ツァラトゥストラ〈上〉光文社古典新訳文庫
「ツァラトゥストラ」〈上〉
フリードリヒ・ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 丘沢 静也 (翻訳) 2010/11 光文社古典新訳文庫: 325p
Vol.3 No.0222 ★★★★★
「Osho、ニーチェを語る」を再読しながら、こちらも併読中。「ツラトゥストラかく語りき」は、すでにあれだけでているのに、さらに「新訳」がでてくるという状況に、うれしいのやら、懸念するのやら、さまざまな感情が湧く。すでに定本はあるのに、さらに現代文に移し替えられて、この本は「超訳」ではないが、19世紀のドイツ語が、本当に21世紀の日本語と、同じものなのかどうか、疑わしくさえなる。
登張竹風(信一郎)訳「如是経 一名 光炎菩薩大獅子吼経 序品 つあらとうすとら」 (大正十年)1921/1には度肝を抜かれたが、この「新訳」も悪くない。すらすら現代日本語として読めてしまう。何度か別ヴァージョンで通読しているものだから、大体の概略は分かっていて、わりとスンナリ読める。
この本、下巻は2011年1月発行だから、店頭にはあるが、図書館にはまだ入っていない。下巻を読むのはもうすこし後になる。しかし、考えてみれば、この書は、一気に読んでしまえるような本ではない。休み休み、飛ばし飛ばし、戻りつ、行きつ、忘れつ、再び燃える、という経過をたどりながら、たどたどしく読み進めている。
精神は自分のそれまでの主人をこの砂漠で探す。それまでの主人、最後の主人に敵対するつもりなのだ。その大きな龍と戦って勝利をもぎとるつもりなのだ。
精神が主人とも神とも呼ぼうとしなくなった大きな龍とは、何者だ? 「汝なすべし」というのが大きな龍の名前だ。だがライオンは精神は「われ欲す」と言う。
「汝なすべし」が、ライオンの精神の行く手をさえぎっている。金色にきらきら光っている鱗の動物。どの鱗にも「汝なすべし!」が金色に輝いている。
千年つづいてきた、いろいろな価値が、それらの鱗に輝いている。すべての龍のなかでもっとも力のあるこの龍が、こう言う。「ものごとのすべての価値----それが、吾輩のからだで輝いておる」 p47「3つの変化について」
ニーチェの使うシンボルやアレゴリーは、必ずしも一般的ではないし、私好みでないところも多い。もともとニーチェは、西洋キリスト教社会に対するアンチテーゼとしてこの本を書いたわけだし、また、まったく人類未踏の領域に足を踏み入れようとしていたのだから、共通のシンボルやアレゴリーを敢えて拒否しているところもあるのだろう。
「生きるということは、悩むことにほかなりません」----と、ほかの連中が説いている。たしかに嘘ではない。だったら、そんなことを説いている君たちが、人生をやめてみたらどうだ! 生きることが、悩むことにほかならないなら、生きることをやめてみたらどうだ!
だから君たちの徳の教えは、こんなふうになるべきだ。「汝、汝自身を殺すべし! この地上からこっそり姿を消すべく、汝、汝自身を盗むべし!」--- p89 「死を説く者について」
ニーチェは熱い。まさに登張竹風(信一郎)言うごとく「光炎菩薩大獅子吼」の大活劇だ。
俺の海の底は静かだ。この海底にふざけた怪物たちが隠れているとは、誰も思わないだろう!
俺の深さは、揺らぐことがない。だが輝いている。謎を笑いが泳いでいるのだ。
おごそかなやつに、きょう会った。精神の苦行僧みたいで、大げさな態度だった。それが醜くて、俺の魂が笑ってしまった!
息をいっぱい吸いこんだときみたいに、胸をはっていた。そんな姿勢で、おごそかなやつが黙って立っていた。p241「おごそかな人間について」
ゆっくりゆっくり、ニーチェの言葉に寄り添っていくと、思いがけなく宇宙の真っただ中に立たされている自分に気づく。
超人には超人の龍、つまり超人にふさわしい超龍がいなくてはならないのだから、そのためには、はるかに熱い太陽たちが湿った原生林に照りつけなければならない!
それにはまず君たちの山猫が虎になっていなければならない。君たちの毒ヒキガエルがワニになっていなければならない。よい狩人にはよい狩りをさせるべきなのだ。p302「処世知について」
ツァラトゥストラはこう言った。
<下>につづく・・・・だろう。
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