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2011/01/17

現代宗教意識論

現代宗教意識論
「現代宗教意識論」
大澤 真幸 (著) 2010/11 弘文堂 単行本: 328p
Vol.3 No.0223 ★☆☆☆☆

 「意識」あるいは「宗教意識」に惹かれて、図書館の検索にひっかかった本書だったが、最初パラパラめくってみたものの、いまいちアクセスポイントがわからず、著者の著名な一冊である「虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争」1996/06の方を先に目を通してみることになった。しかし、いずれにしても感心しない。もう少し立体的に感じることができるかな、と思ったが、果たせなかった。

 そもそも、本書を手に取ったのは「宗教意識」という言葉に何事かのインパクトを感じてのことであった。しかし、本書を通読したかぎり、このタイトル以外には、「宗教意識」という単語はでてこなかった。目次にも、序にも、「あとがき」にも、一切なかった。唖然とするほどであった。

 ここで、本書を閉じておけばよかったのだが、持ち前の野次馬根性で、「意識を意識する」というカテゴリの進行上、実際にこの本の何処に「意識」という言葉がでてくるのだろうか、と本文を一通り目を通してみることにした。その結果、いくつかの手掛かりはあったが、それは、ごくごくわずかではあった。

●無意識 p147,p165,p238,p259,p292

●意識 p179,

●虚偽意識 p181,

●時間意識 p204,

●自己意識 p299.

 登場した単語は上記のとおりだが、これらは引用であったり、文章上の味付けであったりするだけで、なんの規定もなしにわずかに使われているだけで、深い意味はない。実に驚くべき結果であった。思えば、第1部「宗教原理論」、第2部「現代宗教論」、第3部「事件から」、というタイトルからして、「宗教意識」へと飛び立つようなアクセスポイントが一切ない。

 この本のタイトルは、敢えていうなら、「現代宗教もどき無意識論」とでも名付けられるべきものであったのではないだろうか。第3部の「事件から」は、さまざまな猟奇的ともいえる事件の数々を取り上げ、事件に関わった人物達を精神分析よろしく解体し、再統合してみせようとするだけで、そこから「超意識」や「集合超意識」へと飛翔する何か、光り輝く「宗教意識」への糸口となる何か、等は、一切見つけることができなかった。

 むしろ、ひとつひとつの「無意識」をこねくりまわし、「集合的無意識」へと降りていこうとしているようでもあるが、ほとんど無意味な探査を繰り返しているだけだ。そこからさらに「宇宙無意識」へと下降して行きたいという希望はわかるが、その闇はあまりにも深い。

 この本がタイトル通り「宗教意識」についての良質な研究書とみなされるには、ここに乱雑に投げ出された「無意識」に対置できるくらいの「超意識」への言及が必要である。あるいは、せめて「意識」へのもう少し深い洞察があれば、これらの「無意識」領域の闇は、それこそ、一本のろうそくの光によって、消え去るであろう。闇自体は不在なのである。光の存在があれば、闇は消える。

 1980年代の中盤に、当時登場してきた若者(20歳代前半程度)たちの世代は、その新しさや不可解さのゆえに「新人類」と呼ばれた。この語は、1985年末頃より頻繁に使用されるようになり、1986年の新語・流行語大賞(自由国民社主催)の流行語部門の金賞に選ばれている。

 新人類と呼ばれた層の特徴は、感受性が繊細で、自らの美的感覚が与える好悪の感情に非常に素直に従っていること、それゆえ特定の規範が課す価値に深く拘泥しないこと等に見ることができよう。

 こうした特徴を有する新人類は、さまざまな「現実(リアリティ)」を恣意的な約定(規範)に支配された虚構(仮想現実)と見なし、そのいずれにも深くコミットしない、シニカルな相対化の態度において際立っていた。こうした現象は「高尚な」文化や思想と無縁ではない。たとえば、新人類は、ポストモダンの脱構築派(ディスコンストラクショニスト)の風俗的な対応物であったということもできるだろう。

 この「新人類」という語の出現とほぼ同じ頃---あるいはいくぶん遅れて---、やはり若者のサブカルチャーを特徴づける現象として「オタク」と呼ばれる集団が注目された。若者のある特定の層が「オタク」という語で最初に名指しされるようになったのは、1983年のことであったと言われるが、この語が広く知られるようになったのは、1980年代の最後の年に連続幼女殺人事件の容疑者が逮捕されてから後のことである。

 オタクとは、アニメーション、SF、テレビ・ゲーム、コンピュータ、アイドル歌手等々のいずれかの分野に、熱狂的なまでに没頭し、その細部に拘泥していう若者たちのことである。p184「仮想現実の顕在性」

 「宗教意識」のことはとりあえず脇に置いて、上記の文章が気になったのは、Oshoに「新人類---未来への唯一の希望」1989/02というブックレットがあったからである。もっとも原書の英語版The New Man : The Only Hope for the Future は1987年9月に出ているし、編集された講話の内容は一部を除いて1986年4月~1987年5月に語られており、ウルグアイでの講話が半分を占めている。

