて、方向性を失いかけてしまいかねない。

 まぁ、いいだろう。どうであれ、我がブログがどんな拘泥にはまり込んだとしても、私の命脈が断たれてしまうわけではない。次なるステップが必ずや見えてくるはずである。神秘の存在へと、信頼の橋をかけよう。

<10>へつづく

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2010/12/16

2001: A Space Odyssey

<前>よりつづく
【送料無料】2001年宇宙の旅
「2001: A Space Odyssey」 2001年宇宙の旅
キア・デュリア[主演] ・発売日: 2010年04月21日 ・レーベル: ワーナーエンターテイメントジャパン(株) ・発売元: ワーナーエンターテイメントジャパン(株) ・ディスク枚数: 1枚(DVD1枚) ・収録時間: 148分


 このところ、気分はまさにこの映画の象徴するようなところにいる。愛機スマートフォンIS01にアプリHAL9000を入れてみる。IS01そのものの愛称さえモノリスと付けている。けだるいようなHALの応答の答えは数えるほどのパターンしかないが、実際の手元のIS01は、むしろ、HAL9000よりも大きな仕事さえしているのではないか、と思う。

 サイケデリックな映像、ベットに横たわる老人、スターチャイルドの誕生。原作もちらちら目を通しながらも、漫然と眺めるスクリーンに、円環する輪廻を感じるのは、誰にとっても当然のことだ。その取り合わせ、その映像のいまだに新しい緻密さに脱帽する。

 最初にこの映画のタイトルを知ったのは小学校の頃。学校図書館の本棚でみた。2001年なんて、はるか未来のことだと思っていた。やってくるはずのない、まるで未知なる世界だと思っていた。

 実際に映画を見たのは、二十歳もすぎてインドに行ってから。英語版でみたから、何が何やら分からなかった。いやストーリーを追えばそういうお話になるが、実際には、この映画は「正しい」と感じた。言わんとするところは、「わかった」。

 その後、何度、この映画を見たのだろう。何度繰り返しても不思議な名作だ。最近、また、何度も繰り返し見ている。2001など、とっくに経過したのに、いまだに魅惑されたままだ。自らの2001年を確認するために、いまなお見続けている。

 小説もすこしづつ読んでいる。クラークの続編や、キューブリックのメイキングについて。読めば読むほど、新しい。当ブログは、この映画において、ひとつの結線点を見いだす。名曲「ツァラトウストラはかく語りき」の響きも、限りなくリフレインする。

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2010/12/14

上弦の月を食べる獅子<1>

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「上弦の月を喰べる獅子」<1>
夢枕 獏 1989/08 早川書房 単行本 572p
Vol.3 No.0208 ★★★★★ 

 「No Books No blog」カテゴリも残すところ僅か。12月22日、例年冬至に発表予定の「下半期新刊ベスト10」の発表と、「アガルタ探検隊関連リスト」再編集を除けば、あと3冊だけがこのカテゴリとして加えることになる。いや、場合によっては、当ブログの最後の3冊とさえなりかねない。何をどう読めばいいのか。何をどう選べばよいのか。そして、エンディングは何時か。

 「『2001年宇宙の旅』講講義」の中で、この「上弦の月を喰べる獅子」を見つけることができたのは収穫だった。この小説について、多弁を弄するのはやめておこうと思う。少なくとも今は多くを語れない。だが、すくなくとも、当ブログにおける5年になんなんとするタイミングにおいて、ひとつの円環の最終地点、あるいは螺旋模様の新たなる起点に位置していることは間違いない。

 必ずしも、この小説を以って、すべての意味合いを帯びさせようという訳ではない。敢えていうなら、いくつものサイクルの円環が今閉じられ、今、新たなに始まろうとしている。いくつも、いくつもだ。幾重にもリンクしている。ひとつひとつを解きほぐしている場合ではない。いずれは解明されなければならないことも、ただただその進行状況を見つめていなければならない時がある。

 現在は、スマートフォンIS01、世界に広がるWiFiルーターFON、そして今をときめくTwitter、この三つがいわばトリニティを組んで、我がライフスタイルの上に鎮座ましましている。すでに一カ月以上が経過した。今しばらく当面、このスタイルが続きそうだ。当初はかなりの混乱があったが、今は安定期に入りつつある。

 この小説については、いずれ繰り返し思いだすことになるだろう。そして、玩味しながら、もう少し熟読することにする。

 この間、たくさんの意義ある本にも出会った。書いておかなければならない本も何冊もあった。しかし、このカテゴリがスタートした時点で意図したより、はるかに意味ある「No Books No Blog」カテゴリとなった。読書ブログという、ひとつのスタイルを大きく崩すことには成功したと言える。

<2>につづく

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