ニューマン 未来への唯一の希望 <6>
「新人類」 ― 未来への唯一の希望 <6>
Osho スワミ・パリト-ショ訳 瞑想社 1989/02 出版:めるくま-る 153p
小さなこの本は「Osho、人類は生き残れますか?」というQ&Aで終わっている。他の部分はほとんどが1987年5月の「Golden Future」からの抜粋だが、この部分だけは、1986年5月のウルグアイでの講話「神秘家の道」から抜粋されている。
同じ講話のテープを元にして同じ翻訳家によって翻訳されたものだが、翻訳された時期が20年近くも違えば、ニュアンスも微妙に異なっている。ここは、この本の紹介でありながら、新訳をの方を転記させてもらうことにしよう。
今日の人類に必要な最も重要なことは、人類が過去に裏切られたという自覚だ。過去を継続することに意味はない。継続すれば人類は自滅へと向かうだろう。
確実に、早急に、新たな人類が必要とされている。
新たな人類は従来の意味の社会にはならない。それは個人が部分でしかない社会にはならない。新しい人類は個人の集まりとなる。新たな人類では個人が主人となり、社会が個人に仕えることとなる。それは多様性を持ったものとなる。新たな人類にはたくさんの宗教はない。あるのは宗教的な意識だけだ。創造主として崇められる独裁的な神はいない。そうした神がいるということは、人類が奴隷であるという意味を含んでいるからだ。新たな人類には究極の達成の質、光明の質としての神性さがある。神は至る所に、あらゆるものに、あらゆる存在に広がる。
個人への方向付けは初めてなくなる。個人は自分自身であるように促され、どんな理想もどんな規律もどんな特定のパターンも、与えられなくなる。個人は自由への多大な愛のみを与えられる。そうした個人はすべてを、自分の命さえも投げ出すことができる。しかし自由を犠牲にすることはできない。新しい個人は抑圧しない。新しい個人は自然で抑圧せず、自分にあるものをすべて表現する。植物が様々な色や香りで自らを表しているように、ひとりひとりが自らを様々に表現するようになる。
新しい個人は、人間はみな平等だという間違った考えを抱かない。人間は平等ではない。人間はひとりひとり異なる。これは平等よりも、もっと高度な考え方だ。新しい個人は平等ではないが、彼らは自らの潜在する力を、それがどんな素質でも、それを育むための平等な機会を与えられるようになる。Osho「神秘家の道」p686「言葉は磔にはできない」
さっきまで、なんとかアガルタ探検隊の無意識層へと下降しようとしていた。この四半世紀、胸の奥につっかえていた滞りに対して、なんとか手を打って終了しようと思っていた。そして、実際に何冊かを手にとり、一冊一冊論破するなり批判的に読むなりしようとしていた。
しかし、急に理解が起こった。それはもう必要ない。当ブログにおける「アガータ 彼以降やってくる人々」は、暗闇の地下社会の「アガルタ 来るべき民族」へとシンクロしていくべきではないのである。むしろそれは、「ニューマン Oshoと、やってくる人々」に昇華していくべきなのである。そしてまた、そこからさらにもっと純化されて、単に「ニューマン 新しい人間」というコンセプトに置き換えられるべきなのだ。
本来、ニューマンとか、新しい人間、とかの表現され要らないのだろう。ラベルを打つことによって、さもそれが存在したり、独自の意味があるかのような錯覚に陥る。それではミイラ取りがミイラになってしまったと揶揄されてもしかたない。そして、それは言葉ではなく、自らの実存の中で、生きられるべきなにかなのである。
夢枕獏「上弦の月を喰べる獅子」におけるアーガタなど、まだ未処理のテーマは残っているが、とにかくこのテーマはそろそろ店じまいだ。人生は短い。時間はタイトである。なにか、もっと有効な時間の使い方が見えてきた。
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