 日本における流行語「新人類」とOshoの言う「ニューマン」は、意味はまったく異にしながらも、同じ単語で語られることになった。これは、ある意味ファニーなことだったし、ある意味、不幸なことであった。

 Osho「英知の事典」1996/05において、ニューマンは「新しい人間」として紹介されている。もっとも、こちらも元の英語版原本は、Osho「The Book 2」1984/03であり、さらに言えば、その元となる講話は、1982/07発行の「Zorba the Buddha」にある。そして、更に更に言えば、その講話は1979年の1月1日されたものとされている。

 その言葉の出自になぜにこだわるのか、ということについて、多少メモしておかなくてはならない。当ブログにおいては、裏テーマとして「アガータ:彼以降やってくる人々」というキーワードがある。それは1986年夏に、個人的に、私の意識の中に飛び込んできた言葉ということになっている。

 そこから、必然的にというか、成り行き的にというか「アガルタ探検隊」としての、派生的読書群も生まれてきた。当ブログとしては、そろそろ、この辺の「無意識」あるいは「集合無意識」に「意識」の光を当てていきたいと思う。あるいはそこから「超意識」、「集合超意識」の道筋が見え、あるいは「宇宙超意識」への離陸地点になりえるのではないか、という期待がある。

 大雑把に言えば、そろそろ「アガータ:彼以降やってくる人々」というメッセージは、「ニューマン:Osho以降やってくる人々」と言い換えてもいいのではないか、と思っている。あるいは、それを超意識への足がかりとしながら、「アガルタ探検隊」の闇へ、光をあてよう、というものである。

 「Osho以降」という言葉に、やや卑屈なものを感じないわけではない。「Oshoとともに」でもいいではないか、と思う。しかし、もし、「マスター」としてのOshoを認識するなら、「以降」でも決しておかしくはないと思う。あるいは、友人=マイトレーヤとしてのOshoを意識するなら、「ともに」でも当然いいわけである。この辺は、言葉の遊びだから、あまりこだわりすぎる必要はないだろう。

 なんにせよ、ここで言いたかったのは、Oshoの言うニューマンは、いわゆる1986年度の流行語大賞となったような意味での「新人類」ではない。むしろ、ニーチェが、「ツァラトゥストラかく語りき」でいうところの「超人」に対応した言葉なのである、ということだ。

 ニューマンの考え方は超人の考えに似ているどころか、まるで正反対だ。
 超人は古い人々とつながっている。
 ニューマンは古い人々と断絶している。
 超人は優れた、より高い存在だが、まだ古い人々と同じ世界に属したままだ。超人はより良い、より強い、より美しい、より力強い、より知性のある存在だが、古い人々との違いは多い少ないという程度の差に過ぎない。

 ニューマンはまったく古い人々とつながりがない。優れた人間、超人というのは古い人々の洗練された形だ。ニューマンは古い人々の死だ。古い人々が死んで初めてニューマンが存在するようになる。それゆえ、超人とニューマンは似ても似つかない。知的に考えるだけの人にとっては、両者は似ているように見えるかもしれない。Osho「Osho Bible 3」 p506 1985/1/14小森訳「Osho、ニーチェを語る」より

 超人という言葉でツァラトゥストラは何を意味しているのか? それは、私がニューマンという言葉で意味するのと正確に同じ意味をしている。私はある理由から、「超」という言葉を落とした。その言葉は誤解されうる。この言葉は、あなた方の後を継ぐ者があなた方より優れているという考えをあなた方に抱かせる。それではあなた方は侮辱されたように思う。そしてたぶんそのせいで、超人は出現していないのだ。なぜなら誰が劣った存在でいたいと思う? あなた方が超人にとってもの笑いの種になるならば、たぶんそのせいで人間は自分自身を超克しようとしなかったばかりか、己を超克しようとする者を可能な限り妨げてきたのだ。Osho「Zarathustra: A God That Can Dance」p56 1987/3/27 小森訳「Osho、ニーチェを語る」より

 非論理的な存在であるOshoは、ニューマンと超人との関係について、まったく異なった表現を用いている。「まるで正反対」でありつつ、「正確に同じ意味」、とはどういうことであろうか。こまかい話はここではしないでおこう。ただ、はっきり言えることは、Oshoは、ニューマン、という単語を話す時、ニーチェの超人をかなり意識している、ということである。

 つまり、ニューマンは、流行語大賞の「新人類」とは無関係である、ということだ。すくなくとも、世代を区切ったジェネレーションとしての「新人類」など意味していない。「人類」ではなく、「人間」なのだ。世代として、集団として登場してくる、という存在ではなく、ひとりひとりの意識が問題なのだ。もし人がニューマンとなるのなら、それは個的な、実に内面的な、現象なのである、ということだ。

 なにはともあれ、当ブログにおける、現代宗教意識の探索は、これからまた、あらたに再出発する。

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